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逆 安楽椅子探偵  作者: エリアたんは俺の嫁
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 時の相違

 ひゅう、と吹き付ける風が煩わしく思えてきた秋の終わり。大学一回生の僕、西園寺裕巳は友人の湯島香織とひょんなことから喧嘩をしてしまった。彼女とはさながらキューバ危機のような膠着状態であったが、そこにお節介焼きが現れた。我らが囲碁部の部長、國枝麻希である。「部員三人のうち二人が険悪な関係では活動もままならない」彼女はぼやきながらも端的、明快な推理を披露する。

             

                    1

 秋も終わりに差し掛かった十一月下旬。

 街路樹の赤色が薄れてきて薄黄色だった落ち葉は茶色に色付いて、時折ひゅう、と吹き付ける風は冷たく肌寒い。 気温が10℃を下回る日が続くものだから、ちょっとそこまで外出するのにも上着が欠かせなくなった。ほんの数週間前まで過ごしやすかったのが嘘のようである。いつの間にか冬の訪れが間近に迫っていた。

 ここ何年は季節の境目が曖昧になってきて、感覚が狂う。子供の頃はもっと四季が判然としていたように思うのだけれど。しかし、

 「寒い」

 部室棟に繋がる赤レンガ模様の舗装路を歩きながら掌を擦り合わせる。路の右手にはサッカーコート。左手には野球場。つまり今、僕を冷たい風から守ってくれる建物は無い。

 この私立A大学は、県内にある大学の中でも随一の敷地面積を誇る。それはもう、大学内にテニスコートや野球場があるくらいに土地を余らせていた。主な建物は、講義棟が六棟に部活棟が二棟。その他敷地内にカフェテリアやスポーツセンターが立地しているものの、それでも土地の割合に比して建物の数は少なかった。

 鳥肌が立ってきたので、身を縮めながら小走りに部活棟の影に入る。打って変わって、ここは無風。それだけで温かかった。大学内の部活やサークル毎には各々、部室棟にあるA棟及びB棟の一部屋か二部屋かが割り当てられている。

 向かって左側にA棟、右側にB棟。僕は右の棟へと続く混凝土の階段を昇る。

 棟への入り口は青色がくすんだ鉄製のドア。上面には摺りガラスが嵌められていた。銀のドアノブを握ると、ひんやり。冷たいそれを捻り、中に入ると廊下の奥まで延々と、同じ銀のドアノブが部屋の数だけ続いていた。

 それぞれの部屋には鍵を掛けることが出来て、今も使われていない部屋は施錠されている。当然301号室も例外ではなくて、いつもなら事務室で鍵を借りてから部室に向かうのだけれど、今日はその必要はないだろう。

 すぐ右手の階段を上る。手すりが寂びているくらいに古びて、そして隅に埃の溜まった年季の入った階段だ。南海トラフ地震が起きたら崩れてしまうだろう。

 無意識に手すりを掴んでしまうほどの急傾斜。それを二階分上る。

 息切れしながらどうにかたどり着いた三階もやはり、一階と同じ造りであった。今日は曇っていて西日が差すことも無く、少し寂しい。軽く息を整えながら、廊下の突き当りまで歩む。

 ”301”

 目の前のドアにはそう書いてあった。ここが301号室なのでそれは自明であった。その部屋に訪れたことは数知れず、しかし一応はノックをするべきだろう。

 握った拳の裏を二回振る。

 ・・・。

 五秒くらいして返答があった。

 「いるぞ---」片手間に返したような、かったるい。そんな声だった。

 なんだかんだ、彼女とは半年くらいの付き合いであるので、躊躇なく扉を引く。先程の、”いるぞー”--。これはつまり”入っていいぞ”との合図である。

 部屋に入ると必要以上に、キリッ!!。とした顔をした先輩がいた。安楽椅子に肩肘ついて、頬を支えていた。その様はまさしく”探偵”と云った風である。

 しかし。頬は引きつっていた。

 その時点で大体察した。

 後ろめたい事があるときに、どうにもわざとらしいのは、まあ。彼女の愛嬌である・・のだろう。

 そう見てやるべき、だ。いつも被害を被る側としてはやめてほしいけれど。

 「寝てましたね」

 「何のことだ」

 なるほど、寝ぼけ眼で()()を切るつもりらしい。

 「いいですよ、誤魔化さなくても。何だかんだで、半年の付き合いでしょう?」

 「・・・ふん。別に批判される謂れもないがな」彼女はふいと横を向いてしまった。怒っているのとは違う。ただ拗ねているだけだ。

 麗しい見た目のわりに、子供っぽい。口を尖らせた横顔の彼女こそ。

 國枝麻希、その人であった。

 長く、腰まである艶やかな黒髪に、冴え冴えと光る大きな瞳。彼女が瞬きする度に、その二重の瞼が際立って思わず自分の目を逸らしてしまう。

 大げさにドアを閉めると蝶番が寂びていて、軋んだ音がした。

 背負ったリュックサックを右手に移して、部屋の一番に目立つ。つまりは入り口を開けてすぐに位置しているベージュ色のソファに投げ置いた。ややあって部屋のほぼ中央に鎮座しているそれを迂回し、自分もソファに体を投げ出すと、

 ボスっ、鈍い音が立った。

 ・・・。

 ・・。

 動きたくね---けれどコーヒーにお茶菓子が欲しい。

 ・。

 「ああ、すまん裕巳。どうせ珈琲を入れるのならついでに一つ、ミルクチョコレートを投げてくれないか」

 「・・はい(遅ればせながら”裕巳”とは西園寺裕巳、この僕の呼び名である)」自分の行動を読まれていることに何かしら物申したいのは兎も角として、今しがた珈琲を入れようとしていたのは事実である。

 これ見よがしにため息をついて、腰を上げる。

 ちらと、先輩を盗み見ると。

 あ---。

 ・・・背もたれに凭れて明後日の方向を向いていた。

 ・・はあ。

 今度は脱力して、やるせないため息をつく。しかし彼女は気にする素振りさえもない。当然だ。こちらを見さえしないのだから。

 ()()。つまり”301”号室には紅茶は愚か、ココアやカルピスまでもが常備されていた。加えて大袋のチョコレートや、お茶菓子に砂糖のまぶしたクッキー。なんなら市販のバターケーキまでもある。お世辞にも美味しいとは。

 部屋の端に備え付けられているサイドテーブル。そのガラス戸を引く。その奥には、所狭しとインスタントの珈琲や紅茶のティーバック、そしてお茶菓子が詰め込まれていた。

 取り合えず、彼女に要求された”ミルクチョコレート”を取り出して、放る。それはゆるやかな弧を描いて、茶色をした安楽椅子に座った彼女へと渡る。

 「ほっ、っと」彼女は危なげなく、それをキャッチした。

 「・・。ナイスキャッチです」

 僕は努めて冷静に言葉を発する。言葉尻が震えていたかもしれない。

 黒髪の美人に頼みごとをされたら動揺し、断れなくなってしまうのは、男の(さが)とでもいおうか。

 「いい加減にジャージ着るの止めたらどうですか」

 「それはできない。たとえ裕巳が泣いて懇願しても、だ」

 「あ、そう」

 ・・・。

 ・・。

 ・そう。

 この、見た目だけは見目麗しく淑やかな先輩。

 國枝麻希は年がら年中、ジャージだった。それも、スポーツ〇ポ、や、スポーツア〇ペンで買ったような安っぽいジャージである。プー〇とアディ〇スが彼女のバイブルだった。

 「香織は今日来ないのか?」

 彼女はチョコレートを口に放り込んで、頬張る。

 「さあ」僕は肩を竦めてみせる。

 彼女の云った、香織。その本名を湯島香織と言う。この三人しかいない囲碁部最後の部員で、僕と同じ一年の女子だった。ショートボブの髪を栗色に染めて形のいい耳にはいつも、宝石のように小さなピアスが光っている。毎日違う服を着ていて、三通りの服を着まわしている僕から見てもセンスがいいように思う。

 にっこりと笑う、綺麗な笑顔が特徴的で、先輩を”美人”と表現するならば、湯島は”かわいい”というのが合っていた。そんな彼女はおよそ僕とは(そして先輩とも)対極に位置する、俗に表現するなれば”陽キャ”である。

 お世辞にもコミュ力があるとは云えない僕では彼女と欠片も関わり合いを持つことができないであろう。

 ・・・がしかし諸々あって、現在彼女はこの囲碁部に属していた。彼女が入部したのは僕が入部したすぐ後だったから、湯島ともかれこれ半年くらいの付き合いになる。

 そんな湯島と、僕の関係は講義で一緒になったらお互いに片手を上げる。部室で談笑したり、二日に一回はLINEのやり取りをする程度のつまり、友達だった。しかし。

 先輩が首を傾げる。

 「ん? 君はよく香織とやり取りをしているだろう、メールだったかラインだったかで。実際、いつもは同じ日に来るじゃないか」

 「たまたま暇な日が湯島と被ることが多いだけで、何も示し合わせているんじゃありませんよ。お互いに今日部室に行くかどうか話したりはしますけどね。でも今は戦争中なので、ね。目下、僕から最後にLINEを送ったのが四日前。未だに既読はつきません。僕から催促する気はありませんが」

 「ああ、また喧嘩してるのか」

 ほどほどにな。そう云って彼女は窓の傍に寄った。

 クレセント錠を下げて軋むガラス窓を三分の一ほど開ける。それだけで籠っていた部屋の空気が流れ出した。普段の先輩なら、開けた窓枠にそのまま腰掛ける(彼女のお気に入りの場所だ)のだけれど、今日は風が強い。乱雑なこの部屋に勢い風が吹き込んだらば、被害は甚大だろう。

 あの散らかった机の上はいつか片づけないと。大雪崩が起きてからでは遅い。

 なんて考えていると先輩が話題を振ってきた。

 「一段と風が強いな、外は。今朝はこの嵌りの悪い窓の揺れる音で目覚めたよ。がたがたうるさくてね。この部屋、夏は過ごしやすくていいんだがな。虫の声は苦にならないし、いい子守唄だ。比べて吹き荒れる風の摩擦音は敵わない。それに深夜はファンヒータを付けているからそうでもないが、朝はもう寒い。追加の毛布が必要だ」

 彼女は窓際から部屋の隅を示す。壁に押し付けるように、くちゃくちゃに畳まれた布団が追いやられていた。「また運ぶの手伝ってくれないか」僕は彼女に視線をを戻す。

 「それくらいはいいですけど。昨日も部室で寝たんですか。住めば都とは云いますが、こんな頻度で泊まるんなら掃除しましょうよ。いつも埃っぽいですよ、ここ」

 「だからこうして空気を入れ替えてるんじゃないか。それに住めば都であればすれこそ、この空間を壊す必要はない。裕巳は散らかっていると小言を云うが、私にとっては・・ほら。あのゴミの溢れた段ボールでさえもインテリアのひとつなんだ」

 「いや、ごみ箱代わりの段ボールを家具扱しないでください」そのインテリアは、先程物色したサイドテーブルの前にある。「しかしファンヒータなんて、いつ買ったんですか? 結構な値段がするでしょう、アレ。ていうか、そんないいものがあるならつけてくださいよ。少し寒いです」

 「ああ、今はつかないぞ。灯油を切らしているんだ」

 「はい?」

 「ほら」先輩は椅子から腰を曲げると、足元から赤色のポリタンクを取り出してみせた。「昨日の夕方に給油したので最後だったんだ」

 「はあ」だいたい察した。

 「用務員のおじさんがくれたんだよ」

 云いながら先輩は立ち上がった。

 ズズッ、ズズズ。砂と埃が床でこすれる音を立てながら机の向こう側から彼女が押し出したのは、年季の入った霞んだ黒の面と銀の反射板。迫り出した銀の格子の奥には、燃焼時に赤みを帯びる筒状のバーナがあった。

 つまりは、前時代的な石油ストーブである。これまで幾人もの人に使われてきたであろうことが見て取れた。それも今は冷たく、静けさを保っていた。火のついている時はさぞかし、うるさいだろうに。

 「どうだ? ごっつい外見とは裏腹に、なんていうか、温かみがあるだろう。そこの錆びたキャップを外してこれ(彼女はポリタンクに嵌められた赤いポンプを指差した)、これで灯油を入れるんだ。そうすると零れない。案外に楽しいぞ、今度裕巳にもやらしてやろう」

 給油作業がさぞかし気に入ったらしくて、先輩は満面の笑みだった。でも田舎育ちの僕としては石油ストーブの給油作業は冬の忌まわしい家事のひとつに過ぎない。

 「丁重にお断りさせて頂きます。その役目は湯島に譲りますよ」

 「そうか。じゃ、そうする」 

 香織にやらしてやろうかな。そう云いつつ先輩はストーブのスイッチを下げるが、勿論火はつかない。彼女が言った通り灯油はからきしのようだった。

 なんとなく気になって僕もストーブの傍に歩み寄る。こういうのは否応なしに、男心を擽った。取り合えず半分くらい茶色に染まった、給油用のキャップを捻る。つん、と鼻をつく灯油のにおいがした。

 「ああー。これは()()()()()()ですね。赤色の線が見えちゃってます」

 「そうか。後からガソリンスタンドに行かなければならないな」

 「移動販売から買った方が安くありません?」

 「こんな都会でか? 灯油は愚か石焼き芋さえ車では売らないよ。だから近くのガソリンスタンドで調達することにしている」

 だだっ広い敷地面積を有するこの大学はそれでも、全国有数の都会のど真ん中に位置していた。どうやら夕方五時になると毎日、市の放送でドヴォルザークの”新世界より”が流される僕の地元とは勝手が違うらしかった。しかし最近は石焼き芋の、あの、いしやぁきいも~の売り文句を訊く頻度も減ったものだ。いつか買ってみたいと思いつつ、一度も買ったことが無かった。

 ・・・なんだか

 「焼き芋食べたくありません?」

 それはいい、と、二人して部室棟を出た。焼き芋の季節には少しばかり早い気がするけれども、近くの、駅前にあるスーパーマーケットならば売っているだろう。サツマイモさえ見つかったらば自分達で作ってもいい。その辺の落ち葉をかき集めて、焚火して。

 ジャージにウインドブレーカーを羽織った先輩が、僕の前を行く。

 「次のバスまでどのくらいだ?」

 「あー、今何時ですか」

 「三時と十五分だ」

 「ええと・・ じゃあ二十五分発が直近ですね。余裕を見て三十五分に乗りましょう」

 「いんや。二十五分がいい」

 先輩の足取りが速くなる。ほとんど競歩だ。

 重ねるようだが本学の敷地面積はあまりに広くて、部室棟からバス停まで普通に歩いたらば十分と少しは掛かる。つまり今から十分後発のバスに乗車するためにはいつも通り歩いているわけにはいかない。小走りになって彼女の後を追う。最寄りのスーパーマーケットまで行くのに、わざわざバスに乗らなければならないのは、どうにか大学側に改善して欲しいところである。

 歩いているうちに自然と彼女の横に並ぶ格好になった。競争をしているのでもないのにどうしてか、お互いの歩みが更に速くなった。

 何人かのユニフォーム姿の運動部員とすれ違った。見た目から各々が違う部活であろうことは察せられたけれども、皆一様に白い息を吐きながらランニングをしているのは同じだった。この寒い中、頭が下がる思いだ。だからと云って昼過ぎに、おはようざいまっす!と挨拶をされても返しに困る。ましてや、今すれ違った声の大きいスポーツ刈りの男性は、僕よりも歳が上だろう。

 無言で足音を鳴らしながら、我先にと並び歩く一組の男女。周りからはさぞ滑稽に映るだろう。道の途中店を出していた串焼きのキッチンカーにもその足取りは緩まない。

 そのかいあって、どうにかバスには間に合った。まだバスは到着していない。バス停とは云ってもここは大学の中だから、バスを待っている間もたれかかる為の手すりや、夏には水の霧が噴射されるミスと発声器などが設置されていた。

 携帯の時間をを見ると二十三分。先輩は膝に手をついていて、呼吸が荒い。

 「ど、、ふう、、どうにか間に合ったな」

 「そんな息も絶え絶えになるんやったら一本遅らせればいいやないですか。どうして、どうしてそんなに急ぎたがるんですか。玩具を買ってもらいに行く小学生じゃあるまいし」

 「そういう性分なんだよ」

 「はあ」知っている。

 程なく、バスが到着した。時間ちょうどだった。日本の交通機関は優秀だ。入り口の機械に僕はICカードを翳し、先輩は紙の乗車券を一枚とって乗り込む。この時間帯にしてはめずらしく、席はがら空きだったので二人で贅沢に、一番後ろの席を占領させてもらった。

 「裕巳は今日はなんだ、いやに乗り気じゃないか。いや、私としては嬉しいんだがな。どうせ今日も夜は部室に一人だと思っていたから」

 先輩は腕を()()()と下げて前の席に顎を乗せた。今から十五分はバスに乗ったままになる。

 「たまには、ですね。偶然、ただの気まぐれですけれども。いいじゃないですか。童心に返って焼き芋っていうのも」

 ああ、と彼女は相槌を打った。

 「童心に返る、ね。私も、もうにじゅう・・おっと。罠に掛かるところだった」

 ・・罠を張った記憶はないが。

 「それでも高校生の頃がもう随分に、遠く昔のように感じるな。まるで十年、二十年前のことみたいだ。実際には五年も経らずなのに」

 「そんなものなんですか? 僕は一年前までは高校生だったので実感があまり湧きません」

 「君もあと二年経てば分かるさ」「はあ」「裕巳は十九歳だっけ?」「ええ」 

 「若いな」

 窓の外に視線をやった彼女の姿は何処か、哀愁を帯びていた。自分とそう何歳も変わらないはずなのに。

 「人間はさ、二十歳を過ぎると変わるんだ。見た目容姿だけでなく・・・そうだな。まあ一番は世間体かな客観的に見ればだけど」

 「? え、っと具体的にはどういう?」

 そんな構えなくてもいいさ、なんとなく畏まった僕に彼女は自分の肩越しに笑いかけた。

 「十代はこぞって速く二十歳に、大人になりたい。なんていうけれど、改めて自分が二十歳、いわゆる”大人に”なってみると・・。・・虚しい」

 「虚しい?」

 「ああ。十代の子供が二十の歳の数を待ち侘びるのは社会のルール。様々な(しがらみ)から解き放たれたいからだろう? 酒、煙草、ギャンブル。少しくらい羽目を外したって咎める人はおらんだろうよ。親元を離れて一人暮らしを始める人も多いだろうから、猶更かな」

 「それだけ聞くといいように聞こえますけど」

 「まあ、そうだろうな。私もそう思っていたさ。でも実際に二十歳を超えてみると逆に、様々な(しがらみ)が増えるんだ。・・増えたんだ」

 いっそう、彼女から寂しい空気が漂った。

 目の前の女性。國枝麻希と出会ってまだ半年。僕には無言を貫くことしかできなかった。これは僕の直感だけれども、このことは彼女にとって。彼女自身の奥深くに存在する事であって、ともすれば彼女との関係が壊れてしまいそうな気すらした。

 

 バスのエンジンの音だけが響く。


 「だからさ、大人なんてそんなに良いもんでもないぞ、ってことさ十代」

 先輩は僕をこづいて言った。僕は引きつっているであろう笑い顔で応えた。

 交差点を曲がろうと停車するバスの横を、何台もの自動車が走り去っていく。

 ・・。

 「先輩は免許持ってますか?」

 「ああ。持ってるぞ」

 意外だった。

 「いやそんな、驚かなくてもいいだろう。今の時代、大抵の大学生は一年のうちに車高に通うもんだ」

 「ははぁ。僕夏休みに取ろうと思ったんですけれど、申し込みに行った時にはすでにいっぱいだったんですよね。冬休みに取るかなぁ」

 「長期休暇だったら、二か月くらい前から予約しとかないと入れてもらえんぞ」

 「まじですか」

 暫く、いつも通りの先輩とたわいもない会話をしていると、

 次は〇●丘~〇●丘~。 

 頭上から機械らしい、機械のアナウンスが告げる。どうやら駅前に着いたようだった。


                   2


 朝方と夕方には、常に人とすれ違うほどに往来の激しい駅前もこの時間では人の姿はまばらだった。先輩は現金で運賃を精算しなければならないので、ICカードに定期の入っている僕は先に降りた。バス停のすぐ横には★ーバックスが店を構え、ガラス窓から中の様子を見ることが出来るがとても入店する気にはなれなかった。床屋で散髪した髪に油の一滴もつけていない僕なんて、場違い甚だしいだろう。隣でジャージの裾を踏んでよろけている先輩も、また。素材はいいのだけれど。

 目的のスーパーは駅とは逆方向にあった。アスファルトの歩道を踏み、歩く。途中何人かの、駅へと向かうスーツ姿の男性女性とすれ違った。今が仕事終わりだろうか。僕も職に就くならば、午後四時前に終わる仕事がいいものだ。

 学生を誘惑する大きなカラオケ店(事実僕も何度か授業をサボって一人カラオケに来た)の角を曲がると直ぐ、緑色の大きな看板にガラス張りの店内から漏れる白い光。大手スーパーチェーン、Bコープだ。ここに来れば大抵の食材は揃う。

 自動ドアを二回くぐるとまず、軽快な音楽が耳に入った。歌詞からして恐らくは、Bコープのオリジナルソングであろうことが察せられた。

 焼き芋は売っていなかったのでBコープのロゴが入ったカゴを手に取り根菜のコーナに向かうと、紅色のそれはすぐに見つかった。いびつな形だったけれど、表面にこびりついた土が新鮮さをうかがわせた。

 陳列された中から先輩が二つ、いや三つ見繕ってカゴに放り込む。大きいものを選んだように見えたが、そこまでの重さはなかった。

 丁度いいから切らしそうなお茶菓子諸々を調達していこうということになって、十分ほど店内を物色した後店を出る。一応大学から部費を支給されているからと、支払いは先輩が持ってくれた。

 さて大学に戻って焼き芋を、とバス停に向かおうとしたのだが

 「裕巳」

 先輩が歩みを留めた。

 「? なんですか」

 「折角だから★ーバックスに寄っていこう」

 「・・・」

 僕は暫く、さもいい考えだというふうに空に指をさしつつ白い歯を見せる彼女を、彼女の枝毛の跳ねた頭の上から色の変わってしまっているスニーカの先まで眺めていた。何を思ったのか、彼女は呆けてしまった僕を向いて、どんと胸を叩いて見せた。

 「安心しろ。まだ部費は余っている。囲碁部の奢りだ」

 それはありがたい話であるが、そうじゃない。

 「今一度自分のしてる恰好を省みてください。あんな日当たりのいい店内に、客さえもそれぞれが輝く容姿を持ち合わせて、あるいは着飾り、各々の友人また彼氏彼女でたむろしている。そんな場所に先輩は場違いですよ。まあ僕もですけど」

 僕はまくしたてた。先輩はキョトンとしている。

 「なんか、いやに妬みが混じってないか・・? まあいい、この前香織から話を聞いて一度行ってみたかったんだ。彼女によるとコーヒーの上に生クリームがのっていて、チョコレートやキャラメルのソースが降りかかっているらしい。どうだ、うまそうだろう?」

 「確かに美味しそうではありますが」

 「な?」

 以前から米国で絶大な人気を誇っていた★ーバックスは珈琲嗜好家に待望され日本に店舗を出すやいなや、瞬く間に全国へとチェーン展開を広げ、今や誰もが知る大手コーヒーショップまでになっていた。客層は若者が多くを占めていて、珈琲の上に甘い生クリームとフレーバーソースをあしらった”フラペチーノ”が看板商品である。勿論、ブラックも濃くて、後味のキレが良いと評判だ。

 ★ーバックスオリジナルのカップには★マークのロゴがプリントされていて、いかにも女子受けをしそうな、オシャレな見た目でもある。事実近年のインスタ映えブームも相まってか、SNSにはカップ片手に撮った自撮りで溢れている。

 今、パリピ達の中ではカップと一緒に自撮りをすることが一種のステータスのようになっていて。何時でも店内は着飾った若者が席を埋めていた。他にはピリッとしたスーツを着て、カップ片手にノートパソコンを打つサラリーマンの姿もあった。

 彼らはまったくもって、僕等とは真逆の人種である。

 「先輩には悪いですけれど、僕はパスです。毛玉だらけのパーカーと色落ちしたジーンズであそこに入る気にはなれませんね。しかも芋の入ったビニール袋を持ったまま」

 そんなことをしたら注目の的だろう。悪い意味で。

 「そう。じゃ、先に帰っててくれ」

 「は?」

 差し出されたお菓子の入ったビニール袋を見て、思わず間抜けな声が出てしまった。ほら、と催促する彼女はどうやら、不感症なのかそれともメンタルが強いのか。その大胆いや豪胆さに僕はため息をついた。

 「・・はあ。いいですよ、僕もついていきます。死なばもろとも」

 「使い方がおかしくないか?」

 ビニール袋を提げて来た道を戻る。並んで歩く僕らは傍から見たら夕飯の買出しに出てきた若夫婦のように見られているのかもしれない。そんなわけないか。

 行きと同じくらいの時間をかけてバス停の前までたどり着き、それを通り過ぎる。ガラス張りの窓を回り込むとそこが店の入り口だ。緑、白、透明の白。今どきふうの、清潔感のある店構えだった。扉に取っては無くて、勿論自動ドアだった。

幸いにも店内は満員御礼。席に座って談笑する人々の声で流行りのK-POPであろう、軽快なBGMが霞むほどだった。外から見た店内の印象とは違い、案外に薄暗い。そう高さのない天井にはシーリングライトファンが音を立てることなく回っていた。入ってすぐのところに注文カウンターがある。

 僕たちの前にお客さんがいないようであったので、先輩と連れ立ってカウンターの前に立つ。「いらっしゃいませ」濃い緑のエプロンをした女性店員が腰を折った。

 ★ーバックスは席に案内され腰を落ち着けてから何かしらを注文する日本の一般的な喫茶店とは違い、カウンターで注文し、カウンターで受け取るスタイルである。店内外に備え付けられたテーブルやイスはいわば、勝手に使ってくれと云ったところか。

 ラミネートの施された手作りと思しきメニュー表を吟味する。赤、黄、黒、また赤。およそ僕の知り得るコーヒーの色合いはしていなかった。しかしこの、甘い生クリームの乗ったウインナーコーヒーのうえに苺やバナナなど様々なフレーバーをあしらった”フラペチーノ”がこの店の看板商品である。先輩はチョコレートのフラペチーノを注文し、せっかくなので僕も同じものにした。「約束通りここは私が払う」と財布代わりの部費封筒を取り出す先輩を諫めて自分の分の支払いを終えると整理番号のついたレシートが渡された。

 「そちらで、少々お待ちください」

 言ってから女性店員は後ろの機械に向かう。どうやらあれがコーヒーメーカーのようである。どんな機構をしているのか、これがまた、でかい。スケルトンにしたら面白そうだ、とか他愛も無いことを考えていると先輩が何処からか取り出した扇子で()()()()()()と僕の髪を払う。

 「なかなかどうして、いい雰囲気じゃないか? な」

 「そうですね」扇子は取り上げた「薄暗い店内と騒がしい会話の声がマッチしている? みたいです」「大きな窓からほのかに光が差し込んでいるのも相まって」

 「ああ。今度来た時には私もあの、窓際の席に座ってみたいものだ。最近は秋晴れも少ないし、眩しいということはないだろう・・お」

 先輩は言葉を切りおもむろに店内の一角を指差した。僕はその指の先へ目をやって、首を傾げる。はて。

 「なんですか? 」

 「おい・・・戦争もほどほどにな。不毛だから」

 先輩は呆れた表情で首をふる。なんだか視線を感じたがすぐに逸らされた。

 程なくしてコーヒが出来上がり受け取ったカップを手にバス停へと向かう。こんな格好ではあるものの、歩きながら飲み食いする事には抵抗があって、示し合わせずとも一口目はバス停のベンチであった。んじゃ・・ストローをスプーン代わりに、示し合わせて二人同時に口に入れる。

 「「あまい」」あまかった。

 「「あますぎる」」とてもあまかった。

 部室で駄弁りながら毎日のようにお菓子を摘まんでいる僕からしてもこれはあまい。とてもあまい。口の中にブドウ糖を詰め込まれたような錯覚を覚える。唸る僕に反して先輩は空の一点を見つめていた。苦行 の二文字が脳裏に浮かぶ。

 「次のバスまであと何分だ? 」死にそうな顔で訊かれた。

 「えっと・・」四角い時刻表に目を眇める。

 挿絵(By みてみん)

 「今が四時半なので・・次のバスまではあと四分ですね」

 「あまりないな」

急ごう、とは云うものの膨大な、巨大の方が正しいか。まさに生クリームの白い巨塔。砂糖の塊はなかなかに量を減らさない。

 世の女性はSNSに写真を上げる間隔でこれをぺろりと平らげるらしいから、畏怖の感情すら覚える。僕は味覚がおかしくなってしまいそうだ。死にかけていた横の女性もまた、今は真顔で食べ進めている。

 ・・K点を突破したのであろう。合掌。元はと云えば彼女の方から誘われた記憶があるのだが。

 僕も止まっているわけにはいかない。とりあえずカップの下に溜まったコーヒから攻略することにした。

 しかしこれがまた。唾液を何度も飲みながら、ほとんど作業的に喉を鳴らす。ぶうん、と目の前の道路から吹き付ける、車の走行風がせめてもの救いであった。

 今いる〇●丘駅は、さすがは大都会愛知県ご自慢の名古屋市、その中心部に位置しているだけあってとても交通量が多い。車の列が途切れることを知らないし、なんなら駅前の通りを一本外れれば当然のように三車線である。舗装路が珍しい田舎から名古屋に出てきた身にすれば、大層驚いたものだった。

 勿論電車やバスの本数もけた違いだ。電車はともかく、時間通りにバスが到着した折には本当にこのバスは一本前の便ではないのかと、疑いすら感じた。

 改めて時刻表を眺めてみた。

 「これが都会か」

 「いきなりどうした」横の人がストローの端を噛みながら、半眼になっていた。

 どうにかこうにか僕もフラペチーノの討伐に成功し、近くのごみ箱にカップを捨てる。先輩は律義にも噛んだストローを元に直してから捨てていた。待っていたかのようにバスが到着したので二人で乗り込む。

 なんとなく別々の席に座った。僕は一番後ろ、先輩は入り口横のよく揺れそうな席に座った。

 四時三十四分、きっかり。やはり日本のバスは、いや都会のバスは正確である。僕たちの他に乗客はおらず、すぐさま車掌が出発のアナウンスをした。エンジンが大きく呻りをあげ、車体が揺れた。

 二つほど角を曲がり大通りに出ると、どうやら車の流れに乗ったようでゆったりと、すべるように道路を流れる。

 西日の差しこむ空席だらけのバスは、急ぐことなく一番左側の車線を走っていた。

 雨が垂れた染みやこびりついた埃の目立つ車窓からみるコンクリートジャングルは、お世辞にも綺麗とは言い難かったがそれでもしかし、一人の人間をしんみりとさせるには十分であった。

 さっき向こうも気が付いてたよな---。★ーバックスでの事を思い出して、自戒混じりの溜息をついた。 先輩と一緒だったら仲直りもできたかもしれないのに。折角の和解の機会を失ってしまった。

 信号待ちをしているバスを、外を高校生のカップルが二人乗りで抜き去っていく。それさえも後悔を催促しているように思えた。

 「はあ・・」

 信号が青に変わり、その熱を帯びた吐息は鈍い排気音にかき消された。

 気晴らしに携帯で時刻を確認する。まだ五分も経っていなかった。

 外に目をやるたび、僕の後ろへ置き去りにされていく世界。

 目をつぶっていれば。伏せた瞼を永遠に開かなければ。この時の奔流を、()()とせき止めることが出来るのだろうか。

 さながら・・。

 「・・・」

 口元に手を添えて隠すようにする。

 何を独り言ちているのだろう。思春期の中学生でもあるまいし。

 途端に恥ずかしくなって、誰が見ているわけでもないのに腕組みをして目を閉じた。

 何も見えない。

 すぐ傍を追い抜いていく車の走行音。自分自身の衣擦れの音。何か物音がしたのは、先輩か、それとも運転手か。なんにせよ、僕は支配者には程遠いようだった。

 どれくらいの時間が経っただろう。

 「次はA大学前ー。次はA大学前ー」機械特有のノイズの混じった車掌の声が響く。

 瞼を上げると見慣れたコンビニエンスストア。

 早いものだ。まずそう感じた。目を瞑っていたから。

 大学の入り口を示す大きなアーチを潜り(早々とカラフルな電球たちで装飾されていた)バスは停車した。降車せねば。運賃の精算をするために車両前方へと向かう。

 途中、無防備な國枝麻希が腰掛けていたので肩を揺すった。

 「ありがとうございましたー」機械的な人間に見送られて運賃を支払った。もう季節は冬なのだろう、つい先ほどまで明るかった空は、いつの間にか暗い。

 空を見ているうち、先輩が先を行っていた。小走りで後を追う。

 部室までの道のりは、ほんの数時間前に歩いた道を引き返すだけ(実際は走っていたが)のはずなのに、随分と淋しい。アスファルトの上に等間隔に設置された街灯の光が宙を舞う埃や塵を巻き上げて、それらは空へと昇っていくようだった。途中駐車場の横を通りがかったが、残っている車は少ない。

 すれ違う人もまばらに、二人で夜道を歩く。先輩は度々縁石に跳びのってはまた降りてを繰り返していた。そのたびに手にさげたビニールから中身が落ちそうだった。僕はただその背中についてゆく。

 まるで子供みたいだと思った。でも僕よりずっと大人なのだろう。

 部室に帰る前に部活棟のB棟(僕たちの部室はA棟にある)に寄っていくことにした。というのも、★ーバックスに気を取られてすっかり、灯油が切れていることを失念していたからである。

 幸いにもまだB棟の鍵は締まっていなかったので、誰に許可を取らずとも入ることが出来た。”備品室”のプレートが貼られた部屋に入り、赤色のポリタンクを一つ持ち出した。傍にグローブやバットがほおってあったので、おおかた野球部の備品なのだろう。一日分拝借するだけなら、まさかバレることはあるまい。一応先輩が見張り役としてドアの外に立っていた。

 ぱちっ、と軽い音がして部屋が明るくなった。後から入ってきた先輩がカーテン引く。件のストーブの前にポリタンクをどん、と置くと呼応したみたいに安楽椅子が軋んだ。

 「ほれ」言葉と共に新たなポリタンク(もとより部室にあった給油ポンプ付きの)が床を滑ってきた。

 「これを使え」

 いや手伝えよ。と内心思ったけれど、どうやら彼女はもう腰を落ち着けてしまって動く気はなさそうだ。喜ぶべきか田舎者の性か、説明を受けずとも給油くらいはこなせてしまうので素直に言われた通りストーブにむかう。

 錆びたキャップを捻り二又に分かれたホースの片方をその給油口に、もう片方を拝借してきたばかりのポリタンクに突っ込んで、蛇腹のポンプ部分を手で何度も握る。いわゆるスケルトンになっているホースだったので灯油が滞りなく汲み上げられているのが見て取れた。だいたいこんなもんだろう、という点でポンプを握る手を止める。

 しっかりとキャップを締めなおして勢いよくストーブのスイッチを降ろす。ぼっ、と強い炎が鉄格子の内側で燃え上がった。青い炎が温かい。

 「あ。ありがとうございます」自分もソファでひと息つこうとしたら、淹れたてのコーヒーが用意されていた。「いや、いい」彼女はチョコレートを齧りながら答えた。

 カーテンをめくり窓を少しだけ開けてから、茶色のソファに腰掛けるとずぶりと体が沈んだ。ガラス机に置かれたカップは、僕の使いなれたものだった。

 やけどをしないように気を付けながら、湯気の立ちのぼる黒い液体を啜る。こちらのコーヒーはとても苦かった。

 無言。

 ひゅう。ぼお。ひゅう。

 肌寒さの残る部室で先輩と二人。こういうのも悪くはないかな、と思った。ふけり、チョコレートを齧った。

 「裕巳、時間は大丈夫か? 」先輩が椅子に座ったまま訊いてきた。

 「ええ。(今更ながら”裕巳”は僕の名前だ)大丈夫ですよ」「それこそ終電を逃したら部室に泊まればいいだけですから」

 「本当に泊まる気か? それも楽しそうだがな」

 「だめなんですか」勿論本当にその気はないが。

 「いや、構わんよ。むしろ泊っていけ。夜は独りだと寂しいんだ」

 「はあ」本当にそうしてやろうか。

 生返事を返すと先輩が横目でこちらを見やった。

 「いやにそっけないじゃないか」

 「そうですか」

 「そうだよ」そうだよ、と断言されてしまっては切り返す術はなかった。

 「香織のことだろう? 」

 思わず顔を上げると彼女と目が合う。瞬間目を逸らしてしまった。それを彼女は肯定と受け取ったようであったが、それまでだった。

 五秒と経たずに僕は観念した。

 「まあ・・・。ほんと、他愛も・・・。どっちが間違っているのか、いたのか、わからないんですけど。今となっては。でも。まあ、うん。とどのつまり、後ろめたくは、ありますね」

 不思議と言葉は零れだすもので途切れ途切れではあったが、彼女は僕を見つめて。見守ってくれていた。

 「ついさっきの、店での事も含めてか」

 僕は頷く。

 やっぱりな、呟くと彼女は腰の辺りをごそごそやり始めた。何だろうと訝しんでいると、漸く裸のままのスマートフォンが取り出された。「どうしたんですか」「まあ、まて」彼女は慣れない手つきでそれを操作して暫く、操作を終えたようである。

 「すまないが、焼き芋はもう少し後になりそうだ」

 「はあ」快適なこの部屋であれば待つことにやぶさかでない。

 再びソファに身体を(うず)める。世には”人をダメにするソファ”なるものが存在するらしいが、この擦り切れ、ばねの弱くなった代物でも僕をダメにするのには十分な性能を備えていた。

 だんだんと部屋の中も温まってきて、また糖分を多く摂ったことも相まって眠たくなってくる。無意識に降りてきてしまう瞼と格闘していると、先輩が歩み寄ってきて毛布を掛けてくれた。

 うつらうつらとしているうち、とりあえず仮眠しようということに(自分自身のなかで)相成って瞼と格闘することを諦めた。

 ゆっくりと意識が遠のいていく感じがする。今にも寝入ってしまいそうだ。

 その時。

 でっでー、どたん、ででん、ばたばた、ばったーん。どどんぱどどんぱ、どんどこどん。

 知っていなければ、およそ足音であるとは判断がつかないであろう、やかましい、騒音。

 遠のきかけた意識が現実へと引き戻されて、腰のところまで毛布がずり落ちた。

 耳をすます。ぱっぱー、どどーんどー(以下略)やはりそれはだんだんと大きくなって、もう部室のすぐそこだ。

 非難の意を込めて先輩をねめつけるも、彼女はどこ吹く風とばかりに足元の段ボールを物色していた。ばあん、と蝶番を痛めつけるような勢いでドアが開く。そして栗色の髪をはためかせながら活発そうな女性が、文字通り部室に飛び込んできた。「はっ、はぁ」暖かそうなトレンチコートを着た彼女は息を切らしながら開口一番尋ねる。

 「えまさん、えまさん来ましたよ。急いでね。何ですか大事な用事って」「いやどうして段ボールまさぐってるんですか」コートを脱ぎながら半眼になって忙しい事である。

 「おお、香織。はやかったな、まあ座ってくれ」腰を曲げたまま顔も上げもせずに、くに()()きさんは応えた。

 「はやかったな、やないですよ。ほんま”大事な用があるから至急集合されたし”なんて文面送るだけ送っといてそれ以降こっちのに既読もつけんと、、、」

 そこで僕と目があった。

 睨みあう敵国同士。さながらキューバ危機だ。一触即発。

 「私も座りたいんだけど」冷たい瞳で睨まれた。

 「あ、はい」コーヒを自分の方に寄せて、二人掛けソファの半分を明け渡した。「ありがと」危機はアメリカが譲歩する形で去ったようである。

 ついでとばかりに僕の毛布まで奪い去っていった横暴なソ連・・ではなく彼女は湯島香織。最近染め直してブリーチとやらをいれたらしい栗色のショートカットで、形のいい耳に光るピアスが今日は藍色だった。いつもは小さなリュックサックを背負って、色の濃いスポーツ帽やまた落ち着いた色をしたキャスケットをかぶっているのが常なのだけれど、手提げかばんも悪くないように感じた。

 僕が身だしなみについて考察してみたところでろくな評価はできないが、それでも一目見た時”なんとなくいい”と思ってしまう。つまりコーディネートを彼女は毎日練り考えて、それを纏っているのだろう。

 よれよれのTシャツを着た男と万年ジャージ女の前では洒落方が一層際立ち、浮いているくらいだったがこの三人で囲碁部オールスターである。

 要するに部長國枝麻希に僕、西園寺裕巳を加えて残る最後の部員がこの湯島香織なのだった。

 P・S 湯島は関西人ではない。

 「それで? 」なんですかと、両手に息を吐きかけながら彼女が問うた。

 やっとこちらを正面にした先輩が頷く。

 「曲がりなりにもこの部の部長としてだな、目下部員の過半数が険悪な状況にあるというのは望ましくないわけだ。そこで」

 彼女が突如両手を掲げてみせる。右手には百均で売っていそうな安っぽいライター、左手には卵のパックみたいな紙のトレー。「左手のなんですか」「着火剤だ。一ダースで千二百円」

 「それだ」

 彼女が着火剤で指示したほうに目をやると、Bコープのビニール袋。飛び出した紅色の物体は数十分後には黒焦げになっているだろう。事情を知らない湯島は困惑しているようで、席を立ちビニールをまさぐった。

 「なんだ、さつまいもじゃないですか。随分と汚れて土だらけですけど」「いち、に、ちょうど三本ありますね。焼き芋でもやるんですか」

 そのとおりだ。先輩も大きく頷いた。

 「今しがた裕巳と駅前まで買い物にいってきてな。それで裏の土手で焼き芋をするのに、香織もどうかと誘ってみたんだ。折角だから香織が初めに選んでいいぞ。大きいヤツを」

 ほれ、ほれ、と催促する先輩は、なんだかヨイショしているように見えなくもない。それを察しているのかいないのか、湯島は目を眇めた。

 「えまさん」

 「なんだ」

 「どうやらイマイチ要領を得ないようですけれど、件の”大事な用”ってなんですか? 」

 「勿論焼き芋のことだが」

 「無駄足でした。帰らせていただきます」

 「まって、まって」湯島が靴の鳴りそうな勢いで踵を返したので、慌てて静止した。「なに? 」と手提げ袋を肩に掛けつつ彼女が口を尖らせるものだから、怖気づいて咄嗟に目を逸らしてしまった。

 「あ、あのさ。帰らないでくれない? 」言い方が変になった。

 「は? 」

 「帰らないでください」たいして変わっていない。

 「いや、はっ。裕巳何言ってんの? 脈絡ないよ」

 しどろもどろの僕を嗤ってだろうが湯島が笑った。それで多少は話やすくなって、口に溜まった唾を呑み込んだ。

 「ほら最近さ、その、あんまりよくない感じじゃん? 僕と湯島が」「そうだね」「うん。だからさこれを機に・・あの・・仲直りできたらいいかなって。湯島と」

 はたしてこれでどうか。途切れ途切れではあったが、これが僕の本心だ。

 手の届きそうな距離にいる湯島の顔を下から、そろりと窺いみる。

 しかし次の瞬間には彼女の身体はそこではない何処かへと消えてしまっていて---

 「ま、裕巳の方からそう云うんなら、私としてもそれはやぶさかでないけど」

 ---僕の隣に座る。「よかった」自分も座りなおしながら、内心で本当によかったと独り言ちた。

 「無駄足って・・。そんな言い方しなくても・・」

 ひょんなことで拗ねてしまう割と繊細な先輩に感謝しなければ。



                 3



 「うおっ、熱っ」

 「気をつけとかんと、やけどしちゃうよ」

 服についた火の粉を払っていると横から銀のトング(ゴミ拾いの時に使うやつ)が差し出された。軍手を嵌めた右手でそれを受け取って、火を掻き交ぜる。めらめらと、いっそう大きく炎が揺れて隣にいる湯島が顔の前に手を翳す。

 道具だけ貸してやるから二人でやってこい、と頬を膨らます先輩をなんとかなだめて部室の外に出るとさすがにもう空は真っ黒だった。当初の予定では部室棟裏の土手で焚火するつもりだったのだけれど、土手のすぐ下は池(たぶん貯水槽)があってこの暗さでは落下の危険がある。

 そんな事情があって、僕等囲碁部三人衆は野球場の隅っこにいた。

 どうして野球場なのかというと、燃えそうな落ち葉が多く落ちていて、かつ土が柔らかく穴を掘りやすいからである。焼き芋自体は落ち葉を集めて焚火すればできないことはないがそこは安全を考慮して、シャベルで堀った穴に落ち葉を詰め込み火を点け、折を見て、芋をくるんだアルミホイルを投げ入れたのがついさっきのことだ。

 あんなに炎が弾けるとは知らなかった。服の端を引っ張ってもう一度、黒く焦げていないかを確認した。大丈夫そうだ。

 薄い煙のカーテンの上を灰になった落ち葉が舞い上がって、また違う落ち葉が揺れ落ちてくるのを繰り返している。それは丸いビニールボールの中を跳ねまわるスピードくじに似ていた。カーテンの向こう側で高所から辺りを照らす、ナイター設備の白色光が告発するみたいに漆黒の夜空を浮遊する埃を露わに浮かび上がらせていて、それは冬の訪れを示唆しているようだった。

 両腕にパイプ椅子を抱えた先輩が戻ってきたので、煙の流れるほうを避けつつ、三人で火を囲む。でこぼこの地面の上では、椅子の古さは気にならなかった。

 「二人とも何飲む? 」湯島がミカンの絵がプリントされた段ボールから紙コップを取り出しながら言った。必要になりそうなものはすべて、段ボールの中に入れて持ってきていた。

 「私はコーヒーがいい」先輩が手を擦らせながら注文する。いくらジャンバーを羽織っているとはいえ、夜にジャージで外は寒いだろう。湯島に促されて、僕はお茶を頼んだ。

 ペットボトルのお茶が注がれた紙コップが配られて、一口すする。

 絶妙にぬるかったけれど、焚火の暖かさでいい塩梅だった。

 「やっぱり寒いな・・」足をぴったり閉じて先輩が震える。見かねて、

 「部室から毛布取ってきましょうか? 」

 「あーー。その提案はありがたいが、燃えそうだから、いい」

 コートを肩にかけている湯島と元から厚着をしている僕からすれば、一人だけ我慢大会をしているような様相であった。湯島と二人で肩を竦めた。

 先輩は温かいはずの(こちらは魔法瓶に入れてきた)コーヒを喉を鳴らして流し込む。同じくコーヒを、息を吹きかけて冷ましていた湯島が口をあんぐりと開けながら、そこに二杯目を注いだ。

 「さむ、さむ」

 そう言って再度紙コップを煽ろうとするものだから、

 「先輩、喉を火傷しますよ」流石に制止した。

 「馴れだよ、馴れ」

 忠告を聞く気配が微塵も見受けられなかったので、湯島が紙コップを取り上げた。先輩は「凍え死んでしまうだろうが」と暫し抵抗を試みたが、すぐに諦めて何を思ったかミカンの段ボールをガサガサやる。

 「どうしたんですか」

 僕の問いに先輩は応えることなく、出てきたくしゃくしゃに丸まった新聞紙を広げる。中日スポーツだった。それをマントみたいにはためかせて羽織って前で結ぶと、満足げに微笑んだ。

 「これでいい」

 「はあ」

 どうやら寒さの問題は解決したようである。繊細なのかそれとも鈍感、いや豪快なのかまるでわからない。

 新聞紙のマントを首に巻いた怪人は今度はアルミホイルで工作を始めた。湯島に取り上げられた紙コップを返してもらい、コップの周りにアルミホイルを巻いていく。湯島と目が合って、お互いに肩を竦め合った。

 暫く二人で黙ってみていると、銀のタンブラー・・・は明らかに言い過ぎなので、見たまま。

 アルミホイルを巻いた紙コップが完成した。ご丁寧なことにこれまたアルミホイル制の蓋まで上にのっている。「もう一重くらいしとくか」おんぼろタンブラーがまた一枚分、厚くなった。

 「うちの小学生の弟みたいですね」湯島には弟がいるらしい。

 「失礼なやつだな。みてろ」「裕巳、火掻き棒を貸してくれ。」

 「え? ああ、トングのことですか」

 「ああ」

 持っていたトングを彼女に渡すと、それで大分火の小さくなってきた焚火の端を掘るようにして掻きわける。飛び散る灰に目を眇めていると、ちょうど紙コップが入りそうな空間が完成した。

 おいまさか。

 「熱燗だ」 

 そう言うが早いか、彼女は軍手も嵌めずに掘った穴へおんぼろタンブラーを突っ込んだ。白い灰がせめてもの抵抗に舞い散るが、お構いなしのようだった。

 「火傷しちゃいますよ」先刻同じ忠告を受けた気がする。

 「大丈夫だ」

 「火事になりません? 」これは僕だ。

 「あのな、そんな皆まで心配にならんでも大丈夫だ。これが初めてというわけでもあるまいし」

 「へえ」

 どうやら先輩の話を聴くに去年の正月実家で飲んだ日本酒の熱燗の味を忘れられずに、一人暮らししている自分の部屋でも偶に、やかんの中へ徳利を浮かべているとのことだった。

 そう、こと今回に関しては日本酒がコーヒーに、徳利が紙コップ、極めつけにお湯の入ったやかんではなく、直火なだけである。

 「絶対失敗してると思う」

 大きく頷いて湯島の言葉に激しく賛成の意を唱える。先輩が僕と湯島をねめつけたが、徳利を取り出す気はないらしかった。

 そんなことをしているうちにいつの間にか炎は消えてしまっていて、灰になってしまった落ち葉や燃えかすの木の棒の隙間からその奥に赤いおき火がたっぷりと蓄えられているのが見て取れた。

 「そろそろ芋をいれるかな」

 おもむろに先輩が言った。しかし芋ならもう灰の中だ。

 「もう入ってますよ」灰だけに・・それはさすがに自重した。

 「はあ?」

 「いや、だからもうそこに入ってますって。先輩が椅子を取りに行ってくれている間にホイルにくるんで」

 湯島がその辺に落ちていた棒の先で灰を崩すと、芋の形をしたアルミホイルが出土した。しかし、なんというかいやに、真っ黒だった。

 先輩が呆れたみたいなため息をついた。

 「あのなあ、二人は焼き芋を作ったことがないのか?」

 ありません、と湯島はかぶりを振った。裕巳は、と足で催促される。

 「最近はやってないですけど、実家で作ったことならありますよ」「ストーブで、ですけど」

 「ストーブで焼き芋が作れるの? 」湯島が驚いている。田舎人の知恵みたいなものだが、ストーブの上に新聞紙か何かでくるんだ芋を置いておくと、二十分くらいで焼き芋に進化するのだ。知らない湯島は都会育ちなのかと勝手ながら推察した。

 「じゃあこうして、焚火して作るのは初めてなんだな」

 僕が頷くと、先輩は納得したみたいに頬杖をついた。

 「焼き芋はな、焚火の終わった後の灰の中で、つまり残り火でじっくりと蒸し上げるものなんだよ」

 「「えっ」」

 「だから、ごうごう、炎の燃え立つ中に芋を放り込んでしまっては。できるのは芋の形を成した炭だぞ」

 説明しながら彼女は靴の先で、湯島が発掘した芋(だと思われる黒い塊)を自分の足元に蹴り出すと、

 「よっ」思いっきり踏みつぶす。

 それは靴の痕を残すみたいにある程度の形を保ちつつ、しかし崩れ落ちた。「あーあ」かつて紫色をした立派なさつまいもだったものは、今や完全に炭と化してしまったようであった。

 ひゅう、と一迅の冷たい風が髪を揺らした。

 「そもそも、なんで焼き芋なんてしようと? 」湯島は灰を木の棒で掻いて新たに炭を発掘しながら、それに未練があるわけでもなかろうが、「奮起したんですか」先輩に尋ねかけた。

 「それは裕巳がな」彼女が僕を指示して言ったので、湯島がこちらに視線を移した。

 僕としては深い考えがあったのでもなく、先輩との話の流れのまま今に至るわけで、「なんか、その場の流れで」と応えた。湯島は「ふうん」と頷いた。

 「しかし」先輩が云う。

 「美味しいものを食べれば、お互いのわだかまりは消えるだろ」

 その言葉に僕と湯島は顔を見合わせて、微笑した。

 「たしかに」感謝の意を述べると先輩は照れたみたいに足元に手を伸ばした。どうやら件の熱燗がそろそろの様である。

 「さて・・どうか」

 三人分の注目が集まる中、白く雪を被ったタンブラーが雪の山から引き抜かれた。

 蓋に積もった灰が中に落ちてしまわないように、彼女は慎重に蓋を捲る。そのまま外に何重にも巻き付けたアルミホイルをはがしていくと。白い、ふやけてはいるものの原型を保った紙コップが姿を現した。おお、と僕と湯島の口から歓声が漏れた。案外にうまくいくものである。先輩も満足げだ。

 「うん、なかなか。香りは・・・焦げ臭いな」

 当然である。

 もう一度紙コップ周りの灰を確認してから、先輩はぐいと、一息にそれをあおった。

 「ぶっふっぉ」

 「ちょちょちょい」

 先輩が派手にマーライオンになった。のけぞる僕の足元が水浸しになってズボンが少し濡れた。。湯島が辟易しながらミカンの段ボールをまさぐって、先輩に新聞紙を手渡した。

 「ごほっごほっ。ありがとう香織。」

 「なにしてんですか、まじ。あ、湯島。僕にも一枚頂戴」

 湯島がくしゃくしゃの新聞紙を投げて寄こすのと同時に「すまん」先輩が謝った。

 「このくらい、別にいいですよ」湯島との仲を取り持ってもらった件もある。これくらいのことなら気に留める理由もあるはずはなかった。

 「結局只の、キャンプファイヤーになってしまったな」

 寒空に虚しく、残り火の暖かさだけが残った。

 「私は嫌いじゃありませんよ。こういうの」湯島が足元に手を翳す。

 「僕も」「嫌いじゃないです」

 「そうか」

 云うと先輩はトングで灰をかき回し始めた。

 只の暇つぶしだろう。僕と湯島はそれをぼうと眺めていた。

 湯島がぐんと伸びをしたので僕も一緒になって足首を伸ばす。先輩が横目にそれを見やる。

 「もう君達はすっかり、いつもどうりだな。よかった」

 「おかげさまで」これは僕。

 「まるっと円満に」これは湯島だ。

 まるで言い回しがT〇RICKだな。彼女は笑い、尋ねる。

 「こんな機会だ。君等の喧嘩の原因は何だったんだ? 」

 湯島と視線を交わして、どうやら完全にわだかまりが解けたらしいことを新めて、確かめてから僕は口を開いた。

 「あれは二週間前の週末。正確には土曜日のことだったんですが---」

 時は二週間前の土曜日その前金曜日まで遡る。

 あの日僕と湯島は二人で部室にいた。部室を自分の家のようにしている先輩もあの日はいなかった。

 部室に二人きりでも僕達のやることは変わらず、飲み物とお菓子をつまみながら駄弁っているだけだった。先輩が居なかったから、と云う訳ではないが物音欲しさにテレビを点けていた。

 僕の記憶ではちょうど外の暗くなり始めた、夕方四時ごろのことだったと記憶しているから画面にはこの地区、つまり名古屋市のローカル情報番組が流れていた。その番組では常日頃から、野菜の生産者の方へのインタビューや最近名古屋にできたスイーツのお店を紹介するなどしていた。

 「あら~こんな場所に新しいシュークリームのお店が出来たんですね私知りませんでした路地裏に一本入った隠れ家的な外見でかくれんぼに最適かもしれませんわねうふふじゃあ中に入ってみましょうかあらあら~おいしそうなシュークリームがこんなにたくさんひとついただきますわねあらあらあr(以下略)」

 ・・このような具合でアラフォーとおぼわしき女性アナウンサーがリポートしていたのだが、件のシュークリームがとても美味しそうに見えて、しかし女性のお客さんが多くどうやら男ひとりでは入りにくそうな客層であったため

 「湯島、あれ。食べたくない? 」

 「思った」同じようにテレビに目を取られていた湯島が僕を指差す。

 「じゃあ一緒に行こうよ」

 かくしてその次の日の土曜日に二人でそのお店に行くことが決まったのだった。

 --「なんだ。仲のいいことうけあいじゃないかって・・・まて。私誘われたか? 」

 忘れてた。

 先輩が半眼になって僕と湯島を交互に見る。

 「・・・まだ続きがあるんです--」

 「おい」

 また時は金曜日にまで遡る。

  --「ふうん。長久手にある店なんだ」僕は携帯で店の情報を調べていた。

 「大学から直ぐじゃん」「何時集合にする? 」湯島がチョコレートを頬張りながら尋ねる。

 「うーん・・」

  一緒に出掛けるのだから当然、金曜日のうちに僕たちは待ち合わせ場所とおおよその集合時間を決めていた。

 「・・二時くらい?」

 「昼だと混むよ。たぶん」

 「それもそうか。店の開店時間が十一時半。じゃあ・・」

 「土曜日だから休日ダイヤも考えないとねー」存外に湯島はしっかりしている。

 「ふむむ」僕はバスの時刻表を頭の中で思い浮かべようと試みるが、それに成功する前に湯島が携帯で調べたらしい。

 「九時二十五分のかなぁ」彼女が提案する。

 「九時半? 随分と早くないか」バスの時間から開店まで二時間あるが。

 「そう? それくらいじゃないと間に合わないから」

 当然見たく彼女は云う。そんなものだろうか。

まあ、ことスイーツ店に関しては女子の湯島のほうが詳しいと思う。

 「ん。じゃ土曜日に、て云っても明日だけど。集合場所は大学校内のバス停で」

 「いや裕巳、時間は? 」

 なぜか自分から提案しておいて彼女は首を傾げる。僕としては彼女に異論はない。

 「だから、今湯島が決めたやつでいいよ。ちょっとくらい時間が前後してもLINEすれば大丈夫でしょ」

 正確に時間を決めてはいないものの、休日とはいえ数分置きにバスは運航している。一本くらいお互いの乗るバスが違ったところでたいした差にはならないだろう。その時はSNSで連絡をとればいい。

 湯島が何か言いたげに眼を泳がせていたが、止めたようだ。

 「あー。うん。わかった。遅れないでね」「何食べようかなあ・・」

 「シュークリームしかないんじゃない? どうやら専門店みたいだったしさ」

 僕の言葉に彼女は人差し指をメトロノームみたいに振ってみせる。

 「ちっちっち。ああいう専門店には大抵、他のケーキとかも何種類かは置いてあるの。ガトーショコラとか、チーズケーキとか。オードソックスなケーキはショーケースの肥やしに陳列されてるのよ」

 「へえ」知らんかった。

 「太るかなぁ。」彼女はお腹辺りに視線を落とした。

 その後も僕が湯島のスイーツ談義に耳を傾けたりだとか、課題をお互いに見せ合って写すなどして夕方辺りまでは二人で部室に居た。

 僕は(おそらく湯島も)次の日に食べる甘味のことを思い、唾を呑み込みつつその日はお開きとなった。

 次の日。

 僕は時間通りのバスに乗って、九時半には集合場所のバス停に到着した。

 そして一時間近く彼女に待たされることになったのであった。

 

 

              3

 

 

 「そりゃまた香織は寝坊でもしたのか? 」先輩は自分のほっぺたを両の掌で挟んで口を尖らす。

 「してませんよ。これでも寝起きはいいほうなんですから」湯島が半眼で睨みつける。一連の話を聞き終えて、先輩はいまだ困惑しきりのようだった。

 そう、ここからが問題なのである。

 湯島は続ける。

 「私は決めた通りに、電車とバスを乗り継いでですけど、集合場所に到着しました。そしたらむくれた裕巳が仁王立ちしてて、キレてきたんです」

 「キレてはないよ」反射的に言い返す。

 「云うだけ言って勝手に帰ったくせに」応戦。

 「そりゃこっちは一時間も待たされてたんだから、怒りもするよ」

 「だから待たされたって、そっちが一時間もはやく着いてただけでしょ? それで文句言われても困ります」

 「困りますって・・湯島さ」

 「まあまあ、待て待て二人とも」

 いつの間にか鼻先を突き合わせていた僕と湯島を先輩が制止した。せっかく仲直りしたところだろう、と諭されて深呼吸をした。

 「落ち着いたか」

 二人で頷く。ばつが悪かった。よし、と先輩が手を叩く。

 「要約するとこうだな」

 彼女は灰が掛かるのも気にせず、トングで自分の肩を叩くようにする。

 「土曜日に私をハブにして二人きりで、スイーツ店に君等は出かけようとした。前の日に当日の集合時間や何を食べるまで、それなりに計画を建てていた」

 「そうです」ハブにしたつもりはないが。

 「にも拘わらず、裕巳は香織が考えていたよりも一時間はやく。そして香織は裕巳からすれば一時間遅れて集合場所にやってきたと」

 「ええ」湯島が相槌を打つ。

 「そうか」

 先輩はそれだけ応えると、椅子にぐっと深く身体を沈み込ませた。自分の体を抱くようにした左腕の手の甲に右の肘を乗せて、掌で口を隠す。

 ポーズを取ったかと思うと、それから微動だにしない。その様はさながら安楽椅子に背中を埋め難事件の謎を推理する、シャーロック・ホームズのようであった。彼女と出会ったばかりのころは、怒っているのではと機嫌を窺ったものだが、半年も経てばもう見慣れたものだった。

 「さっきはごめんね」考え込む彼女を尻目に、湯島が謝罪の言葉を述べる。

 「ううん。僕の方こそごめん。売り言葉に買い言葉じゃないけど・・ごめん」

 「私も気にしてないから大丈夫だよ」「コーヒー飲む? 」

 「飲む」喉は乾いていなかったけれど、もらっておくことにした。

 手渡された今日何杯目かの黒々とした液体を見ていると、カフェイン中毒にならないか心配になってくる。ふと顔を上げると湯島も自分の紙コップになみなみと黒の液体を注いでいた。

 「そういえばさ湯島、今日★ーバックスにいたよね。夕方」

 「うん。いたよ、友達とね。Twitterで★バの新作がでたって話題になってたから」彼女は思い出したかのように笑う。「二人ともすごく浮いてたよ? 裕巳はともかく、ジャージの人なんて初めて見た」

 「おう・・・」やはりあの格好はTPOを踏みにじったらしい。

 湯島は暫く俯き加減に肩を震わせてから「えまさんはもう、我が道を歩んでるからいいんだけどさ」僕のことを指差した。「その恰好もう少しどうにかしたら?」

 「な、なにかおかしい? 」

 両腕をわきわきさせて狼狽する僕に目を眇め、湯島は大きなため息をつく。

 「まず、いっつもジーパンしか履いてない。それにシャツはよれよれ、色は黒か白かのモノトーンオンリー。髪の毛は美容院か床屋か知らないけれど、床屋って前に云ってたっけ。どっちにしたってワックスくらいは最低限つけるべき。あといつものリュックサック」

 「リュックサック? 」擦れた声で聞き返した。自分の瞼が降りてきているのがわかる。それでも容赦なく彼女は続ける。

 「服に合わせたリュックを背負うならまだしも、毎日同じなんてありえない。その辺の本屋で買える、無地の手提げかばんのほうが百倍まし。あと裕巳はいつも、かばんの外側の網ポケットに折りたたみ傘を差し込んでいるようだけれど、あれとても、超超超ださい。晴れた日に傘って、恥ずかしいでしょ。普通」

 「・・・・・・・・・・」

 だからさ、と湯島は続ける。

 「今度私が見繕ってあげるよ」

 「え? 」閉じ切っていた自分の唇から、すっときょんな声が漏れた。

 「だから裕巳の服とか、ワックスその他諸々を。次の土曜日にでもね。・・それじゃ一緒にいる私が恥ずかしいしさ」

 湯島が早口で言う。自分の頬が痺れるような熱を帯びるのを感じる。

 「ありがとう。ファッションには疎いものだから、助かるよ」

 「気にしないで」「あ、焼き芋を食べられなかったせいか、小腹が空いてきたわ。具体的にはミステリードーナツの、ポンポンリングが食べたくなってきたかも」

 おい。

 「裕巳もミスド、食べたくない? 」彼女はにやり、と云う表現が相応しいであろう表情で笑いかけてきた。僕はため息をついて、参ったと両の掌を彼女に向けてみせる。これくらいなら安い授業料だ。

 「わかった、わかった。今月は幸いに服を買えるくらいの余裕はあるから、湯島の好きなミルクティーもつけていいよ」

 「やった。私もう、今月は()()()()だからさ。人の金で食うミスドはうまい」

 「ガッツポーズするなよ・・・」「しかしバスの時間が心配だ。もう八時近いよ」

 僕は時刻の表示された携帯の画面を彼女に見せる。すぐに火を片さないと間に合わないかもね、と彼女は焦りを見せた。

 ちらりと横を盗み見るようにすると、ホームズはまだ考え込んでいた。いやしかし、

 「考える人みたい」

 湯島の言葉に吹き出してしまう。一本取られた気分だ。

 ホームズはまだ時間がかかりそうであったので、僕達ワトソン二人組だけで片づけを始めることにした。とは云っても、残り火の赤い灰のうえにそのへんの土を盛って靴裏で踏み固め、それをシャベルでもう一度掘り返すだけである。野球グラウンドの土は都合よく柔らかいので、作業は大変楽だった。

 「これくらいでいいかな」

 ワトソン等の迅速な行動によって、グラウンドは焚火を行う前と何ら変わらない状態になった。多少白くなった気もするが。さて、部室に帰ろう。

 「僕が段ボールを運ぶから、先を行ってくれ」両手が塞がっていては部室のドアノブを捻れない。

 「「わかった」」

 「ん。頼んだ・・・って」

 僕はシャベルやトングの入った段ボールを持ち上げかけて、やめた。

 「なんや、先輩。復活したんですか」

 「ああ。ところで」

 「裕巳と香織は今から〇●丘駅に向かうのだよな」彼女は親指を駅の方角に構えてみせた。

 「まあ、はい」今しがた湯島との予定が出来た所である。「ええ」と湯島も応じた。

 どうにも今日は、バス代がかさんでしまうなと先輩はぼやいた。そして

 「私も行こう」

 「え? 」全く予想外だった。

 僕と湯島は実家暮らしなので、〇●丘駅は云わば帰り道の途中である。しかし大学の近くに一人暮らしをしている先輩に(多くは部室で寝泊まりをしているようだが)わざわざ駅まで来る理由はない。もしや。

 「先輩には奢りませんよ。今月余裕があるとは云っても、破産します」

 「失礼な奴だな。自分で払うくらいの仕送りは貰っている」

 そりゃ羨ましいことで。釘を刺そうとした僕を彼女は睨みつける。「じゃあ、どうしたんですか? 」と湯島が尋ねた。

 すると先輩は拍子抜けしてしまうほどあっさりと、「それは私の行動からだいたい、察せられるだろう? 」その一言を言ってのけた。

 「裕巳と香織がどうして喧嘩をしていたのか。そしてその原因である、二人の言い分のすれ違いがどうして起きたのか」

 「その謎が解け()()なのさ」彼女が肩に掛かる長い髪を払うと、それは夜の闇の中でも艶やかな輝きを放った。

 僕は意図せず一歩踏み出し、湯島は目を剥く。

 彼女はそれを、自分の腰に手を充てることで制した。そして語りだす。

 「私は安楽椅子が、つまり部室で私が使っているアレのことだが。それ自体は座り心地もよくて好きだ。だが、しかし世には”安楽椅子探偵”なるものが存在する」

 安楽椅子探偵。有名所ではアガサ・クリスティーのミス・パープルシリーズに挙げられる、探偵が自ら現場に赴くことはせずに、来訪者や新聞記事などから与えられた情報のみを頼りにして事件を推理する探偵のことである。

 隣で湯島が頷いたので、彼女もその概要については知っているのだろう。先輩はそれを気に留めている様子ではなく、伏せ目がちに続ける。

 「私は”それ”のことが嫌いだ。だって探偵はまず自分の足で現場へと赴き、捜査し、自分の得た情報を精査する。己が人づてに得た情報の裏を取ってこそ、”探偵”と呼ばれるべきだ」「どのみち暖かな書斎で優雅に椅子に腰かけて、湯気の立つ紅茶を片手に推理するなんてのは不可能。それは”推理”でなく”想像”にすぎないよ。まあ、探偵にあるまじき恥ずべき行為だと思うがね」

 彼女はその情景が目に浮かぶとでも云わんばかりに夜空を見上げて、嘆く。額の上に右の手のひらを翳したその仕草は、國枝麻希が自分ではない誰かを演じているかのように思わせ息がつまる。

 すう。と世界から音が消えた。髪を靡かせた千両役者が発する次の言葉を待たんとばかりに、風が凪いでいた。

 彼女は無言でこちらを見眇めた。

  

 

 「はあ」「そうですか」僕と湯島はとりあえず相槌を打つ。

 残念ながら彼女ほど、僕たちはミステリーに造詣深くない。こちとらせいぜい本屋の平台に積まれていれば手に取ってみる、くらいなのだ。意見を求められても困る。

 「なんだぁ。二人ともノリが悪いなあ」先輩は甘えた声になって、口を尖らせた。湯島が微笑して

 「えまさんのダルがらみもいいとこやないですか」

 「なんだと? ・・・香織、そして裕巳も最近私に冷たいぞ」

 すっかり拗ねてしまった先輩の姿を見て、自分の口角が上がるのがわかった。僕が段ボールを再度持ち上げるとだれが促すこともせずに、僕らは自然にバス停の方へ、いや先ずは部室のほうへと歩き出した。

 「それで先輩、結局何が言いたかったんですか? 」両手の塞がった僕は足元を気にしながら尋ねる。

 「ああ、つまりな。人から得た情報だけを頼りにするのでは足りない、ということだよ。それだから、私は推理を行ったあと、裏をプロセスを重要視しているんだ」

 彼女は小説の中の探偵が推理する仕草を真似てか、左の指をフレミングみたいに三本立たせて顔の横に掲げてみせた。

 「基本人任せの”安楽椅子探偵”と対比して”逆安楽椅子探偵”とでも呼んでくれたまえ」

 夜風がひゅう、と合いの手を入れた。






                4





 

 さすがに夜八時過ぎともなると、学生はまばらだった。バス乗り場のあるロータリーにはスーツを着崩した帰宅途中のサラリーマンやカップルとおぼわしき二十過ぎの男女がよく目立つ。

 幸いにもミステリードーナツは二十四時間営業であるけれど、そろそろ終電の時間の心配が必要だ。田舎の終電は早いのだ。時折り都会育ちらしい湯島と一人暮らしをしている先輩が羨ましくなる。

 「それで? これが君等が何時も乗っているバスの時刻表でいいんだよな? 」

 「ええ」湯島が応える。

 先輩は確認を取ると、食い入るようにして時刻表を読み始めた。

 僕は肩を竦めた。何を隠そう、此処は数時間前に先輩と★ーバックスを掻き込んだバス停である。今更何があろうというのか。彼女は一度頷いて湯島に尋ねかける。

 「香織、君の最寄り駅の時刻表を見せてくれ」

 「最寄り駅ですか? 私の?」

 「そうだ」

 「?? まあ、いいですけど・・・。ちょっと待ってください」

 湯島は数秒間携帯を操作すると、画面を先輩に見せた。僕からも電車の時間と思しき数字が並んでいるのが見えた。先輩は画面を指でスライドさせながら数秒間それを凝視すると「ありがとう」湯島に携帯を返した。

 先輩が僕と湯島をベンチに座るように促した。二人で彼女の云う通りにする。

 「さて」

 並んで座った僕らの前に出て先輩が僕らを見下ろす格好になった。彼女が今一度僕と湯島、交互に目を合わせて、それからフレミングの左手を自分の顔の横に掲げてみせる。

 いや、いったいそのポーズの意味とは「裕巳」 

 「へ? はい」変な声が出てしまう。

 「件の土曜日。裕巳この(先輩は時刻表の、休日ダイヤの一点を指差した)午前の九時二十五分のバスに乗ったんだな?」

 「ええ。そうです」隣の湯島が横目でこちらを見た。

 「それはどうしてだ? 」

 「どうしてって、それは前日に湯島とそう決めたからですよ。流石に休日の時刻表を完全に把握しているのではありませんけど、”だいたい九時二十五分のヤツで集合”と打ち合わせをしていたので」

 つい先ほど同じことを説明した気がするが。一応湯島にも確認を取っておく。

 「そうだったよね、湯島」

 僕が口に手をやりながら、四十五度。彼女に顔を向けると。

 湯島は額に手をやってため息をついた。自分自身に呆れたみたいに。

 先輩が今度は湯島に尋ねる。

 「香織。君はその日、()()()()()()()()()()()()()()覚えているかい? 」

 流石に何日も前の日のことを覚えてはいないだろう、と思い、口に出そうとしたが、思いのほか早く湯島は首を傾げて、そして言った。

 「勿論覚えていますよ。()()()()()()()()()()()

 「なに? 」僕は目を剥いた「休日ダイヤの九時二十五分、って決めたじゃないか! 」

 湯島もまたベンチから腰を浮かせた。しかし彼女が言葉を発する前に先輩が割り込む。

 「裕巳、それがきっかけだ。すべての始まりはその、()()()()()からなんだ」

 先輩は湯島に座るように促して、僕にも一度目をやる。それから湯島を見て問いかけた。

 「今、香織は裕巳にどうして食って掛かろうとしたんだ? 」

 「それは裕巳が私が乗る電車の時間と、裕巳自身が乗るバスの時間を混同していたからですよ」

 「そんな・・」僕は弁解しようとしたが、先輩に遮られる。

 「しかし、裕巳は自分が乗ったバスの時間が正しいと信じて疑わなかった。それはどうしてなのか」「ここで先程君たちから訊いた、前日の話が重要になってくる」

 そして彼女は件の土曜日の前日、つまり金曜日の会話の一部を復唱し始めた。

 ------

 ------

 「大学から直ぐじゃん」「何時集合にする? 」湯島がチョコレートを頬張りながら尋ねる。

 「うーん・・」

  一緒に出掛けるのだから当然、金曜日のうちに僕たちは待ち合わせ場所とおおよその集合時間を決めていた。

 「・・二時くらい?」

 「昼だと混むよ。たぶん」

 「それもそうか。店の開店時間が十一時半。じゃあ・・」

 「土曜日だから休日ダイヤも考えないとねー」存外に湯島はしっかりしている。

 「ふむむ」僕はバスの時刻表を頭の中で思い浮かべようと試みるが、それに成功する前に湯島が携帯で調べたらしい。

 「九時二十五分のかなぁ」彼女が提案する。

 「九時半? 随分と早くないか」バスの時間から開店まで二時間あるが。

 「そう? それくらいじゃないと間に合わないから」

 当然見たく彼女は云う。そんなものだろうか。

まあ、ことスイーツ店に関しては女子の湯島のほうが詳しいと思う。

 「ん。じゃ土曜日に、て云っても明日だけど。集合場所は大学校内のバス停で」

 「いや裕巳、時間は? 」

 なぜか自分から提案しておいて彼女は首を傾げる。僕としては彼女に異論はない。

 「だから、今湯島が決めたヤツでいいよ。ちょっとくらい時間が前後してもLINEすれば大丈夫でしょ」

 正確に時間を決めてはいないものの、休日とはいえ数分置きにバスは運航している。一本くらいお互いの乗るバスが違ったところでたいした差にはならないだろう。その時はSNSで連絡をとればいい。

 湯島が何か言いたげに眼を泳がせていたが、止めたようだ。

 「あー。うん。わかった。遅れないでね」「何食べようかなあ・・」

 「シュークリームしかないんじゃない? どうやら専門店みたいだったしさ」

 ------

 ------

 「おかしい所はないように思いますけど」僕の言葉に湯島も鼻を鳴らして同意の意を示した。先輩はじゃあ、と湯島を促す。

 「もう一度、香織の最寄り駅の時刻表を今度は裕巳に見してやってくれ」

 湯島は当惑しつつコートのポケットからだした携帯を数秒間操作して、

 「はい」

 僕はありがとう、と云いつつ携帯を受け取って画面を見眇める。

 挿絵(By みてみん)

ただの時刻表である。

 「それを見て何か思わないか」先輩が訊く。

 「何かと云われても・・・時刻表ですね。としか」

 「違うよ。違う。裕巳の最寄り駅の時刻表と比べて、どうだと訊いているんだ」

 「僕の最寄り駅、ですか」

 まず、ド田舎の駅に比べれば電車の本数は圧倒的に多い。当然みたいに急行列車が運行しているのも、都会らしさを感じる。あとは・・・「あっ」

 「休日ダイヤが()()()()

 驚く僕に湯島は微笑する。

 「はあ? あたりまえでしょ」

 「え? 」これは僕。

 「え? 」これは湯島。

 お互いに顔を見合わせて、そして正面の先輩を向く。

 「いいかい。これが二人のすれ違いの原因は」彼女はフレミングを象った左手で僕等を指示して言った。

 「都会を運行する電車には休日ダイヤがあり、しかし田舎を運行する電車には()()()()()()()()()()

 「へ? 」これは湯島。

 「へ? 」これは僕。

 呆けてしまった僕等を差し置いて先輩は続ける。

 「つまり-----

 ------

 「それもそうか。店の開店時間が十一時半。じゃあ・・」

 「土曜日だから休日ダイヤも考えないとねー」存外に湯島はしっかりしている。

 「ふむむ」僕はバスの時刻表を頭の中で思い浮かべようと試みるが、それに成功する前に湯島が携帯で調べたらしい。

 「九時二十五分のかなぁ」彼女が提案する。

 「九時半? 随分と早くないか」バスの時間から開店まで二時間あるが。

 ------

 ---この会話で香織は自分の駅の時間。つまり休日ダイヤで考えて九時二十五分の電車に乗る、と話しているつもりだった。つまり「九時二十五分のかなぁ」との香織の言葉は裕巳に提案したのではなくて、彼女の独り言だったわけだ」「しかし裕巳はその言葉をバスの時間の提案だと勘違いした。これは前の会話で香織が「休日ダイヤも考えないと」と云っていたからだ。最寄り駅に休日ダイヤの存在しない裕巳にとっては、休日ダイヤの存在するバスの時間の話をしているのだと、勘違いをしたのも頷ずける」

 云い終わると先輩はバス停の時刻表を手で叩いた。

 僕は湯島の携帯に表示された時刻表とバス停の物とを見比べる。

 挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

--どちらともに休日ダイヤで九時二十五分発がある。湯島が僕の手から携帯をひったくって、そして息を漏らした。

 「お二人さん、何か意見や質問はあるかい? 」

 先輩が調子のよい声で問うた。「はあ」まったく彼女の洞察力、いや推理力には感嘆するばかりだ。

 僕は膝に手をつき立ち上がって、

 「僕からは特に。湯島は? 」

 「私も。ないよ」湯島もズボンのお尻を両手で払った。

 「よし」

 湯島がコートの襟を整え、僕はリュックサックを背負いなおした。それを待ってから、先輩はミステリードーナツの方角へ歩き出す。彼女が歩く度ジャージの裾がはためいた。

 「これにて証明完了、かな? 」

 跳ねるようにアスファルトを蹴るその足取りは軽い。すぐ後ろを湯島が追い、僕もすぐ彼女の隣に並ぼうと掛けた。

 湯島が僕をちらと、見て一歩脇に逸れる。

 冬の寒さが幾分か和らいだ気がした。








               5







 冬なのに暖かい風が頭上から吹き付けてくる。いや、冬だから。と云った方がいいのかもしれない暑いくらいの夏の風は冷たく乾いているから。つまりこの息を詰まらせてしまいそうに重く、そして湿った風は暖房の作り出した人工的な風である。

 少しでも不快な空気を遠ざけようと、僕は頭の上を手で払った。先輩を挟んで隣に座った湯島はコートを脱いでいる。しかっし一年中ジャージの先輩に脱ぐ上着はなかった。

 窓の向こう側を腕を組んだ男女のカップルが歩き去ってゆく。羨ましいこと。あと二か月もしないうちにクリスマスだ。

 「ちっ。しねよ」

 怨嗟の籠った表情で先輩が唸る。まったくもって同意の一言。

 湯島が無言でドーナツにかぶりついた。おいしい、と呟く。

 さむい、さむい、バス停から早々に退散した僕達は駅前のミステリードーナツ。その窓際の席を横並びで三席占領していた。しかし風を凌げるのはいいが、少々この店は暑すぎる気がする。

 シャツの首元を仰いでいると、先輩がテーブルに上半身をうつ伏せにして頬ずりし始めた。

 「なにしてるんですか、部長」

 「おう、おう。ひんやりしていて、このテーブル気持ちがいいん」

 先輩の顔がスライムみたいになっっていた。

 「え・・汚い・・」これは湯島。

 「!」これは先輩

 「!」これは僕。

 心無い一言に先輩の目に涙が浮かぶ。それを見て僕は湯島を睨み据えた。

 「なんてことを言うんだ湯島! 今の今までそのドーナツを旨い、美味いと食べていたじゃあないか!」

 「そりゃあ、私ポンポンリング好きだし」

 湯島は僕の熱意に多少引き気味だ。気にせずたたみ掛ける。

 「それがどうして美味しいのか、わかるか? 」

 「どうしてって、こんだけ砂糖かかってればなんでも美味しいでしょ」

 どうやら湯島は分かっていないようだった。僕は首を振って、先輩を指差す。

 湯島は困惑しながら先輩を見つめ、そしてニヤリと笑って手のひらを打った。

 「いつもミステリードーナツに来るときは裕巳と二人きり」「でも今日は」

 湯島もまた先輩を指差した。

 僕は強く頷く。先輩がその先を察してか、上体を起こして僕と湯島を交互に見た。湯島と僕は今一度先輩にむかって笑いかけた。

 「でも今日は」湯島が云う。

 「( ;∀;)」

 先輩も笑顔になった。僕と湯島は同時にハモる。

 「「財布がいる!!」」

 「殺すぞ」

 先輩が唇をひくつかせて、またテーブルに顔から突っ伏した。

 「いや・・むしろ殺してくれ・・」これはまた卑屈なことである。

 太っ腹にも(とは云っても部費が物種だが)三人分の支払いを受け持ってくれた先輩が、おんおんと鳴き始めてしまう。

 どうせ嘘泣きなのでほおっておく。湯島も考えは同じようだ。

 「それにしても裕巳って、聞いてはいたけど随分と田舎に住んでたんだね」

 「そう?」「僕としては名古屋とか、湯島の住んでいる町が大都会なだけに思えるけど」

 「な訳」湯島が微笑した。そういえば彼女は何処に住んでいるのだろう。実家通いらしいから、おそらくは愛知県のどこかだと思うけれど。

 「ねえ、湯島って何処に住んでるの? 」

 「私? 」彼女は云ってなかったけ、と前置きした。

 「すぐそこだよ。小牧市。乗り換えはあるけど、ここから電車で一時間もかからないかな」

 「小牧市かあ」

 どこだよ。 後から調べてみた所、それなりに大きな町で食べ物の名物が多く、しかし食べ物以外は何もない街であった。それなのに交通の便はよい。

 「犬山市の隣」ぴんと来ない僕の表情を見て湯島が助け船をだす。

 「まあ」僕は窓の外に向き直った。「とりあえずここから近いことは分かった」

 「何それ」湯島が声をあげて笑う。

 暫くの間、皆無言でドーナツを貪り食う。塊になった氷砂糖が、なかなかどうして悪魔的な旨さだ。

 「ところでお二人さん」ゾンビが喋った。

 「終電の時間は大丈夫かい? 私は部室に泊まるから問題ないが」

 「んー。あ、ちょうど今九時過ぎた所なので私は大丈夫ですよ」湯島が店内の時計を見て、事も無げに言った。

 「九時過ぎ!? 」僕の椅子が音を立てた。

 思わぬ長居をしてしまったようだ。僕は急いでリュックサックを背負い、空のカップが載ったトレイを片手に持つ。湯島が急いた僕の行動を見て驚く。

 「まだ九時なのにそんな慌てなくても・・・」

 電車あるよ、と彼女は半眼になったが構っている時間はない。

 「湯島、先輩また今度。あと先輩、ごちそうさまです!」

 僕はトレイの返却コーナーへと走り出す。背中で先輩の声が聞こえた。

 「田舎は終電の時間が早いんだ」

 

 

  

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