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Part Ⅰ

人間の心は耐えきれない悲しみや罪悪感に潰されそうになると、別の人格を作り上げたり、人格が入れ替わることで、自分自身の心を守とうとする。でも、幻覚だと思える物事が事実では無いとは誰も証明できない。心はブラックホールと同じで、本当の思いは吸い込まれて、外側しか見ることができないのだから。




朝食の時の牛乳に沁みた虫歯が今になってじくじく痛み出した。ついてないな、頬を押さえながら真美はそっと呟いた。今日は課外学習の日で、真美の通う練馬区石神井の区立小学校からみんなでバスに乗って小石川植物園までやってきた。

 どうしてこんな日に限って虫歯が疼いたりするのだろう。夏の水泳教室の時にお腹が痛くなって、丸山先生に「泳げないから仮病だろう」と言われたことがとても悔しかった。悔しいから意地になって参加したら高熱が出て、お父さんが学校にやってきて丸山先生に抗議したのだから。

 朝、家を出るときにすでに雲行きが怪しかった空は雨に変わり、午前中だというのに夕方みたいに暗い。植物園は区画整理されていたり花壇があったりするのではなく、植物が好き勝手に育っている。所々、木々や花たちに思い出したように名札がついていなければ、どこかに遠足に来ている気分になりそうだ。でも遠足と違って、外を歩くけれど雨天延期ということにはならなかった。案内係りの男の人が先頭になって、次に丸山先生、そして生徒が一列に並んで植物園を回り、ここの歴史や植物の由来なんかの説明を聞く。

 案内の人がここは日本最古の植物園だと説明している。その歴史を感じさせる大木の向こうにクチナシやハナキササゲ(係りの人がそう言った)が木の枝にびっしりと花を咲かせている。雨を通してもクチナシの甘い香りが辺りに濃厚に漂い、皆でいっせいに鼻を上に向けて香りを確かめあった。良い香りに小さな歓声が広がる。本物を接木したという、ニュートンの林檎の木とかメンデルの葡萄の木なんていうのもあって、丸山先生がそれぞれ万有引力とか遺伝子の法則だとかを得意気に大きな声で話している。大声は虫歯に響くのにな、と真美は顔をしかめた。

 敷地内には日本庭園があって重そうな花をつけたアジサイが池のほとりに並び、すっと背筋の伸びた黄色や紫色のハナショウブが雨を受けて気持ち良さそうに揺れている。池のすぐ近くに赤と白のクラシックな感じの建物が見えた。昔は医学学校だったと言う洋風の建物に、ふと歴史の教科書に載っていた鹿鳴館というフレーズが頭に浮かんだ。

 真美はアジサイの葉の上にかたつむりを見つけた。かたつむりはじっとしてそこに留まっていたけれど、よく見ると触角だけをせわしなく動かしている。かたつむりは何処で殻をみつけるのだろう。ヤドカリだったらそこら辺に落ちているのをちゃっかりもらっちゃえばいいのだ。でも土の上にそう都合良く貝殻は落ちていない。家に帰ったらお父さんに聞いてみよう。

「何ぼーっとしているんだ。」

 丸山先生が真美の頭を軽く叩いた。真美は頬を押さえたまま、

「虫歯が痛いんです。」

と言った。丸山先生は真美の顔を見て、

「そうか、雨降ってるしな。」

と、あからさまの疑いの目を向けてにやにやと笑った。真美は丸山先生が好きではなかった。三年生になって丸山先生が担任の先生になってすぐに、左利きの真美を「ぎっちょ、ぎっちょ」とからかった同級生がいて、丸山先生は嗜めるかわりに、言われるのが嫌なら直せばいいんだと言った。そんなに簡単に直せるならとっくに直している、と思った。でも直そうとするとご飯はぼろぼろこぼれるし、文字はミミズみたいに震えて、漢字なんて倍の大きさになってしまう。三年生にもなってもう一度一年生のひらがなから書き取り練習するなんて真っ平だと思った。それにお父さんが、左利きは単に左手を使うということではなくて、脳がそういう風に作られているのだから変えるべきではないんだと言っていた。真美はそんなお父さんを尊敬している。丸山先生なんかよりずっといろいろなことを知っていて、優しくて、どんな質問にもきちんと答えてくれる。

 虫歯の痛みはひとつの歯に留まらず頬全体に広がって耳まで痛くなってきた。真美は列を抜け出して、丸山先生のところに走っていった。

「もう我慢できないのでどこかで座って待っててもいいですか?」

 丸山先生は大きくため息をついた。それから植物園の人に何か耳打ちして、一緒に赤と白の建物の中に私を連れていった。

建物の内部は、ダークブラウンのフローリングの床も、木の枠の薄いガラス窓も古めかしいけれど、とても綺麗に磨き上げられていて一点の曇りもない。手入れが行き届いた古い建物というのは、何回も袖を通したお母さんのお気に入りのセーターみたいになつかしい匂いがする。植物園の人は真美を小さな応接室に招きいれた。ジャガード織りの花柄のソファーと上の部分がガラスで出来た小ぶりのコーヒー・テーブル。片方の壁の上の部分がハメ殺しのガラス窓になっていてキョウチクトウの小さなピンクの花が雨に濡れて咲いているのが見える。

 ひとりぼっちでちょっと黴臭いソファーに座っていて、真美は二年生の時に行った課外授業の時のことを思い出した。

チョコレート工場の見学。ベルト・コンべアで次々チョコレートのパッケージが作られていく。植物園と同じように工場の人と先生が先頭になって製造過程を説明していく中、どろどろのチョコレートがあっというまに板チョコに変わってアルミホイルに包まれていく過程に魅せられてしまった真美は、次のベルトに移動していく列からそっと離れて、板チョコのベルトに戻った。液体のチョコレートが冷却されて平たい板になり、きらきら光るアルミの薄い紙に次々と包まれていく。どうして機械であんな風にきれいに包むことができるのか、不思議で不思議でたまらなくて、しばらくじっくり見ていた。

 どのくらい見ていたのだろう。気がついたら陽が翳り、薄暗い広い工場の無人のクリーンルームで、真美はひとりきりで立っていた。機械の無機質な音が不安で大きくなった心臓の鼓動に共鳴する。景色が一瞬にして白黒になってしまったような恐怖。機械から伸びた腕が一定のリズムで同じパッケージを繰り返し繰り返し生産する。冷たく光るステンレスの機械、白い壁、リノリウムの床、アルミホイル、茶色いチョコレート。早まっていく自分自身の呼吸だけが規則を乱す空間で、真美は慌てて駆け出していた。

 あの時は担任の野田先生がとてもいい先生だったから、はぐれた理由を正直に話したら真美を叱るどころか、何かに夢中になるのはとても大切なことなんだと言ってくれた。真美は野田先生が大好きだった。野田先生はお父さんと同じように真美の左ききを治す必要は無いと言っていた。野田先生が今でも真美の担任の先生だったら良かったのにと思う。でも野田先生はどこかの有名私立の小学校の先生に「ばってき」されて真美の区立の学校からいなくなってしまった。三年生になって新しい教室に入って丸山先生の挨拶を聞いて、始めからなんか嫌な感じがした。なぜかと聞かれて答えられるような理由があったわけじゃない。なんとなく「感じた」のだ。その後に続くぎっちょの件や水泳教室のことで、「感じた」ことは「確信」に変わった。だから四年生になっても引き続き丸山先生が担任だとわかると、真美はひどくがっかりした。

 ひとりで少し肌寒い部屋でキョウチクトウを眺めていると、とても綺麗な女の人が入って来た。

「虫歯が痛いんですって?」

女の人は真美を見てにっこり笑った。笑うと鼻のところにちょっとだけ皺が寄ってきれいに揃った小粒の白い歯が見えた。艶のあるまっすぐな黒髪をポニーテールにして、つるんとしたおでこが蛍光灯に照らされて少し光っている。黒い丸首の薄い生地のセーターにベージュのタイトスカート、セーターとお揃いのカーディガンには真珠みたいなボタンが並んでいる。女の人が真美の顔を覗き込んで、

「お茶、飲む?」と聞いた。真美が、虫歯が痛いから何も飲めないと言うと、

「緑茶にはカテキンと言う成分が含まれていてね、あまり強そうな名前ではないけれど実は虫歯の宿敵なのよ。」

そう言ってもう一度鼻に皺を寄せた。

真美が本当ですか?と聞くと、

「本当の本当。だけどここのお茶はあまり美味しくないのよ。ここだけの話だけどね、だから私専用の美味しいのを特別入れてあげるわ。」

  そう言って立ち上がって、扉を開けて出て行った。後ろ姿の細い腰と丸いお尻から形の良い足がすらっと伸びて、真美は将来あんなお姉さんになれたらいいなと思った。きゅっと引き締まったカッコイイお尻で素敵にタイトスカートをはきこなしてさっそうと歩く大人の真美。

 お姉さんはお盆を抱えてすぐに戻ってきた。器用に片手でお盆を支えて片手でドアを開け背中でドアを閉めて、ガラスのテーブルに朱色の茶たくに乗った、黄色にブルーの花があしらわれた湯飲みをふたつ置いた。綺麗なお茶碗ですねと真美が言うと、九谷焼っていうの、これも私と私のゲスト専用、と言ってまた笑った。真美は大人に言うようにゲストと言ってもらえたことがとても嬉しくて一緒に笑った。

 お姉さんの入れてくれたお茶は緑色をしていて甘みがあってとても美味しかった。

「本当に虫歯が楽になった感じ。」と真美が言うと、

「言ったとおりでしょ。」と言って自分も一口飲んで、ああ美味しい、と言った。

「美味しいでしょ。八女茶よ。八つの女って書くの。福岡県八女郡のお茶。私は福岡の出身だからこれしか飲まないの。」

「ここの植物園で働いているんですか?」

真美は言ってしまってからまぬけな質問だな、と照れ笑いをして、それを告げると、

「本当ね。賢そうな顔をしているのに。」そう言ってまた笑った。

「でも確かに私ってあんまり植物園風のカッコしてないものね。」

「植物園風ってどんな感じですか?」

「うーん、花屋さんみたいな感じ?ジーパンにぺったんこのスニーカーっていうのが定番でしょう、多分。」

「じゃあ、どうしてテイバンの格好をしないんですか?」

「定番のかっこうが嫌いだから。定番が嫌いなんじゃなくてそういうファッションが嫌いなの。」

「そういうファッション?」

「うん、肌触りの悪いごわごわしたジーパンや紐をいちいち結ばなくちゃいけないスニーカーって私の趣味じゃないの。スニーカーを結ぶ姿って本来、男のものだと思う。」

「じゃあ、今日みたいなタイトスカートがお姉さん的な定番。」

「お姉さん的定番。そうね、ポニーテールとタイトスカートと細いヒールのパンプスは私的定番だわね。」

「そういうファッションが好きだから?」

「自分らしいと思うから。」

「植物園の定番が嫌いでどうして植物園で働いているんですか?」

真美が聞くと、お姉さんは片方の肘を手で押さえて指を口元に持っていって、

「いい質問ね。」

そう言ってから真顔になった。そして

「どうしてだと思う?」と真美に問いかけた。

真美はお姉さんを見て少し考えて

「花が好きだから、文化的だから、静かだから。」と言った。するとお姉さんは真顔のまま、

 「植物は言っちゃいけないことを言ったり聞いたりしないから。」

そう言って私を見た。それから窓の所まで歩いていった。フローリングの床に細いハイヒールの音がこつこつと響いた。

「キョウチクトウって毒があるって知ってた?」

「え?」

真美はつられて窓の外を見た。

「オレアンドリンと言ってね、子犬や子供くらいなら簡単に殺せるくらいの毒。」

真美はぎょっとしてお姉さんを見た。お姉さんは笑って、

「大丈夫よ。あなたはお菓子の家に迷い込んだグレーテルじゃないわ。取って食ったりしないし、そのお茶にも毒は入っていないから安心していいのよ。」

真美はちょっとぎこちなく笑った。

「私はね、ここで植物生理学、簡単に言うと植物の持つパワーを研究をしているの。」

「へえ、なんかむずかしそうですね。」

「むずかしいことではないわ。植物はね、例えばアスファルトの隙間、サバンナのサボテン、どんな場所でも僅かな水で生き延びる。地球上で最も強い生物なのよ。焼け野原に最初に育つのが植物、その植物によって小さな虫が育って、鳥や小動物が虫を食て、そうやって順番に地球の環境が整っていく。チェーン・リアクション。死んだ動物は土に帰り、それを養分に新たな植物が育っていく。」

真美が頷いた。

「そしてね、植物の強さは生命力だけでなく、

様々な毒を生み出す。そしてなぜか美しい花に毒が多いのよね。」

真美は驚いて顔を上げた。

「そんな怖い顔をされるとまいっちゃうなあ。」

すみません。真美は言って頭を下げた。お姉さんがいたずらっぽく真美の顔を覗き込んだ。

「美しい花に毒があったり棘があったりするのって不思議だと思わない?」

「それと花が口を利かないことと関係あるんですか?」

「それが大有りなのよ。」

お姉さんが真美の顔をまっすぐ見つめた。

「あなた名前はなんていうの?」

「下川辺真美です。」

「そう、真美ちゃんか。私は道家瑤子っていうの。」

「改めてはじめまして。」

真美が言うと、

「はじめまして真美ちゃん。」

鼻に皺を寄せて瑤子さんも言った。

「池の淵に咲いてるアジサイ、見た?」

「はい、重そうに咲いてました。」

「アジサイはシアン化水素、つまり青酸を持っているから猛毒なのよ。」

真美は目を丸くした。瑤子さんが続ける。

「アヤメ、ヒヤシンス、シクラメン、カーネーション、スズラン、ツツジ、チューリップ、スミレ、朝顔。数えだしたらキリがないけど、みんな毒を持っている花だわ。インテリアに好まれるポトスなんかもそうだわ。」

うそー。真美は瑤子さんを見た。


「ヒヤシンスはクラスで育てているけれど、先生はそんなことひとことも言ってくれなかった。」

「無知な教師はたくさんいるわ。」

真美は丸山先生はやっぱり無知だったとちょっと嬉しくなった。このこともお父さんに報告しようと思った。

「でもね、そういう毒性の強い植物は薬草でもあるの。植物って食べ物にもなるし薬にもなるし、例えばキョウチクトウの毒は強心剤や利尿剤としても使用されるの。」

「キョウシンザイやリニョウザイ?」

「心臓を強くしたり、おしっこを出す薬。心臓や腎臓の病気を持った人をたくさん助けられるのよ。でも間違った使い方をすれば、ほらあの有名な事件のトリカブトみたいに人殺しの凶器にもなるってことなの。」

「花ってすごい力を持っているんですね。」

瑤子さんは頷いて、キョウチクトウの花を静かに眺めた。

「自然にあるものはみんな限りない力を持っているのよ。」

「みんな、とても綺麗で可愛い花ばかりなのに。」

真美も立って瑤子さんの隣に立って花を眺めた。瑤子さんは真美を見て、虫歯は大丈夫?と聞いた。真美はもちろん痛いですと言い、瑤子さんは可哀想に、と真美の頭を撫でた。

「花たちにしてみれば毒だとか言われるのは名誉棄損だって憮然とするかもしれない。花は人間や他の動物の都合で生きているわけじゃないから。人間の方が地球上の人間以外のすべての動物よりずっと毒性があるかもしれない。人間はどんな毒だって調合して作ってしまう知能を持っているから。そして人間が最悪なのは、言葉だけで別の人間を壊してしまう。」

「壊す?」

「そう、人間を壊すことはね、単純に殺す以上に残酷なことなの。殺すということは身体から命を奪うこと、でも壊すというのは魂を身体から抜き取ってしまうこと。」

瑤子さんはそう言ってポケットから色の褪せた小さなプラスティックの人形を出した。二センチくらいのピンクの服を着た女の子の人形で、黒い髪に同じピンクのリボンがついている。

「これは私の大切な友達の形見。」

瑤子さんが私を見て言った。


「私はね、子供の頃人をひとり壊して、あげくに殺してしまったの。」

真美は驚いて瑤子さんの顔を見た。

「取り合えずお茶のお代わりを持ってくるわ。」

そう言うと、瑤子さんは空になった湯飲みをお盆に入れて出て行った。

 真美は少し不安になった。時計が無いからどのくらい経ったかわからないけれど、みんなはどうしているのだろう。瑤子さんがいない隙に逃げてしまいたい衝動にかられる。それと瑤子さんの話を聞きたいという衝動が真美の小さな胸の中で渦を巻いて綱引きみたいに引っ張り合っている。

 けれど瑤子さんはすぐに戻ってきた。

「本当は美味しい和菓子もあるんだけど、虫歯の真美ちゃんのために今日はお預けにしておくわ。」

瑤子さんはお茶をひとくち、静かに啜ると、遠くをみつめるようにして、静かに話を始めた。


 私はね、自分で言うのも変だけどお人形さんみたいに可愛かった。成績も良くて、バレエを習ってたから運動も出来た。父は開業医だったから経済的にも恵まれていたし、優秀でスポーツ万能で背の高い兄がいて、私は兄が自慢で兄は妹が自慢だった。先生にも生徒にも好かれて、いつも何をしても中心にいる子。

 私のクラスに目立たない女の子がいたの。いつも同じ服を着ていつも髪を三つ編みにしているんだけど、勉強も運動もぱっとしない。三つ編みを縛るゴムだって黒い髪の毛用のじゃなくて黄色い輪ゴムでね。彼女は虐められているわけじゃない。誰も彼女に話しかけたりしないけど、彼女が輪の中に入ってきても席を立ったりという露骨なことはなかった。不器用でシャイで怖くて自分から声をかけられない、わからなくても先生に質問できない、そんな感じ。でも私は表面では優しくしながら心の中で彼女を嫌っていた。彼女は三村、私は道家だったから席が隣どうしで、彼女の机と私の机はくっついて並んでいた。それがだんだん苦痛になってきたのよ。肩にフケが落ちていたりして、ちょっと不潔だったから。私は椅子をなるべく離してすわったり、誰にも気づかれない範囲で彼女と皮膚が触れ合わないようにした。でも彼女は本当はそういうことに気づいていたのよ。そのうちに私にもあんまり話をしなくなって、給食もひとりでもくもくと食べるようになって。

 ある日、彼女が風邪で三日間学校を休んだ。彼女には親しい友達もいないから宿題やノートを届けることにしたの。学級委員だったし、席が隣りだったから、先生に自分から言い出してね。私は家に帰ってお母さんが作ったマドレーヌを持って彼女の家に行った。

 彼女の家には白地に赤で「カバン靴修理、ていねい、格安、早い」っていう看板がかかっていてね、ガラス扉を開けるとものすごく小さいカウンターがあって、小柄で小太りなお母さんが店番をしていて、その後ろでお父さんがカバンを修理していてた。私を見ると眼鏡を下にずらしてぎょろっとした目で私を睨んだ。ノートとマドレーヌを渡したら、お母さんが「大したことないから、今たたき起こしてくる」って立ち上がったの。私は慌てて帰ろうとして、ふと見たら正恵が立っていた。お母さんが、こんなところだけどせっかくだから上がっていってくださいな。友だちなんか一度も連れてきたことがないんだから、と私の手を引いた。

 正恵の家は本当に狭くて、一階はお勝手とお茶の間だけ、木の小さくて急な階段が二階に続いていた。お茶の間には新聞やら座布団やら誰かの靴下やらお煎餅の袋やらがそこら辺に散らばっていて、卓袱台の上も同様に飲みかけの湯飲みや汁の残ったカップヌードル、耳掻きまで置きっぱなし。正恵のお母さんが今片付けるからと言ってそこらのものをかき集めて隅に追いやり、卓袱台のものをお台所に下げて、耳掻きをたんすの上にぽいっと放り投げて、それからお茶を入れにいった。正恵がマドレーヌの包みを開けた・何これ。マドレーヌ。母が作ったの。正恵はひとくち食べて、わあ美味しいって、ようやく笑った。お見舞いの定番はメロンなんだけど、喜んでくれてよかった。メロン、食べたことない。メロンって美味しいの?道家さんはいつもこういうものを食べているの?まあね。ちょうどそのときお母さんがお茶を持ってきて一緒に食べましょうって言った。私が手を洗いたいと言うと、ああ台所で洗ってと言われた。お勝手はとても暗くてね。電気をつけたら流しで大きなゴキブリが何匹か慌てて走っていくのが見えて、私は小さな声をあげた。お母さんがやってきた。どうしたの?ゴキブリ。ああ、また出た?電気をつけたら出てこないから大丈夫だよ。流しのところには布巾が掛かっていたれど、どれも汚れて灰色をしていて、石鹸には黒いひびがいくつも入ってて、その脇に家族の歯磨き粉と歯ブラシが置いてあった。ここのひとたちはお台所で歯を磨いたり顔を洗ったりするんだって驚いたわ。

 正恵のお母さんが一緒に座った。道家さんの家はお医者さんだって?お金持ちなんだね。本当にお姫様みたいな顔して、綺麗だねえ。正恵が言った。お母さん、今度メロン買ってって。無理無理、世界が違うんだよ、あんたは道家さんみたいなお嬢さんじゃないんだから。文句言うならお父さんに言って。頑固でバカがつくくらいお人良し、金儲けの才能ゼロ。そう言って大声で笑いながら、店番があるから、と表に出ていった。それが正恵の日常だったのよ。

 次の日、正恵が学校に出てきてね。普通に授業をして、帰り道他の子と歩いていたら、正恵がやってきて、ねえちょっと話していい?って聞くの。他の子たちは顔を見合わせて申し合わせたみたいにすーっといなくなって、私は正恵と肩を並べて歩いた。昨日は有難う。マドリーナ美味しかった。私はマドレーヌっていうのよ、って訂正した。そうしたら正恵が、道家さん、本当は私が嫌いでしょって言ったのね。私はえ?って言って正恵の顔を見たの。正恵がもう一度はっきり言ったの。本当は嫌いなんでしょって。私は驚いて立ち止まった。嫌いなくせにどうして私の家に来たの?学級委員だから?貧乏な家が珍しいから?でも行ってみたら汚くて気持ち悪くて、お茶にも手をつけなかった。正恵は怒っていた。何かが弾けたみたいに今まで言えなかったことをすべて吐き出すみたいに。道家さんは綺麗で優しくて頭もいい。だけど心は嘘っぱち。本当は意地悪なくせにいいこぶって、お姫様で、でもそういうのが一番悪い人なんだよね。嫌いなら家に来なければいい。他の子の方がずっと正直だよ。道家さんがどうしてうちに来たか教えてあげようか。私が心配なんじゃなくて優等生でいるためにうちに来たんだよね。道家は天使の顔してて悪魔の心を持っている。それを隠しているけれど本当は他のみんなよりずっと自分勝手でずる賢いんだよね。

 正恵はそう言ってすたすた歩いていった。私はその場で泣き出してしまった。ものすごくショックだったの。あんな風に言われたことなんて一度もなかったから。遠巻きにしてたみんなが寄ってきてどうしたのって聞いても、私は答えられずにただ泣いていた。

 正恵は次の日はべつに何もなかったみたいにお早うと言って席についた。給食が終わって昼休みになると他の子たちが私を呼んで、昨日の正恵の話ってなんだったの?って聞いてきた。私は正恵をちらっと見たの、そしたら彼女、無言でピースサインを送ってきた。そのとき、正恵は最初から私を妬んでいて、私を傷つける機会を狙っていたんだって思った。そのとき私の中に残酷な思いが芽生えた。ねえ、聞いて。テーブルに耳掻きが置きっぱなしで、お野菜も顔も同じ布巾で拭くのよ。ゴキブリだらけのお台所は汚れた歯ブラシが流しの横に置いてあって、そこで料理するの、気持ち悪~い。やだ汚~い。それで正恵ったらマドレーヌをマドリーナなんて言ってね。それでみんな大爆笑。

 それからなの。正恵に対する本格的な虐めが始まったのは。正恵をマドリーナって呼ぶ。彼女の机の引き出しにゴキブリの玩具を入れてペットって書いた紙を添えたり。私はみんなと一緒にそういうことをしたりはしなかった。でも内心、生意気な娘が私を傷つけようとしたからこういうことになるのよって心で笑っていた。そういう一連の虐めに対して正恵は無抵抗だった。

 無抵抗だからこそ、虐めはエスカレートしていく。そういうものなのよね。彼女が給食当番の時に彼女が触ったものは誰も食べようとしない。彼女の机に他の子の教科書とかを置くと、教科書にばい菌がついたと大騒ぎする。間違って正恵の机に触った子はエンガチョの対象になる。休み時間に正恵がくしゃみをするとゴキブリの子供がたくさん見えたとか言って逃げ回ったりする。でもみな巧みで、先生がいるときには絶対そういうことはしなかった。

 そんなことが続いても正恵は普通に学校に来て普通に授業を受けて普通に給食を食べていた。それどころか、先生の質問に手を上げて答えるようにまでなった。そういう正恵をみんなが気持ち悪がって、虐めは徹底的な無視に変わった。でも先生は全く気づかなかった。私だけが正恵が何を考えているか、さっぱりわからなくて不気味に思っていた。

 秋の修学旅行のシーズンになって、私たちは新幹線で京都奈良に行くことになったの。それで学級会で修学旅行の研究テーマとかグループ分けとか初めての遠出の注意事項とかを話し合ったの。みんなで新幹線に乗るんだ。車内で気をつけることはなんだ?誰かが手をあげて「車内を走り回ったり騒いだりすると他の人の迷惑になります。」と言った。別の子が手をあげて「停車駅で外に出ない。」「勝手にアイスクリームやお菓子を買ってはいけない。」突然正恵が手を上げた。正恵は「窓から手を出したりしたら危険だと思います。」みんなが一瞬沈黙した。多分数秒。それからみんな大爆笑ね。先生も「残念だな、三村、新幹線の車両の窓は開かないようになっているんだ。」と言って一緒に笑った。正恵は小さな声で新幹線なんて乗ったことないから、と言い訳した。私は隣の正恵の顔をそっと覗いた。顔がほてって赤くなっている。そしたら突然、私の耳元で、いい気味って思っているんでしょって言った。私は、誰にも聞かれないように、ノートの端にそっと、あなたの家の子に生まれなくて良かったって書いた。正恵はそのとき、ふと空中を見るようなうつろな眼をして、それから私を見て、あなたの家の子に生まれたかった、私の文字の隣りにそう書いて、目に涙を溜めたの。そのとき、多分彼女の中で何かが崩れてしまったんだと思う。それから正恵は学校に出てこなくなった。

 結局正恵は修学旅行にも来なかったの。そして私たちが修学旅行から帰った次の日、先生から彼女が死んだことを知らされた。自分の部屋で首を吊って。遺書も何もなかったって。

家族の人は突然でどうしてこんなことになったかわからない、ただ死ぬ前の日に、メロンを買ってほしいって、かなりしつこく言ったと話していた。最後に買ってあげれば良かったって正恵のお母さん、泣いてた。お通夜と告別式に出席したけれどみな、とても嫌な気持ちだったと思うわ。みんなが犯罪者みたいな気分だった。私はショックで涙も出なかった。私が正恵の何かを壊してしまったことだけは確信していたから。

 小学生の自殺だからマスコミもいっぱい来た。でも遺書らしいものは何も無かったし、

私たち小学生とは思えないくらい巧みに虐めたから先生たちは気づいてすらいなかったと思う。第一、学校側は虐めがあったなんて公にしたくないから調査なんて何もしない。お決まりの校長先生の緊急朝礼があって、みんなで黙祷して、お葬式のお手伝いとか割り当てて、それでお終い。マスコミは執拗だったけれど、正恵のご両親がそっとして置いて下さいっていうから何も出来なかったと思う。私は内心ほっとしてた。自分が加害者になってマスコミに少女Aなんて書かれるんじゃないかって本当はびくびくしてたのよね。


 話し終わると、瑤子さんは真美の顔を見て

淋しそうに微笑んだ。

 「遠い昔のことなんだけど、絶対に忘れられない。その後の私の人生にどんなことが起きても、誰と友だちになっても誰を好きになっても、私の頭の中でその事実を奥から掴んで引っ張り出して一番前に持ってきてしまう。だからそのことはいつになっても昨日あった出来事みたいに思い出してしまう。きっと死ぬ瞬間までそうやって頭の中で順番が入れ替わり続けるんだと思うわ。」

 「でも、道家さんが一方的に悪いわけじゃない。正恵さんが瑤子さんを攻撃しなかったら瑤子さんだって意地悪しなかった。」

瑤子さんがプラスティックのお人形を手のひらでそっと包んで、真美を見て言った。

「違うのよ。本当に彼女の言うとおりなの。私はいつも他人に好かれるように、目立つように、そんなことばかり気にするような子だった。彼女の家に行ったのも、先生やみんなに対するパフォーマンス。それでうちの母なんかは、彼女の家は、なんていうか普通の血じゃないから親しくしないでね、なんて言ってた。そしてね、今だって私はちっとも変わらない。みんなと同じジーンズやスニーカーを履いたりしない。みんなと同じお茶を飲まない。自分だけは特別。」

「瑤子さんは、もし正恵さんがあんな風に瑤子さんを傷つけなかったら、正恵さんの家のこと誰にも言わなかった?」

瑤子さんはちょっと苦笑いを浮かべて言った。

「それはわからない。親には言ったかもしれないし、親から誰かに広がることもある。少しずつ噂が広まったりしてゆっくり傷つけられるより、自分から自分を傷つけるほうを選んだんだと思う。」

「どうして?」

「正恵にしてみれば私が知ってしまったことだけで充分だった。それが正恵の持っているプライドだったのよ。傷つけれらる前に傷ついてしまう。子供って残酷だから、太ってたり、貧乏だったり、走るのが遅かったり、日本人じゃなかったり、たまたまお父さんの仕事の都合で学校を変わらなくちゃいけなかったり、そういう些細なことが差別や攻撃の材料になっちゃうのよ。わかるかな。」

「わかります。私、ぎっちょだから。」

「左利き?」

「はい。みんなによくぎっちょってからかわれる。」

「あら、左利きは逆にかっこいいと思うけど。」

「でも、丸山先生、あの担任の先生なんですけど、先生もぎっちょは直せって言うんです。」

「先生も?」

「はい。先生、私のことあまり好きじゃないのだと思います。」

「どうしてそう思うの?」

「私もそう思うから。嫌いな気持ちってなんとなく伝わるものじゃないですか。」

瑤子さんは真美を見て微笑んだ。

「そうかもしれないわね。」

そして瑤子さんが頷いて、話を続けた。

「お葬式の後、私ショックで3日くらい学校を休んで、それから母に連れられて学校に行ったの。でも私は正恵の虐めのきっかけを作ったのが私だったことは決して誰にも言わなかった。」

瑤子さんが掌の人形を見下ろした。

「お葬式が終わってしばらくして、家族にもみんなにも内緒で正恵の家に行ったの。どうしていいかわからなかったから。正恵のお母さん、とても喜んでくれた。そしてこのお人形を見せてくれた。そのとき流行のお菓子のおまけで、お菓子の箱の中からこれをみつけてとても嬉しそうだったって。私も覚えているけれど、お人形の出る確率はそんなに大きくはなかったと思う。正恵のお母さんは、リカちゃんとかバービーは買えなくても、今回は神様が平等にチャンスをくれたからって、あのこ、なんだか訳わからないこと言ってたわね。時々そういうむずかしいこと言ったりするのよ。図書館に行ってばかりいるからね。学校の勉強はさっぱりのくせして、変なことに詳しかったりするのよ。勉強より空想が好きな子だったんだね。現実から逃げたかったのかもしれない。そう言って正恵のお母さんは私の手にお人形を両手で包むみたいに押し付けて、道家さんが持っていて下さいって泣き出してしまった。私はお人形を手にしたまま家に帰った。そして自分の部屋に行って、お人形を見て私も泣いたの。人殺し。自分のせいで正恵が死んだ。私が正恵を壊してしまったように、私も自分が壊れてしまったように感じた。彼女が学校で発言するようになったのは、きっと開き直ったからだったの。そのときに彼女はもう壊れ始めていた。わかるかな、自分を守る殻を開放して、傷つくことに無防備になってしまったから。ひどい火傷で皮膚がむき出しになるようにね。そして、何より、私と正恵は実はとても似たものどうしだったってことに気づいたの。恵まれ過ぎて人間性が欠けいる私と、恵まれていないために常に何かが欠けている正恵。私はそれから、このお人形無しには出かけることもできなくなってしまった。このお人形に監視してもらわないとまた誰かを殺してしまいそうで。私ってあんなことがあってもちっとも変わらないんだもの。小学校を卒業して地元の中高一貫教育の私立の女子校に入って、まわりは私と同じような境遇の子ばかりになったけど、相変わらず優等生で。でも心の中で正恵の言ったことはいつも一番手前にあって、不思議なことに、何かあるたびにひとりでそっと正恵に報告するようになったの。そうすると心がとても落ち着いてね。そして高校生になって初めて気づいたの。私は今まで誰にも心を許したことが無いのだということを。学校でも家でも優等生で、何だか私って心から気を休める場所がない。そして、ひとりになって自分の部屋で正恵に話しかけるときだけ、すーっと心が解放される。そうやって、私のために死んでしまった正恵だけが、私の一番の友達になっていたのよ。」

「瑤子さん。」

真美は言った。

「どうしてその私に話をしようと思ったんですか?」

瑤子さんはお人形をしまって、私の手を取った。

「あなたと友達になりたいと思ったから。」

「ともだち?」

「多分、直感。あなたには本当のことが言えると思った。秘密を共有できるって思ったの。誰にも言えない秘密を。」

「私は子供で瑤子さんは大人なのに?」

瑤子さんは私に名刺をくれて、そこにとても綺麗な文字で携帯と自宅の住所、それに電話番号も書き添えてくれた。

自宅は文京区西片となっていた。

「年齢は関係ないわ。会った途端に嫌だなって思うことがあるように、会った瞬間に好きだという気持ちになることってあるでしょう。」

真美はまだ不思議そうに瑤子さんを眺めている。

「そういう直感てね、だいたい当たるものなの。徐々に好きになったり嫌いになったりっていうのもあるけど、直感で好きになった人はずっと好きでいられる。ねえ、真美ちゃんはメールできる?」

瑤子さんが尋ねた。

「はい。出来ます。」

「じゃあ、メールで文通してもいいな。誰も知らない秘密の友達にならない?。うちに遊びに来てもいいのよ。古い家だけど庭が広いの。私、地方出身のせいか、職業柄か、なんだかマンションに住む気になれなくて。そうそう、近くにとても美味しい知る人ぞ知るっていう私好みのお洒落なフレンチ・レストランもあるのよ。今度連れていってあげるわ。」

 ドアがノックされて、丸山先生が入って来た。瑤子さんを見て、一瞬はっとしたような顔をして、それからうちの生徒がお世話かけましたか?と言った。瑤子さんは、私のほうがお世話になりました。ちょっと退屈してたし、とても素晴らしい生徒さんで、先生は幸せですね、と言い、驚いている丸山先生に背を向けて、私にウインクして見せた。

「虫歯は大丈夫か?」

丸山先生が瑤子さんの顔をちらちら見ながら恐ろしく優しい声で聞いたので、真美は、ちょっと意地悪な気持ちになって、

「瑤子さんがお茶をくれて、少し楽になりました。お茶にはカテキンっていう正義の見方がいて、虫歯をやっつけてくれるんです。丸山先生はカテキンのことはもちろん知ってますよね。」

真美が言うと、丸山先生が変な顔をした。

「せっかくの課外授業だから、ここで少しお勉強させておきました。」

瑤子さんが言った。

丸山先生は、瑤子さんの顔を振り返りながら、お世話になりました、と言って、真美の手をひっぱって連れていった。



 家に帰ると、お母さんが、

「虫歯どう?」と聞いた。学校から連絡があったのだろう。

「まだ、少し痛いけど朝ほどじゃない。」

「予約したから明日、歯医者さんに行きましょう。丸山先生にはもう話しておいたから。」

真美は歯医者は嫌だなあと思いながら、学校を休めるのはちょっと嬉しいと思った。

 母は植木に水をやってくると行って屋上に上がっていった。真美はお父さんに今日のことを報告しようと思って、父の部屋に行った。

こげ茶のドアを開けると、ドアと同じ色の本棚を背にして、お父さんがいつものように座って真美に微笑んでいる。机に大好きな谷崎潤一郎の細雪を開いて、紺色の着物を着て、白髪の多い髪は油できちんと分けてある。ポマードの香りはお父さんのにおいだ。真美はドアの横の、緑色の二人がけソファに座った。

「とても不思議なことがあったの。瑤子さんと言う、とても綺麗な人と友達になって。」

私が話し出すと、父は静かに黙って話を聞いた。一通り話し終えて書斎を出ると、ドアの向こうにお母さんが立っていた。

「やだ、お母さん、びっくりするでしょ。」

真美が言うを、お母さんはちょっと当惑した顔で、でもすぐ笑顔を作って、

「さあ、夕飯たべよう。」と真美の背中を押した。

 夕食は、海老のドリアと野菜を柔らかく煮込んだスープ、卵とピクルスが入ったポテトサラダ。噛まないでいいメニューが並ぶ。お母さん、真美のこと愛してるんだね、真美がそういうと、お母さんは、今から痛み出して歯医者に連れて行けって言われても困るから、と笑った。真美はご飯を食べながら、そうだ、かたつむりの殻の謎を聞き忘れた、と思い出していた。後で聞きに行こう。お母さんには瑤子さんの話はしないことにした。秘密の友だち。瑤子さんのいたずらっぽい声が蘇る。きれいな大人の女の人と秘密の友だちになれるなんてカッコイイな、と思った。

 ご飯を食べ終わり、また父のところへ行こうとするとお母さんが、「夜、お父さんの部屋に行ってはいけないって言ってるでしょう。」と真美を止めた。

「お父さんは具合があまり良くないことを知っているでしょ、第一もう寝ているはずだから起さないで。」

母はそう言って、とても悲しそうな顔をした。母をまた泣かしちゃいけないから、真美は言われたとおり、自分の部屋に戻った。ベッドに横になっていて、真美はもっと小さい頃、母を思いっきり泣かしたことがあったことを考えた。理由はなんだかよく覚えていない。でも母が真美の身体に抱きついて声を出して泣いたのを今でも覚えている。真美はもちろんお母さんが大好きだけど、そのことがあって、真美がお母さんを守ってあげなくちゃいけないんだと思っている。お母さんを二度と傷つけちゃいけない。


 人殺し。


いきなり、瑤子さんの言葉が蘇った。そしてその声が母の声に重なる。人殺し。どうして瑤子さんの声が母の声に変わるんだろう。真美はちょっと混乱した。ベッドの上の天井に人殺しの声が渦になってこだました。瑤子さんの声が消えてお母さんの声だけになる。



真美は夜中に目を覚まして、キッチンに行き、水を飲んだ。怖い夢を見た。真美は時々怖い夢を見る。いつも同じ夢で、真美が溺れてお父さんが助けてくれるけど、岸の上がるとお父さんがいなくなっている。そして真美は自分の泣き声で目を醒ますと、まるで本当に溺れたみたいに身体がぐっしょりと濡れている。

 毒のある花。子供の自殺。ヘンデルとグレーテル。瑤子さんとの不思議な出会い。

 真美は父の部屋にそっと向かった。

 父は昼間と同じ姿勢で真美に微笑んだ。

「お父さん、怖い夢を見たの。」

「また溺れる夢を見たのかい?」

「うん。」

お父さんは真美の頭を撫でて微笑んだ。

「大丈夫だよ。夢の中で真美が何回溺れても、お父さんが何回でも助けてあげるし、絶対真美のそばからいなくなったりしないから。お父さんはいつも真美と一緒にいたいんだから。」

真美は安心して笑った。

「お父さん、ねえ、カタツムリはどうやって殻を捜してくるの?」

お父さんも笑った。

「お父さんもそれはよくわからないなあ。今度調べておこう。そうだ、今日知り合った瑤子さんに聞いてごらん。植物の専門なんだから、虫のこともきっと詳しいと思うよ。」

そう言って、昼間と同じ微笑で真美を包んだ。

 真美はお父さんにお休みなさいと言って、ドアをそっと閉めた。


 瑤子さんへ


本当にメールを送っちゃいます。今日学校を休んで歯医者さんに行ってきました。麻すいの注射はいたかったけれど、虫歯をけずってつめものをして、いたみ止めももらってずい分楽になりました。近所の歯医者さんだからひとりで行けるって言ったのに、真美はすぐどっかにいなくなっちゃうからと言って母がついてきました。母は心配性なんです。でも私は母と取引しました。いっしょに行く代わりに帰りに本屋さんに行って真美の好きな本を一冊買ってくれること。母は、それじゃお母さんは本屋さんのカフェであんみつを食べる、虫歯の真美にはかわいそうだけど、って私の顔をのぞきこみました。母ってちょっと子供っぽいところがあるんです。昔は日曜日に父が必ず私を本屋さんに連れていってくれて、長靴下のピッピとかナルニア国物語とかたくさん買ってくれたんですけど、最近父はあまり具合が良くなくて書さいにこもってばかりいて心配です。私は学校から帰るとまず父の部屋に行って一日のことを報告します。瑤子さんのことも父にだけは打ち明けました。秘密の友だち。父は楽しそうだなあ、そんなにきれいな人ならお父さんもお母さんにないしょで秘密の友だちになりたいなあ、なんてジョウダン言ってました。父はきれいな人が大好きなんです。昔のハリウッドの女優さん、グレース・ケリーとかイングリット・バークマンとか大好きです。真美はオードリーヘップバーンにあこがれています。

ところで質問なんですけど、植物園でカタツムリをみつけました。カタツムリってどこでカラをみつけるんですか?土の地面には浜辺みたいにカラは落ちてないし、不思議です。もし知ってたら教えてください。


真美



 真美ちゃんへ

 お父様もお母様も素敵な方ね。私も昔のハリウッド映画は大好きだわ。真美ちゃんと同じでオードリー・へプバーンは大好き。彼女の、「ティファニーで朝食を」と言う映画で彼女が歌う「ムーン・リバー」は私の一番のお気に入りなの。そして私も小さいとき、ナルニア国物語を読んで、クローゼットの中に入って真剣に別の国を探したりしたわ。そういうことを想像するのって本当に楽しい。

 さて、かたつむりの殻はヤドカリと違って、身体の一部です。ヤドカリは「宿借り」が由来であるように、死んでしまった貝のお家の中にすんでいるの。成長に合わせてサイズにあったお家を捜してお引越しをするのよ。でもかたつむりはちゃんと殻がついて生まれてくるの。赤ちゃんかたつむりの殻は透き通っててとても可愛い殻なのよ。だから、かたつむりの殻はカニの甲羅と一緒で柔らかい身体を外敵から守る堅い皮膚のようなもの。犬や猫には毛皮があって、鳥には羽毛がある。私たち人間は洋服を着て陽射しや寒さから身を守る。人間だけは裸では生活できない。人間は自分たちでなんでも作れる知恵を持っているものね。人間は悪いことばかりするわけではないわ。見た目の綺麗なドレスや美味しいお料理は私たちを幸せにしてくれるから。今度うちの近くのフレンチに行きましょう。本当にうっとりするくらい美しくて美味しいものを出してくれるの。虫歯が良くなったら知らせてね。


それじゃ、学校がんばってね。丸山先生って言ったっけ。私はちょっと苦手だけど、私の嫌いな人は違う人がちゃんと引き取って好きになってくれる。そうやって社会がバランスを保っているわけ。みんながみんないい人だったら戦争は起こらないし、人口が増え過ぎれば生きるためにいい人が悪い人にならなくちゃならないときもあるの。ライオンがシマウマを襲ったり、猫がネズミを食べるみたいにね。


瑤子


 真美はくすっと笑った。瑤子さんらしいメールだな、と思った。カタツムリの殻の謎がわかったのも嬉しいけれど、瑤子さんもオードリー・へプバーンやナルニア国物語が好きなのはヒットだと思った。しかも丸山先生が苦手だと聞いて、真美はますます瑤子さんが好きになっていた。

 


 瑤子は庭のツツジの枝を整えて、縁側でお茶を飲んでいた。ツツジの花はすっかり散っていたけれど、緑が濃くなって小さな葉が肉厚を増して夏の太陽をいっせいに吸い込んでいる。

 お茶を飲んで真美のことを少し考えた。あの日、植物園の研究室から出て、小雨の園内を少し散歩していて足を止めた。瑤子は霧雨が好きだった。本格的な雨は苦手だったけれど、霧雨は植物を元気にしてくれる。そして瑤子自身の肌や髪を美しくしてくれる。瑤子は霧雨に肌をさらした後鏡を見るのが好きだった。水分を含んだ肌は内側から輝いて、

幸せな気持ちになる。だから霧雨の日の夜は必ず恋人の琢磨を家に呼びたくなる。フランス料理を一緒に食べて、ワインも少し飲んで

そして肌を合わせる。燃えるように愛しているわけではないけれど、ハンサムで頭が良く、話題が豊富で、瑤子に美しい時間を与えてくれる。でも琢磨には瑤子の秘密は話していない。本当のことは誰にも言えないと思っている。

 植物園を散歩していたら、背の高い若い男が黄色い帽子を被った女の子の前を歩いていた。その隣りに、工藤君がいて、女の子は頬を押さえてつらそうな顔をしていた。虫歯かな、と瑤子は察した。せっかくの課外事業で可哀想に、そう思いながら研究室に戻ろうと歩いた。建物に入ると、業者や大学関係の人々を通す、小さな応接室の廊下の奥で良く通る男性の声が聞こえてきた。すみませんねえ、宜しくお願いします。誰かアテンドさせたほうがいいですか?工藤君の声だ。いや、小学生と言ってももう四年生ですから大丈夫ですよ。お話したようにちょっと問題があるけど、頭はいいこですから。

 背の高い男性は多分担任教師だ。工藤君が廊下を歩いてきた。虫歯?瑤子が聞くと、工藤は笑って、そうみたいですね、もっともあの先生はハナッから信じちゃいないけれど。仮病?なんだか嫌な授業とかで急にお腹が痛くなったりよくあるらしいんですよ。それにね。工藤が瑤子に小さな声で耳打ちした。あのこ一昨年父親を事故で亡くしたそうなんですけど、それでその父親の事故の現場にあのこもいたらしくて、ショックで二週間ほど意識が戻らなかったんだそうです。それからちょっと、なんていうか、父親の死を受け入れられずに、いまだに父親が生きているって信じていて、なんでも姿の無い父親に話しかけたりしているらしいですよ、マジで。

 瑤子は足を止めた。あのこにもう一度会いたいと思った。雛人形を思わせる真美は話してみると利発だし、一見どこにも問題があるようには思えない。まるで私と同じだ。父親の死でどこかが欠けてしまった少女。心の中にもうひとりの人間を持っている。私たちはふたりとも心に余分な魂を抱いて生きている。あの教師。他人に生徒の個人的な問題を面白がってぺらぺら喋るようなお喋りな奴。空っぽな男だ。瑤子はポケットの中の人形を硬く握り締めた。



 琢磨の腕の中で瑤子は小さな吐息を漏らした。琢磨は達するとき、いつも身体を瑤子の身体に押し付けて頬と頬を合わせるので、彼が達する瞬間の短い吐息が耳に直接伝わってくる。瑤子はそれを聞くと安心して身体が満たされるのを感じた。瑤子自身はセックスでオルガズムに達したことが一度もなかった。何人かの恋人を作ったけれど、何をしてもだめだった。自分で自分を慰めるときだけ、確実に達することが出来る。不感症というわけではない。セックスはそれなりに好きだし、挿入の気持ち良さも知っている。けれど達しない分、いつも物足りなくて、恋人が帰った後ひとりで達するのが習慣になった。だから恋人とのセックスは瑤子にとって快楽というより、身の置き所のようなものだった。

 琢磨はまるでそうするのが当たり前のように、果てた後、瑤子を抱きしめ唇を押し付けて、髪を撫でて言う。いったいいつになったらイエスと言ってくれるのかな。瑤子はそれには答えず、ただ琢磨を抱きしめて微笑んだ。琢磨は人生を共にするのに申し分のない相手だ。彼の父親は海産物を中心とした大手総合食品会社の社長を務める。彼自身は現在、三菱商事の食品本部に勤務しているが、創業者一族が継承する自社にいずれ迎えられるのだろう。育ちの良さを絵に描いたようなすっきりとした容姿と性格、瑤子の仕事に理解を示し、上品で無意味な嫉妬とは無縁、低く静かな声は瑤子を安心させる。けれどそれは愛と呼ぶにはあまりにも穏やかな感情だった。胸の手前にある正恵の存在が、他者の侵入をブロックするように、そして本当の自分を閉じ込める。琢磨に全てを打ち明ける。いや、それは不可能だ。琢磨は瑤子の重い過去を聞かせる相手ではない。汚れた世界を知らずに育った琢磨には汚れた過去に対する免疫が無い。何かの形で正恵のことにけりをつけないと彼との家族を持つべきではないのだ。だからといって何らかの解決策があった訳でもない。しかし今日真美にめぐり合ったことで唐突に正恵を供養する方法を思いついた。それは素晴らしいアイデアだった。それを実行するためのいくつかのことを、瑤子は琢磨の腕の中でじっくり考えていた。

 


 真美のお父さんは両親をまだ物心がつかないころに立て続けに亡くしていた。昔は孤児院なんてなくて、お父さんは親戚をたらいまわしにされて、育ち盛りにあまりちゃんと食べさせてもらえなかったから、とても背が低かった。自分が苦労した分、お父さんにとって初めて持つかけがえのない家族を心から愛した。お母さんはお父さんより十五歳も若く美しかった代わりに、華奢で身体が弱く、初めて授かった真美も流産の危機を何度も乗り越えて、一ヶ月早産で産んだ。一人娘の真美をお父さんはそれはそれは可愛がった。低血圧のお母さんの代わりにお父さんが早起きして、真美のためにふわふわのオムレツを焼き、分厚いイングリッシュ・トーストには小岩井牧場のバターをパンが重くなるくらいたっぷり塗って、ホットミルクにはカフェインレスのインスタント・コーヒーをほんの少し混ぜて特性のカフェオレを作ってくれる。日曜日はお母さんの定休日だと言ってお父さんは家族のために自慢の中華料理を作ってくれた。

 真美が幼稚園に入ると、房総の海辺に小さな家を買い、お母さんと真美はひと夏そこでゆっくり過ごした。お父さんは仕事があるから金曜日から週末にかけてだけやってくる。お父さんは工具屋を経営していた。ドリルやネジ、工具や工場雑貨を大きな工場に卸す。新橋にあった会社は猫の額のように小さく、社員も五人だけだったけど、安定した得意先を得て、毎週金曜日には家族で銀座に出て外食して、夏休みに家族で過ごすための海辺の小さな別荘を買うくらい余裕のある暮らしが出来た。

 真美が小学校に入学すると、海辺の家は時々真美の友達を招いたりして賑やかになった。お父さんは真美の友だちなら男の子でも女の子でも、みんな自分の子供みたいに可愛がったし、地理や歴史に詳しくて、夜、砂浜で花火をしながら、いろいろな話を子供たちに聞かせて、優しくて物知りなお父さんだと、子供からもその家族からも、とても評判が良かった。

 あれは台風が上陸するかもしれない、というニュースの後のせいか、珍しく家族だけで過ごしているときだった。真美は二年生になっていた。

母が夕食の買い物に行っている間、お父さんと真美は飼っていた柴犬のジャックと防波堤のところにいって、一メートル以上も上がる波を見ていた。すごいね。台風がここに来るかもしれない。夕飯が終わったら花火は無しで、窓を閉めて家の中で過ごそう。そう言ってお父さんは真美の頭を撫でた。真美は防波堤に当たって垂直に上がる水しぶきが珍しくて、飽きずにずっと眺めていた。近くに同じように眺めている地元の子供たちもいて、大きな波が来るたびに歓声が上がった。男の子たちが面白がって防波堤の先端まで行って波に触るというゲームをしていた。真美のお父さんや近所の人々が、危ないからだめだよ、なんて声をかける。でも叱ったりというのではなく、みんなのんびりしていた。風もあまり強くなくて、太陽も完全に隠れていたわけじゃないから、まだ人々の気持ちに余裕があった。お転婆な真美は男のこに混じって波の近くまで行ってはきゃっきゃ言いながら走って逃げた。そんなことを何回か繰り返しはしゃいでいるときに、走っている真美に男のこの一人がぶつかって真美が倒れた。その時だった。突然二メートルくらいの波が来て、真美を海の中にさらっていった。お父さんは服を着たまま走って海に飛び込み、真美を捕まえて防波堤のところまで泳いだ。近所の人が真美の手を引っ張り上げ、お父さんは波の勢いを利用して防波堤に上がった。台風のせいで水位が上がっていたのだ。みんなが拍手した後、危ないからと三々五々家路に急いだ。風が少し強く吹いて来た。台風は今晩上陸するかもしれないな、とお父さんが真美の頭を撫でた。そのとき真美ははっとして叫んだ。ジャックがいない。お父さん、ジャックは?お父さん、ジャックがいない。真美はジャックの名前を呼んだ。お父さんも辺りを歩きながらジャック、ジャックと叫んだ。ジャックは声を聞けば必ず走ってくる。潮風で喉が渇いて家に行ったのかもしれない、お父さんはそう言って、携帯で家に電話をしたけれど、お母さんがジャックは帰ってないと言った。真美は泣きながらジャックを捜した。海に落ちたんだ。私が落ちたとき、助けようと飛び込んだのかもしれない。そうやって防波堤から海を眺めていると波間にジャックが見えた。目を大きく開けて必死に泳いでいるけれど、小さなジャックは波に翻弄されて浮いたり沈んだりしていた。真美はお父さんにすがった。ねえ、お父さん、ジャックを助けて。真美はお父さんの手をひっぱって、泣きながら何度も何度も言った。お父さんはそんな真美を抱きしめて、今度は服を脱いでパンツ一枚になった。服を着てると泳ぐのが大変なんだ。お父さんは真美の頭を撫でて、大丈夫、ジャックはお父さんがちゃんと助けてあげる。ここで待ってなさい。そう言って海に飛び込んだ。


 それが真美が最後に聞いたお父さんの言葉だった。お父さんがジャックを抱き抱えたちょうどその時、ものすごく大きな波がお父さんもジャックも飲みこんで、二度と水面に上がることはなかった。すっかり日が暮れて、風がびゅんびゅんと唸り声を上げ始めた。お母さんがお父さんの携帯に電話をしたけれど、呼び出し音はすぐ留守電になった。不安になったお母さんが小走りで防波堤に来ると、真美はお父さんの服を抱いて、防波堤の波と振り出した雨ででずぶぬれになったまま、放心して座り込んでいた。話しかけても無反応だった。警察に連絡をしたけれど、その夜は台風が上陸して捜査が出来る状態ではなかっ

た。  

 ジャックの遺体は、次の日に浜辺に打ち上げられていたのを救助隊の人が発見したけれど、お父さんの遺体はみつからなかった。それから自衛隊のダイバーがたくさんやってきて、さらに次の日、変わり果てたお父さんの遺体があがった。お父さんは波の勢いで防波堤の向こうのテトラポットのところに身体を持っていかれ、中で死んでいたらしい。手と足が片方ずつ無くなっていた。テトラポットの内部はいったん入ってしまったら複雑な迷路みたいなもので、息を止めたまま出口を捜すのは不可能なのだ。プロのダイバーたちも、テトラポットの中を捜すのは命がけだという。潮流が複雑で、方向感覚を失い、コンパスも全く利かない。              

 真美はお父さんを殺してしまったと言った。お母さんは肯定も否定も出来る状態ではなかったから、海に向かって人殺しと何度も言って泣き崩れた。真美はお母さんが真美に言っているんだと思った。変わり果てたお父さんの遺体は真美から離れた場所で、大人たちが保護していた。けれど、真美は大人たちがお母さんをなだめている隙を狙って、ビニールシートを剥がして見てしまった。真美はその場で気を失い、二週間無意識の闇を彷徨った。


 一面の菜の花畑。空に太陽は無いのに菜の花の黄色がとても鮮明に広がる。それなのに他の部分は白黒。白黒の空があり、白黒の川があり、その川の向こう岸にやはり白黒の父がいた。真美は父に会いたくて川を渡ろうとするけれど、父が向こう岸で言った。

 来ちゃだめだよ。帰りなさい。

 真美は父に拒否されたことが悲しくて何度も父を呼んだけれど、父はとても悲しそうな顔をして繰りかえす。

 来ちゃだめだよ。いいこだから言うことを聞いて、家に帰りなさい。大丈夫、お父さんも一緒に帰るから。


 瑤子は今日はテイバンの格好をしていない。昨日、日本橋の高島屋に行き、生地の薄いストレッチタイプのジーンズと、白いヨットパーカー、ニューバランスの白いテニス・シューズを購入し、学生時代に付き合っていた男性からプレゼントされて、一度も使ったことの無いグッチのメッセンジャーバッグを引っ張り出して、今日はそれを身につけている。華奢な瑤子がそういう服装をすると、まるで学生みたいに見える。瑤子は昨年三十二歳になった。整った顔の瑤子は、子供の頃からいつも実際の歳より大人に見られていたのに、二十五を境に逆に少しづつ、年齢より若く見られるようになってきたから不思議だ。髪を丁寧にブラッシングして、真ん中で分けると卵形の小さな顔の輪郭が隠れて、イメージがかなり変わる。

 玄関の鏡の前で服装を点検して、仕上げに黒いフレームのメガネをかけて玄関を出た。駅に向かって歩いていると、近くにあるお茶の水女子大の学生たちが数人、道で花を咲かせるようにお喋りに興じていた。その後ろを歩くと、瑤子はグループの一員としてすんなり景色に溶け込んだ。もっとも、瑤子は以前、本当にそこの学生だった。大学院は生物学科がなかったので東京大学に行き、そのまま付属である植物園で研究を続けることになったのだ。

 週末に園芸店で買い求めて配達してもらった夾竹桃が三本並んでいる。縁側から右側に広がるツツジの隣りにジンチョウゲが並ぶ、

その左側に夾竹桃を植えようと決めて、昔からある椿を抜いた。もともと椿はあまり好きではなかった。椿は美しいけれど不吉な花だ。花の落ち方が、まるで首が落ちるみたいで死を連想させる。  

 配達にやってきた馴染みの若い店員は、大振りな夾竹桃を一本ずつ注意深く運びながら、そんなに細くて白い腕でシャベルを振り回す道家さんなんて想像できないですよ。力仕事は若い男にさせるもんです、ここらへんでいいですか?などと声をかけながら夾竹桃のスペースに大きな穴を掘っていく。助かるわ、出来ればなるべく深く掘ってね、浅いと根付きが悪くて枯れることがあるの。瑤子が言うと、まかしといてください、そう言ってシャベルを動かした。かなり深く大きな穴が開いても掘り続ける男に、瑤子は、それだけして下さったらもう十分だわと、微笑み返した。男が夾竹桃を鉢から取り出そうとすると、植えるのは、待って下さる?肥料を混ぜて土をミックスするから。こう見えても私はプロだから、と男を制した。店員は瑤子が植物園で研究職についていることを知っている。そうですよね。僕なんかよりずっと専門的ですもんね、そう言いながら瑤子に、おまけ、と言ってカサブランカの花を数本渡した。瑤子がよくカサブランカを買い求めるのを知っているのだ。ベージュの野球帽を取って、額の汗を肘で拭って、毎度有難うございます、男が頭を下げた。瑤子は有難う、と言って男のトラックが角を曲がるまで見送った。

 カサブランカをラリック・クリスタルの花瓶に入れてすでに開いている花のおしべの、オレンジ色の花粉をティッシュでつまんで抜いた。ユリの芳香が部屋中に広がる。ユリは硬く無機質な花弁が好きだ。人間のように皺が寄り始めて静かに枯れていく。バラやチューリップのように花びらがまばらに落ちてテーブルを汚すこともない。瑤子は山羊のチーズのサラダとフィレ肉のステーキを少し食べて、ワインを飲んでソファーで寛いだ。そしてこれからしなくてないけないことをゆっくり順序立てて反芻した。真美を救うためにしなくてはいけないことを。そして自分自身のために。


 植物園の業務日誌で真美の学校が石神井東小学校であることを確かめ、予め地図で場所を確認していた。担任教師の名前は丸山健一。

 少し早めに出掛けて、石神井公園で睡蓮を眺めた。この公園は大きな池がふたつあってその周りには犬を散歩をさせる人々、ベビーカーの若いママどうしがお喋りを楽しんだり、緑色のネットの向こうで子供たちが高い声をかけながら野球をしていたり、かなり賑やかだ。

 小型のプードルが瑤子の座るベンチに向かって吼えた。飼い主の若い女性が綱を引いてたしなめた。

 ごめんなんなさいねえ、うちのこ、すぐほえるから。

 いえ、いいんですよ。可愛いですね。お名前は?

あんずって言うんです。アプリコット・プードルだから。

 犬はまだ吼えている。

 敵意を持っているわけじゃないんです。ほら尻尾振っているでしょう。興味を持っているんです。

 触っても大丈夫ですか?

 大丈夫です。このこ絶対噛まないから。

 瑤子はあんずちゃん、と呼んでそっとプードルを撫でた。犬は嫌いではない。実家にいるときはシーザーという名前のボルゾイを飼っていた。その頃は散歩させたり抱きしめたり、夢中で可愛がった。家族の一員だった。けれど瑤子が高校生の時、老衰で死んで、みんなで大泣きした涙も乾かないうちに、母は一ヶ月足らずで鼠くらいの大きさのヨークシャーテリアを買ってきてルイという名前をつけて夢中になり、シーザーの話なんて誰もしなくなった。瑤子はなんだか納得出来なかった。玩具みたいに壊れたから取り替える。この人たちにとってペットはブランドのハンドバッグと同じなんだな、と家族に呆れたものだ。けれどそう思っていた瑤子も、シーザーのことはすっかり忘れてルイを唯一のペットとして可愛がった。そういう家族だったのだ。 

 犬は瑤子が撫でるとお腹を上にして、甘えた声を出した。飼い主が瑤子に礼を言って、瑤子も飼い主に礼を言った。女性はあんずちゃん、行きましょ、と言いながら歩き出した。無防備だな、と思った。子供や犬はいい人と悪い人をちゃんと見分けるというけれど、あれは嘘だ。人間の思い込みでそうこじつけているだけ。あのプードルだって、仮に今私がしようとしていることを知ったところで、呑気に尻尾を振って甘えるに決まっている。

 生徒が帰った直後の小学校はまだ、空気に子供の嬌声の名残が残ってる。校庭の土の乱れ、校門の熱。真美はもうお父さんに今日一日の報告をしているだろうか。

 学生時代に中学校で教育実習をしたことが

ある。子供たちはきれいな教習生のお姉さんが来たと大騒ぎして、あれこれ質問を浴びせた。二週間の実習が終わると今度は何人かの男性教師がデートに誘ってきた。懐かしいというほどの郷愁は無いけれど、教える立場で教壇に立つと、生徒がスーパーで並んでいる林檎みたいに見える。同じように並ぶ幼い肌の美しさと瑞々しさ以外に、彼らが内に抱えている悩みなんて見えないものだ。一段高い所から眺めるくらいでは、教室の後方で陰険に行われている虐めたり虐められたりという行為まで目が届くわけもない。

 教師たちが三々五々校門から出てきた。瑤子は少し離れた場所でその様子を眺めた。

 丸山健一はカーキ色の布のショルダー・バッグを肩からかけて校舎の反対側に歩いていく。二~三人の他の教師たちと一緒だ。瑤子は充分距離を置いて後をつけた。校舎を離れると教師たちは普通のサラリーマンと何の変わりもなく、冗談を言ったり、大声で笑ったり、時にはウソー、なんていう女教師の高い声も聞こえる。丸山は本当に声の良く通る男だ。ルックスは悪くない。肩幅が広くて背も高く、太い眉毛と濃い睫。小さくて厚い唇に瑤子は小賢しさを感じるけれど、一般的に言えばハンサムの部類に入るのだろう。隣に並ぶ背の低い地味な感じの女教師は、本当に嬉しそうに丸山を見て笑う。あの女教師は丸山に気があるのかもしれない。何気なく腕に触れたり、肩をぶつけたりしている。

 教師たちは私鉄の駅に向かった。改札をぬけると他の教師が保谷、飯能方面のホームに向かうのに、丸山だけが池袋方面に向かった。

瑤子は小さく微笑んだ。運が私に味方している。

 丸山はガラガラの車内で、ショルダーバッグからコミック雑誌を出して読み始めた。瑤子は隣りの車両からその様子を眺めた。こうやって眺めていると、ごく普通にいる若い男でこれといった特徴もない。瑤子よりも下、二十五、六といったところだろう。半袖のボタンダウン・シャツにレジメンタルのタイ。胸ポケットのところに、紺色の馬の刺繍が遠目にもくっきりと見て取れる。半袖のシャツを着た男は視界に入れることすら不愉快だと、瑤子は思った。琢磨だったらどんなに暑い真夏日でも、長袖のシャツとカフスボタンを欠かさない。

 丸山は江古田駅で下車した。丸山は北口の商店街を抜けて、寄り道することもなく真っ直ぐ歩いた。武蔵野音楽大学を過ぎた辺りで瑤子は声をかけた。

「あの、もしかして丸山先生でいらしゃいますか?」

丸山が振り返った。怪訝な顔で瑤子を見る。

「あの、私、先日植物園で丸山先生の生徒さんとお喋りをさせて頂いたものですけど。」

丸山は数秒考えて、あっと言って明るい顔を作った。

「ああ、あの時の。ええ、覚えています。」

瑤子はほっとした顔で微笑んだ。

「良かった、覚えていて頂いて。」

「やあ、雰囲気が違うから、最初はちょっとわからなかったな。」

丸山は頭を掻ながら瑤子を上から下まで

眺めた。

「あ、これね。私服の時はいつもこんな感じ。ほら、仕事の時って長い髪とかって邪魔になるし、ジーンズ履くわけにいかないし。やっぱり職場じゃなんていうかカッコつけてるのよね。」

丸山は笑った。

「本当に、そういう姿だとまるでここら辺を歩いている学生みたいに見える。全然わからなかったなあ。」

そう言って武蔵野音大を顎で指した。

「ちょうど、この近所に住んでいる叔母のところに母から頼まれた届け物をして、これからうちに帰るところ。」

そう言って瑤子は駅の方を向いた。

丸山はそうだったんですか、と言いながら一緒に駅の方を向いた。

「この辺に住んでいらっしゃるんですか?」

瑤子が尋ねた。

「ええ。ここから五分くらいかな。」

瑤子は、丸山が指差す方角を眺めた。

「丸山さん、あの、夕食、もうどなたかと約束していらっしゃる?」

丸山は一瞬、不思議しそうな顔をした。

「はい?」

「私、これから家に帰るだけなんです。なんだか、ばったりお会いしたのもご縁かな、なんて思って。あ、ご予定がお有りならいいんですけど。こんなこと言ってご迷惑だったかしら。」

丸山は笑顔を取り戻した。

「いやあ、唐突で驚いちゃったけど、かまいませんよ。僕は月曜日の夜に約束があるほど多忙じゃありませんから。」

瑤子は意識してとびっきりの笑顔を作った。どんな男でも溶けるような得意の微笑みを。

「丸山先生は何か召し上がりたいものってあります?」

駅の方に向かいながら瑤子が聞いた。

「僕は好き嫌いが無いのが唯一の取り得ですから。それより、あなたは・・・あ、お名前、まだお聞きしてなかったなあ。」

瑤子はくすっと笑って丸山を見た。スニーカーのせいか、比較的背の高い瑤子からみても丸山は少し見上げてしまう。

「私は三村正恵。三つの村に正しい恵み。」

「正恵さんか。僕は丸山健一と言います。正恵さんこそ何か食べたいものありますか?」

「良かったら池袋にお魚の美味しい和食の店があるんだけど、いかがかしら?」

「和食と聞いて喜ばないヤモメはいませんよ。」

そう言って嬉しそうに瑤子を見た。独身か。瑤子は心の中で呟いた。

「今日は近所のコンビ二弁当で済ませようかって思ってたところですから、ラッキーとしかいいようがない。しかも、飛び切りの美女と夕食なんて、なんだか狐に騙されてる気分ですよ。」

瑤子は噴出した。

「もし私が狐だったら、もう少し色っぽい服でお誘いすると思うわ。こんな色気も素っ気もないカッコでごめんなさいね。」

丸山も噴出した。


 月曜日だと言うのに池袋は夜に繰り出す人々でごった返している。東口を出ると、瑤子はさりげなく丸山の手をとった。

「誤解なさらないでね、こうしないとはぐれてしまいそうだから。」

その言葉を丸山は信じない。オレに気がある。自分の容姿に自信のある丸山にとって、女性からのアプローチは今に始まったことではない。それでも正恵ほどの美女に誘われる今夜は特別だと思った。最初に植物園で見たとき、思わず見とれてしまったことを思い出して、ひとりでにやにやした。瑤子はそんな丸山の顔を見て、微笑んだ。

 丸山には付き合っている女性がいる。飲み屋でひっかけた女だ。彼女、麻由美は顔もプロポーションも悪くはなかったけれど、特別の美人というわけでもない。十人並みプラス、というところだ。純情そうに見えて、セックスの乱れ方が驚くほど激しいところが気に入っている。しかし、付き合っているうちに関係がだらけてきた。部屋の合鍵を勝手に作ったり、丸山の私生活を自分が管理しているような口を利く。そろそろ潮時だと思い始めていたところだ。女は寝始めるとすぐに結婚を口にする。冗談じゃないと思った。たかが半年そこらの付き合いでいちいち結婚させられていたら、人生いくつあっても足りない。麻由美はやりたいときにいつでもやれる女、それで充分だ。

 白木の引き戸を開けて店内に入る。外の喧騒とは別の暖かい音。人々の会話と食器の触れる音、料理が運ばれる度に、暖かい出汁の香りを含んだ空気が流れる。良く見ると広い店内のひとつひとつのテーブルが障子で仕切られていて、それぞれプライベートな空間になっている。そのせいか、比較的カジュアルな飲み屋のわりにカップルがやたらに多い。

 席に座って出されたお絞りで手を拭く。丸山はネクタイを少し緩め、顔も同じお絞りで拭いた。

 瑤子は髪を片手で掻き分けてお品書きに目を通した。本当はここに来るのは初めてだった。というより、外食というのは自分で作れないくらい美味しいものだけを食べにいくと決めている。そういう本当に美味しいものをきちんとしたサービスで出す店に時々琢磨と出掛ける。それだけで充分だった。だからこの店は、手頃な値段で個室感覚でカップルに最適な和食というカテゴリーでインターネットで予めリサーチして見つけたものだった。しかもかなり人気があって週末は並ぶのを覚悟、と書いてあった点も気に入った。瑤子自身はちっとも気に入っていなかったけれど。

 丸山は髪をかき上げる正恵のしぐさをメニュー越しに盗み見た。眼鏡を掛けていても隠せないほどの大きな瞳と長い睫。その間に細い鼻がすーっと伸びて、全体的には日本的な顔立ちなのに、彫りが深くてハーフみたいな雰囲気も持ち合わせていて、見れば見るほどいい女だ。何より知性と品が感じられる。いったいどういう育ちの女だ。

 瑤子は丸山の方に身を乗り出し、お刺身は何が好き?カサゴが美味しそう、ここはお豆腐も有名なのなどと言いながらメニューを説明する。丸山は瑤子のアドバイスに従って鰹のタタキ、揚げ出し豆腐とカサゴのから揚げを選び、瑤子は刺身の盛り合わせ、甘鯛の焼き物やナスとオクラの揚げ浸し等を頼んだ。

「正恵さんは植物園で何をなさっているんですか?」

丸山がまず瑤子の注いだビールを一気に飲んで聞いた。

「私は薬になる花の研究をしているの。花はいろいろな力を持っているの。植物が医療の基本だと言っても過言じゃないわ。まだ医学が発達していない昔、人々は花や草を使って病気を治したり怪我を治療したわけだしね。私はそういう植物のパワーに惹かれたの。」

へえ、と言って丸山は目を丸くした。

「研究職か。頭がいい人なんですね。」

「単なる好きの横好き。趣味が高じて仕事になっちゃったってところ。丸山先生はどうして教師になろうとなさったんですか?」

丸山は突き出しに出てきたイカの塩辛を摘みながら言った。

「僕は一応、国立の筑波大だったんですけど、僕が大学を出た頃はバブルもとっくに弾けて銀行や企業に就職しても先が不透明だったんですよ。国家公務員なら食いっぱぐれも無い。それで教師は常に不足しているし。最初は高校の教師になろうと思ったんですけど、男は出世してナンボじゃないですか。頂点は校長ですよね。だったら小学校の校長なら楽勝だから。こうみえても、ちゃんと将来の展望をもっているんですよ。好きになった女性や家族にいい暮らしさせるのは男の義務ですから。」

そう言って瑤子を見た。

「意外だわ。」

瑤子が言った。

「お若くてエネルギッシュだから、教えることが好きとか、こういう子供を育てたいっていう純粋な情熱みたいなものを持ってたのかな、なんて考えちゃった。そんなのTVの見過ぎかな。」

「そうそう、金八先生みたいなのって、あれ嘘ですよ。イマドキの子供は小学生だってもっと計算してますよ。ああいう先生は実際は逆に父兄の評判も悪い。なんだか問題児の味方してるじゃないですか、あれって。問題のある子のほとんどが家庭に問題があるんですよ。それを学校に押し付けるのはおかしい。学校は勉強を教えるところなんですよ。教師の思い込みを子供に押し付けるのは間違っていると僕は思います。教育と躾は別物です。子供の躾まで学校に頼るのは本末転倒です。僕はあくまで、勉強を通じて子供たちに平等なオポチュニティーを提供する。」

 料理が運ばれてきた。丸山は焼酎のロックをオーダーし、瑤子は冷酒を頼んだ。瑤子は料理にはあまり箸をつけず、丸山の話を黙って聞いた。

「そうだ、下川辺真美ちゃん、なにか問題がありそうね。」

瑤子はさりげなく切り出した。

「ああ、あの子ねえ。」

丸山は箸を宙で回した。

「勉強という意味では頭はすごくいいんですよ、あのこは。二年生くらいまでは、当時の担任に気に入られて教育テレビの番組に駆りだされたそうですからね。でもそのころからなんだか遠足とかで勝手にいなくなったり、学校を休んで父親と旅行に行ったり、奇行というほどではないけれど、ちょっと変わっていたみたいですね。」

「なんでもお父様が亡くなったとか。」

「それなんですよ、台風直前の海で、あの子が溺れかけた飼い犬を助けろって父親にすがって、それで飛び込んだ父親も犬も結局波に飲まれて亡くなったそうです。ある意味、あのこが父親を殺したようなものだ。それを目の前で見てあの子、意識が二週間も戻らなかったそうで、目を醒まして父親の死を否定するようになったって話です。だから未だに父がこう言った、ああ言ったって、僕としてもどう対応していいか、ちょっと困っちゃってね。だって父親が生きているって本気で信じてるんだから埒が明かない。父に相談しますとか平気でいいますからね。おまけに母親がカウンセラーに連れてって催眠療法にかけたら高熱を出して寝込んでしまって医者も匙を投げたっていうんだから、お手上げだ。」

そうだったんだ。瑤子は心の中で呟いた。可哀想に。私が真美ちゃんを救ってあげる。

「学校で虐められたりしているんですか?」

瑤子は運ばれてきた日本酒をほんの少し舐めて、グラスを置いた。

「虐められてるっていうより、みんなどう対処していいかわからないんじゃないかな。僕でさえわかんないんだから当たり前だけど。成績は相変わらずいいし、みな普通に接しているけど、あまり友達とかはいないでしょう。」

「可哀想ね。」

「可哀想なのは僕の方ですよ。やっかいな子供任されて。何かあるたびに父親を引っ張り出して、参りますよ。そんな話より、僕は正恵さんのことをもっと聞きたいなあ。」

瑤子は福岡出身で父が医者で大学はお茶大に行って、今は親が買ってくれた家にひとりで住んでいると話した。

「兄も医者でね、今は大学病院で修行中。兄の専門は心臓外科だから。本当は私も医者にして、医者と結婚させて土地を探して病院を建てて、兄を院長にする。そのつもりでいたらしいんだけど、私が言うことを聞かない悪い子だから、最近では医者じゃなくてもいいから、経営面を任せられる優秀な男性を探してほしいなんて言っているわ。」

丸山の目が輝いた。

「聞いていいかな。どうして僕を誘う気になったのか。」

丸山は酒で少し赤くなった顔を近づけてきた。  瑤子は酒の匂いに顔をしかめそうになるのを堪えた。

「本当は会ったときからちょっと素敵だなって思ったのよ。植物園で研究なんてしてるとカッコイイ人に会うチャンスなんて無いんだもの。だから今日は偶然とはいえ、ラッキーって思って思い切ってお誘いしちゃった。もう心臓がばくばくしたんだから。」

丸山は有頂天になった。学歴といい美貌といい麻由美なんか正恵の足元にも及ばない。真面目なお嬢タイプほどオトシやすいとはよく聞く話だ。おまけに病院経営ってのは全く悪くない、テーブルの下でガッツポーズを決めた。それから頭の中で瑤子を裸にして眉をひそめる姿を想像すると股間が熱く反応した。

 瑤子は丸山がトイレに行っている隙にグラスから酒を床に流して、そのグラスに水を入れた。丸山さんの留守にお代わりしちゃった。でももっと飲んじゃう、そう言って、グラスを飲み干して瑤子は笑った。丸山は上機嫌だった。トイレに立った際、真由美からのテキストを確認したが、無視してほっておくことにした。全くうざったい女だ。毎日のように俺の居場所を確認したがる。丸山は携帯の電源を切った。

 十時前に店を出て駅へ向かう道で瑤子は少しふらつきながら、

「ねえ私、西片に住んでいるんだけど、少し酔ってしまったし、こんなに夜遅くひとりで帰るのってちょっと怖いの。できたら送ってほしいんだけど。」

そう言って丸山の腕に自分の腕を絡ませた。

今夜正恵を抱ける、丸山は瑤子の肩を抱き、頭の中ではすでに瑤子を翻弄していた。

 

 都営三田線の春日駅で降りて西片の交差点を越える。瑤子は丸山に倒れ掛かった。

「ごめんなさい。普段あまり飲まないから酔っちゃったみたい。」

「おいおい、大丈夫かい?」

そう言って、瑤子を抱き寄せ、キスをしようとする。

瑤子は丸山の口を手で押さえて小さな声で囁いた。

「ここは古い町だから近所の人に見られたら嫌だわ。こう見えても私は品行方正って評判なのだから。」

「OK。」丸山も声を潜めて言った。

「まるで共犯みたいね。」

瑤子がそう言って丸山も小さく頷いた。

 瑤子の後について家の門をくぐり、玄関で靴を脱ぐと、家の中を見回して丸山は感嘆の声を上げた。

「一人暮らしにはもったいないくらい広い家だなあ。」

瑤子は、古いけどね、と言いながら丸山を縁側に続く和室に通した。

「和風の家って落ち着くでしょう。」

そう言って座布団を勧める。

「いいねえ。」

丸山は胡坐をかいた。

 ガラスの引き戸の向こうに木々のシルエットが見える。三本の夾竹桃は鉢に植えられたまま風に黒い葉を揺らしている。園芸店の男が空けた穴は宵闇にまぎれて、ここからは見えない。瑤子は窓を開けて夜気を部屋に入れ、

再び閉めると丸山の側に立った。

丸山は立ち上がって瑤子を抱きすくめた。けれど瑤子はにっこり笑ってそれをかわす。

「こういうことには順序ってものがあるのよ。焦ったらロマンティックになれないでしょ。今、丸山さんのためにとても美味しいデザートワインを作ってあげる。それまでお預け。」

 そう言ってキッチンに向かい、ワインを温めた。

 この女、けっこう慣れてるのかもしれない。そう思った。やりたいくせにもったいぶってやがる。丸山は心の中で呟いた。けれどそれもまたいい。待つのもまたお楽しみのひとつだ。

 お盆にふたつのワイングラス。

「バン・ショーって言うの。ホットワインだけど、シナモンと黒砂糖と林檎が入っていて、クローブの香りがエキゾティックでロマンティックで、そしてとってもセクシーでしょ。」

 確かに濃厚な香りが部屋に広がる。瑤子が眼鏡をはずし、髪を掻き上げた。はっとするほど美しい顔と、真剣な眼差しが丸山を見つめる。丸山はその圧倒的な美しさに素直に感動していた。それと同時に爆発的な欲情の波が、彼の身体に稲妻のように走った。そんな丸山を見て、瑤子は言った。

「私、こんな気持ちになったの始めて。会った瞬間に誰かを好きになるなんて。」

「僕も全く同じ気持ちだ。」

「でも、遊びにしないでね。ちゃんと私を好きになってくれる?」

そう言ってグラスを高くかざして丸山を見た。

「君を本気で好きになりそうだ。」

丸山は瑤子の差し出したグラスを受け取った。

「乾杯」

瑤子はグラスからワインを飲んだ。ああ、美味しい。そして丸山も瑤子に笑いかけながらグラスの赤い飲み物に口をつけた。


 瑤子は丸山の死体をネクタイを持って引きずった。畳から縁側までは至近距離だし縁側の木の床は滑りやすいから、華奢な瑤子でも大きな丸山を難なく運ぶことが出来る。そうやって死体を縁側から庭に落とし、後は足で死体を転がして深い穴の中に沈めた。そしてポケットからピンクの服を着た人形を出すと丸山の死体の上にそっと置いた。


さようなら。ようやくあなたを天国に送ってあげられる。これから私はあなたの分も幸せになるわ。


 瑤子は心の中でそう呟いて、丸山の身体の上に三本の夾竹桃を植えた。園芸店の配達の男の子は本当に深く掘ってくれたから作業は簡単だった。

 みんな瑤子の言うことは素直に聞いてくれるの。昔からそうだった。

 土を均して水を少しかけて大きなシャベルを片付けて、畳の赤い染みを拭いてから、瑤子はキッチンに行き、丸山が口をつけたワイングラスをキッチンタオルで摘んで、ゴミ箱に捨てた。


 

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