第九十話 峡谷迷宮 後編
岩がゴロゴロしている川岸を、レイゼルは慎重に上流へと向かった。
水の中に住むカニの一種が発する生ぐさい匂い、岩に張りつき霧などの水分で育つ植物の青くさい匂い。土の匂いがほとんどないせいか、他の色々な匂いが鮮明になっている気がする。
時々、ダイセロスに行きあったけれど、彼らはレイゼルに気づきはするものの、特に何も行動しない。豚に似た鼻であたりを嗅ぎ回ったり、川岸にへばりついた苔を食べたりするばかりだ。
途中でレイゼルが休憩を取り、岩に腰かけて昼食のパンを食べても、彼らは興味を示さなかった。
やがて、二筋の川が合流する地点にたどり着いた。片方が本流で、もう片方が洞窟から細く流れ出してきて合流している。
レイゼルは顔を上げ、くん、と匂いを嗅いだ。
熟しすぎた果物のような甘い香りが、かすかに鼻に届く。
とたん、脳裏によく知る人の顔が浮かんだ。
養母のエデリである。
レイゼルは彼女と、ここに来たことがあるのだ。
「……何年も経つのに、覚えているものだなぁ。匂いは記憶や気持ちと深く結びついているっていうけど、本当ね」
レイゼルは一人ごち、胸をそっと押さえる。
こうして自分の気持ちを落ち着けながら、ゆっくりと進みたかった。シェントロッドがいたら絶対に心配するので、一人で来たかったのだ。
洞窟の入り口まで上り、いったんそこで立ち止まる。レイゼルは背負いカゴを下ろし、ランプと、小さな瓶を取り出した。
シェントロッドと話した時には、この峡谷に何度も来ているかのような言い方をしてしまったレイゼルだが、実は今回でようやく三度目である。
(初めて来たのは五歳の時。あの人と暮らしていた頃)
ダイセロスの角は、解毒薬にも使われる。『毒薬師』エデリは解毒薬も作る必要があり、たまに一人でここに来ていたようだ。
しかし、角を見つけるには、とある匂いが鍵になる。
エデリよりもレイゼルの方が鼻が利いたため、彼女が谷を歩ける年齢になった頃、エデリがここに連れてきた。仕事が早いと考えたのだろう。
(よし)
ランプに灯りを点して片手に持ち、もう片方の手に瓶を持って、レイゼルは洞窟に足を踏み入れた。
奥へ進んでいくと、どんどん暗くなる。
最初のうちは足下を水が細く流れていたので、出口の方向もわかりやすかったが、すぐに道は平坦になった。水音はしているものの、流れは岩の隙間にもぐって見えない。
分岐に出た。レイゼルは両方の道の前に立って、鼻をくんくんさせる。
「こっちだ」
右の道からほのかに甘い匂いがするのを感じ取り、レイゼルはランプを岩の上に置いて、瓶の蓋を開けた。蓋はそのままガラスのスポイトになっており、中には発光植物から抽出した液体が入っている。
スポイトから、ぽたっ、と岩の上に滴を垂らすと、その部分が青く発光した。
「目印、よし」
瓶に蓋をしてランプを持つと、レイゼルは分かれ道へと足を踏み入れた。
分岐に出るたび、レイゼルは匂いを確かめ、自分がどちらから来たかわかるように目印を残しつつ進んだ。
(行きは匂いをたどるからいいけど、帰りがわからなくなっちゃうからね。エデリは、糸巻きを持ってきて目印にしていたっけ……)
二度目、つまり前回ここへ来たのは、十二歳の時。
エデリはレイゼルが六歳の時に逮捕されていたので、当時のレイゼルは孤児院で暮らしていた。
(シスター・サラに、贈り物をしたくなったのよね。それで、ダイセロスの角がそれなりの値段で売れるからって思って)
軽い気持ちで彼女は孤児院を抜け出し、谷に採取に来たのである。
けれど、甘い匂いを嗅いだとたんに、洞窟に入れなくなってしまった。
(急にエデリの記憶が鮮やかに蘇って、胸が苦しくなって……。結局、角を取らずに孤児院に戻って、寝込んでしまった。シスターにも、どこに行っていたか言えなかった)
今も正直、この匂いを嗅いで、あまりいい気持ちはしない。
(でも、十二歳の時とは違うから、思い出に向き合える)
シェントロッドのため、かつての家の焼け跡に行って薬草畑でサキラを採取することもできたし、エデリと再会して本当の決着もついた。
レイゼルはいくつかの分岐をたどり、確かな足取りで奥へと進む。
甘い匂いは少しずつ、強くなった。
やがてレイゼルは、岩の裂け目から光が射し込む場所へとたどり着いた。
「着いた。ダイセロスの墓場」
レイゼルは見回しながらつぶやいた。
ぼんやりと明るい空間に、細い水が白糸のように流れ落ち、小さな池を作っている。
そして池のぐるりに、まるで柵のようにニョキニョキと細長い茎の植物が生えていた。アードという植物である。
頭の方にびっしりと白い花がついており、その甘い匂いがむせかえるようだ。
よく見るとアードの根本に、骨になりかけたダイセロスの死骸が数頭、転がっている。
ダイセロスは自らの寿命を悟ると、死に場所を探すと言われている。そしてなぜか、アードの匂いをたどる習性があった。
ところが、アードは数年かけて成長し、一度だけ花をつけ、一ヶ月ほど咲いた後に枯れてしまう。いつも谷のどこかでは咲いているのだが、場所は匂いを頼りに探すしかない。
そして、この様々な匂いの入り交じる谷では、アードの匂いを嗅ぎ分けられる者にしか探し出せない。
レイゼルがシェントロッドに「探すのにコツがいる」と言ったのは、そういうわけだった。
レイゼルは池に近づくと、しゃがみ込んだ。
「どこかで元気に生まれ変わってますように。角、ありがたくいただきます」
青白く光る角は、ぽろっと簡単にもげる。
レイゼルは大事に拾って、カゴの中に入れた。
発光する目印をたどり、レイゼルはようやく洞窟の外まで戻ってきた。
すでに空は夕暮れで、谷底はすっかり暗くなっている。
(野宿できる場所を探さないと。さすがに、あまり色々と匂いがしない場所がいいなぁ。見つけたら、隊長さんに来てもらおう)
考えながら流れに沿って下ろうとした時、前方で影が動いた。
大好きな低い声が、彼女の名前を呼ぶ。
「レイゼル」
「隊長さん!」
急にホッとして、レイゼルは思わずそちらへ駆け出した。そしてお約束のようにつまづく。
「わっ」
「おっと」
シェントロッドの腕が、余裕を持って彼女を受け止めた。緑の瞳が彼女を覗きこむ。
「無事か」
「はいっ、ありがとう、ございますっ。まだ呼んでいないのに、早かったですね?」
「今日の仕事は終わらせてきた。明日に回せるものは回した。だいたいこのあたりかと」
シェントロッドはどうやら早めに来て、うろうろしていたらしい。
「角は手に入ったのか?」
「はい。四本も」
二人は話しながら川沿いを少し下り、平らな岩棚の上で夜を明かすことにした。
シェントロッドが火を起こし、レイゼルは薬草茶を入れる。
「夏で良かったな、過ごしやすい」
茶を飲みながら言うシェントロッドに、レイゼルは夕食のパンをかじりながら「本当ですね」とうなずいた。
食べ終えてから、再び口を開く。
「あのね隊長さん、ここ、エデリと来たことがあるんです」
「そうなのか」
「でも、今日は隊長さんと一緒だから、新しい思い出ができました。この場所にまつわる思い出が、少し変化したような……不思議な感じ」
ふふ、と笑う彼女の顔を、たき火の炎に照らされたシェントロッドが優しく見つめている。
彼の腕が伸びてレイゼルを引き寄せ、胸にすっぽりと抱き込んだ。
大きな手が彼女の顎を包むようにして持ち上げ、二人の視線が合う。
「お前がエデリと過ごしたのは、ほんの数年だろう。そんな時間など、俺との時間が、すぐに変える」
低い声が、レイゼルの耳を心地よくくすぐった。
レイゼルは思う。
(隊長さんが言ってるのは、ただ時間の長さのことだけではないのね。一瞬一瞬が大切で、重くて、光ってる)
心の中で、迷路のようにごちゃごちゃと入り組んでいた部分が、明るく照らされて広くなった気がした。
シェントロッドは、どこか厳かにレイゼルに口づけてから、ささやく。
「他には?」
「えっ?」
「他にも変えたい思い出があるなら、俺と……ああ、エルジーも一緒に、変えていったらいい」
「……はい」
レイゼルは、何だか嬉しくてたまらなくなって、ぎゅっとシェントロッドの胸に抱きついた。
シェントロッドは今気づいたかのように、わざとらしく言う。
「今夜は二人きりだな」
ハッ! と、レイゼルは抱きついた腕を緩めた。
「そ、そうですね?」
「俺との時間をはっきりと刻みつける、いい機会だな」
「ひええ……」
結局、レイゼルにとって刺激的な会話と触れあいとをしている内に、ただでさえ疲れていた彼女はフラフラしてきて──
──シェントロッドが慌てて彼女を寝かせるという、いつもの夜になったのだった。
持ち帰ったダイセロスの角は、大工が使うカンナのような道具でレイゼルが薄く削ぎ、他の薬種と調合した。
トマの養母は、毎日その薬湯を煎じて飲んでいる。時間はかかるが、界脈流が整えば、少しずつ快方に向かうだろう。
そして。
「れーぜる先生、これも掘るの?」
エルジルディンに聞かれて、レイゼルは彼女の手元をのぞき込んだ。
「うん、お願い。根っこ、なるべく切れないようにしてね」
「はい!」
エルジルディンは丁寧に、両手で土を避けて薬草を掘り起こす。
二人がいるのは、かつてエデリと住んでいた家の焼け跡、その裏手の薬草畑だ。
レイゼルは、エルジルディンと一緒に薬草の採取に来ていた。というか、できるだけ多くの薬草を、森の家の近くと水車小屋の菜園に分けて植え替える予定なのである。
かつて隠れるように住んでいたここに、今はエルジルディンと一緒にいる。
「これが、サキラ。こっちがリプチャ。えっと、これはなんだっけ」
だいぶ薬草の名前を憶えてきた彼女は、楽しそうに作業していた。もう少ししたら、シェントロッドが迎えに来るはずだ。
(ここにまつわる思い出も、変化していく。隊長さんの言ってた通りね)
「わっ。れーぜる先生、へんな虫がいる」
「どれどれ?」
レイゼルは一生懸命な弟子に近寄り、微笑みかけたのだった。
今回登場した、発光植物からの抽出物は、書籍3巻でレイゼルがシェントロッドの部屋にお泊まりした時に登場した「スターリズ」という花の汁です。
書き下ろしの新刊(詳しくは活動報告をご覧下さい)が出るなどして忙しくしておりましたが、久しぶりの更新でした。ついにこの物語も90話になりましたー!




