第97話:失くした分だけ
「タマキちゃんがいらしてるわよ」
鈴音の母は遠慮がちな声を出した。先客である美優を憚ったのである。鈴音はオッと軽く驚いた顔をしてから、噂をすればだね、と言って美優に微笑を向けた。
「どうする、ミュウちゃん?」
どうすると言われても、まさか自分がいるから帰ってもらってくれなどと頼むわけにもいかない。もしも鈴音がカレシだったら、そんな我がままを言って困らせて楽しんだかもしれないが。
――逆にいい機会かもしれないな。
鈴音と二人きりの時間が終わってしまうのは残念だったが、別の美少女と知り合えることにも惹かれるものがある。気を取り直した美優は答えを待つ鈴音に、三人で勉強することを提案した。
鈴音に連れられて部屋に入ってきた川名環。彼女を一目見た美優の胸がザワザワと騒ぎ始めた。あおやかな髪をショートボブにした彼女には、良く磨かれた刃のような趣があった。鈍い輝きを放ち見る者を魅了するが、そのうちに危うさを秘める妖しい美である。
「ちょうど今ね、タマちゃんの話をしてたとこだったんだよ」
丸テーブルの一角に環が静かに座を占めるのに合わせて、鈴音が言った。ね、と美優にウインクしてみせる。美優はぎこちなくうなずいた。どうにも息が苦しい。うまく呼吸ができていないような気がする。そういえば呼吸ってどうやるんだっけ?
鈴音が紹介してくれるのに合わせて、美優は名を告げて自己紹介した。環も名を返すと、二人の邪魔をしたことを詫びてきた。
「い、いいえ。わ、わたしの方こそスミマセン」
何を謝ってるのか自分でもさっぱり分からない。美優はしどろもどろであった。
――これは強敵だわ。
その圧倒的な存在感。鈴音が諦めムードなのも分かる気がした。美優の男友達の一人(付き合ったことはなし)が、環のことを、「どこかが人じゃない。なんか怖い」と評していたことを思い出した。そのときは、何言ってんのアンタ、と分からないことを言う彼の頭を叩いたものだった。怖かったらあんなに男子に人気あるわけない。ていうか、怖いって何よ? そう言って、何の脈絡も無くジュースを奢らせたりしたものだった。しかし、実際に相対してみると彼の言っていたことが肌で理解できた。
――ごめん、タイチ。今度、抹茶オレおごる。
「タマちゃんと加藤くん、いつ別れるのかなあって話してたのよ」
鈴音がにこにこしながらそんなことを言い出したので、美優は内心悲鳴を上げた。先ほど鈴音が話していたことは乙女心の奥底にある秘事ではなかったのか? なにゆえ、そんなにさらりと言ってしまうことができるのか。二人が気の置けない仲だとしても、それにだって限度があるだろう。まさか、これは鈴音からの宣戦布告なのだろうか。女の戦いのはじまりはじまり? それとも、そもそも加藤少年のことが好きだということ自体が冗談なのか?
混乱する美優に、
「ね、ミュウちゃん?」
と鈴音が話を振ってきた。つられて川名女史がこちらに顔を向けてきたが、とても目を合わせられない美優。鈴音は何か自分に恨みでもあるのだろうか。環の美優への第一印象を、「陰でこそこそ噂話をする女」というロクでもないものに固定しようとしている鈴音に、美優は引きつった笑みを向けた。
「レイくんがわたしのことを理解して、つまらない人間だってことに気がついたときかな。それが別れの時ですね」
と環が軽やかな声を出した。初対面の美優がいても、自分のカレシの話をするのに特に抵抗はないらしい。
「タマちゃんが加藤くんに飽きるってこともあるかもよ」
「わたしが? うーん、逆はあっても逆は無いな」
単純な事実を話すような口調で言う環の言葉を聞きながら、美優はこれから、もうちょっと良く、よくよく加藤少年を観察してみることに決めた。二人の美少女から――鈴音の方は多少冗談ぽいが――好意を持たれているのだから、彼にはよっぽど何かしら隠された魅力があるに違いない。
それからさらにニ時間ほど勉強を進めたが、その間ほとんど無駄話は無く、試験対策はおそろしく捗った。鈴音の温かなほんわかした雰囲気を環の冷たいピリッとした雰囲気が相殺していて、そのおかげで集中力が途切れずに済んだのである。友だちの家にお呼ばれして、ここまで充実した時間を過ごしたのは初めてのことだった。
「あの、わたし、そろそろ……」
充実しすぎてへろへろになってきた所で、美優が暇乞いをした。過保護な父親と約束した時間が迫っていた。玄関で鈴音の母にもてなしの礼を述べると、またいつでもいらしてね、とねんごろな言葉をかけられた。
六月下旬の空はまだ明るかった。時を同じくして環も鈴音の家を辞した。鈴音と美優に別れの言葉を告げて一足先に環が帰路を取ると、美優は思わずほっと息をついた。
「大丈夫、ミュウちゃん?」
声音は心配そうだったが、そう言った鈴音の目は笑っていた。
美優が緊張したことを正直に伝えると、
「タマちゃんは色々作ってるからね」と鈴音。
「作る?」
「外見を繕ってるってことだよ。中身は外と違ってなかなか情熱的な子だよ」
とてもそんな風には思えない。外見があのクールさで、しかし中身はカッとしやすかったりしたら詐欺である。
「スズちゃんは?」
「うん?」
「スズちゃんも作ったりしてるの? 外見はそんなにほわほわしてるのに、中身はすっごく冷たい子だったりさ」
何気なくした問いだったのだが、鈴音はしばらく考え込んでいた。
「わたしは、そうだな……以前は作ってたと思う。でも今は作ってないよ。これがわたしの今の全部です」
そう言って笑う鈴音を見て、何て綺麗に笑う人なんだろうか、と美優は思った。
鈴音は先に立って歩き出した。どうやら公園まで送ってくれるらしい。
「今日はありがとね、ミュウちゃん」
「え、何が?」
美優がしたことと言えば、甘味を楽しんだこととガールズトークに巻き込んだこと、勉強で分からない所を尋ねて鈴音の時間を奪ったことくらいである。格別礼を言われるほどのことはしていない。鈴音は、家に遊びに来てくれたことだけで有り難いのだと言葉を継いだ。
「そんなことで良ければ毎週でもするけど。ううん、毎日だって」
美優の冗談に、鈴音は笑わなかった。
「わたし二年生の頃からついこの間まで不登校だったから、お母さんがわたしが学校でちゃんとやれてるのか心配してるのよ。だからこうして家に呼ぶお友達がいるってことを見せて安心してもらいたかったんだ」
鈴音が不登校だったことは知っていた。どうして彼女のような明るく社交的な人が学校に来られなくなったのかということまでは分からなかったが、何らか辛い出来事があったのだろう。その傷はちゃんと癒えたのだろうか。まさかそんなことまでは聞けない美優だったが、図らずもそれを知ることになった。
時間より少し早く公園に着いてしまった二人が正門前で美優の父の車を待っていた時のことである。
「それにしてもひどいよ、スズちゃん。川名さんの前で加藤くんの話、出すんだもんな。しかもわたしに話振ってサ。絶対、噂好きの子だと思われたじゃん」
「大丈夫、大丈夫。タマちゃん、そんなこと気にしないから」
「わたしが気にするのよ。そのせいで、メアド聞きそびれちゃったし」
諸事情あってできるだけ多くの可愛い女の子と仲良くなりたい美優が大仰なため息をつくと、少し離れたところでこちらを窺いながらもじもじしている少女が二人、目に入った。美優たちと同じくらいの年である。二人は近づいてくると、戸惑う美優を素通りして、鈴音の前に立った。
「スズちゃん!」
鈴音は一瞬驚いた顔を作ったが、すぐに微笑んで二人を迎えた。
「久しぶりだね。ランちゃん、モエちゃん」
二人の少女は切羽詰まった顔をすると、おもむろに、
「スズちゃん。本当にごめんなさい」
と言って頭を下げた。鈴音はゆるやかに首を振ると、気にしてないよ、と柔らかな声を出した。頭を上げた二人はほっとしたような顔をしたあと、一人は晴れ晴れとした表情を作り、もう一人はさめざめと泣き始めた。鈴音は泣いている子の肩に手を置くと、また仲良くしようね、と優しく言った。
一人蚊帳の外に立たされた美優に鈴音の顔が向けられたのは五分ほどしてからのことだった。何度か振り返りつつ立ち去る二人の少女に手を振ったあと、
「あの二人ね、二年生のとき同じクラスで仲良かった子たちなの。でも、わたし、あることでクラスのリーダー的な女の子に目をつけられて、そのときからわたしのこと無視し始めたんだ。で、それっきりだったのよ。ほとんど一年ぶりくらいに話したわ」
鈴音が言った。それが不登校の原因だったということを彼女は付け加えた。
何と答えて良いのか美優はとっさに言葉が出なかった。言葉にはならなかったのだが、ふつふつと胸に湧く感情がある。それは怒りだった。鈴音の話を素直に解釈すれば、先の彼女たちは友人を捨ててクラスの大勢に従った恥ずべき裏切り者たちである。もしも美優が鈴音の立場だったら、彼女たちの頬を張って存分に罵っていたことだろう。
「二度とわたしに話しかけないで!」
どれほど自制の力を働かせてもそのくらいのことは言ってやったに違いない。なのに、鈴音ときたら彼女たちを許し、それだけではなく返って思いやりの言葉までかけてやるのだから、どこまで寛大な人間なのだろうか。これが人としての品位の違いというものだろう。
「スズちゃんは凄いね」
美優はハッとした。
先ほどまで落ち着いた色を映していた鈴音の目に今は濃い憂いの色が漂っている。
「どうしたの、スズちゃん?」
「ごめんね。ちょっと悲しくなっちゃって」
細い声を出す鈴音。
「さっきの二人、ランちゃんとモエちゃんとは凄く仲良くて、ずっと友だちでいられるんじゃないかって思ってたんだ。でも……」
美優は唾を飲んだ。
「あの二人とはもう分かり合えない」
鈴音の声は冷酷なものではなかった。先の二人を責めているようなものではない。何かを悼んでいるような調子だった。美優の胸がせつなさに軋んだ。不登校の経験を通して確かに鈴音は何かを失ったのだ。そしてその何かはまだ癒されてなどいないのである。それが何なのか、学校でこれまで大きなトラブル無く平穏に過ごしてきた美優には見当もつかなかった。
父の乗用車が近くの車道脇に停車した。
見送ってくれる鈴音に、車の窓から顔を出した美優は手を振って別れを惜しんだ。
なにか話しかけてくる父に適当に相槌を打ちながら、美優は鈴音のことを考えた。
――なくしたものの分だけスズちゃんは綺麗になったのかな。
ふとそんなことを思った。