背離する曲線
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食い入るように画面を見やり集中する。左手は現代では小型のパソコンと化した携帯電話の脇を支えながら、右の指先で画面を操作する。
画面中央には白い線で縦長の長方形のストライクゾーンが表示されていて左のバッターボックスには今操作している、”らいおんず”の吉見選手が構えている。バットを軽く握ってヘッドを後ろに倒した独特の、打つ気があるのか訝ってしまうくらいゆったりとした構えだ。
相手のピッチャーが足を上げたのと同時に、小さな丸がストライクゾーンの中心に浮かび上がる。僕が画面上に指を滑らすと、その丸は液晶を滑り指の動きを辿る。
ぐぐぐっ、と迫力のあるオーバースロー。勢いよくリリースされた白と赤のボールが向かってきた。速さはそれなりだが高速で横回転している。
----見逃し。ストライクからボールに逃げるスライダーだ。
(一球目からスライダーか)
てっきり初球はストライクを取りに来るカーブか、それとも緩いカットボールだと思っていた。初球から強い変化球で入ってくるとは、当てが外れた。ランナーが出ていないというのに慎重な相手だ。
二、三球目は見逃し。両方とも際どいストレート。カウントはストライクが一つにボールが二つだ。現状はバッター有利。
(次の一球が勝負だな)今一度情報を整理して深呼吸を挟み、クリアな頭で配球を読む。
次の球がボールになってしまうとスリーボールで次々回ストライクを投げざるを得ない。それも甘いコースにだ。際どく攻めればファーボールになってしまう・・いやランナーが出ていないことを考慮すれば、カウントを加味して勝負を避ける可能性は十分にある。
ピッチャーが同じフォームで足を上げた。操作する指に力を込める。--決めた。次の球は見逃そう。ストライクを取りに来るとは思えない。
しなる右腕。グラブを嵌めた左腕はまっすぐ正面に照準を定めてインステップに軸足を踏み込んだ。腰が廻ってその体躯が捻じれる様はさながら自動拳銃のリロード。肌色の銃口から放たれる白と赤の弾丸が到達するまで、もう二秒もない。
(・・? )違和感。
見落としがある、ような。それが何だと訊かれたとして答えることはできないのだけれど。
・・・。
・・。 ばしんっ。すとらーいく
「あっ」小さく叫ぶ。前に座っている茶髪が半分だけ首を回して、僕の方を窺った。そのことに気が付いたけれど、気が付いていない体で下に向けた頭は上げずにやり過ごす。
画面にはでかでかと”敗北”の二文字。やるせないため息をついた。
「はい、じゃあ今日の授業はここまで。出席カードを前に出してから帰ってくださいねー」
スクリーンを背にして立つ、頭の薄い初老の教授が三時間目の終わりを告げると同時に、教室内が騒がしくなった。そこらかしらから、お前四時間目があるのかないんだったら一緒にカラオケに行こう・・だの、おいしいチーズケーキが食べたいからちょっとそこまでどうかしらああでも今月厳しいんだった来月バイト代が入ったら行きたいわ、ああそれいいわね私も行きたいわそれじゃあ一緒にそうしましょ。
あれが素なのかそれともわざと周りに「オレ(ワタシ)はこんなにも充実していますよ」と聞かせたくて、アピールしたくてやっているのか無駄に大きな声を半ば強制的に聴かされながら席を立つ。
正直言ってうるさいしきいきい声は耳障りだけれどその、悪く言ったところで”パリピ”を見て羨ましく思う気持ちも少しはある。でも僕があちら側の人間でない事、それはそれで百も承知であって自分が一番わかっている。妬んだり僻んだりするのはその裏返しだ。
頭の色は茶色がデフォルトでブランドのロゴが入ったパーカに合わせてぱっつぱっつの(すきにー?)ズボン。呼吸の容量で単位を落として、親が裕福だから喜んで留年。テストはカンニングで乗り切り、もしバレて停学処分になったとしてもそれさえネタにする。
むしろ正しい大学生の生き方は、こうあるべきなのかもしれない。
擦り切れたジーンズのポケットにスマホを突っ込んで、黒のリュックサックをしょい込んだ。”IA”の文字が入った野球帽を頭に被ると、教壇の上にぺらぺらのの出席カードを提出して教室を出る。
授業が終了時刻のギリギリまで行われたものだから、すでに廊下は人で溢れていて人の流れができていた。皆一様に下へ降りる階段を目指していた。僕もその流れに加わる。
比較的新しい二号館と十二号館にはエレベーターが設置されているのだけれど、壁のひび割れや黒ずみが目立つこの三号館には備えられていなかった。それぞれの棟は四階建てである。昇り降りがつらい。
今日は四時間目が無いから一直線に家に帰ろうと思っていたのだけれど、人の流れというのはもどかしく感じてしまうほどにノロノロとしか進まなくて、半歩、半歩、歩みを進めているうちに考えが変わった。たいした理由なんてない。ただの気まぐれだ。
前の人が僕のために押さえておいてくれたやたらに重いガラス戸を引き継ぎ、自分もまた後ろの人のために戸を支えつつ建物の外へ出た。目の前には薄緑色の芝生とそれよりも少し濃い色の葉をつけた大きな木。また奥にはガラス張りのカフェテリア(つまり食堂だ)が噴水の水しぶきと重なって見えて、人がいるのにもかかわらずオブジェのようだ。豪勢なことにそのオブジェは二階建てでしかも二棟あって、お互いに連絡通路で繋がれている。一つは一、二階共にフードコートみたく某”ドMなるど”や”明治食堂”その他が入っている。もう片方は一階には青色のコンビニが、二回は喫茶店だったはずだ。なんて名前だっけ?
「私立だなぁ」高い学費の、その散財を見た。
側を通りがかった女性が怪訝そうにこちらを見やった。きまりが悪く、そそくさと足を動かしその場を離れる。
青色のコンビニでお菓子とお茶を買い込んだ。買い込んだと云ってもそんなに多くはない。”将軍ハバネロ”の小袋を二つと”マツタケの山”を一つ。あとは綾鷹を二本。
大学の敷地が広いものだから野球場やサッカーのコート、テニス場。また卓球やほとんど水泳部専用の大プールまでも専用の施設が立地していて、しかし部室棟は別にあった。コンビニの袋を右手にさげて人工芝のサッカーコート横の煉瓦模様を模した朱赤と白の混凝土を歩く。黄色のユニフォームと青色の短パンでサッカー部がランニングしていた。ここは部活の為だけでなくてスポーツの授業でも使われている。
コートの向こうには部活棟が二棟聳え立っていた。聳え立つ、という表現は狭い間隔で三階建てが横向きで二棟並んでいるからだ。手前にA棟、奥のがB棟。それぞれ一室八畳くらいの部屋が何部屋も入っていて、造りは同じ。それが部活ごとに一部屋か二部屋が当てがわれていた。いつもなら部屋の鍵をA棟の事務室で受け取ってから向かうのだけれど、今日はいいだろう。A棟の横を通り過ぎた。僕の目的地はB棟にある。
両脇を高い障壁に阻まれているものだから挟まれた路は陽の光が射さなくて黒く翳っていた。現在左側にA棟。右側にB棟。
向かうは右。薄青く黒ずんだ摺りガラスの嵌った戸を手前に引く。蝶番が、ぎい、と軋んだ。廊下の遠く先まで一定の距離をもって銀のドアノブが並び、続く。
入ってすぐの場所に備え付けられた、やはり古臭い白色の階段を二階分上るとまた一階と同じ。けれど窓からの光に照らされて銀色が鈍く輝いていた。窓の前を通り過ぎるたびに目を細め手で傘をする。今日はまさに、秋晴れだ。
突き当りの横、一番奥の部屋。その前に立つ。ドアはどれも同じだ。上方の摺りガラスに
☆囲碁部☆
☆部員募集中☆
コピー用紙に色つきのマジックで書かれた張り紙が張り付けられている。何故だか有名なネズミの絵までかいてあったが、特に意味があるとは思えない。
ドアノブを捻る。思った通り鍵は開いていた。
続けてドアを引く。重いし、それに立て付けが悪い。
「おはようございます」言いながら、部屋に入る。うん、と言葉が返ってきた。
部屋に入ってまず目につくのは、ドラマで制服を着たOLが座っていそうなありきたりの事務机。狭い部屋の真ん中奥にどん、と鎮座しているそれは、教科書やらファイルやら帯が取れかけた小説やらで埋め尽くされていて、いつ雪崩が起きてもおかしくない。現に何らかのコードが崩れ、垂れ下がっていた。机の前にはガラステーブルと二人掛けの茶色のソファがあるのだけれど、重ねて部屋が狭いものだから入り口のすぐ前にソファが鎮座していた。鼠色の毛布がソファの背に掛けられていた。壁際にはいくつかの、開いた段ボールの箱が放置されていてその中身は使わないゲーム機やコピー用紙だ。
部屋の隅には段ボールの中にごみ袋を嵌め入れたごみ箱がある。角のコンセントから延びた電源タップにたこ足配線で、床に置かれた電気ポットや小型テレビがつながれていた。隅のサイドテーブルの上に急須や湯飲みが置かれている。
一応角部屋なので、窓は二つある。
・・で。
さっき僕の言葉に応えた女性は文庫本を片手にひじ掛けに頬杖をついていた。飾り毛の無い事務机に不釣り合いな洒落た安楽椅子に腰かけていて、つまり、それっぽい。でもあの椅子は多分合皮だ。
女性が顔を上げて黒色の艶やかで長い髪が揺れた。読みかけの本の端を折ってからぱたんと閉じて、赤縁眼鏡を外す。どちらとも無造作に教科書の山へ放り投げた。
そして、あのねえ、とこちらを指さす。
「前々から思っていたけれど君さ、もう昼だよ。おはようございます、はないだろ」
「そう云われても癖がぬけないんですよ。小学生の時に野球をやっていたので」
「野球経験者って、何時でも”おはようございます”だよね」
呆れたみたいに言う彼女は私立A大学三年の、僕と同じ経済学部の先輩で部活においても一応は先輩であった。大きいがしかし、鋭い目が印象的だ。すらりとした体型に背丈も平均よりはあって、控えめに言って美人の部類であると思う。
ちゃんとした服装をしていたらば、数秒間見とれてしまうかもしれない。
(ジャージじゃなけりゃね・・)彼女は黒に黄色の線が入ったジャージを着ていた。胸のところに豹のマークがプリントされていた。
ドアを閉め、ソファにリュックを降ろして腰掛ける。少しだけ、面に体が沈み込んだ。
「ふう」やっと一息ついた。
「疲れているみたいだな。今日は何限から?」
「一限目からでした。もう眠くって眠くって」
事実、一限目から寝てばかりだった。
「一年の秋学期からそんなことでどうする。今の内から単位を取っておかないと三年、四年になってから苦労するぞ」
「はあ」
「・・私みたいにな」
・・・そんな深刻な面持ちで言われても。そういえばこの前、卒業証明書が出そうにないとか、なんとか云っていたか。
「いいかい?生活習慣の乱れが留年を誘うんだ。授業で寝るくらいならまだしもだんだんと、自主休講と云う名のサボりが習慣になってくるんだ」「初めは知り合いに代返を頼んだり、レジュメを余分に確保してもらったり、そのくらいはかわいいもんだ。けれども二年になったあたりから、ちょっとくらい休んだって騙し騙し単位が取れることに味を占めて自主休講の回数が増える。そのうち一限に間に合う時間に起床することが出来なくなってきて、昼夜逆転の生活習慣になったらもう、やばい。そいつは留年する。確実に」 まさしく、真に迫る言い方だった。
それは経験談ですか、とはさすがに訊けない。絶対不機嫌になる。
「今のところはいちおう毎回、授業には出ているので大丈夫ですよ。少なくとも出席点はついているはずです。それに必修はともかく、すべての選択科目に知り合いがいるわけでもありません」
「選択科目は基本的に抽選だからな」
「そうなんですよ。友達と一緒に申し込んだのに外れちゃって」
「なんだ、秋学期なら他学部との交友関係は固まっていないだろう。あとが楽だぞ。知り合いが多いと気軽に授業を休める。関係を築くなら今が、そう、チャンスだ」
「はあ」この人は僕を心配して云ってくれているのだろうか。それとも道連れに留年させるつもりなのだろうか。「先輩は知り合いが多いんですね」
「? 私の知り合いは手の指の数よりも少ないぞ」
・・・さいですか。
「その知り合いが少ない人は、授業に出なくて大丈夫なんです?」
「心配せずとも問題ない。月曜日は全休になった。毎週三連休だ」彼女は何故かドヤ顔で言う。
「? 僕の記憶違いでなければ先週の月曜日、今日は一限に出てそれから部室に来たからもう疲れた、なんて話してませんでしたか? それでてっきり先輩は月曜、一限があるのかと思っていました」
そんなことも話したな、彼女は思い出し頷く。僕の記憶違いではなかったらしい。
「だが今日休んで一限の欠席は合計で三回目だ。リミットの五回まで(A大では欠席五回で期末試験の受験資格が無くなる)あと二回しかない。この分でいけば恐らく期末試験までに出席が足りなくなるだろうから、この授業の単位を落とすのは、いや捨てるのは利口な判断だと私は思う」
「留年しますよ、ほんとに」
「一年に心配される謂れはないな。今更・・だって、ほぼ確定してるし・・」
・・その悲壮的な呟きは聞き流すことにした。
腰を上げて部屋の隅へ。急須と湯飲みを手に取り、空いている手でサイドテーブルの引き戸を開ける。紅茶のティーパックやボトルのインスタントコーヒー。あと何種類かのお茶菓子が無造作に投げ込まれていた。コーヒーと小袋のチョコレートをサイドテーブルの上に取り出して引き戸を閉める。
電気ポットの下に急須をセットして先輩も飲みますか、と訊いたところ、私はいい。と返事が返ってきたのでのでいつもより少なめに一人分のお湯をいれた。そこにスプーン一杯分のコーヒー粉を流しいれてひと混ぜ、蓋をする。
ソファの前に戻って茶色と黒の急須で茶色い湯飲みに黒い液体を注ぐ。一人分だったら最初から湯飲みで作ればよかったな、と後悔した。
「チョコは欲しい。投げてくれ」
そういって先輩は手を軽く皿の形にした。僕が小袋を二つ指に挟んでほおると、器用にキャッチした。
「やっぱりミルクチョコだな。甘いのがさらに甘くなる」
細い指で包みを破り頬張る姿はとても幸せそうだ。やっぱり、なんて云っているけれど甘いものなら何でもイケる口だと僕は知っている。この半年で駅前のミスドに何度連れていかれたことか。
「ところで君は前期の春学期、いくつ単位を獲得できたんだ。その数如何によっては、悠長に遊んでいる暇はないぞ。さしあたりGPAはいくつだ?」
「春学期の成績が発表されたの、夏休みの初めですよ。詳しくは覚えてませんけど・・確か2.2とかそのくらいだったけな。」
「おっ」途端、嬉しそうに先輩の顔がほころぶ。これは同じ境遇の仲間を見つけた、とばかりに。「それで、どうなんだ」やっぱり急かす声が上ずっていた。
「いや単位は全部取りましたよ。フル単。必修のミクロ・マクロ経済学は危なかったですけどセーフ。同じ学部なんだから知ってると思いますけど、ミクロの山田がもう、ほんとに・・」
「あーーいい、いい。フル単勢に人権は無い。黙っててくれ」両手で耳を塞いで今度は心底嫌そうに顔を歪めた。
会話が切れたのでおもむろにテレビを点ける。どこの局も地元の情報番組しかやっておらず、相撲の時間にはまだ早い。どんな番組でも流し見していればそれなりに面白いので、適当にチャンネルを合わせておく。
ポケットから携帯を取り出してLINEのアプリを開く。メッセージが一件届いていた。
:今日行く。てかもうすぐ着く:
了解、と簡単な返信をしてアプリを落とす。二分くらいTwitterを眺めてから携帯を置いた。
指でつまむ様にして湯飲みに口をつけ、急須で入れた熱いコーヒーを飲む。
大学の施設を借りている手前囲碁部の体裁をとっているけれども、この部屋には碁盤はおろか碁石の一子すらなかった。いったいどうやって部活動申請を通したのか、謎である。
思えば。
入学式当日、何とか一人目の友達を作りまだお互いに探り探り、何処の高校出身だとか趣味は何だとか話していたら至って自然な流れで馬鹿広い学内を見て回ることになって、一緒に学内を散策しているうちに気が付くと、二人してゆうに二十枚を超える部活及びサークル勧誘のビラを受け取っていた。野球やサッカーはもちろん、軽音楽サークルやアニメ研究会のビラも混じっていた。これまでの縛り、押さえつけられていた学生生活との違いをやにわに感じることとなった。事実、小・中・高の三年サイクルとは変わって大学生は四年間あるわけだし、部活やサークルの一つ二つに所属して充実した毎日を送るのも悪くない。
そう思い二人、お互い初めてできた友人同士でいくつか部活やサークルを回ってみたのだけれど、なかなか併せて琴線に触れるものは見つからず。僕としては静かに弓を引く弓道や寡黙に将棋なんか、とても興味を引かれたのだけれど、根っからの運動部員だった友人にはこう、しっくりこなかったらしくて早々と小学生の時分から続けているらしい野球部に入部してしまった。
たかが部活動の見学、されど一人だけで見て回るのは僕の対人スキルを鑑みて不可能と言わざるを得なかった。とても楽器を打ち鳴らしたり年中合コンしているような所はもう見て回れない。最後に僕一人だけでも優しく受け入れてくれそうな囲碁部、そして文学部を見学してピンとこなかったら弓道か将棋。
自分を奮い立たせ、前にしたのは普段は薄暗いB棟の三階一番端の部屋。この時は”301”のプレートがドア枠の上に嵌っていた。何度息を整えてからいざ、摺りガラスめがけ控えめなノックをしようとこぶしを振り上げたその時。
いつの間にかすぐ横に立っていた女性が問うた。
「やい、君は何だ。新入生か? 云っとくが此処は囲碁部じゃないぞ」
これが今目の前にいるジャージ姿の先輩、國枝麻希との出会いだった。
早いものでもう、あれから半年が経った。器量の良さとそれ不釣り合いな服装(確か白のミズノだった)に当惑していると、僕の横をすり抜けドアを開けた彼女が
「まあ入れ。外で話すのもアレだ」
あまりにもさり気なく言うものだから「あ、はい」と流れで中に招かれてしまった。
部屋の内装、様子ともに今と変わらず散らかっており生活感があって、一目見て囲碁部でないことはわかった。
急須でコーヒを入れてもらい、促され、いくつも部活やサークルを見て回っていること、でもこの囲碁部そして最後に文学部を見たら決めてしまおうと思っている、これまでの経緯。
初め彼女は僕に合わせて頷いているだけだった。けれどそのうちに何気ない雑談から始まって、彼女自身の事(つまりは自己紹介だ。同じ学部であることもこの時知った)囲碁部の皮を被った、いや部活動の皮を被った自分の城。すなわちこの301号室のことを話してくれた。説明を受けたと表現する方が近い。
訊けば聞くほどにどうやら真っ当な、お世辞にも模範的な大学生であるとは受け取ることができなかったけれども当時は、大学生なんて皆そんなもんなのかなと気にはならなかった。
彼女は、今現在は部を設立したばかりで部員は私だけれども、流石に初年度から新入部員がゼロとなると部としての体裁が危うくなるかもしれない。君の期待したつまり石を使ったボードゲームはしないし、そもそも道具がないし私自身指す? 打つ? ことはできないけれども、君さえよければ私の部(囲碁部とは言わなかった)に入ってくれないか。大体こんなふうに言ってきた。今思えば僕は部長に直接勧誘されていたことになる。
彼女と知り合ってからまだ、小一時間さえ経っていなかった。ただ、僕はこの國枝麻希先輩の部(囲碁部)への入部を決めたのだった。理由としては、美人の先輩と二人きりの部活。なるほど悪くない。と、考えたことも無くはないし、若しかしたらテストの過去問を流して貰えたりとか計算尽くの期待もした。でも一番の決め手となったのは、喧々たる大学の敷地の中設置された休憩所。モンスターが唸りを上げる岩の迷宮に設けられた水晶の安全地帯のようなこの、301号室の居心地の良さゆえだろう。これにはもちろんその住人も含まれる。
僕は二つ返事で即座に部長の提案を承諾してしまったから自分の心内を追憶するしかないのだが。そんなこんな、が今に至るまでの経緯だ。
ずずっとコーヒーを啜る。まだ飲むには早かった。熱い。
「ゲーム臭い譬えは止めろ。恥ずかしい」心を読まないでほしい。
「先輩もするじゃないですか、ゲーム。ほら、そこの落ちてるコントローラー片づけてください。せめて机の上に」
「それは落ちてるんじゃない。置いてあるんだ」「君は今日は来ないと言っていなかったか? ああ、別に責めているんじゃないが」先輩は教科書の山から見え隠れしていたコードを床に投げた。
「ただ気が変わっただけですよ」
「そうか。まあ何時でも来るといい。私の家みたいなものだからな」
事実、大学近くのアパートに一人暮らししている彼女は結構な頻度で「帰るのがめんどくさい」と、301号室を宿がわりに使っていた。仮にも女性が一人学校で夜を明かすのはやっぱり、危ないように思えるが本来部室棟に泊まるのは禁止されていて。本当に、具体的には夜十時くらいにはもう、彼女一人しか建物の中に残っていない。だから暴漢に襲われる心配もあり得なかった。見回りの守衛は電気を点けていなければやり過ごせるらしい。一応、君も泊まっていいぞと、云われている。だが、今のところ宿泊したことはない。
「今日は湯島も来るみたいですよ」ついさっきラインで知ったことを報告する。
「今日も、だな。結構な頻度で来るぞ香織は」
「そんなに?」
「そんなに。先週は・・そうだな週の半分は来ていた。いつもと同じ、紅茶とお菓子片手に私と駄弁って好きな時間に帰るだけ。・・君と変わらないね」
僕も多い時にはそのくらいの頻度で訪れる。授業の空きコマとかに。しかし、穿ってみると
「まるで先輩が毎日、朝から晩まで部室に居るみたいに聞えちゃいますね」
おどけて冗談半分に訊いてみた。
「あー先週・・・先週、ね」
「・・・」残りの半分だった。呆れて目を眇めた。
「・・?」耳を澄ます。
--だったった。ダダダッタ。だっがっでった。でででえでででーで。
ドアの向こうから随分に適当な、およそ適当でない足音がする。泳いでいた先輩の目が焦点を得た。
「来たか」おっと、目もきりっとした---
--ところで、最近は凛々しいとも思わなくなったが。
足音の激しさに反して控えめにドアが開いた。
「お邪魔しまーす」
声の主は軽い調子で入ってきて、後ろ手にドアノブを押し離して閉めた。僕がソファの片端に体を寄せて場所を開けると、そこへ座った。
「それ紅茶?」「いやコーヒー。てか一杯分しかないよ」「あっそ」すぐに立ち上がって、三十分前の僕と同じく戸棚を物色し始めた。
「えまさんも飲みますか? 紅茶」
「私はいい」
「そですか」紐の絡まったティーバックを引きちぎるみたいに解く。
片割れを中に投げ入れて袋ごとチョコレートを取り出し、今度は丁度いいカップを探し始めた。
被った紺のキャスケット。ショートボブの茶髪。白いパーカーの上に濃い緑色の上着(アウター?)を着ていた。耳には金色と青のピアスが光っていて、あちら側の人だとわかる。背中には小さなリュックを背負っていた。荷物を詰め込む機能はあんまりなさそうだ。おしゃれの一環なのだろう。たぶん。
背中の物を床に下ろして、自分の家みたいに僕の隣に腰掛けた。僕は彼女から距離を取って少し身を引いた。何処から見つけてきたのか、黒いテレビのリモコンを操作してぼやく。
「なんにもやってないね」
光を放射する画面には、まだ夕方に掛けての情報番組が流れていた。また寄ってたかってどこぞの政治家を批判していた。特設のボードをメインキャスターが指示棒で叩く。
しかし、テレビで思い出した。そろそろあれの時間だ。
「なら10番に合わせてくれない? そろそろなんだ」
「別にいいけど。なに見るの?」リモコンを僕に差し出して言う。
「水戸黄門」
「却下」リモコンは引っ込められた。
「何故」
なにゆえ。水戸黄門を何と心得る。初回放送は1969年。時代劇の大元、大家。日本人にならば誰もが知る国民的ドラマであらせられるぞ。ひれ伏せ。
独り言ちる僕は無視された。チャンネルはそのままだ。レポーターが愛知県の新名物、と銘打ってケーキ屋を紹介していた。彼女は片手で黒い箱を玩びながらくつろぐ。
湯島香織。
三名しかいない零細囲碁部最後の一人だ。僕と同じ一回生で、入部したのは春学期の終わり。そして、まあ、客観的に見てかわいい・・部類に入る。フランクに接してくれるいいヤツだと僕は認識していた。けれど会うのは部活でバッティングした時くらいで、たとえ選択科目で一緒の教室になったとしても会話はしない。そのくらいの仲だ。
「湯島。選択科目でしか見かけたことないけど何学部なの?」
「どうしたの、突然」
まあいいけど、湯島は続ける。
「経済学部。裕巳と一緒」「必修は仲のいい子がいるからね。三週に一回くらいしか、ね。出席しないから。それでじゃない?」
「さしあたり、今日の三限は? 禿の菅野」「今日はいた」「じゃあノート見せてくれない? 内職してたから書いてない所があるんだ」
「それくらいなら別にいいよ」
湯島は小さなリュックにむんずと、手を突っ込んでさばくった。そのうち青色の大学ノートが引っ張り出される。某猫型ロボットみたいな取り出し方だった。
「はい」それが僕に向けて差し出された。「ありがとう」お礼を言って、目的の物を受け取ろうと手を伸ばした。
が、僕の手のひらは空を切る。ノートが引っ込められたからだ。
「・・?」意味がわからなくて彼女を、窺いみた。湯島はにやり(口角を斜めに上げて)後ろ手にノートを肩に担いでいた。ノートが竹刀だったらば、集団行動を監督する体育教師を彷彿とさせる・・少なくとも雰囲気は、そんな感じだ。体育教師はノートをちらつかせて、指示をだした。
「駅前のミスド。ミルクティー付きでお願い」
そうきたか。
「僕、今月きついんだけど」
「私も厳しいの」にべもない。
日本人にあるべき、思いやりの心。それを湯島は持ち合わせていないらしい。暫し半眼で睨めつけてみたが、どこ吹く風だった。頭の中で財布の中身を勘定する。
(確か五千円とちょっとだったはず。それであと二週間、土日を除けば十日足らず。コンビニで済ませば昼飯代は大丈夫。
・・・よし、期末テストへの投資と見越して、ここは折れよう)
「わかった、わかった。今日の帰りに奢るよ」
「やった。言質は取ったからね。」きれいな笑顔だ「はい」
「・・助かるよ」
一言かけて今度こそノートを受け取ることができた。両手で広げて膝の上で何ページか捲る。読みやすくてきれいな字だ。きちんと罫線に沿って同じ大きさの文字が並んでいた。普段書いている字と違いすぎて、逆に読むのに難儀しそうだ。ガラステーブルに自分のノートを用意して筆記用具を取り出す。
「コーヒー、零さないでよ」
残りのコーヒーを飲み干してコップを退ける。それから湯島のノートもテーブルに移して写しを始めた。 ふむ、総収入曲線と総費用曲線か。ざっと見たところ、春学期のミクロ経済学でやった内容と変らないようであった。復習も兼ねてもう一度説明しなおしたのだろう。菅野のやりそうなことだ。
やっぱり時間が掛かりそうだ。蛍光灯がノートに反射して目がしばしばする。
えまさん、と湯島が呼びかけた。今更ながら、”えまさん”とは先輩の事である。本人曰く、國枝の”え”麻希の”ま”を切り取ったらしい。
「えまさんは今日授業無かったんですか?」先の僕と同じ事を訊いた。
「今日は休みだ」先輩は鼻白んで突っぱねるみたいに言う。「香織も裕巳も、同じ事ばかり訊くな。だいたい、もっと他に話題はあるだろう」
「そんな。話すのなんていつも一緒です。えまさんだって、友達と会話したりするでしょう。あ、でも月曜日だったら休みの間何してたのか、話に幅がでるかも」
言い終わると僕に視線を向けた。一旦ペンを置く。
「湯島と似たような感じ。大学生の話題なんて限られてると思う。あくまでも、僕の周りの人間関係に限るけどさ。でも逆にその、限られた話題は使い勝手がいいんだ」
「中でも授業の話題は特に、ね。会話が途切れたらとりあえず、って感じ」
「他には教授の文句なんかも鉄板だと思う」
「うん、よくわかる。裕巳ともよく喋るもの」
そうだ、そうだと、二人で頷き合う。何年たっても教師の悪口は蜜の味だ。その点、僕らは小学生から成長していない。
「ふん、浅はかな」時代劇ぶった口調になると、先輩は立ち上がった。何処にあったのか扇子をぱちん、と鳴らした。たぶん意味はない。
「浅はか、って。先輩は違うんですか」
「まあな」背にしていた窓のクレセント錠をおろして、窓を開ける。風は吹いていない。彼女が動く度に埃が舞う。そろそろ掃除が必要だ。
「いいか」彼女は銀のアルミサッシに腰掛けた。
「人生の夏休みと社会人が揶揄する貴重な四年間。その八分の一を、君たちはどう過ごした?」「どうせ授業終わりに二人三人でカラオケに行ったり、ボウリングをしたり。先立つ遊びの軍資金を稼ぐべく一か月半ある夏休みの大半をバイトに当てる。二十歳近いんだから免許を取得する人もいるだろうし、親の車で遠出するのも確かにいいかもしれない。実際、卒業したらおいそれと旅行なんてできないだろうしな。でもそれが将来役に立つか? 否、いいとこ就職活動で武器になるくらいだ。個人面接のな。終わってしまえば、あとは飲みの席で自慢するくらいだろ。四十過ぎの「俺が若かった頃は~」はきついぞ、ほんとに。本当に」
「あ、はい」
大仰な仕草だった割につまらない講釈垂れたかっただけらしい。
これはいつものパターンだ。
「経済学、ですか?」湯島が察して先手を打った。先輩がにんまりと笑う。
「そうだ。経済学ほど面白い学問はないぞ。遡ること三年前、あの扇形にもみえる需要曲線と供給曲線の交わる一点。つまりは均衡点のシフト。そのメカニズムを知った時から私は虜だ」
「はあ」これは僕
「はあ」これは湯島。
先輩は空に手を伸ばして広げ、うっとりした表情を浮かべていた。おおかた彼女の瞳には中指の辺りを均衡点とする二本の曲線が映っていて、それがワルラス若しくはマーシャル的にシフトしているのだろう。
つまるところ、國枝麻希は経済学オタクなのだ。アルフレッド・マーシャルを敬愛し、ケインズの著書と寝食を共にする。今の会話も、オチが読めてしまうくらいには繰り返されていた。(内容を鑑みると本末転倒だ)最近では自分の選択科目をほっぽいてミクロ経済学Ⅱ(先輩は既に履修済みで単位も取っている)の授業に紛れているのを発見して以来、この人が留年しかかっているのは経済学のせいじゃないかと疑っている。
いやオタクよりか適切に形容すべくは亡者であろう。何しろ十九世紀に逝ってしまった経済学の大家、前述、ジョン・メイナード・ケインズの著書。A・とりいすまにー云々と云ったか。さして経済学に興味足らずの僕は本の名前さえ憶えていないけれど、亡者は本の奥付けを捲り印刷された死者の肖像画にキスをするのだ。ジャージ姿の美人がハードカバーの学術書に口付けしている様はそれはもう異様な光景で、し終わった後満足そうに、恍惚の表情を浮かべるのも、たちが悪い。
やっていることは変態的なのに、見惚れてしまう僕もまた、深い所で彼女と同類なのかもしれない。
なお、たった今僕の横で辟易している湯島は”普通”の人だ。そう信じたい。
僕はノート写しを再開する。湯島は携帯を片手に玩ぶ。
「裕巳は何時くらいまでいるの? 私もそれに合わせるけど」
「んー。特に決めてはいないかな。なんなら、これ写し終わったら直ぐにでもいいよ」ペンを動かす手は休めずに応える。
「じゃあそうしよっか。別に急がなくてもいいからね」添えられた二言目が彼女らしかった。
そうは言われても人を待たせている手前、できるだけ早く片付けてしまいたい。
「一年はどの範囲をやっているんだ」言いながら先輩は窓を閉めた。黒板を引っ掻いたような音がした。湯島が応じる。
「ミクロですか? それともマクロ、どっちですか?」「両方だ」「両方ですか。えっと・・」
彼女は十秒ほど考え込む。どうやらまとまったようだ。
「覚えてません、てのは冗談ですけれど、だいたいでいいですか。ミクロはくもの巣調整メカニズムの辺りマクロは・・よくわかんない公式だらけで説明しにくいです」
「マクロは基本暗記だぞ・・まあミクロはわかった。くもの巣調整メカニズムはマーシャル調整の分野の一類型だな。面白いし理解もし易いだろう? どれも特徴的な名前をしているからな」
「そうですね」
たぶん愛想笑いをしているはずだ。
「そうだろう」
こちらは素直に笑っているのだろう。
(?)僕は手を止めた。広げたノートをまじまじと見つめて、後ろ何ページか捲ってみる。
やっぱり。変だ。
「湯島。今、くもの巣の範囲やってる、って言ったよね」
「そう言ったけど。どうかしたの?」
「おかしいよ。それに関連すること、ただの一文字も書いてない」
「え?」
湯島は身を乗り出してノートを覗き込んだ。眉を顰めて表紙を確認すると、ああ、と言った。
「ごめん。今日ノート忘れたと思ってルーズリーフ使ったの。ちょっと待って」彼女は頁の隙間から端に穴の並んだ一枚の紙を引っ張りだした。
湯島から受け取ったそれには、渦巻みたいなグラフが幾つか描かれていた。渦巻の横に説明が付加されていた。これも筆圧が弱かった。
「写し直しか・・」
「復習になって良かったじゃない」口笛でも吹きそうな言い方だ。「菅野の授業に復讐する価値があるかはわからないけどね」
「当たりが強いなあ。僕も嫌いだけどさ、菅野。スライドの説明を聞いてても話が直ぐ逸れるから、何が重要なのかわからないんだよ」
「グラフの説明してる時なんてひどいよね。需要曲線と供給曲線が均衡する図をスライドに映しておいて、説明の途中に「これは応用なんですけど~」って黒板に新しいグラフ書き始めるんだもん」
「ああ、あの供給曲線のシフトの話か。需要曲線は固定した上で応じて供給曲線が動く。そんな感じじゃなかった?」
うろ覚えに簡易的なモノをノートの隅に書いてみる。
これが正しいグラフのはずだ。しかし菅野の話が逸れると--
--こうなる。
「供給曲線が需要曲線と交わってなかったりするんだ。なんだあれ」
「わたしもわかんない。でも皆わかってないと思うよ? 真面目に聞いてる人なんていない。それでいてテスト範囲を明言しないから、結局その部分も丸暗記しなきゃならなかったし。」
「湯島はあの小咄まで覚えたのか・・やるな。僕は捨てたよ」
件の箇所はテストには出なくて、拍子抜けだった。
「捨てて正解。必修じゃなかったら二度と受講しないくらい」
湯島は口を尖らして鼻を鳴らした。彼女はチョコレートの大袋をゴソゴソ、鷲掴みにした小袋を雑に破って口に放り込んだ。枝豆みたいに連続で咀嚼する。
僕も隣から片手を突っ込んでガサゴソ。うまくいかなくて、結局両手を使った。三つ手のひらの上に乗せて、座り直そうと腰を上げてやっと、体を折りグラフを覗き込む先輩に気が付いた。髪が垂れ下がって、白い耳が顕わになっていた。血の巡りが感じられないくらいに、白い。
呆けてしまった僕の視線など気にも留めずに、彼女は言う。
「このグラフ、限界費用曲線かそれとも何かと勘違いしてないか? 需要、供給曲線が交わらないなんて話聞いたことが無い。夏休みも挟んで二、三か月前のことだし、裕巳の記憶に齟齬が生じているんだろう」そこまで言って、ああ、思い出したみたいに彼女は続けた。「私も菅野のミクロ経済学は一回生の時分に履修していたが、テストに出さない所は事前に説明があるぞ。授業中、明後日の方向に話が逸れるのは、変わっていないようだが。これも君らの勘違いじゃないのか」
どうなんだ、と目で問われて我に返った。えっと、
「そうかもしれませんね」頬に皺を寄せて、微笑む。わざとらしい自覚はあった。
先輩は一言「うん」と呟いた。一応確認しただけで、彼女の中で答えは決まっていたのだろう。定位置の安楽椅子へと戻ろうと、身を翻す。
翻して一歩を踏み出そうとして--やめた。湯島が呼びかけたからだ。
「ちょっと待ってください。グラフについては裕巳の記憶が怪しい、それでいいです」「おい」「でも私の知る限り、と云ってもまだ一度しか履修していないですけれど--菅野はテスト範囲についての説明をしていなかったはずです。少なくとも前期では」
「そうなのか?」先輩は振り返って僕を見た。
「さあ」
どうだったか。暫く考えてから、応える。
「湯島ほど言い切れないにせよたぶん、そうだった、と思います。十五回目の授業で(テストは十六回目だ)発表されなくて皆、焦っていました。どこを勉強したらいいのかわからなくて」
授業が終わってから菅野への文句や、観念したと諦める声で教室がざわついたのが記憶に残っている。
「それは大変だったな。心中お察し、だ。しかし・・」
釈然としない様子の先輩に湯島がたたみ掛ける。
「焦ったのはそれだけじゃありません。教室変更の連絡も適当だったんです。ひどいですよ、ほ ん と う に」
嫌味に一音ごと区切って彼女は空を睨む。先輩が目線で僕に説明を求めた。
「これも十五回目の、テスト前最後の授業の話ですね。授業中に突然、菅野が言ったんです」
他ならぬ自分自身が被害を被ったので、よく覚えていた。
彼はこう言ったのだ。
「ああ、テストはこの上でやりますから。くれぐれも間違えないでくださいね--」黒板にチョークを書きつけながら、私たちの方を向きもせずに。
「--と、こんなふうに。でも間が悪いって言うんですか。この時の菅野は件の、誰も理解できないグラフの話をしていたんです。つまり、最後の授業でもこりずに菅野の話は脱線していたわけですね」
息を吸うために一呼吸おく。その間に湯島がその先を継いだ。
「内職していたり机に伏せて寝ていたり、しかし真面目に聞いてる人は数えるほどだった。不意打ちの教室変更に室内は騒然としたが、菅野は気にする素振りもなく授業を進めて、十五回の授業は終わった。いつもなら教室変更がある場合には、その旨、教務がeメールで学部生に一斉送信するはずだけれど、それもなかった」「裕巳には連絡あった?」
彼女の問いに、僕は首を横に振った。
「あの混乱を推し量るに、たぶん他の人たちも一緒じゃないかな。誰一人としてメールが届いた人はおらず、だからああなった」
「そうだよね。私、周りの子とも確認し合ったけどいなかったもん。そんな子」
「じゃあ菅野本人以外に、変更の如何を知り得る人は・・?」
「あり得ない。・・と、思うかなわたしは」
湯島は肩を竦めた。これは教授の手際の悪さに辟易しているのだろう。僕も彼女の仕草を真似てみせた。
「香織は菅野が口頭で言った、それを聞いていたのか?」先輩が口を挟む。
「口頭で言ったそれ? ・・ああ、わたしは寝ていたので変更のことは人づてに知りました。室内が騒がしかたとか、直接的には知りません。寝てるのにうるさいなー、くらいには感じました。それだけ」
「さっきのは一言一句違わずに、あいつはそう言った?」
文脈から判断すると訊かれているのは僕だ。
「ええ。間違いないはずです」「というのも、重要な話ってやけに響くじゃないですか。どう説明すればいいのか、えっと、みんなが一斉にしんと静まり返るので」
「あ、それわかるかも」湯島は分かってくれたようだ。
「ならいい」
先輩は床の一点を見つめて考え込む。彼女は集中していると言葉に棘が生える。知り合ったばかりの頃はまるで怒っているみたいで動揺したけれど、これはいつものことで、半年も経てば慣れた。ので放っておく。
僕はまたノート写しに取り掛かり、湯島は足を組んで携帯を玩ぶ。いつの間にか薄暗くなっていた室内に沈黙が訪れた。テレビの光が眩しい。
「電気つけるね」
湯島は立ち上がっていつも先輩が背にしている正面の窓と角部屋に許された左側、もう一つの窓のカーテンを閉めた。それから入り口の方へ向かう。きい、と音がしてすぐに白昼色の蛍光灯が部屋を明るくした。電気のスイッチは部屋の外にある。ありがとう、と彼女にお礼を言って、それきり会話せずにペンを動かし続ける。
残り四分の一、とそこまできて、虚脱感に襲われる。あと少しの所で突然かったるくなるのはどうしてだろう。誰かに同意を求めてみても「あと少しだと思うと逆にやる気が出ることね?」とか云われて、これまでに市民権を得た試しがない。
夏休みの宿題を最終日まで手を付けないのは理解ができない。僕は初日からやり始めて途中でやめるタイプだからだ、結果的に地獄の最終日を迎えることになるのだが。
残りを明日に持ち越してしまいたい衝動をどうにか諫めて、経線に沿い文字を書きつける。
・・三分足らずが経過した。
(よし、終わった--)
大学ノートの二ページ分がびっしりと埋め尽くされていた。授業一回でこの分量となると、期末テストも大変そうだ。次回からは内職を自重しよう。そう決意して筆記用具を片す。携帯を見ると十五時近い。
「終わった?」
湯島がこちらを窺った。うん、とだけ答えて立ち上がり、リュックを背負った。一連の過程でルーズリーフを彼女に返したがお互いに無言だった。
どちらが合図することも無く、偶然に僕のが先に入り口兼出口の扉へと足を進めた。冷たい。鉄か、またアルミ製かどちらかのドアノブをそっと捻る。大学発のバスの出発時間まではまだ、十五分弱ある。急ぐ必要はない。扉の底が床を舐めるくらいに慎重にドアノブを引いた。湯島も効率が悪いとも取れる僕の行動に言及することはしなかった。きっ、っき、きっ。微かな高音だけが響く。
だから時が止まったと錯覚する、そんな沈黙を破った、先輩の発した言葉に僕らは飛び上がってしまうくらいに驚いた。
「おい」「「!」」肩が跳ねて、現実に飛び上がってしまう。
「な、なんですか、、」言葉が告げずに、ただ返す。
「裕巳たちはもう帰ってしまうんだろう」
「ええ」「そうですね」
僕と湯島が生返事を返すと、何処から出したのか黒い扇子を広げる。今度のはナマズの絵柄だった。
しかし広げるが早いか。彼女は扇子を勢いよく畳む。ぱちっんっ。いい音がした。
「帰る前にちょっと付き合え。なに、そんな時間は掛からない。事件の大筋は読めたからな」
事件とは、これは大げさな。
・・・。
次のバスには間に合わなさそうだ。
2
「久々だな。窓からの、この眺め。懐かしい」
「高速道路くらいしか見えないでしょうに」
僕の言葉を無視して先輩は外の景色を見やる。
私立A大学は広い敷地に似合わず愛知県の中心、名古屋のど真ん中に立地していた。大学の目の前には三車線の道路に面していて、朝早くから車の往来が激しい。渋滞することもざらであるからそんな日には、最寄りのF駅から出ている通学バスが立ち往生して一限の遅刻者が多発する。
だから某世界の車窓から見られそうな、美しい緑は見当たらない。ほんとうに、ただの一つも存在しない。コンクリート・ジャングルである。しかし視点を変えてみれば、ほとんどがモノクロで統一された色使いはドミナントの調和。そして古いカメラで撮影した白黒の写真のようでもあった。
机の上に腰掛けてそっれぽく哀愁を漂わせたくなるのも、あながち場違いとは言い切れない。高速道路の向こう側に沈みかけた太陽をみてそう思った。今日の夕日は色が黒っぽい。
「ん~~」立ったまま湯島が伸びをした。
黒は一日の終わりの色だ。彼女は肩甲骨を伸ばしながら口を開く。
「それで、えまさんにくっついて3304まで来ましたけれど」
なにすればええんや、と彼女は先輩のはす向かいに立った。そうだったな、と呟いて先輩が机から腰を上げる。早歩きで中央のスロープを下り黒板前まで行ってチョークを掴む。この教室は教卓のある場所が一番低くなっていて、階段を上るみたいに段段に。教壇から一番高い所まで続くスロープの両脇に、備え付けられた長机が並ぶ造りだ。僕と湯島が先輩を見下ろす構図になった。
「時に、裕巳」
「はい」返事をした。
「ここは何階だ?」
「・・はい?」
「単に確認しているだけだ。ふつうに答えてくれればいい」
「あ、はい。三階です、三号館の三階。3304教室」
3304とは3号館3階の04教室、の略である。
「菅野がいつも講義している教室で間違いないな?」
「ええ。だって三限は僕、この教室にいましたし」
「わたしもです」湯島が補足する。
「よし。とりあえず、二人とも適当な所に座ってくれ」
「はあ」
適当な、とは云っても、この広い教室にいるのは三人だけだ。スロープを歩き一番前の、教壇の正面の席に座る。普段なら誰もが敬遠する席だ。新鮮味さえ覚える。
木の椅子の上を滑るようにして、僕の隣に湯島が座った。
先輩は正面を向き、僕たちが席に着いたことを確かめる。そして言った。
「それじゃあ再現してみようか。その事件の有様を」
彼女は髪を払い目を眇めてみせた。眦が鋭角を成す。
「あるべき場所から背離してしまった真実を、再び均衡点にシフトさせるために」
瞬間、彼女の目が光ったように錯覚した。
大きく黒い瞳の一点が藍色の輝きを放つ。
漆黒には不相応に、神秘的な玄耀だった。
3
視界がチカチカする。
電気を点いたからだ。電気系統は教卓の手元で操作できるようになっている。
「さすがにスクリーンは用意できないがまあ、いいだろう」
あとは、と先輩は老緑の黒板を前にした。彼女は左手で右腕の袖口を捲り、構えた。
かつっ
かつかつと響きのいい音に伴って、黒板に白い線が刻まれる。ジャージ姿で腕を振る彼女はアルバイトの塾講師のようである。
その腕が止まった。
「これは--」
見覚えがある。それもついさっき。僕は理解を諦め湯島が辟易していた、あの。
菅野のグラフだ。
供給曲線と需要曲線。二本の曲線が乖離し、独立していた。
意識を飛ばし、教室内を俯瞰する。
先輩が教授。僕と湯島が生徒。黒板には意味不明な図表。
「準備は整った」教授が言った。
”準備”とは、すなわち。
この教室は今、遡及したことを表す。
半年弱、過去へ。
「これはミクロ経済学最終回の講義だ」教授はチョークで左斜め前を指し示した。講義中はスクリーンのある場所だ。「講義の途中突然に、私はスクリーンに映し出された映像を差し置いて黒板にグラフを書きつけた。二人の話を聞くに話が脇道に逸れるのは一度や二度ではなかったようだから、その日に限った、特別なことだとは云えない。淀みない口ぶりでしかし本来の筋から外れたまま、もはや誰の指摘を受けることもあらず、私は講義を続けていた。君たちもまた、いつも通りに各々好きなように内職や惰眠を貪っていた。私もまた、それを指摘したりはしない」
「ええ」「そうでした」
彼女の言葉に二人して相槌を打つ。
「そして私は言った」
黒板を向いたまま腕を振り、中空に何かを書いて見せ--
--止めた。
彼女は。ああ、と呟いた。
そして
「テストはこの上でやりますから。くれぐれも間違えないでくださいね」
半分だけ振り返って淡々と告げた。
「ああ・・」感嘆の声が漏れた。
ふつに、複写したようだ。
彼女が菅野に重なって見える。・・それは言い過ぎか。されど言葉のみならず仕草まで、まったくの再現だった。彼女もまた、その場面に居合わせていたのではと、疑るくらいに。
「えまさん。・・実はわたしたち一緒に授業受けてました?」
湯島が訝って訊いた。湯島が少々引いているのは、おそらく僕が感嘆したのと裏返しの感情からだ。
彼女は過去の時間をその身に纏っていた。昼白色の光に照らされた彼女の側面から延びる魔手。どす黒くしかし澄んだ翳が細身の体躯を覆い、包み込む。
異質な雰囲気が漂う。
もっとも僕にだけ映っているであろう、幻覚だ。
ただ。
ただ。
不気味だ。端正な容姿が醜悪なドレスを着込む。
悍ましくも思えてくる。
・・これは憑依。
ともかく---
今や彼女は事件の当事者の一人となった。
湯島の問いに彼女は、いや、彼は答えない。
---なるほど。
彼は無言だ。されど語り、そして示している。
のまれよ、
と。
演者の一人として。
「あの--」
得心した僕は重ねて問おうとする湯島を、強引に遮った。
「講義を受講している生徒は思い思いに、暇な時間を潰していた。それでも、彼の一言を聞き逃した者は居なかった、いても一握りだっただろう。それは生徒達にとって、あまりに重要な発言であったからだ」
僕は抑揚を付けず言い切る。
怪訝そうにしていた湯島がはっ、とした。そして。
「思いがけない教室変更の知らせに、一時教室は騒然とした。彼の言葉をわたしも含めてやはり、耳に留めた程度の生徒が多数を占めたからだ。要するに自分の聞き間違いを疑った。だが後の友人及び裕巳の発言を考慮すると、概ねその解釈に開きは無かったように思える。かくして生徒達は正確ではないにすれ各々、彼の言葉を補完することになった。来週のテストはこの3304教室の上の四階、3404教室で行われるのだ、と」
しかし、教務からのメールは一向に届かなかった。彼女は言葉を継ぐ。
「その一週間後、期末テスト当日。彼の言葉に従って3404教室でたむろしていた生徒は困惑することになった。予鈴のチャイムが鳴りそして開始時刻になっても3404教室に彼、当の菅野は現れなかったからだ」
--そう。
結局待てど、待てども菅野は来ず。
いくらか経って漸く「どうやらこれはおかしいぞ」と誰からともなく一階下の3304、つまりこれまで通りの教室に移動してみるとそこに、
菅野がいた。
彼は顔を赤くして、ぞろぞろと遅れて入室する生徒を激しく糾弾した。遅刻してきた生徒に対する対応としては至極真っ当な行動であろうが、今回ばかりは事情が違う。僕らは先週の彼の発言を盾にして逆に彼を糾弾するかの如く自分達の正当性を主張した。
それを聞いたうえで彼は言ったのだ--ふん、と大げさに鼻を鳴らしながら。
--「私は教室を変更するなど、そんなことは一言も云っていない」いつの間にか彼はこちらを向いていた。「もちろん、教務にもだ。だから、変更を知らせるメールは届いていないはずだ」
机に片手を付いて、勢いよく湯島が立ち上がった。
「彼の手のひらを反すような発言に、私たちは憤った。が、何も言い返すことはできなかった。何故なら事実、誰一人として件のメールが届いた者はいなかったからだ」
言い終えて、彼女は爪で机を叩く。
僕も思うところは同じだった。だらしなく頬杖をついて見せる。
「それでも食って掛かる生徒は、いるにはいた。上の教室でテストするんでしょう、そう先週聞きました・・と。けれども彼は耳を傾けず、一蹴しただけだった。横暴にも感じられるその態度。その軸はこちらの主張の不安定さにあった。一週間前の彼の言葉、その場面を、どれだけ克明に述べようとも結局、人が過去発した言葉なんてのは本人が認めない限り、形を成さない。すなわち、本人が言ったことを忘れてしまっているこの状況では形ある、確固たる証拠が存在し得ないのだ。比べてて彼の”メールは届いていない”との言い分は、ある意味で形ある証拠だとも云える」
「そして不承不承、早く着席しろとの、彼の指示に従った。正しくは”たわけたこと云っていないで早く座れ”であったが。舌打ちしたり眉根を寄せる者、されど選択の余地はなかった」
逆に、まさしく今、目の前の彼を非難するように。
それはおそらく、教室にいた生徒全員の心内を代弁していた。
--しかし。
それでもなお、
彼は胸を張った。
「重ねて明言し、また、断言しよう」
そして言い放つ。
「私は教室を変更するなど、そんなことは一言も云っていない」
「----。」
確信の籠った響きと、鈍器を振り下ろしたようなその重みに僕は気圧されてしまう。
真っ黒の帳に佇むひとつ。人型の影。
己の瞳に映る虚像。
得体の知れない気配と対峙して、机に片腕を付く。唇を強く噛む。虚像が薄れる。
漸く湯島の手がすぐ横にある事に気が付いた。
細い指がありったけ握りしめられていた。
・・・僕が----
目頭に力を込めて顔を上げ、正面を見据える。そして口を切った。
「だったら--。だったらなんだって僕らが、その他大勢の人間が誤認する事態になったんだ。あなた一人はかたくなに”言っていない”と云い、片や幾人かは”言った”と主張する。しかし、そう何人もが一度に、それも同じ勘違いをしたとは考えにくい」僕には、吐き捨てるように強く続ける。「あなたが本心から述べつらっているのか、それとも既に気が付いていてかといって今更引き下がれず、矜持を守ろうと意固地な態度を取っているのかは他者に計りようが無い。けれども」
僅かばかりの虚勢に彼を指し示す。
「あなたは確かに言った。だがその自らの言伝を記憶の片隅に留めることもせず、ましてや嘘偽りを捏造してまた信じ込んだ。そして他者の言葉を妄言偽りであると切り捨て、己こそが真であると、一方的に真の妄言を吐き及んだ。--それは客観的に見てもはや議論の余地なく、そして主観的な観点からも、あなたを除いて一見明白明らかである。然らば--」
チョークを掴んだ手をぶらり、垂れさげて僕を見澄ましている。
その。
彼の中では。
虹彩が息を顰め、虚無の色になった瞳。虚無に吸い込まれまいと、こめかみに力を込めて彼を睨み据える。
そして一息に言い切った。
「あなたは--。あなたの中では--」
彼の中では--。
「自覚しないうちに真実と虚偽、嘘偽りが綯い交ぜになっているんだ」
彼は動かない。
しん、としている。心なしか部屋の温度が下がったように感じる。一切の音が手のひらで掻いたように、掻き消えていた。
まるで空気が振動することを辞めてしまったのかと、そう不安になるくらいの静けさとしかし、重い。大気圧は働きを増したようだった。
暫く、この空間そのものが凪いでいた。
無音。
僕の言葉への返答は未だ、ない。
いくら経ったか。
漸く彼を指差した腕を下す。薄ら寒くなったからだ。
、、衣擦れの音がした。
ほとんど反射的に、今自分が下した腕を確かめる。
息を吐いてゆっくり瞬きをした。どうやら音はあるらしい。
かつん。
響きのいい高音。キレた波が立つ。
正面に視線を移すと、彼は背中を向けていた。つまり黒板を前にしていた。絵筆みたいな握りで、先程描いたグラフ、その曲線上にチョークをあてがっている。
催促するのは憚られて、呆然とその動きを眺める。湯島も同じのようだった。
彼の腕が大きく緩やかに引かれる。腕の軌跡をなぞり元あった白色の線の上に、新たに赤色の線が重ねられた。むろん、赤色の曲線は本来交わるはずのもう一方の曲線とはやはり交わってはいなかった。
いったい--、なにが---。
蔑ろにされたのを咎める気力は既にあらず、ただ、僕らは悄然と眺めるばかりだった。丁寧に白線を赤線で隠しながらやにわに、独り言みたいに、彼は言葉を発する。
「一般的に、経済学に携わる者はは数学にも精通していることが多い。微分に積分。いくら文系の学部生でも知っているだろう? それは経済学者になる過程で大学院を修了し、そして博士号を取得する上で、いわゆる計量経済学が必要になるからだ。計量経済学では高度な数学の知識が必須になる。経済学の為というよりかは、観察した膨大な量のデータを分析するプログラミング技能の意味合いが大きいがな」
そこまで言って、一度言葉を切った。
いよいよと、すべてを見切った彼の裁定が下される。
彼は黒板にあてがっていたチョークを下した
おそらくは、これが最後になるであろう彼としての言葉になるだろう。
僕らは赤い線に変わったグラフを目の隅に収めつつ、胸を上下させて喉を鳴らした。
彼はおもむろにこちらを見やり、口を開いた。
「つまり----。」
3
「久々に食べるとおいしいね、ドーナツ。やっぱポン・デリングが一番」
「そうかな。僕はブロンズチョコレートが好きだけどなあ」
「甘すぎない? それ」
湯島が僕の手元に視線を落とした。そこにはドーナツがひとつ。
すっかり暗くなった教室を後にしてから、だいたい一時間後くらい。僕らは駅前のミステリードーナツにたむろしていた。空席の目立つ店内は、長いこと駄弁るには最適の環境である。店には仕事終わりのサラリーマンや学校帰りの女子高生の出入りが激しかった。ドーナツは持ち帰る人が多いようだった。
僕はブロンズチョコレートとコーヒーを、湯島はポン・デリングを二つとアップルパイ、そしてミルクティーを注文した。約束通り僕の奢りである。
湯気の立つコーヒーを啜ると、身体の芯から温まる。代償に財布の中身は冷めてしまった。
湯島がドーナツにかぶりついた。幸せそうに咀嚼している。
「それにしてもさ・・。わかんないよねぇ」
「何が?」自分もドーナツにかぶりつきつつ、先を促す。
「だからさ、」
湯島は口の中身を呑み込んで、紅茶を一口含んだ。
「だからさ、弧の上でテストするなんてわかりっこないよね」
湯島は三日月形に齧られたドーナツを取り上げてみせる。既視感のあるそれは供給曲線と酷似していた。
まったくもって彼女に同意だったので、強く相槌を打つ。
テスト前に菅野が発した、あの言葉。僕たちが受け取った「この上でテストする」は解釈違いであって、正しくは「弧の上でテストする」だったのだ。
つまりあの時菅野は、僕たちにテスト範囲を伝えたつもりだったのだ。おそらくは普段から、授業中に話が脇に逸れていくことを自覚していて、フォローの一つでもしたつもりだったのだろう。先輩の(もう先輩でいいだろう)云っていた、「経済学者は大抵数学をも心得ている」云々諸々考慮すれば、緩やかな曲線のことを”弧”と表現したのも合点がいく。
しかし一介の大学生、ましてや高校数学から逃げてきた私立文系学生にそんな数学専門用語(?)は理解できるはずもなく。
その結果、菅野自身は教室変更するだなんて言った自覚はないのだから、生徒が妙な言いがかりをつけてきていると思い、けれども生徒は生徒で菅野がテスト範囲の事を云っていただなんて誰一人として理解していなかったものだから、菅野が一週間前に自分のした教室変更を忘れているのだと考えた。
かくして、お互いの記憶が食い違う奇妙な構図が出来上がったというわけだ。
「誰かしら気が付いてもよさそうなもんだがな」
先輩が呆れたみたいに言った。彼女の前にはフレンチ・クルーラーが山積みにされていて、更に両手にも一つづつ持っている。
「仮にも菅野は黒板の前でそれを告げていたんだし、明らかに生徒側に非があると思うぞ。テストの前最後の授業なんだから、何かしらテストの事言われると想像がついていただろうに」
「「・・・」」
冷静に分析されると、耳が痛い。
湯島もばつが悪そうな顔になる。
「想像がついたと云われれば、それは、まあ。集中していれば気が付いたかもしれませんね。それもさっきくらい・・・気合を入れて話を聞いていれば」
「そうだろう」
「でもやっぱり」彼女は髪を掻きあげた。
「非は菅野の方にありますね」「何故」「私たちはあいつの話をまともに聞いたことなんてない。すればそれも考慮して、もっとはっきりと。そう、例えばレジュメなんか配布するべきでしょう? ・・でしょう!」
「いや言い切って、しかも提言されても困るんだが。他力本願が過ぎないか香織」
「せやろか」
「せやろか?」
先輩が睨みつけるも彼女はどこ吹く風である。しかし、さすがは湯島。人の云いにくいことを寸分違わず代弁してくれた。
・・彼女の代わりに僕が睨まれたので目を逸らす。
逸らした先、窓の外は昼間よりも明るい黄色で、歩道を店のネオンが煌々と照らしていた。時折り走り抜ける自動車が黒い影を残す。思いがけず長居をしてしまったようで、激しかった人の往来も今は斑になっていた。
もう遅いな、と先輩が呟いた。
「そろそろ、帰ろっか」
湯島の言葉に伴って、それぞれ帰り支度を始める。
そして気が付いた。
「あれ? 財布どこにやったけ?」
「裕巳、さっき使ってたじゃない」
「うん。・・探すからちょっと待ってて」
僕はリュックの口を大きく開いて中を覗き込む。暗くてよく見えない。これは中身を全部出してみないと、そう思った矢先。
湯島の声が投げかけられた。
「あ、底にあるんじゃん」
「底? ああ、リュックのね」
暗いのにリュックの中が良く見えたな、と湯島の視力の良さに感嘆しつつ再びリュックをまさぐってみる。
「だから底、底」彼女が重ねて言った。
「うん・・・」
リュックの底まで探したが中に財布はなかった。
「やっぱりないよ、湯島---」
そう言って顔を上げると何故か彼女は、蔑むような視線を僕に浴びせつつ、隣のテーブルの下を指差していた。
「? ・・・あっ」
彼女の指の先には、確かに僕の財布が落ちている。間抜けに声を上げた僕を見て彼女はため息をついた。
「さっきから、そこに落ちてるって言ってるじゃん」