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Part Ⅱ


 真美は学校から帰ってお母さんにただいまを言ってすぐに父の部屋に向かった。

「お父さん、今日も丸山先生がお休みだったの。でも、なんだか様子が変なのよ。風邪とかそういうんじゃなくて、無断欠勤らしいってクラスの誰かが言ってた。でも真美はちょっと嬉しかった。代わりに来た斉藤先生はとてもいい先生。本当は五年生の先生なんだけど、なんだかラッキーって思った。

 

 丸山健一は消えてしまった。真美の学校ではちょっとした騒ぎにになっていた。蒸発したとか何らかの事件に巻き込まれたとかいくつかの憶測が飛び交い、丸山の恋人だという女性が学校にやってきたり、両親だろう、年配の夫婦が尋ねてきたりした。警察もやってきた。けれど、丸山先生に悩みがあるとか、人に恨まれるとかそういう要素は何もみつからない。悩みどころか自分に自信があってどちらかと言うと自分勝手なくらいだから、思いつめるなんて有り得ない、絶対彼の身に何かが起こっていると恋人は主張した。結婚を約束してたんだから。それに、あの夜、突然携帯の電源が切られたのよ。本当よ。警察は事件性も否定できないということで、付近で聞き込みをしたり、丸山健一のマンション周辺で情報を探した。しかし、学生街で一人暮らしの男性に注意を払うものなどいない。コンビニの店員が、写真を見て、よく見かけますよ、というような情報はあったけれど、その程度では何の役にも立たない。おまけに若い男たちは近所付き合いというものをいっさいしないから、丸山を知っているという人物すら見つからないというのが現状だった。

 ひとりだけ目撃者が現れた。丸山が毎週コミック雑誌を買うキヨスクのおばさんが、丸山が女性と歩いているのを見たような気がすると言った。女子大生みたいな髪の長い女の子と楽しそうに歩いていたそうだ。今風の女の子だったと思うわ。Gパンにブランドっぽいバッグを下げてたような。でも人違いかもしれない。

 警察は念のためその女性の詳細を尋ねたけれど、どこにでもいるタイプの子でよく覚えていない、髪が長くてダイエットしてるのか細くてちょっときれいな顔してて。確か眼鏡かけてたと思うけど、それくらいかな。ほら、今どきの娘ってみんなダイエットしてるし、髪をこう長くして必要なときだけかきあげるでしょう。顔がみんな同じに見えるのよね。バッグもグッチだかプラダだか、みんな同じ。化粧が上手いからみんな可愛く見えるし。うちの娘は短大生なんだけど、やっぱり髪をこう長くしてね、バイトしてブランドのバッグ買ったりしててね、眼鏡かけてたから余計に顔立ちが思い出せないのかもしれないけど、

その眼鏡だってみんな黒ぶちの細長いのを掛けてるでしょ。うちの娘がコンタクトが染みるときにたまに掛けるやつに似てる。わからないわね。それに男の方だってひょっとしたら人違いかもしれない。最近は若い男の子もみんな背が高くて小奇麗で同じような顔をしてるし。

 池袋方面のホームに向かったというおばさんの情報で捜査は絶望的になった。江古田の目撃者でこんな程度では、池袋で聞き込みをして、夕方の混み合う時間帯でいったい何人の人がちょっとルックスのいい若いカップルの行方を知っているというのだろう。捜査は曖昧に打ち切られた。両親や恋人は殺人の可能性もあると、警察に捜査の続行を懇願したけれど、死体があがったわけでもないし、みつからないというだけで捜査を続行することは不可能だった。

 ひとりだけ、吉原という捜査一課の二十代の刑事だけが、納得できないと主張した。人が一人消えたんですよ。それも何の問題も無く、女性関係にも経済的にもこれと言った問題が無いのだから、なんらかの事件に巻き込まれている確立は高いはずです。

 しかし彼の主張に対して一課の出る幕じゃないと一笑に付された。「確率だのなんだのって数学の論理を持ち出されても困るんだよね。現場を知らないからそんな風に考えられるんだ。」と皮肉まで言われた。単に消えたというのは、確かに一課の仕事では無い。吉原は考えた。勤務する小学校で他の教師たちの評判も良好で、若くて長身の丸山は生徒たちにも好かれている。仮に彼を嫌っている生徒がいたとしても、まさか十歳そこらの子供が百八十の長身、おまけに学生時代サッカーをやっていたという健康な若い教師を殺して死体を隠せるわけがない。女性関係に関して言えば、付き合っているという女性はありふれた派遣社員で、事件だ事件だと騒ぐ彼女が事件に絡んでいる可能性はあまり期待できない。だから事件の可能性があるとすれば行きずりの反抗以外にはありえない状況だった。そして単なる行きずりだとすれば、迷宮入りするのは明白だ。なんと言っても動機どころか生きているか死んでいるかもわからないのだから、手がかりになるようなものが見つかるはずもない。



 瑤子さんへ

 不思議なことがおきました。丸山先生がいなくなってしまいました。もう一ヶ月近くになるけれど誰も行方がわからないみたいです。今週から臨時の斉藤先生ではなく、新しい足立先生がやってきました。少し歳をとった女の先生。眼鏡をかけていて勉強に関しては厳しいけれど、穏やかでいい先生みたいです。国語が専門で私は国語が得意だから得した気分。それにしても人が一人消えてしまうって不思議です。生徒の間ではやくざに絡まれて殺されたとか、宇宙人が連れて行ったとか、三次元の世界に迷い込んだとか、勝手に話をこしらえてます。けっこう人気はあったから、残念だっていう子もいるし、そのうち、ひょっこり帰ってくるに決まっているなんて言ったりしてましたけど、最近ではそんな話もあんまりしなくなってしまった。お父さんが「人の噂も四十五日」っていうんだって。何かあるとお父さんはいつもそう言うんです。だから後ろを振り返らず前を歩きなさいって。真美は丸山先生が嫌いだったから、振り返るも何もどうでもいいって感じ。それでもやっぱり不思議だなあ。

 瑤子さんはどうしていますか?来週から夏休みです。お母さんは箱根に行こうって言ってます。うちは箱根に小さなリゾート・マンションを持っているんです。昔は海辺に家を持ってたんですけど、父の具合が悪くなって箱根に買い換えたんです。仙石原なんですけど、近くの仙石原プリンスホテルのレストランが母のお気に入りです。こじんまりしていて静かで、ちょっとフランス料理っぽくて美味しいんです。冨士屋ホテルの前のお店で和食器を買うのも母の楽しみ。母は車の運転が出来ないから新宿から小田急ロマンスカーで行きます。私たちはまだアジサイが見られるかしらって心配してます。梅雨の時期は箱根に向かうロマンスカーの窓から本当にきれいなアジサイが見えるんです。もう終わっちゃってるかなあ。これから毎日が日曜日になるから、瑤子さん一度真美とデートしてくれませんか?






 瑤子は縁側に座って花を眺めている。七月も半ばに入り、庭の夾竹桃はますます枝いっぱいにピンクの花を咲かせている。木々の背丈もかなり伸びて、塀の高さを追い越しそうだ。

 そろそろ真美とコンタクトを取っていいだろうと考えた。あの日植物園で会って以来、真美とはメールを一回交わしただけだった。

瑤子はいったん閉じたラップトップを再び開けると、小さなキーボードを叩き始めた。


 真美ちゃんへ


すっかりご無沙汰してしまってごめんなさい。露の時期って何もかもジメジメして、なんだか出不精になってしまうのよね。梅雨明け宣言も過ぎて、太陽と一緒に私もそろそろ活動開始しようかな、って考えていたところ。丸山先生のことは本当に不思議だけれど、神様が真美ちゃんに味方したのかもしれない。宇宙人が連れていったのだったら丸山先生が地球に住む人間のサンプルってことになるわけね。丸山先生が地球代表っていうのもちょっと問題かな、なんて思ったりしてね。

とにかく真美ちゃんのお父様の言うとおり。  

過去を振り返っても何も変わらないわ。真美ちゃんには無制限の未来が広がっているのだから、嫌いだった先生のことは忘れて素敵な大人になる準備を始めましょう。

まずは私とフランス料理のランチ。真美ちゃんのお家の方まで車でお迎えに行ってもいいのよ。安心して。これでも運転には自信があるの。できれば箱根に行く前に会いたいな。連絡待ってます。  



 練馬警察署の館内はちょっとした騒ぎになっていた。桜台二丁目の住宅に白昼強盗が侵入して。家政婦を縛り上げて会社経営の夫人の貴金属等を奪って逃走したという通報が入って、現場を確認して来たばかりだった。主人の五島幹夫は会社、妻は友人とショッピングに出掛けていて、二人の娘は学校、家政婦ひとりが留守番をしていた。鉄筋コンクリート三階建ての瀟洒な住宅にはもちろん警報システムが備え付けてあったけれど、昼間だということと家政婦がいたことで解除されていた。

 近所の住人が五島宅の前に白いワゴンが止まっていたのを目撃している。家政婦によると宅配を装って玄関のベルを鳴らして、ドアを開けたらいきなりナイフを突きつけてきたという。調べたらなんのことはない。前があった。と言っても前科ではない。近くの練馬少年鑑別所の「卒業生」だった。新田幹也、当時の少年Aは友人数人と、遊ぶ金ほしさに帰宅途中のサラリーマンを襲っては財布を奪い、深夜に待ち伏せて、歩いているOLを強姦したりを繰り返して逮捕され、この春出所したばかりだった。自宅のアパートを張っているとまるでコンビニから帰ってきたみたいに、戦利品を入れたビニールの袋を抱えて帰ってきた。

「反省の色、ゼロって感じですね。家政婦が無傷なのが幸いだったなと言ったら、ばばあだったから抜く気にもならなかったなんて言ってましたよ。」

吉原が言った。

「金に困って咄嗟にやっちまったって感じだろうな。何も考えてないよ。」

杉浦警部補が煙草を灰皿に置きながら言った。家族にも同僚にも散々言われているのに、今だに煙草が止められない。

「金庫をさ、大した大きさでもないのに、持ち上げようとして諦めたって感じだな。金庫全体見事なほどべたべたと指紋を残して行きやがった。」

「杉浦さん、また置き煙草。吸うなら吸う、吸わないなら消して下さい。まわりの迷惑になります。」

お茶を置きながら牧原弥生が眉をしかめた。

「私が歳をとって皺くちゃになったら杉浦さんの責任ですよ。これから置き煙草するたびに将来のフェイスリフト整形の積立金を徴収します。」

そう言って杉浦に手のひらを差し出した。

「一回につき百円。」

杉浦はその掌に三百円握らせて

「ハイライト、買ってきて。」

と言った。

弥生はぷいっとむくれて

「おつりは頂きます。」と自販のところに歩いていった。

「最近の若い女はしおらしさってものが無いからなあ。」

杉浦が音をたててお茶を啜りながらいった。

「弥生ちゃんはしおらしいほうですよ。なんだかんだ言いながらちゃんと言うことを聞いてくれるんだから。普通の最近の若い子だったら三百円を杉浦さんの顔に叩きつけてますよ。第一お茶なんか入れてくれませんよ。」

吉原が笑った。

「昔は良かったなあ。女の子がお茶を入れるということに疑問をもつやつなんかいなかったもんなあ。」

「アメリカじゃ、トイレに男女のサインも禁止らしいですよ。女になりたいオトコの性転換手術は三年待ちだとか。その波が津波になって、今度は肉食女子と来た。これからはお茶どころか男も育児休暇が当然になるかもしれませんよ。そのうちに給湯室は男の憩いの場所になったりして。」

 山崎が言った。彼は高校の時にインディアナ州に交換留学を経験して、何かというとアメリカの話を持ち出す。

「勘弁してくれよ。」

杉浦が手のひらを振った。

「はい、煙草。」

弥生が杉浦のデスクに煙草とおつりをおいた。

「釣りは返さないんじゃなかったのか。」

杉浦は椅子を回して座ったまま弥生を見上げた。

「数十円ぽっちで恩を売られたらかないませんからね。今度カツどんでも奢ってもらいます。」

「ダイエットしてるんじゃなかったか?」

「ダイエットもたまには息抜きが必要なんです。無理なダイエットは長続きしませんからね。」

「ダイエットもいいが、その髪なんとかしろ、

染めるのは勝手だが根元だけ黒いのは興ざめだぞ。」

「人をこき使って定期的に休みをくれない署長に言ってもらえません?美容院って前もって予約しないと行けないんですから。」

「じゃあ、いちいち染めなきゃいいだろう。」

弥生がむくれた顔をして杉浦の財布をひったくると、千円札を抜き取った。

「部下に煙草を買いに行かせたのは職権乱用、ヘアスタイルにコメントするのはセクシャルハラスメント、これは示談金です。安いと思いません?先輩のアドバイスに従い、私はカツどんは止めてダイエットに良いすし屋でチラシ食べてきます。署長に言っといてください。」

そう言って、ハンドバッグを掴むとドアをばたんと閉めて行ってしまった。

「あれでも四大卒、成績優秀で昇格試験、クリアしていっぱしの刑事だっていうんだから、呆れるよなあ。」

杉浦が言って山崎は笑った。

「テレビとかでヒーローみたいにイケメン刑事がいて、他の刑事はだいたいさえなくて、美形の女刑事がイケメンと事件を解決していくってパターンあるじゃないですか。弥生はそれを目指してるんだそうです。可愛いじゃないですか。」

「美形というには心持ち太めだけどな。」

杉浦が言った。

「それを言ったら完璧なセクハラ。千円くらいじゃすみませんよ。」

杉浦がやれやれ、古き良き日本は何処にいったんだ。最近じゃ、電車に乗ったって痴漢と間違えられないように腕を組まないきゃ誤解される時代だ。俺はもう若い女とは関わらないことにする。そう言って煙草を手にしたまま椅子の背にもたれて目を閉じた。


 吉原はまだ丸山失踪のことにこだわっていた。恋人の麻由美によるともう一ヶ月以上、なんの音沙汰もないという。アパートには旅行に出かけたような形跡もない。独身の一人暮らしのわりにきちんと片付いていて、掃除も行き届いていた。麻由美が合鍵を持っていて時々掃除をしていると言っていたのを思い出した。吉原は席を立った。

「ちょっと出かけてきます。」

「どこへ行くんだ。」

杉浦が声を掛けた。

「例の丸山健一失踪の件、ちょっと気になることがあって。」

「おいおい、あの件は管轄外だ。それにどっちにしろ捜査打ち切りだろう。」

吉原はジャケットを肩にかけると振り向いた。

「人がひとり完全に消えて、遺族や恋人から捜査願いが出ているんです。強盗事件も簡単に片付いたわけだし、少しくらい調べさせてもらってもいいでしょう。何かの事件に巻き込まれた可能性もあるわけですから。」

ドア越しにそう言って署を後にした。


 戸塚絹子は板橋区小竹向原四丁目に住んでいる。偶然、丸山の住んでいた江古田の駅から徒歩で十分足らずだ。

住所の番地の道へ入ると、全く同じ作りの建売住宅が、窓から手を伸ばすと届きそうな間隔で続いていた。小さくて四角い家の連続は、モノポリーのプラスティックの家に似ている。

戸塚絹子の家がはそんな一角に建っていた。低い塀の上、二階のベランダには洗濯物が掛けられ、カラフルなTシャツやジーンズが風に揺れている。

 小さな鉄の門を開けて玄関のベルを鳴らすと若い女性がドアチェーン越しに顔を出した。

短大生だという娘だろう。

「何でしょうか?」

大きな目をくりくりさせて吉原を見る。長い栗色の髪、アイラインを施し唇も艶っぽく光らせているけれど、頬に大きなニキビがひとつあって、ヘアスタイルと化粧がなければ高校生に間違えそうなあどけない顔だ。もっとも最近では中学生でも化粧をするそうだから、女性の年齢はますますわかりにくくなってきたもんだ、と吉原は思った。吉原は警察手帳を見せながら、

「お母さんはいらっしゃいますか?」

と聞いた。キヨスクに行ったら今日は休みだと聞いていたのだ。手帳を見せると娘は興味津々、吉原と手帳を見比べながら嬉しそうに奥に向かって、大きな声で母親を呼んだ。

「お母さん、ケイジさんが来たよ。」


 戸塚絹子はお茶を入れて、煎餅の入った赤いボールと一緒にキッチンのテーブルに並べた。娘が絹子の隣に座り、自分で入れたお茶を飲みながら煎餅に手を出した。クーラーの音だけの部屋に煎餅を噛み砕く音が響く。

「そうですか。まだみつからないんですか。あれからあの男の子、本当に消えちゃったんですね。やっぱりあの子だったんだろうって今は確信してますよ。だってあれから全く姿を見なくなったからね。別に口聞いたわけじゃないけどね、黙ってお金出して雑誌受け取って、たまにガムとか買うことがあると、「これも」って一言。感じがいいとか悪いとかっていうほど話してないし、まあたまにはにっこりしたり、こんにちは、くらいのことは言ってたかな。背が高くてちゃんとした身なりだし、うちの娘が好きなタイプだなって思ったから知っているっていう程度。」

「かっこいいの?」

娘が身を乗り出した。

「背が高くてすらっとしてて、けっこうあんた好みだと思うよ。ジャニーズ系っていうの?顔が小さくて眉毛が太くて。」

「へえ、ねえ刑事さん、その丸山さんって人の写真ある?」

吉原は丸山健一の写真を娘に見せた。

「ふ~ん、確かにジャニーズ卒業生って感じ。ちょっと生意気そうだけど。でも刑事さんもけっこうかっこいいよ。ジャニーズ系じゃないけどメンズノンノ風。刑事っていうより銀行マンって感じかな。刑事さんのほうが私の好みに近いかも。」

「それはどうも。」

母親が娘の手を叩いて、

「大人をからかうもんじゃありません。」

と言い、娘が舌を出した。吉原は苦笑いして、ハンカチで汗を拭った。クーラーは音ばかり大きくて、三人でお茶を飲んでいると部屋は瞬く間に暑くなってきた。

「やっぱり何か事件に巻き込まれたんでしょうか?」

娘が聞いた。

「いや、まだ事件と決まったわけではないんですけど、行方不明なのは事実ですから、最後に丸山さんと目撃したお母さんにもう一度話をお聞きしようと思って。」

吉原はそう言ってお茶を啜ろうとして慌てて湯飲みから口を離した。

「あら、熱かったかしら。」

戸塚絹子が言って、吉原は

「いえ、僕は猫舌なんで。」と言って口元をハンカチで拭った。

「お母さん、ものすごーく熱いお茶が好きでね、いつも焼けどしそうなのを入れるのよ。それより捜査一課って殺人とかの重犯罪を扱うところでしょう?やっぱり殺されたってこと?」

「いえ、今のところ僕の管轄ではないんですけど、何だか個人的に気になって。それでお母さんにお話を聞こうと思っただけです。」

戸塚絹子は湯飲みを置いて頬杖をついた。

「思い出せって言われても、お相手の顔をはっきり覚えているわけじゃないしねえ。」

「その女性の特徴、なんでもいいんですけど思い出せませんか?持ち物とか服装とかでもいいんですけど。」

戸塚絹子はうーんと言って腕を組んだ。

「綺麗な女の子だと思ったのは確か。あ、綺麗な子連れてるなって思ったのよ。細くてスタイルが良くて。背丈とかは普通かなあ。男の子が背の高い子だからねえ。そうねえ。なんだかブランドみたいなバッグを持ってた。こう斜めがけするやつだったと思う。」

「メッセンジャーバッグっていうのよ。」

娘が口を出した。

「美紀ちゃんもおんなじようなの、持ってなかったっけ。」

絹子が娘の方を向いた。ミキという名前らしい。

「私の持ってるブランドってグッチと、シャネルのトラベルラインのふたつだけだもん。なんなら今、持ってきてあげるよ。」

「何、そのトラベルラインって。」

絹子が尋ねると、

「シャネルが作ってるマイクロファイバーのバッグのシリーズ。皮製のは死ぬほど高いけど、これなら父親も別のパパもいない私でもバイトがんばれば買えるってこと。ものすごい人気なんだから。」

そう言って美紀がドアの向こうに走った。母子家庭なんだな。どうりで男物の洗濯物が干してなかったわけだ。

 階段を上がる音と階段を駆け下りる音がほとんど時差無く聞こえてドアがまた開いた。美紀が手にベージュのバッグと黒いバッグを持っている。どちらも布にロゴのデザインが浮かんでいる。

「これがグッチ、こっちがシャネル。」

美紀が嬉しそうにバッグをテーブルに置くと、

絹子がグッチのバッグを指差して言った。

「ああ、これこれ、こんな感じだったと思う。こんな感じでタスキ掛けしてたと思うけど。」

「見たのが私だったら一発でわかるんだけどなあ。お母さんから見たらグッチとフェンディーの違いもわからないだろうし、シャネルは単なる黒いビニールバッグに見えちゃう

かもねえ。どっちもすごく高いんだけど。」

「そんなに高いんですか?」

「グッチには六万ちょっと。シャネルのは八万くらいした。」

吉原は目を丸くして言った。

「八万円。」

「ねえ、信じられないでしょう、こんなビニールみたいなのがねえ。ブランドの名前だけでお金取ってるようなもんだよねえ。原価なんか二束三文だってのにねえ。」

絹子が呆れ顔で言った。

「でもほしいものはほしいのよ。みんな持ってるんだから。男の子だって、最近は貧乏臭い子とは付き合いたくないのが常識。ひとつも持ってなかったら合コンで声かけてもらうチャンスはゼロなのよね。」

「そんなもんですかねえ。」

「そんなもんなの。刑事さんって若いのにけっこう知らないのねえ。」

「あんたと違って真面目なんだよ。この刑事さんは。」

吉原は咳払いをした。

「とにかく、つまり高級品と言ってもこういうバッグは誰でも持ってるってことなんですね。」

「ピンポーン。ブランドじゃないほうが返って目立つくらいなんだから。」

はあ、と言って吉原は考えた。その女性はありふれたブランドのバッグを持っていた髪の長い女子大生。

「お母さん、髪の長いブランドバッグを持った細くて綺麗な女子大生っていうだけじゃ、

この近所だけでも、武蔵野音大、日芸、武蔵大、池袋を入れれば立教、山手線沿線まで入れたら可能性は無限大だわね。手がかりになんてならないよ。」

美紀が吉原の心中を察して言った。

「お母さん、何か他に思い出せない?」

絹子は首を振った。

「思い出そうとしてるんだけど、さっぱりだめなのよねえ。いちいち事件が起こるかもしれないと思って人を見てるわけじゃないしねえ。」

吉原は絹子と美紀に礼を言って腰を上げた。石神井東小に行ってみるか、自分が納得するまではとにかく続けよう、そう思った。



 真美は山吹色の木綿のワンピースを着た。

裾のところに同じ生地の花が一周ぐるりとついていて花の中央が透かしになっている。冷房が強いところだと寒くなることがあるので白いカーディガンを用意した。鏡を見て髪をブラシで念入りに整えて父の部屋に行った。

「お父さん、行って来ます。瑤子さんとデートです。羨ましいでしょう。帰ったらまた報告するね。」

 お父さんはいつものように真美に優しく微笑んだ。

 玄関を出て、石神井公園に向かう。お母さんには夏休みの宿題をするために図書館へ行くと言った。お昼は?と聞かれて今日はマクドナルド食べたい気分だと言うと、お母さんはしょうがないわねえ、と言いながらも三百円渡してくれた。夏休みだから特別よ。暗くならないうちにちゃんと帰っていらっしゃいと言いながら、随分よそ行きのカッコウをしているのね、と真美を見た。真美が、憧れている五年生の先輩に会えるかもしれないからと言うと、くすっと笑って彼とマック一緒に食べられるといいわねえ、と真美を見送った。

 石神井公園には約束の時間よりも十五分ほど早く着いてベンチに座って時間を潰した。

瑤子さんのことを少し考える。瑤子さんはなんで真美にあんな話をしたんだろう。いきなり会ってどうして子供の私に人に言えないような秘密を話さなくてはいけなかったんだろうか。

 真美ちゃんなら友達になれると思ったから。

 真美は瑤子さんの言葉を反芻した。大人が子供と友達になりたい。あんなに綺麗な人がいったい真美のどこを見て友達になりたいと思ったんだろう。

 池には鴨が数匹泳いでいる。時々水の中に顔を突っ込んで首を振って、また何もなかったように泳ぎだす。鴨たちが描く静かな水の波紋を眺めていると少し不安になってきた。真美は小さい頃海が好きだった。古いアルバムをめくると磯で遊ぶ幼い真美の写真、海を背景にお父さんとお母さんと三人の写真、砂浜で小さな犬を抱いている真美もいる。真美は犬を飼っていたことをなぜか覚えていない。犬を抱いた記憶は確かにあるのに犬の思い出が無い。昔は犬を飼っていたんだけど病気で死んでしまったの、とお母さんは悲しそうな顔をする。笑っている写真もあればなんだかしかめっ面の写真もあるけれど、どれも海の水色と太陽の光が溢れる楽しい家族の写真。それなのに真美は海を見るといつもものすごく不安になる。波の渦に飲まれて海の底に引き摺りこまれてしまいそうな気がして目を閉じたくなる。

「どうしたの?真剣な顔しちゃって。」

顔を上げると瑤子さんが立っていた。

「こんにちは。」

瑤子さんが美しく微笑んだ。オレンジ色の半袖のニットに白い麻のパンツ。オレンジ色の細い紐を編んだようなハイヒールのサンダルを履いていて、相変わらずポニーテールにしている。耳元にシルバーの花の形のイヤリングをしていて、瑤子さんの小さな顔の横でイヤリングの中の小さなダイヤモンドが夏の陽差しに反射してきらきら揺れた。

「こんにちは。」

真美は立ち上がってお辞儀をした。瑤子さんは真美を見て、

「私たちってつくづく気が合うのね。選んだ洋服の色まで揃っているわ。」

 瑤子さんはそう言って真美の手を取り、さあ美味しいものを食べに行きましょう、と言って歩き出した。公園を出るときに、ちいさなプードルを連れている女の人をすれ違った。犬は瑤子さんに近づいてきゃんきゃんと吼えて尻尾を振った。飼い主があんずちゃんだめでしょ、と言い、瑤子さんに向かってごめんなさいねと軽く会釈をした。瑤子さんはいいえ、と言って小さく微笑んでまた歩き出した。

「犬はあんまり好きじゃないですか?」

真美が瑤子に聞いた。

「そんなことないわ。好きよ。」

「瑤子さん、驚いた顔してたから。」

「急に吼えたからちょっとびっくりした。」

「うん、瑤子さん、本当に驚いてましたよ。」

真美がくすっと笑った。

 

 瑤子さんの車はパーキングメーターの白い線の中に路上駐車してあった。角が丸いコバルト・ブルーのオープンカー。鍵を回して助手席側のドアを開けた。

「カッコいい車ですね。」

「イタリアの車、アルファロメオっていうの。とても古い車なんだけど、愛着があって買い換える気になれないの。今どき、キーレスじゃない車なんて探す方がむずかしいんだけどね。」

瑤子さんが言った。

「キーレスって?」

「近くに来たらリモコンでかちゃって開ける

タイプ。」

真美は車に乗り込みながら瑤子さんの顔を見た。車高が低いから小さな真美は座るというより座席に沈み込む感じだ。

「うちは父も母も運転をしないからそういうのよくわからないんです。」

「真美ちゃんは東京育ちだものね。東京じゃ車なんて返って邪魔になったりするからね。私も車は週末たまに使うくらい。運転忘れないために。」

「さ、準備はいい?初めてのデートだから

お姉さんは気合が入っているからね。」

瑤子さんがそう言って前を見たまま微笑んだ。

でもその微笑みはなんだかとても真剣な微笑みだと真美は少し不思議に思った。


 瑤子さんは細い指でハンドルを握り、滑らかに車を走らせた。桜貝のような淡いピンクのマニキュアに真美はキョウチクトウの花を思い出していた。運転している瑤子さんの横顔は鼻が細く尖り睫が長くカールしていて、まるで少女漫画の絵みたいだ。時々真美に冷房強すぎない?とかお腹空かして来た?とか話しかける。唇が動く時、きちんと並んだ真っ白い歯と、マニキュアと同じ色の歯茎が覗く。真美は目があまり大きくないとか、背が低いとか、指が短いとか、自分の中で気に入らない所を指をおって数えてみた。瑤子さんにはそういう欠点がまるで無いみたいに見える。

 レストランに着くと瑤子さんは外に立っている黒いスーツの男の人に車のキーを渡して

真美の手を取り、迎えに出た別の男の人の後に続いた。フランス料理のレストランだと聞いていたのに窓が障子になっていたりなんだか和風な感じがする。男の人はメニューを持ってくる代わりに緑色のガラス瓶に入った水をワイングラスに注いだ。グラスの中でものすごく小さなたくさんの泡が踊っている。瑤子さんは小さなお皿に盛られた串型のライムをひとつとってグラスの中に果汁を絞った。その長い指の動きがとても上品で真美は思わず見とれてしまった。これはぺリエっていう自然の炭酸水。ライムがとても合うの。真美ちゃんも試してごらんなさい。すっきりしていてとても美味しいのよ。真美は言われた通りライムを指で摘んでグラスに薄緑色の果汁を絞る。爽やかな香りがテーブルの上に広がる。真美はそれだけでなんだか少し大人になれた気がした。

「未成年の真美ちゃんにワインを勧めるのは法律違反だから、今日はお水で乾杯。」

サルート。

瑤子さんはそう言ってグラスをとって真美のグラスにそっと合わせた。メトロノームのよ うな細い長い音が空気を薄く震わせた。

 ウエイターがやってきて小さなお皿をふたつテーブルに置いた。赤、黄色、オレンジ、緑。色とりどりの野菜が一口サイズの薄いトーストにちょこんと盛られている。

「アミューズっていうの。前菜の前の和食でいう突き出し。」

瑤子さんが言うと、ウエイターがすかさず、

「夏野菜のラタトーユを使ったブルスケッタです。」

と説明した。ラタトーユというのは様々な野菜をオリーブオイルで炒めて冷やしたサラダ、ブルスケッタというのは、トーストをニンニクとオリーブオイルで味を付けたものだと教えてもらった。一口食べると野菜だというのに驚くほど甘みがあって、かりかりトーストとの組み合わせが美味しい、真美がそう感想を告げると、

「野菜は本来甘いものなの。ここはオーガニック素材を契約農家から仕入れているから、野菜本来の甘みがちゃんと舌に伝わるのよ。」

瑤子さんが言った。真美は箱根プリンスの母が大好きな「朝摘みレタスのサラダ」を思い出し、その話をした。摘んだばかりのレタスはしゃきっと瑞々しく、レタスなのにとても甘い。瑤子さんは自然のエネルギーがいっぱい詰まっているからね、と言ってとても素敵に微笑んだ。

 アミューズの後に出てきた前菜はハート型のコンソメゼリーの中に海老とソラマメが入っていて、周りをピンク色のクリームソースと赤い蟹肉が取り囲んでいる。ピンクのソースはビーツとフレッシュクリームで、ハート形のゼリーもソースも真美ちゃんのために特別作ってもらったの、と瑤子さんが言った。ソラマメはお父さんの大好物だと真美は言った。メインは牛フィレ肉の赤ワインソースとチキンスープで煮込んだアスパラガス、ベーコン、さつまいも、松の実の入ったリゾット。料理がゆっくり間をおいて運ばれる中、瑤子さんはいろいろな話をした。真美はお父さんが買ってくれたナルニア国物語やハリーポッターの話をして、瑤子さんが不思議の国のアリスや星の王子様の話をする。 

「私たちって空想の世界に入り込むのが好きなところも同じね。」

瑤子さんがデザートのチョコレートスフレをスプーンですくいながら言った。

「本当にそうですね。私は別の世界に迷い込むストーリーが好きなんですけど瑤子さんも同じですか?」

「そう、おんなじ。空想の世界で現実に出来ないことをたくさん体験すると、それが実現するように思えてくる。そういうことを想像しているとわくわくして楽しいのよね。」

「本当に同じ。」

真美は嬉しくなった。瑤子さんが真美を友達だと言ってくれる意味がわかったような気がする。私たちは似たものどうしなんだ。

 瑤子さんがカプチーノをふたつオーダーし、

ウエイターに「デキャフでね。」と付け加えた。

「デキャフって何ですか?」

「カフェインレスのこと。真美ちゃんのためだけではなく、私はカフェインが苦手だから。」

「瑤子さんも眠れなくなるんですか?」

真美が言うと瑤子さんは、

「そうなの、眠れなくなっちゃうの。」

と笑った。

 窓の外で木の葉が揺れている。クーラーの効いた室内にいると、外の蒸し暑さが嘘のようだ。静かでゆったりしていて、時間も季節も忘れてしまいそうだ。

「丸山先生はまだみつからない?」

瑤子さんが口を開いた。

「全然。もうみんなほとんど忘れちゃってる。

新しい先生はあまり冗談とか言わないし、丸山先生に比べると真面目すぎてつまらないっていう生徒もいたけれど、そういう子たちが一番早く忘れたりする。みんな夏休みが近づいて家族旅行なんかの計画ではしゃいでそわそわしてたから、どうでもよくなっちゃったって感じです。」

そう。瑤子さんは微笑んだ。

「真美ちゃんはどう思ってる?」

「ラッキーって感じ。私、丸山先生が心底嫌いだったから。今度の先生はとても優しいんです。斉藤先生は左利きはかっこいいって言うからみんなも何も言えなくなったし、真美が本が好きなことを知って、面白い本を紹介してくれる。内緒だけど、丸山先生がいなくなって嬉しい。学校に行くのが楽しくなったもの。」

「それは良かった。」

瑤子さんが何回も頷いた。真美は瑤子さんも丸山先生が嫌いだったことを思い出していた。 

「真美ちゃん、箱根にはいつ行くの?」

運ばれてきたカプチーノをひとくち飲んで、瑤子さんが言った。白い艶のあるカップをソーサーに置くときに、鈴のようなかすかな音が静かな部屋に響いた。

「来週の中旬くらいから一週間くらい。お盆が始まる前に帰って来ようって母が言ってます。」

「そうね、お盆の箱根ってとっても混むんでしょうね。」

「はい。本当にものすごいです。夏休みはもちろん普通より混むけれど、それでも伊豆とかに比べると比較的ゆっくりできるんです。でもお盆となると道は大渋滞するし、レストランも並ばないと入れない。緑より人の方が多いくらいなんだってマンションの管理人さんが言ってるんです。」

「緑より人が多い。それは大変だわ。」


真美はカプチーノをひとくち啜った。真美のカップにだけホイップクリームが浮かんでいる。クリーミーな泡が唇についたのを舌でそっと舐めた。

舌の上で泡が溶けてコーヒーの甘い芳香が口いっぱいに広がる。お父さんの入れてくれるカフェオレよりコーヒーの香りが強いのに、軽くて空気を飲んでるみたいだと真美は思った。

「美味しい。」

「気に入ってもらえて嬉しいわ。」

瑤子さんは真美を見て微笑んだ。

「お父様も一緒に行くの?」

「父はあまり具合が良くないし、仕事があるから多分無理。最近、旅行は母とふたりだけっていうのが多いんです。」

そう。瑤子さんが言って、両手を顔の前で組んで真美を見た。

「ねえ、真美ちゃん、人間は死んだらどうなると思う?」

「身体が燃やされて、魂は天国で静かに暮らすんだと思います。どうしたんですか、突然・・・」

真美が言い終わらないうちに瑤子さんが話しだした。

「私はね、身体を燃やすとそれは煙になって魂と身体が一緒に空へ登っていくと思うの。」

「瑤子さん、どうしてそんな話をするんですか?」

瑤子さんは怪訝顔の真美を見て言葉を区切るように喋った。

「今日はとても真剣な話を真剣に聞いてもらおうと思っているの。」

「つまりそういう話をするために私をランチに誘ったということですか?」

「それもあるわ。」

「それは、最初に会った時の正恵さんの話に関係あるんですか?」

「それもあるけど。でもとにかく話していいかしら。」

 真美は小さく頷いた。

「OK。どこまで話したっけ。そうそう、人間が死んで燃やされて空に登っていく話。そして天国で平和に暮らしました。お終い。」

「え?」

瑤子さんが噴出した。

「なんていうハッピーエンドでは無いって私は思っているの。死んで天国に行って幸せになるっていうのは死者に対する慰めっていうか諦めっていうか、そういう風に考えて納得しようとしているだけなのよね。」

「じゃあ、瑤子さんは神様を信じないんですか?」

「神様は信じているわ。私は無神論者ではないもの。」

「ムシンロンシャ?」

「神の存在を否定する人たち。私は神様はいると思う。ねえ、どうして人は死ぬとお空に上っていくって言われると思う?」

「どうしてかな。わかりません。星になるって話もありますよね。」

「そうね。私たちの住む地球は空の上に広がる大きな宇宙の中では海岸の砂粒より小さい存在なのよね。その宇宙のことを理解しようとするとね、どうしても百パーセントの答えが出てこない。宇宙には重力、電磁波、強い力、弱い力という四つの力があると言われている。その力は神様の手のようなもの。宇宙全体の天体をつかさどり、すべての物質や生物を作り出すために、それを結び付けるために、情報を遠くに伝えるために、神様は四つの手で、宇宙の全て、星たちの生死も運命も全てをコントロールしているのよ。そして神様はその手を、砂粒より小さい地球の人間ひとりひとりに差し伸べることが出来る。もしもその人の心が神様を求めたら、という条件付きだけれど。」

「条件付き?」

「そう、条件付き。信じない人に触れたって意味はないわ。神様はそういう無駄なことはしない。楽しいことも悲しいことも、理不尽だと思えることも、全て正当な理由があるから起こることなの。少なくとも私はそう思っている。そして神様は求める人の心の中に手を伸ばして、神様のスペースを確保する。心の中に神様がいる人は、困ったときや嬉しいことを、その神様にお願いしたり感謝したりするでしょ。そして、これが大事なんだけど、その心のスペースに、死んだ人の魂が身近な神様になって住むことも出来る。」

「身近な神様?」

「そう、まず、世界を創造した神様がいて、その世界を守るためにイエスキリストとか仏陀みたいな偉大な神様が生まれた。神様の息子だとか生まれ変わりとか、まあそんな話は今は必要ないかもしれないけれど、とにかく私たちの世界を守ってくれる。導いてくれると言った方がいいかしら。巨大な長い手を使って。そしてね。私たちの家族が死んだら、きっとその人たちは神様のお支いとして、空と地上を行き来して自分の家族を守ってくれる存在になる。神様の手が、死んでお空に上った家族の魂を掌ですくい取って、神様のお遣いとして、家族の元に送り返すの。もちろんその家族の誰かが望んだらね。強く求める人には守ってくれるそういう身近な神様がちゃんと見える。」

「家族。」

真美は思わず口に出してみた。

「真美ちゃんの家にご仏壇ってある?」

真美はお母さんの寝室の仏壇を思い浮かべた。

家を建て直す前はリビングの横に畳のスペースがあって、コタツの横に仏壇を置いていた。家を建て直した後はお母さんがとても大きい仏壇を買って寝室のフローリングの床に置いて毎朝お花の水を代え、お茶を入れて、チーンと鐘を鳴らして小さな声でお参りして、中をからぶきする。炊き立てのご飯があるときは仏壇にお箸と一緒に添える。真美がそれを瑤子さんに話すと、瑤子さんは、

「お母様は何をお参りしているのかしら。」

と聞いた。

「家族の健康とか真美のこととか、小さな声でいろいろお願いしているみたいです。」

真美が言うと、瑤子さんはにっこり笑って、

「そうやってお母さんがお祈りしているってことは、死んでしまった家族に守ってもらえると信じているって言うことよね。」

「母はよく、ご先祖様を大切にすればちゃんと真美のことを守ってくれるって言っています。」

「真美ちゃん、ムーランってディズニー映画、観たことある?」

「DVD持ってます。父がディズニーのアニメ映画は全て揃えてくれたんです。」

「さすが真美ちゃんのお父様ね。ムーランが戦いに勝てたのはアンシスター、つまり亡くなった先祖がムーランを助けてくれたからよね。」

「はい。ちょっとそそっかしくて失敗ばかりするアンシスターだったけど。」

真美が笑った。瑤子さんも微笑んで、

「そうね、なんだか頼りない感じだったけど普通の人間の魂だから仕方ないのよ。それでも全身全霊でムーランを守ってくれたじゃない。家族を愛しているから。」

 真美が頷いた。

「ねえ、真美ちゃん、お母さんはご先祖様の中で、誰にお願い事をしているのかしら。」

 真美ははっとして顔を上げた。

 お母さんがお参りするときこっそり聞くと、お父さん、真美を守ってください、そうお参りするのを思い出した。お父さん。どうしてお母さんは仏壇に向かってお父さんって言うんだろう。

 心の中で何か重たいものが持ち上がってくるような予感が真美を包む。真美が黙っていると瑤子さんが口を開いた。

「誰でもいいけれど、お母様が一番信じている人であることは確か。私は死んでしまった人じゃなくてもいいと思う。お母様がご先祖様にお願いするときに、例えば真美ちゃんのお父さんに話しかけることもあるかもしれない。生きていようと死んでいようと、一番大切なことを一番信じている人の魂に訴える。」

「仏壇の前で?」

「そう。仏壇の前って心が落ち着くのよ。神聖っていうか、心が開ける場所なんだと思う。クリスチャンの人が教会に行って心を洗うようにね。」

瑤子さんはそう言って真美の顔をみつめた。

「それでね、真美ちゃんとお母様がが旅行にいってる間は、お父様が真美ちゃんを守ってくれるのよ。」

「でも、父は生きているんです。」

真美の心に、ふいに黒い海が見えた。その海は大きく渦巻いて、その渦の中心が水を細く搾りながら裏返しに飲み込んでいく。丸山先生の言葉が蘇る。真美のお父さんは亡くなったんだよ。事故で死んでしまったんだ。

 瑤子さんが真美の手に自分の手を重ねた。ひんやりと湿った真美の手が少し震えているのを瑤子さんは掌で感じ取った。

「神様がすくい取った魂は、天に昇ったり、地上に降りてきたり。魂は自由なの。」

「そしてもしもね、もし、生きている家族の魂と魂が強く求め合ったら、神様はどう思われるかしら。魂に生死が無いのなら、生きてる魂が神様の手で救い上げられることだってあるかもしれない。それほど強い力で求め合ったら、神様だって無視は出来ない。」

真美は混乱した。瑤子さんの言っていることがよく理解できない。

「つまり真美ちゃんが求めればお父様はいつでも真美ちゃんを守ってくれる。例え真美ちゃんが箱根にいてお父様が東京にいてもね。」

瑤子さんが真美の手を強く握った。

「つまり大切なのは一緒にいる時間より心が繋がること。朝摘みレタスのサラダが美味しいと思ったら、お父さん美味しいねって話しかける。声に出さないで心の中で。お母様が漆の小皿を買ったら、お父さん、お母さんがまた衝動買いしたよって心の中で言う。」

瑤子さんはまだ真美の手を握っている。

「生きている人の魂も死んでいる人の魂も求める人がいなければ語りかけてこないのよ。求める人がいるから守る。でもそれは本当にどうしようもないくらい激しく求めるから心に現れるの。そして忘れないでほしいのは、魂は真美ちゃんの心の中で生きている。けれど真美ちゃんが現実に暮らす世界に、魂は属していないの。それを他人と共有することはとても危険なの。なぜなら魂は求める人にしか見えないから。」

真美は瑤子さんの白い指のつるりとした感触を不思議に思った。今、こうやっている瑤子さんの存在こそが現実離れしているように感じる。瑤子さんが真美の手を離した。

「時々、真美ちゃんには見えているお父様がほかの人には見えない。そういう経験、あるんじゃないかな。」

真美は顔を上げた。先生やクラスメートが真美を見る目。お母さんの困惑した顔。


「私は真美ちゃんはお父様の魂と話をしていると思えてならないの。私が正恵に話しかけるのとそっくりなの。私は真美ちゃんと最初に出会って、それからメールをちょっとやり取りして、真美ちゃんのお父様の存在が、真美ちゃんの心が作り出した魂みたいに思えてしかたがなかった。」

真美は鼓動が激しくなるのを感じていた。心の隅にお母さんが海辺で泣いている姿と、ここで待っていなさい、というお父さんの声がストロボのように心に反射した。光の断片は強すぎて、そこにくっきりした画像を映し出さない。思い出そうとすると身体が震える。アルバムに貼ってあったはずの写真がその部分だけ抜け落ちて空白になっているみたいに、確実にそこにあるはずの記憶にどうしてもたどり着けない。何かとても大変なことが過去に起こった。でも何があったんだろう。

 大丈夫よ。瑤子さんが真美をとても優しくみつめた。まるでモナリザみたいに優しく微笑んで。そして言った。

「安心して。お父様はちゃんと真美ちゃんと一緒に暮らしている。でも、気をつけないといけないことは、お父様の魂を真美ちゃんが求めることによって、例えば家にいるはずのお父様が別の場所にいる真美ちゃんに見えてしまう。実際に家にいるお父様、真美ちゃんの心が作り出したお父様。真美ちゃんはそういう区別が出来なくて、ちょっとこんがらがっているのかもしれない。心配することはないの。それだけ真美ちゃんがお父様を愛して、お父様が真美ちゃんを愛している、ということ。大切なのは真美ちゃんが自分の心を信じること。他の人がなんて言おうと真美ちゃんは心の中に大切な家族を持っている。真美ちゃんと私は同じなの。自分の心の中に誰かがいないととても不安になる。何かが真美ちゃんの心に蓋をしている。それが何か、みつけるのは真美ちゃん自身なの。そしてそのことを怖がらないで。私も同じだから。私たちは双子みたいにそっくりなの。私には真美ちゃんが必要で真美ちゃんには私が必要。真美ちゃんの嫌いな人は私も嫌い。全部消してしまいたいくらい。私たちは心の感じ方が一緒なの。会った瞬間からわかったわ。だから心に蓋をしている何かをふたりで一緒に見つけていこうって思ったの。」

真美は瑤子さんの顔を見た。瑤子さんが頷いた。

「箱根に行ったらお母さんと新鮮な空気を思い切り吸って、美味しいものと温泉でリラックスして過ごすの。そしてお父さんと同じくらいお母さんも真美ちゃんのことを愛しているということを忘れないで。そしてお母さんが毎朝ご仏壇にお参りするのは、お母さんも心の中に別の魂を持っているということ。多分、お母さんの心の中に住んでいるのはご先祖様だけではなく、真美ちゃんと同じでお父様なんじゃないかな。そう思わない。お母さんが一番大切なのは真美ちゃんと真美ちゃんのお父さんなのよ。お母様も同じ。お父様を真美ちゃんと同じくらい愛して、お父様もお母様をとても愛しているから。私はそう思う。だから真美ちゃんは何も心配しなくていいの。自分の心を信じて。お父さんを信じて。お母さんを信じて。そして私のことも信じて。」

お母さんを泣かしちゃいけない。真美はふと、あの言葉を思い出した。真美の心の中でわだかまっていた何か。もつれた糸の塊の端の部分がみつかりかけている。それが何かはまだわからないけれど、消えたアルバムの写真の切れ端をページの隅にみつけたように、そこにあった確実な何かが見えかけている。



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