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第三十話 サキラを採りに

「しょうがないよね……サキラなしで作るしかないか。ゴドゥワイトのサキラ、私からも追加注文させてもらえばよかった」

 つぶやきながらチラリとベンチを振り返ると──


 ぴくり、と、シェントロッドの瞼が動いた。


「あ、隊長さん?」

 レイゼルは急いで、ベンチのそばに行く。

 彼の瞼が持ち上がり、うっすらと目が開いた。熱に潤んだ緑の瞳が、ランプの灯りにきらめく。


(まるで宝石みたい。綺麗……)

 そんなことを思いながら、ゆっくりと聞いた。

「隊長さん、薬湯屋に来てますけど、わかりますか?」

「ゴドゥワイト……」

「はい?」

 首を傾げる。

 シェントロッドは、妙にはっきりと、言った。

「王都への使いは、出したか?」

「つ、使い???」

「界脈調査部なら……界脈士がいるから……」  

 今度は苦しげに言う。朦朧としているらしい。


(何の話かはわからないけど、王都の界脈調査部のことよね。王都にいたころの夢を見てるのかしら)

 そう思ったレイゼルはとっさに、返事をした。

「ソロン副部長(●●●)、界脈士の手配なら僕がやります。ゆっくり休んでください」

「……ああ」

 シェントロッドは目を閉じながらつぶやく。

「レイか。手配を、頼む」

「はい」


 ふと──

 チャンスではないかと、レイゼルは思ってしまった。

(今なら、あの頃のことを聞けるんじゃ……?)


 そっとランプを遠ざけ、もし彼が目を覚ましてもこちらの顔がはっきり見えないようにしておいてから、ささやくように尋ねる。

「……副部長、どうして、僕に仕事を無茶ぶりするんですか?」

 事情がある、と彼は言っていた。詳しいことを知りたい。

「ん……ああ」

 わずかに、彼の唇の端が持ち上がった。

(笑った……)

「お前に暇な時間を作ると、他のやつのところに行くじゃないか……」

「?」


『レイ』にとっては当たり前のことだった。界脈調査部で働いている身としては、手が空いたら他の隊員の手伝いをするべきだと考えていたからだ。


「レイは……ベルラエルの好みだからな……あいつは放っておくと、気に入った人間族をあの手この手で懐柔して……えげつないくらい執着……」

 シェントロッドは眉根を寄せ、ぼそぼそと続ける。

「レイが故郷に帰れるよう、三年間、守るのは……結構、骨だった……なのに、あいつ、アザネに帰るなんて嘘を……」

 すーっ、と、呼吸が深くなった。眠ったようだ。


「……嘘……」

 レイゼルは声を押さえ込むように口元に手をやり、彼を見下ろしたまま立ち尽くす。

(助けてもらったのは、ベルラエル部長に夕食に誘われたときの、あの一回だけじゃ、なかった?)


 思い起こせば、シェントロッドとベルラエルの二人との初対面。

 ベルラエルがレイを助手にしようとしたのをシェントロッドが阻止し、強引に彼の部屋にレイを連れていったのだ。

 基本的に、いつも界脈調査部に到着してから下宿の門限ギリギリまで働いていたレイだが、初対面の後の数日は違った。多少余裕があって、ベルラエルに「手が空いてたらこっちも手伝ってちょうだい」と声をかけられたような気がする。

(でも、すぐに隊長さんに仕事を言いつけられて、結局ベルラエル部長の部屋には行かなかった。仕事は私を行かせないため? 三年間、最初から最後まで、助けてくれていたの?)

 

『いつかもし、また会うことでもあれば、この借りは返してもらおう。そうだな、また俺の下で三十年は働いてもらうか』  

 

(そ、そりゃ三十年って言うわ、十倍が普通なら……!)

 ずどん、と音を立てそうな勢いで腑に落ちた、レイゼルである。

(ベルラエル部長がどうえげつないのかはわからないけど、とにかく相手を丸め込むのがうまい方だった。もし隊長さんがいなかったらどうなってたことか!)


 そのシェントロッド・ソロンが、ベンチの上で低くうなっている。額に汗がにじんでいるのに気づき、レイゼルはあわてて手ぬぐいを絞ってくると、軽く押さえるようにして拭いた。

 さらに、よいしょと彼の頭を抱え上げ、カップの水を飲ませる。


 彼の頭を戻すと、レイゼルは立ち上がった。

「待っててくださいね、今、薬湯を作……」

 言いかけて、サキラがないことを思い出す。

「ああーないんだったー、どうしよう。でも……うん」

 一度、視線を遠くにやってから、再びシェントロッドを見下ろした。

 鼻筋の通った顔は、いつもよりさらに白い。耳が力なく垂れている。

(何か、してあげたい)


 きゅっ、と口元を引き結んだレイゼルは、寝室に入った。

 上着を着て、帽子をかぶり、マフラーを巻く。

 店に戻ると、ランプの火をもう一つのランプに移した。念のため、ボードに紙をとめて、そこにこう書きつける。

『夜ですが、薬草を取りに行っています』

 誰かが来たら見えるように、ボードを作業台の壷に立てかけた。ミトンをはめ、かごを腕にかけ、もう片方の手でランプを持つ。


 一度、シェントロッドを振り返った。

「サキラ、採りに行ってきます」


 ふん、と鼻息をひとつ。

 レイゼルは、外へと踏み出した。



 星空の元、レイゼルは歩く。

 アザネ村の南にある薬湯屋から、店や家々の多い北部へ。

 大通りにたどり着くと、突き当たりを左に折れた。果樹園を通り過ぎると、人家もまばらになってくる。

 小川にかかった橋を渡った。前方に、黒々と森が見えている。


(ああ……ここに来るのは十三年ぶりになるんだ……)

 レイゼルは思った。

 勝手に、歩みが遅くなる。

 意識して、足を前へ前へと運ぶ。

(立ち止まったら、進めなくなってしまう。歩け。少しずつでも、前へ)


 息が切れ、少しめまいがする。しかし、レイゼルはよたよたと、歩き続けた。

 一瞬、誰かについてきてもらえばよかったかもしれないと思ったが、軽く頭を振って思い直す。

 一人で向かうべき場所だ。


 やがて、森の中、少し開けた場所に出た。そこで彼女はようやく、足を止める。

 手前に小さな薬草畑、そしてその向こうに、ツタの絡まる廃屋。

 レイゼルと、養母エデリがかつて暮らした、そしてレイゼルが自らの手で焼いた、家だった。


 自分を落ち着かせようと、レイゼルは深呼吸をした。

 一瞬、煙の匂いが鼻をついたような気がしたが、すぐにその幻覚は過ぎ去った。森の湿った土の匂いが、肺を満たす。しんと静まりかえった冷たい空気の中、かすかに虫の声がする。 


「ここの裏に……わっ」

 焼け跡を回り込もうとして、土手の落差を読み間違えた。ガクッと膝が折れ、落としそうになったランプをあわてて握り直す。

「こんなに落差が小さかったっけ……なんだか昔と違う」

 身体の大きさが違うのだから当たり前のことなのだが、レイゼルは少し気持ちが軽くなるのを感じた。

(昔の私とは違うんだ) 


 彼女は裏の畑を見回した。

 そして、厚みのある毛の生えた葉に白い花の、その植物を見つけた。

「あった。サキラ!」


 

 その日の夜半過ぎ、アザネ村の警備隊隊舎に、薬湯屋レイゼルが現れた。

 紫色の根の入ったかごを手に提げた彼女は、隊員たちにシェントロッド・ソロンが彼女の店に来ていることを告げた。行方不明の彼を捜していた隊員たちは、胸をなで下ろした。

 レイゼルはハリハ村で起こった落盤事故の話を聞き、さらにシェントロッドが鉱脈に潜った話を聞くと、「全くもう、無理をするから」とつぶやく。

 隊員は彼女を馬に乗せ、店まで送った。そして、シェントロッドがベンチでうなっているのを確認し、隊舎につれ戻ると申し出た。レイゼルが彼を苦手としているのを知っていたし、ここは病院ではない。

 しかし、彼女は少し疲れた様子ながらも、こう言った。

「リーファン族に効く薬湯を作って飲ませるので、明日また来てください」

 それならば、と、隊員は少し気になりながらも、薬湯屋を後にした。

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