第99話:梅雨の晴れ間のランデブー
存在意義。
自分が一体何のためにこの世に生まれたのか。そんなことを考えてみることが怜にはたまにある。そうしてつらつら考えていくと、答えはいつも、「何のためでもなく何となく」というところに落ち着くのだった。それは悲しむべきことではなく、むしろ喜ぶべきことだ。怜は思う。何のためでもなくただ存在するということのその不思議、その神秘性は測りがたいものがある。
とはいえ、自分という存在が誰かのためになっているという感覚もまた素直に嬉しいものがある。
視線の少し先、小じんまりとした公園の出入り口で、こちらに向かってめいっぱい力いっぱい手を振ってくれている小さな女の子の姿を認めると、怜はほのぼのと心温まるものを覚えた。少なくとも、今この瞬間、この世界に自分を必要としてくれている人が一人はいるわけである。本来ならそういう想いを抱かせるのは家族の役割であるはずだが、まあ、世の中には残念な家族もあるということである。
怜は、小さく歓声を上げて抱きついてくる少女を受け止めると、膝を折って視線の高さを合わせた。彼女の笑顔は地上の太陽といった趣で、その輝きは怜の顔を明るく照らした。こんな子が妹であれば、ケーキも買ってあげたくなるし服も買ってあげたくなる。
少女はいつものように小さな両手を上げてきた。
「はい、姫」
怜がうやうやしく背中を向けると、首のあたりに滑らかな腕が巻きついてくるのが分かって、ついで温かな重みを感じた。怜がそのままよっと立ち上がると、
「くるしゅーない」
満足そうな声が上がった。
クスクスと笑う声が近くから聞こえてきた。
「タマキ、アサちゃんに変な言葉教えるなよ」
怜は、小さな妹によからぬことを吹き込んだ犯人に、注意の声を投げた。昼下がりの柔らかな光の中に、薄手のコットンブラウスとジーンズのパンツを身につけた少女が立っている。ふわりとしたショートの緑髪が初夏の微風にそよそよと鳴っていた。
買い物帰りに偶然会った主婦(夫)よろしく路上で話し込むようなことは避け、旭を背負ったまま怜が歩き出すと、隣に環が並んだ。出入り口付近に乱雑に停められてある自転車を避け園内に入ると、数人の小学生たちがひたむきにサッカーボールを追いかけていた。
「レイ、このまま公園を一周して」
「仰せのままに」
園をぐるりと取り囲むようにウォーキング用の道が敷設されている。道の両側には丈の高い木々が植えられており枝を伸ばしている。枝から生い茂った青葉が、三人の頭上に網目の粗い天然の笠を作っていた。軽く日が遮られた遊歩道は少しひんやりとして、歩くのにちょうどよい。ふと吹く風に合わせ枝が揺れるたびに木漏れ日が散った。
「なつののの、しげみにさける、ひめゆりの、しらえぬこいは、くるしきものぞ」
背から和歌を詠ずる可愛らしい声がした。
「これはね、好きなんだけど好きって言う気持ちを言えない女の子の歌なんだよ。知ってた、レイ?」
得意げな声に、怜は思わず頬を緩めた。アサちゃんに教えてもらって今初めて知ったよ、と怜が返すと、旭は、やったねと高い声を出した。
「姫百合はアサちゃんにぴったりの花だね」
「え? どうして」
怜が軽く息を吸い込んだところで、
「姫百合はね、『変わらぬ愛らしさ』を表す花なのよ。レイくんは、アサちゃんがずっと今みたいに可愛いままだって言いたいのよ」
横から、言いたかったことを全てさらわれた。続いて上がる旭の感心したような声を聞きながら、怜は環に軽く恨みを含んだ目を向けた。普段感嘆されたりすることなどない少年がせっかく得た好機であったのに、まさかそれを奪うとは。きっとカレシに対して何かしら恋心以外の気持ちを秘めているに違いない。疑う怜の目に、腹中に隠し持つものがあるにしてはむやみに綺麗な笑みを浮かべる少女の姿が映った。
「おもしろいことがあったんだよ、レイ。この前、学校でね、セイジくんがイブちゃんに告白したの」
旭が楽しそうな声を出した。
「セイジくん、ずうっとイブちゃんのこと、『ブス』って言ったり、髪引っ張ったりしてたのに、好きだったんだって。お父さんが、男の子って好きな女の子のこといじめるって言ってたけど、本当だったんだ。レイはタマキお姉ちゃんのこといじめたことある?」
逆はあってもその逆は無い。今の一事を含め、よっぽど彼女の姉がどんなに酷薄な人間であるか訴えてやろうかと思ったが、慕っている姉の悪口を言われれば誰しも穏やかな気持ちではいられまい。この世の中で唯一、愛情を持って接してくれる少女の愛を失いたくない怜としては、端的に、いじめたことなんかないよ、とだけ答えるにとどめた。
「どうして? 好きなんでしょ、タマキお姉ちゃんのこと?」
怜は隣を見ないように努めた。しかし、残念なことに、怜の視界の端には、こちらから顔を背けている少女の姿がしっかりと映っていた。怜は、あとでお姉ちゃんに訊いてごらん、と旭の追及をかわした。
「お姉ちゃんは何でも知ってるから」
えー、と一瞬だけ不満げな声を上げた旭だったが、彼女の思考には一か所に留まるような粘性がなく、それ以上問い詰めることはしないで、すぐに話の続きに戻った。
「それでね、イブちゃん、セイジくんの告白ことわったんだよ。ほかのクラスに好きな男の子がいるんだって。そしたら、セイジくん泣き出しちゃったんだ。それでね、そばにいたケンタくんがそれをからかったら、今度はセイジくん怒り出しちゃって。ケンタくんとけんかになったの。せんせいがとめにくるまでずうっとけんかしてたんだよ」
旭の話から判断すると、セイジくんは教室で皆の前で告白したことになる。想いは届かなかったものの、なかなかに男らしい行動ではないか。見も知らぬ少年の男気に怜が感心していると、
「レイは一年生のときにだれか好きな人いた?」と旭。
小学一年生のときの記憶はもうほとんど無かった。なにせ、八年も前の話である。とはいえ、人に好意を抱けばさすがにそのくらいのことは覚えているだろう。いや、覚えていたいと思った怜は、そんな人はいなかったということにしておいた。
「じゃあ、タマキお姉ちゃんのことは?」
「お姉ちゃんとは六年生のときに初めて会ったから」
一度立ち止まって、下がっていた旭の体の位置を戻そうとしたところで、環と目が合った。彼女は意味ありげに目を細めていた。怜はつきそうになったため息を、どうにか抑えた。背にいる少女に心配されたくない。どうやら環とは小学六年生になる前に会っているらしい。少なくとも、環はそう主張している。
「どうしたの、レイ?」
いつまでも走り出さないカボチャの馬車を小姫はいぶかしんだ。鞭を入れられた怜は、自分の記憶力の無さにがっかりして重たくなった足を、どうにか動かし始めた。
優しい緑のトンネルの下を再び怜は歩きだした。ちょっと速足で歩いて何だったらカノジョと少し距離を取りたいくらいなのだが、足は重くなっているし、そもそも小学一年生を背に負った状態では、かけっこをしても勝ち目はない。ぴったりと隣につく少女の腕が清々とした光の中で白く揺れていた。
「あらあ、お兄ちゃんにおんぶしてもらってるの? いいわねえ」
杖をついた老婦人が前からゆっくりと歩いてきて、怜の背を見ながら愛想の良い声を出した。怜と環は頭を下げ、環は怜の後ろについて、婦人に道を譲った。
怜の肩に旭の小さな顎が乗った。お兄ちゃんだって、と旭は嬉しそうな声で言うと、
「アサヒのお兄ちゃんになってくれる、レイ?」
甘えるような調子で続けた。そのあまりの愛らしさに、迂闊にも、オレで良ければ、とうなずいてしまった怜に、
「じゃあ、やっぱりタマキお姉ちゃんとけっこんするんだね、レイは」
末恐ろしさを感じさせる言葉が返ってきた。怜はぞっとするものを覚えた。無論、無意識に違いないが、それにしても小学一年生でこのキレ味だとすると、将来どうなってしまうのだろうか。思うままカレシを翻弄する豊かな黒髪の乙女が怜の頭に浮かんだ。怜は慌てて自分の予想を打ち消した。想像の旭の姿は、隣を歩くカノジョに恐ろしいほど似通っていた。
「もしタマキお姉ちゃんとも、あとマドカお姉ちゃんともけっこんしなかったら、わたしがけっこんしてあげるからねっ!」
旭が純真な声を出す。
五分前の怜だったら、喜んで彼女の条件付きプロポーズを受けていただろうが、大器の片鱗を見せられた今となってはちょっと尻込みする話だった。
「……レイ、わたしとけっこんしたくないの?」
寂しげな声が耳元に落ちるのを聞いた怜は急いで、
「そんなことないよ」
旭の疑いを大きめの声で打ち消した。
「でも、すぐに答えてくれなかったじゃん」
「いや、それは、その……そう、妹のことを考えてたんだよ」
「いもうと?」
「うん。オレには都っていう妹がいるんだけど、オレと結婚すると、そいつがアサちゃんのお姉ちゃんになる。タマキお姉ちゃんとか、マドカお姉ちゃんとかとは全然違って、もう全く優しくないヤツだからね。それでもアサちゃんは平気かなって思ってたんだ」
怜は誤魔化した。そうして、六歳児相手に言い訳じみたことを言わなければいけない自分がちょっと情けなくなった。隣から視線を感じたが、怜は断固として前を向いていた。人は前だけ見て生きていけばよいのである。
一応納得したのか、旭はふーん、と何かを考えるような声を出した。
「……かわいいの?」
「ん?」
「レイの妹のひと、かわいい?」
世の中あいまいでペンディングで灰色なことが多い中、この問いには明確な答えを返すことができる。怜は確信を持って、かわいくない、と答えた。
「そしたらさ、わたしとどっちがかわいい?」
「アサちゃんの方が一億万倍かわいいよ」
旭の機嫌はすっかり直ったようだった。そのまま、公園を一周したところで、旭は何かに気がついたような声をあげて、怜に自分を下ろすように言った。どうやら友だちを見つけたようだった。地に降りた旭がタッタッと駆けていった先、公園の出入り口付近に、彼女と同じくらいの少女たちの姿があった。
「レイ、タマキおねえちゃーん、みんなと遊んでるねー!」
離れたところから声を上げる旭。
怜が小さく手を振って、旭と彼女の友だちが園内に入るのを見送っていると、
「ご苦労様でした」
いたわるような、いや多分にからかいの色を含んだ声が、隣からふとかけられた。