第98話:妹という名の災厄
加藤都とは何者か。
怜はときどき考えるのである。さして答えが知りたいわけではないが、考えざるを得ない時があるのだ。例えば、定期試験前の日曜日、その午後のこと。午前中に塾に行って学習トレーナーにみっちりしぼられ、出された課題の半端ない量にちょっとげんなりし、それでも家に帰って昼食を取ったあと、「よし、やるか!」と勉強を再開しようと心を決めたちょうどその時に、「お兄ちゃん、ちょっと分からないところあるから教えて」と彼女が部屋に乱入してきて、その「ちょっと」にニ時間かけさせられたあげく、満足した彼女がおもむろにごろんとベッドに横になって少女コミックを読みながら、バリバリとせんべいを食べているその姿を見たようなとき。怜は思う。
「なんなんだ、コイツは?」と。
「訊きたいことがある、ミヤコ」
貴重な時間を一分使って考えてみたが答えが出なかったので、怜が早々に諦めると、
「後にして、今忙しいから」
都は真剣な目を漫画に注いで、兄の問いに答える気は無いということを答えた。
バリバリバリ。少女の可憐な口元からせんべいの微細なクズが、昼下がりの日の下をキラキラと散っていった。散り行く先は、気になるあの子の家の庭などではない。怜のベッドの上である。
怜は腹式呼吸をしてみた。塾の講師から教わった呼吸法である。勉強する前にしておくとリラックスしてことにあたれるという。妹と向き合わなければいけないときにも使えるだろうか。
効果は無かった。せんべいを包む袋が、無造作にポイっとベッドに捨てられたとき、怜は心の奥底に冷えた固いものが形作られるのを覚えた。床に座っていた怜は立ち上がると、不法投棄された包みを取ってゴミ箱に捨てた上、すぐにここから出て行くように妹に告げた。
「お兄ちゃんってちょっと潔癖症なんじゃないの。嫌われるよ」
「誰にだよ? お前にか?」
それならこれほど都合が良いことは無い。部屋が綺麗になり、妹は遠ざかる。良いことづくめではないか。怜は、部屋の隅に置いてあった小型の掃除機を手にして妹を威嚇した。
「分かんないかなあ、お兄ちゃん、わたしの気持ちが?」
脅しにもまるで動じずベッドの上に胡坐をかくと、
「兄を慕う妹のこの愛らしい気持ちが分からないなんて、お兄ちゃんも相当鈍感だよね」
都は平然とした声を出した。
「慕ってるのはオレじゃなくて、オレの部屋だろ。自分の部屋を片付けろ、そうすれば自分の部屋を好きになれるさ。ついでに自分自身のことも好きになる」
「部屋は片づけてあるわよ。めっちゃ綺麗」
「じゃあ、何でこっちに来るんだ?」
「だーかーらー、さっきから言ってんじゃん、兄を慕って……」
そこで妹の顔がしかめられた。こみあげるものを押さえようとするかのように胸に手を当てると、
「うー、言ってて気持ち悪くなってきた。冗談でも二度は言えないみたい」
心底から具合の悪そうな表情で告げる。
具合が悪いのは怜も同じだった。都と違ってそれを顔に出さないようにしているのは、彼女より一歳年上だという意地からである。
「汚したくないんだよね、掃除したばっかりですっごく綺麗だからさ。だから、お兄ちゃんの部屋に来てるわけ」
「今すぐ出てけ。オレには勉強がある。せめて成績だけでもそれなりなら、お前も兄を多少は誇りに思えるだろ」
「成績なんてどーでもいいわ。妹に好かれる方法教えてあげようか、お兄ちゃん?」
「悪いが今は興味がない。妹とは十年前に生き別れてそれっきりなんだ。もし再会する機会があったら、そのとき聞かせてもらう」
十年前くらいまでは妹がいたのである。妹、すなわち、兄を頼るはかなくたよりなく愛くるしい存在が。今頃彼女はどうしているだろうか。あのまま素直に成長すれば可憐な乙女に成長していることだろう。もしどこかで道を間違えれば――
「ケーキを奢ってくれたり、服を買ってくれたりすれば、妹に好かれること間違いなし」
兄の話を無視して自己の主張を声高に聞かせる我がままな暴君に育っていることも十分に考えられる。
「友だちのお兄ちゃんなんかサ、友だちにそんなことしてくれるらしいよ。お兄ちゃんも見習ってみたら?」
「妹に服を買う兄だって?」
この話に関しては三つの可能性がある。その一、その妹が非常に可愛いという可能性。思わず服を買ってやりたくなるほどの愛らしさ。そのニ、その兄が非常に寛大な人間であるという可能性。妹のおねだりを鷹揚に許せる好人物。そして、その三。この話がまるまる都の作り話であるという可能性。怜は、第三の可能性がもっとも高いだろうと思った。作り話を作ってまでたかろうとは、見上げた根性と言わねばなるまい。そうして、その根性は他の所で発揮しろ、とも言ってやりたい。
怜が再度、自分の部屋かもしくはリビングにでも行くように、今度はもう少し強い声で告げると、都はしぶしぶベッドを下りた。ドアが開き脅威は去って、やれやれようやく勉強に取り掛かれると思ったのもつかの間、別れを惜しむ暇も無く都はすぐに戻って来た。
「おい、いい加減に――」
「そうだ、頼みがあるんだった」
叱声をものともせず、都は怜の前に正座すると、その卵型の顔に載る大きめの瞳に真面目な色を映した。はっきりさせておくべき時である、と怜は思った。いくら頼まれても服を買う金など無いし、仮にあったとしてもそんな気はない。断固とした口調で怜が告げると、
「そのことじゃない」
都は首を横に振った。彼女は、来週の日曜日に一緒に隣の市にあるアウトレットモールに来てほしいと言ってきた。
「お前、自分が三秒前に言ったこと覚えてないのか? 『そのことじゃない』って確かに言ったぞ」
「誰がお兄ちゃんに買ってもらうって言ったのよ。お父さんとお母さんに連れてってもらうから、お兄ちゃんにも来て欲しいだけよ」
都の言いたいことが怜にはようやく理解できた。たまに父母は子どもの服を買ってやるために、隣市にあるアウトレットモールに連れていってくれるのである。ただし、それには条件があって家族全員がそろっていないといけないというものであった。都などはこれをロコツに嫌がって、お金だけくれれば友だちと行く、と再三言っているのだが、父はこれを頑として聞き入れなかった。
「高校生になったらいいが、中学生のうちはダメだ」
都に甘い父だったがこれだけは譲る気はないようだった。父は、家族はできるだけ全員で行動しなければいけない、という考え方を持っており、その考え方を子どもが高校生になるまでは押し通すつもりでいた。大切なことは一緒の場所にいることではなく、どこにいるかに関わらず相手を尊重し敬意を払うことなのではないか、と怜などは思うのだが、表立って反対したことはなかった。たまに父母の供をして、ジェネレーションギャップからちょっと微妙な服を選ばれたりしたとしても何ほどのことがあろう。
「それで?」
怜は先を促した。家族揃ってアウトレットに行くのは父の命である。とすれば、都が怜にわざわざ頼む必要はない。にもかかわらず、正座して居ずまいを正したということは、他に頼みたいことがあるからに相違ない。都はニヤリとした。案の定であった。
「川名先輩を誘ってもらいたいの」
「……タマキを?」
自分に似合う服を選んで欲しいのだ、と都は続けた。
「先輩、センスあるからね。前にウチに来た時に着てた服、可愛かったし」
大事なのは服ではなくそれを身につける人間なのではないだろうか、と怜は思ったが、口に出すのは控えておいた。言わぬが花である。
「昨日友だちがすっごい可愛い服着ててね、それさ、お姉ちゃんに見立ててもらったって言うのよ。わたしもお姉ちゃんにコーディネートしてもらいたい」
「いつからタマキがお前の姉になったんだよ」
「だってこの前のプロポーズ、成功したんでしょ。だったら未来の姉じゃん」
怜はこの先本当に誰かに結婚申し込みをすることがあったとしても、そのときに妹のことを了承してもらわなければならないということに思い至り、暗い気持ちになった。こういう妹がいますと正直に伝えてなお一緒になってくれる人がいるのか、いやむしろ、愛する女性に、こういう妹の姉になってくれなどと言うことができるのかと考えるとはなはだしく疑問であった。
兄の苦悩など知らぬげに、都は、早速環に電話するようにと言ってきた。環を連れて行くことに関しては、先ほど怜の部屋を出て行ったわずかな間に、父と母に既に了承を得ているらしい。こういうことだけは仕事が速い。
「善は急げって言うでしょ」
疲れて来たので怜はもう突っ込まなかった。
環の携帯に電話をすると、彼女はすぐに出た。怜は遠慮がちに用件を伝えた。そうして少しでも彼女が躊躇したらすぐにこの件は引っ込めるつもりだった。都の為に受験生の貴重な日曜日を潰させるなど申し訳ないにもほどがある。
「お招きありがたくお受けします」
「……いいのか? 日曜が無駄になるぞ」
「日曜日に勉強する分は、これから一週間がんばって埋めることにするから平気です」
怜は近くで会話を窺うようにしていた妹にうなずいてみせた。
やったあ、と歓声が室内に大きく響くのを聞いていると、
「レイくん、今からちょっと会えないかな?」
耳元でひそやかな声がした。
「今から? 何か用なのか?」
「ううん、ただ声を聞いてたらちょっと顔が見たくなっただけ」
環の声は恥じらいを含んでいるようだった。
怜は迷わなかった。
「分かったよ、すぐ行く」
「本当?」
喜びの声を上げた環に彼女のいる場所を訊いたあと、
「アサちゃんによろしく伝えてくれ」
怜が言うと、
「あら、バレた?」
という全く悪びれない少女の声と、そのあと、「レイ、早く来てね~」という無邪気な幼い声が、携帯電話を通して聞こえてきた。