第七話 リーファンジョーク?
「失礼します」
界脈調査部の重厚な扉を開け、『レイ』は顔を出した。
「あら、お疲れさま」
入ってすぐの受付カウンターで、部長のベルラエルが笑顔を向けた。事務員の男性と話していたらしい。
彼女はレイにすいっと近づくと、指の背で頬を撫でた。
「相変わらず細くて小さいわね、レイ。そうだわ、仕事の後で食事に行きましょ。人間族の美味しいお店を見つけたの」
首を軽く傾げると、淡い緑の巻き毛が揺れる。レイはあたふたした。
「あ、ありがとうございます! でも仕事の後はちょっと」
「遅くなってもいいじゃない。今月いっぱいで卒業でしょ、お祝いも兼ねて一度くらいは、ね? 学校からの紹介だと、しんどい仕事でも断れなかったんじゃないかと思って、悪かったなと思ってるのよ」
「いえ、全然そんなことは!」
実は、レイは少々、この部長が苦手だった。
どこが、というのは、はっきりとは言えない。あえて言うなら、その『目』だ。
目は心の窓という言葉があるが、レイは初めてベルラエルの目を見たとき、それを実感した。心の窓を全く開かずに、人に──レイに接する人もいるのだと。
「すみません、下宿の門限があるので」
「あら、連絡しておけばいいじゃない。私、言ってあげようか? 下宿どこ?」
「いえ、ほんとに」
「あ、書類に住所があるっけ。見ていい?」
話を振られた事務員が、えっ、という顔をしたとき──
「おい」
声がかかった。
会議室の入り口に、緑の髪に緑の目のシェントロッドが仁王立ちになっている。
「いつまでしゃべってる」
黒の軍服姿のシェントロッド・ソロンは、その緑の目をじろりとベルラエルに向けた。
「ベルラエル、そういうことは本人から聞け。本人が言わないならあきらめろ。レイ、仕事は山積みだ。今日は遅くなるからそのつもりでいろ」
「は、はい!」
「あら、門限、あるんでしょ?」
ベルラエルが髪をかきあげながらシェントロッドを横目で見る。
「門限までには帰す」
シェンは切り捨てるように言い、踵を返した。レイは彼の後を追う。
シェントロッドは先にレイを部屋に押し込んでから、扉を閉めた。
界脈調査部は、長身のリーファン族に合わせて設計されている。天井の高い部屋をシェントロッドは突っ切り、自分の机を回り込みながら言った。
「フォランド地方の調査報告が上がってきている。整理しろ」
「はいっ」
レイは自分の机の足下に自分の荷物をおくと、よじ登るようにして席に着いた。
椅子の上には高さを調節するためのクッション、そして足下には足置き台が置かれている。人間としても小柄なレイが仕事をしやすいように、調節してあるのだ。
早速、机に積み上がっていた調査報告書を開く。
フォランド地方のどこにどのような界脈が通っているのか、報告書には細かく記入されていた。レイの仕事はその界脈を、水や金(鉱物)などの元素や地名で検索できるよう、項目別に分類することだ。
「ええと、あの、急ぎ……ですか」
いつもなら、このような報告書を数日かけて分類する。しかし、先ほどシェントロッドは「今日は遅くなる」と言っていた。今日中にかなり進めなくてはならないのだろうか、とレイは思ったのだ。
自分の席に着いたシェントロッドは、ギロリ、とレイを横目でにらんだ。
「限界までやれ」
「ひ、は、はいっ」
時々、妙に理不尽な要求をしてくるので、レイはシェントロッドも苦手だった。きちんとやっているはずの仕事に細かすぎるダメ出しをされ、帰りが遅くなったことも一度や二度ではない。
しかし、一度仕事を始めると、レイは没頭するたちである。
報告書を読み込むうちに、フォランド地方の水の流れが、風のにおいが、鉱脈の色が、脳裏に立体的に浮かび上がってくる。
かの地の大気の中を飛び回っているような気分になりながら、レイは項目を抽出していった。
「おい」
「……」
「おい、レイ」
はっ、と顔を上げると、いつの間にか窓の外はとっぷり暗くなっていた。
シェントロッドの机の上はすでに片づいており、彼はコート掛けからコートを外したところだった。
「帰るぞ。片づけろ」
「え、あっ、はいっ」
まだ途中なのに終えていいのか、と気軽に聞けるような雰囲気ではない。シェントロッドはひらりとコートを翻して羽織り、袖を通している。
レイはとにかくシェントロッドの一挙手一投足にビビりながら、あたふたと片づけた。緊張しているので、書類を落としたり、椅子につまづいたり、行動がすんなりとは行かず、それがまた緊張を加速させる。そんなレイを、シェントロッドは髪を払いながらじっと見ている。
部屋を出ると、すでに他の部屋は灯りが落としてあり、受付に小さなランプがついているきりだった。事務員もベルラエルも他の部員も、もういないようだ。
さっさと外に出たシェントロッドの後に、レイは続く。彼女──彼が玄関の扉を出ると、シェントロッドは持っていた鍵で施錠した。
調査部の建物を出て、木製タイルの道を少し歩くと、王都の広場に出た。
ここにも、ひときわ大きな古代樹がそびえ立っている。周囲の飲食店にはまだ煌々と灯りがともっており、かすかな喧噪が届いてきた。
レイの下宿のあるサクサ通りは、この広場から北西へ伸びている。お疲れさまでした、とあいさつをして帰ろうとしてレイが振り向くと、シェントロッドは広場の屋台に向かって歩いていた。
何か買い始めてしまったので、レイはその場で待つ。挨拶せずに立ち去るわけにはいかない。
ようやく戻ってきたシェントロッドに、レイは頭を下げた。
「お、お疲れさまでしたっ。それでは」
「持って行け」
顔を上げたとたん、紙袋を突き出された。
反射的に受け取ると、温かい。
「え、あの」
「残業手当だ。さっさと帰れ、門限に間に合わんぞ」
シェントロッドは顎をしゃくる。
「はいっ、ありがとうございます。あの……さっきも」
「さっき? ……ああ」
ふと、シェントロッドはにやりと笑った。
「気づいたか」
「え? ええ、あの、はい」
鈍いレイでもさすがに、レイがベルラエルの誘いを断れないのをシェントロッドが代わりに断ってくれたのだ、ということは理解していた。
シェントロッドは腕を組む。
「もうすぐ、界脈調査部でのお前の仕事は終わる。仕事ではこっちも世話になったんだ、お互い様として……ベルラエルのことは別だな」
笑い含みに、彼は続ける。
「いつかもし、また会うことでもあれば、この借りは返してもらおう。そうだな、また俺の下で三十年は働いてもらうか」
(い、いくらなんでもさっきのことの恩返しが三十年って……寿命が長いリーファン冗談だよね?)
レイは頬を引きつらせ、そしてふと感慨にふけった。
(王都とアザネだし、リーファン族と人間族だし、もう会うことはないんだ……ちゃんと、お礼を言っておかなくちゃ。きっと、そんな機会はないんだから)
「本当に、ありがとうございました。僕、断るのがヘタで。すごく助かりました」
「わかったわかった、今日はとにかく帰れ」
シェントロッドは手で何かを払う仕草をして、踵を返した。
その後ろ姿に、レイはもう一度、頭を下げた。
下宿のおばあさんに「遅くまでお疲れさん」とねぎらわれ、自室に入って、シェンに渡された包みを開けてみた。肉や野菜を包んだ饅頭が入っている。
下宿は夕食が出ないので、温かい食べ物は確かにありがたい。しかし、レイは体調を崩しやすく、食べ物の影響も大きかった。そのときの体調に合ったものを食べないと、具合が悪くなるのだ。
それでも、残すことはもったいなくて、できない。
結局、がんばって全部食べきったレイは、翌日寝込む羽目になったのだった。