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女を喰った男  作者: シス
12/12

『女を喰った男』

 今、私は井之上哲也の墓石の前に立っている。すなわち、彼はもうこの地上にはいない。

牧瀬哲也こと井之上哲也は、3年前の本日4月7日午後14時を持って処刑された。

今日は彼の命日だ。私は井之上哲也と記された墓石を眺めながら、最後に彼と会話した時のことを想い返した。


 「静香。まず、君は僕が処刑されたら、どんなに時間がかかってもいい。僕との対話を小説にしてくれ」


 「何で?貴方は小説のネタにされることを嫌がっていたじゃない」

 

 「ああ、でも気が変わった。僕は自分と同じように異常心理を抱えた不遇な同士に希望を示してあげたい」


 「あら、随分、社会派の男になったものね」


 「はは。ホントだよ。だけど、君の視点から見た、ありのままの僕を描いて欲しい。それは僕が世界に英雄視されたいからでも、死刑を前にして心変わりしたからでも、全て演技だったのではないかという疑念を払拭したいからでもない。兎に角、僕という一人の人間の生き様を君というフィルターを通して世間に伝えて欲しいんだ」


 「まるで、私はキリストの使徒ね」


 「あながち間違いじゃない」


 私と牧瀬はクスクスと微笑み合った。

後、どのくらいの時間が残っているのだろうか。

 牧瀬は前屈みになり、深刻な表情で私を見つめた。


 「静香、僕は君に感謝している」


 「何で?」


 「覚えているかい?初めての面会で僕は静香にラカンを引用して、君が僕のことを男として求めていることを指摘した。その時、君は烈火のごとく怒って、ナルシストの妄言だ!!って大声で怒鳴り散らしたよね」


 「ええ、勿論覚えているわ。その日は帰った後、真っ暗闇の部屋の中、ずっとベッドの上で仰向けになって、貴方に言われた言葉を反芻して、自分の犯罪心理分析官としての至らなさを反省していたもの」


 フフッと牧瀬は鼻で笑うと、再び真剣な面持ちに戻った。


 「その時、君は僕が精神異常者というお墨付きをもらうことで、死刑を免れようとしている、そういったよね」


 「ええ。私が貴方を自己愛性障害と妄想性人格障害を合併した精神異常者の疑いで、臨床心理士に再度、心理鑑定を請求しようとしていたことを貴方に見破られていたわ」


 「あの時の僕は、死刑になりたい、むしろ、死刑にならないと困る、と述べた。なぜなら、僕は誰にも愛されることも知らず寿命で死ぬまで生きることに絶望していたからだ」


 「だけど、今は違う?」


 「あぁ、僕は死にたくない。死ぬのが怖い。なぜなら、僕は愛を知ってしまったから。君を愛してしまったから」


 牧瀬は顔をぐしゃりと歪ませながら、ポトポトと瞳から肌を通じて涙を流していた。

最後の時間ぐらい、犯罪心理分析官としてではなく、一人の人間として楽しく会話しようと思っていた。しかし、私も不意に流れる彼の涙を眺めていたら、自然と悲しみの表面張力が限界を超えて、堰を切って涙が溢れ出した。


 「な、なんでよ、だったら、私のせいで、死ぬのが怖くなっちゃってことでしょ。憎まれることはあっても、感謝されることは一つもないわ」


 「いいや、君のお陰で僕は愛を知って死ぬことが出来た。僕は外れくじを引いたと思っていたけど、最後の最後で報われた。僕を」


 お互い顔面を水浸しにして泣きじゃくっていた。今生の別れ。ここがお互いの人生で唯一接点を持てる最後の瞬間。


 「僕を人として死なせてくれてありがとう、静香」


 その後、あの生真面目な看守の粋な計らいなのか、残り3分を少し超えて、私たちは面会室で子供のように泣きじゃくった。

 

 彼の死刑執行から3年後、現在、私は犯罪心理分析官を辞めて、小学校で教師を務めている。犯罪者の心理分析をするよりも、犯罪者になるような子供を作らない方が手っ取り早いからだ。

 馬鹿みたいに綺麗な青空の下、私は改めて井之上哲也の名が刻まれた墓石を眺めて呟いた。


 「約束、守ったよ、哲也」


 私は彼の墓石の傍に、『女を喰った男』という小説を置いて、その場を立ち去った。


 

 旧名牧瀬哲也は果たして、本当に愛を目覚めていたのだろうか。刑の執行から3年という時間を経て、今振り返ると、彼との時間はすべて嘘のようにも思える。なぜなら、彼と過ごした短い期間はとてもドラマチックで、情熱的で、まるでフィクションのように現実離れしていたからだ。ひょっとしたら、サイコパスである彼は全く私に対して愛情など芽生えておらず、私を言葉巧みに心理操作することによって、後世に自分は社会の被害者であり、社会の救世主であるという虚構を残したかったのかもしれない。確かに、それらについての判断は、一度、彼と濃密に関わってしまった私には判断しかねる。しかし、少なくとも彼が最後に語った一つ一つの言葉はすべて、私のなかでひとつの真実として輝いている。後の判断は読者諸君にお任せしたい。

                                       井之上静香 


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