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女を喰った男  作者: シス
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ジョン・スチュアート・ミル

 ジョン・スチュアート・ミル。彼もベンサムと同じ功利主義者であり、善とは快楽や幸福をもたらす行為だと主張している。だが、ベンサムとミルの分水嶺は、ベンサムは善の基準として快楽の量に重きを置いたことに対して、ミルは善の基準として快楽の質に重きを置いた点になる。例えば、ベンサムの道徳論では先ほどの南太平洋沖合の救命ボート事件を例にとると、4人のうち3人が生き残るために1人の人間を無条件に犠牲にすることは善となり得る。なぜなら、それがその場の当事者の最大多数の最大幸福だからだ。一方で、ミルの道徳論では、4人のうち3人が生き残るために1人の人間を許可を取って犠牲にするのでなければ、それは善になり得ない。なぜなら、ミルは人々は自らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいてのみ、人間は自分の好きなことを自由に行ってもよいという考え方を持っているからである。これを危害の原理と呼ぶ。要するに、ミルの考えでは、仮に大多数の快楽を生み出したとしても、他者に不当に危害を与えて快楽を得ることは、快楽の質として低俗なものになるという訳だ。


 「彼は『功利主義』第二章の中で以下のように述べている。僕の好きな言葉さ。満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。そして愚者や豚の意見がこれと違っていても、それは彼らがこの問題を自分の立場からしか見ていないからである、とね」

 

 「要するに、自分の欲望の為に他人に不当な害を与える豚や愚者になるくらいなら、知的に他者を思いやれる不満足な人間や賢者であれってことね。快楽主義者よりも理性主義者であれ、若い頃から英才教育を施されたミルらしい考え方ね。まるで、あなたみたいに」


 「別に僕は彼の生い立ちに自己投影した訳でも、エリート主義な考え方に共感した訳でもないさ。正直、彼の考え方は別に美しくもなければ、使えるものでもないからね。なぜなら、彼は快楽の質に重きを置き過ぎているし、そもそも快楽の質をどうやって量ればよいのか分からないままだからね」


 「それなのに、好ましいというの?」


 「ああ、そうさ。僕は初めから彼ら偉人の道徳論を正しいか間違っているかのみで判断してはいる訳ではない。だから、好ましいか好ましくないかという言葉遣いで評価したんだ。少なくとも、ミルの道徳論は僕にとって好ましいのさ」


 なるほど。彼の思想が初めて分かった。要するに、彼はリバタリアンなのだ。リバタリアンとは簡単にいうと、他人に迷惑をかけない限りは、何をしてもよい、という思想を支持する人間を指す。だから、例えば、彼らにとって当事者の合意の下で行われる売春や薬物使用は違法ではないのだ。


 「つまり、貴方はリバタリアンだからこそ、4名の女性から許可を得た食人行為は悪ではないとでも?」

 

 「まあ、半分の真実だ。僕は彼女らの合意の上で食人を行った。彼女らも喜んでいたし、僕も喜んだ。ならば、そこに何の問題がある?」


 「彼女らの遺族が彼女らの死を悲しんでいるわ!!」


 私は堰を切ったように怒りを露わにした。

妹の春香は私の羨望の対象であると同時に、もう一つの私の未来でもあった。私は幼い頃から父親に純潔を汚されて、世界を憎み、社会で強く生きるためにひたすら仕事一本で頑張って来た。そんな私にとって、妹の春香は羨ましくもあると同時に、私が送ることの出来なかったもう一つの私の未来でもあった。だからこそ、私にとって彼女の死は私自身の欠落でもあるのだ。

 牧瀬は初めて陰りのある笑みを浮かべた。それは闇夜に輝く月明かりのように虚ろで儚げにみえた。


 「あぁ、それがもう半分の真実。僕は食人を決して肯定しようと思わない。僕の思想においては善だとしても、社会的に観たら勿論、悪だ。そんなものはミルの道徳論なんて持ち出さずとも、ちょっと考えれば分かることだ」


 「だから、せめてもの懺悔で、本来ならば完全犯罪を実現することのできたあなたが自首したとでもいうの?」


 「それも半分の真実だ。僕は人を4人も食べ殺して、少なからず彼女らの関係者を悲しませたかもしれない。それでも僕が食人で犯した子は社会から爪弾きにされた女性を選んだ。親からの性的虐待、極度の精神疾患、性的少数派ゆえの孤立、そんな社会の傷を負った人間は世界各国を探せば至る所に存在するからね」


 「それでも、それはミルの道徳論の危害の原理が適用されて、他人に迷惑をかけているからやってはいけない行為なのではないのかしら?迷惑をかけていけないのはその当事者だけじゃない。その関係者も含めてのはずでしょ?」


 「そうさ。だから僕はその罪は当然背負うために、死刑判決が確定となる4人目の食人で自首することにしたのさ」


 「だから、何?僕は許されるべき存在だとでも言いたいの?ペラペラと思想を並べて立てていたけれど、結局貴方のやってることは自分本位に殺人を行う豚や愚者と何ら変わりがないじゃない!!」


 「あぁ、そうさ。だから、いったろ?僕にとってミルの道徳論は好ましい、すなわち、理想論なんだ。だけど、ありとあらゆる学問を研究して来たけど、それは別にミルの道徳論に限ったものじゃない。だって、絶対無欠な正義なんて存在しないのだから。だから、食人を禁止すれば、僕みたいな少数派は犠牲になる。一方、同意の下の食人を許可すれば、僕みたいな少数派の関係者は不幸になる。そうなると、もう社会的正義と個人的正義の天秤をかけるしかないんだ。果たして、そのどちらかに絶対的な正義があるなんて、君は言い切れるのかい?」

 

 私は愕然とした。牧瀬哲也は自らの犯行が個人的な正義に基づくものであっても、社会的には悪なる行為であることを全て理解していた。そして、その罪を自らの死を持って償う為に自首したというのだ。人類史上、ここまで客観的な学問的知見から、自らの犯罪行為を自覚的に実行した人間は彼一人だろう。


 「だけど、もう一つの卑しい真実がある。まあ、それも今じゃ宙に浮いているのだけど」

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