第96話:永遠に続くもの
今回のヒロインは、美優ちゃんです。「おい! 誰だよ、ソレ!」という方は、第9話、第46話、第88話を参照されたし。こんなことを書いている時点で、いかにイイカゲンな作品かということがお分かりでしょう。すみません。その点についてはもうあらかじめ陳謝しておきます。
お気持ちとお時間に余裕のある方のみお読みください。
人を待つことにこれほど心弾ませたのはいつ以来のことだろうか。
はっきりと覚えてなかったが、おそらくは小学校高学年のときの初デートの時、それ以来のことだろう。もう三年以上前の話である。デートと言っても、相手の男の子とは付き合っていたわけではなく、仲良し二人で子ども向けの映画に行っただけのことである。それでも男の子と二人だけで出かけるのは初めてのことで十分にドキドキした。オシャレもこれでもかというくらいがんばったりしていた。
――遠い昔の話だなあ。
美優はありし日のカワユイ自分を思い出して、くすぐったい気持ちになった。そのときから今まで何人かの男の子と付き合ったが、不思議なことに胸躍らせることはなかった。
今、彼女が佇んでいるのは、広い公園の門前だった。園はこの辺りの桜の名所になっている。春になると華やかなピンクで溢れる園内も今は落ち着いた緑色に染まっていた。梅雨空は久しぶりに青く晴れ渡り、絶好の散歩日和。土曜日の園内をたくさんの人が軽やかに歩を運ぶ。
美優は携帯電話で時刻を確認した。現在、十二時四十五分。待ち人が来るまで、あと十五分ほど余裕がある。ハート型になっている手鏡を取りだすと、鏡の中で、彫りの深い目鼻立ちの女の子が歯を見せてにこやかに笑っていた。目やになし、青海苔的なものなし。ノープロブレム。
――もっかい確認しとこ。
美優は今しがた閉じたばかりの手鏡のスライドを再度開いて自分の顔を確認した。万が一にも変なものがついている状態で会いたい人ではないのだ。
――あーあ、緊張するなあ。
心の中で言葉にするとますます緊張してきた美優は、鏡に向かって百面相を作って顔の強張りを解そうとした。小さな鏡に、光輝く笑顔から始まり、ぷんすか怒っている顔、今にも泣き出しそうな顔、ぐっと眉に力を入れてできたどんな気持ちを示しているのか分からない顔が次々と現れては消えた。さて次はどんな顔にしようかと迷っていたとき、
「魔法の鏡に世界一の美少女でも映ってるの、ミュウちゃん?」
すぐ近くから唐突な声がかかって、びっくりした拍子に手鏡を取り落としそうになる美優。不意に清らかな香りがして、彼女の隣に一人の少女が現れた。黒を基調にしたチュニックワンピースを身にまとったすらりとした立ち姿。
美優の心臓が早鐘を打ち始めた。三年ぶりのドキドキ感を与えてくれた相手に、美優は挨拶した。
「スズちゃん」
「待たせちゃった?」
「ううん、今来たばっかり」
気が急いてしまって実は、約束していた時刻の三十分前に来ていたと言ったらどういう反応をしてくれるだろうか。一瞬そう考えた美優だったが、礼儀を守ることにした。彼女――橋田鈴音とは知り合ってまだ間もない。そうそう気の置けない振る舞いはできない。
フレアーになった裾をふわふわと揺らし歩き出す鈴音。その横に美優は並んだ。
「そう言えば、ミュウちゃん。ここまでなにで来たの?」
「お父さんに車で送ってもらったの。自転車で行くって言ってるのに、送ってくってきかなくて。帰りも迎えに来てくれるって」
「愛されてるね」
「ちょっとうっとうしいけどね。スズちゃんとこは?」
「うちはあんまり干渉してこない感じかな。だからこっちから接するようにしてるんだ。今度、お風呂場で背中でも流してあげようと思ってるんだけど、どう思う?」
「ええ! わたしだったら、お小遣いを倍にするって言われても絶対にそんなことできないよ」
美優がびっくりした顔をすると、鈴音は目元に笑みを漂わせた。つられて微笑んだ美優の心の中にほんわかした気持ちが生まれたが、それと共にもくもくと湧き上がる一つの懸念。それは、
――もしかしてわたしは今、めくるめくガールズラブワールドの入り口に立ってるんじゃ……。
というものだった。
これまで同性を素直な気持ちで可愛いと思ったことがない美優が、隣を歩く少女のことは心から可愛いと認めることができる。それだけでもう異常な事態であった。鈴音とは、友人に仲介されて知り合った。一月ほど前の話である。よくよく思い出してみれば、初めて彼女を見た時から惹きつけられていた気がする。
「すぐそこだからね、ミュウちゃん」
新たな世界のドアの前にいた美優に、鈴音が励ますような声をかけた。今日は、これから鈴音の家で、来週に予定されている定期試験の対策を一緒にすることになっている。
「あらかじめ言っとくけどね、スズちゃん。わたしバカだから、スズちゃんに迷惑かけると思う」
「大丈夫。『人に教えると理解が深まるから、積極的に人に教えなさい』ってね。コレ、わたしの家庭教師の先生の口癖」
歓迎の笑顔で出迎えてくれる気持ちの良い玄関に二人がついたのが、それから十分後のことだった。
鈴音に案内されてニ階の彼女の部屋に入ると、美優は開口一番言った。
「スズちゃんのお母さん、めっちゃ美人だね」
「それ、聞こえるようにもっと大きな声で言った方がいいよ。あとで持ってきてくれるおやつが豪華になるから」
足の短いテーブルについてそれからニ時間ほどみっちりと勉強を続けた美優は、頭がくらくらしてきた。一日の勉強時間がせいぜい三十分ほどである彼女からすると、約四倍の連続勉強時間はこれはもう奇跡に近い。奇跡は受験当日まで大事にとっておきたい美優としては、いったん休憩を求めた。トイレを借りるために階下に降りて戻ってくると、勉強道具がしまわれたテーブルの上に目にも鮮やかなスウィーツの世界が広がっていた。
「お母さん、パーティでも開くつもりだったみたい」
五六人分はある洋菓子の量に呆れ顔の鈴音に、全部食べられる旨、美優は請け合った。
「出されたものは食べないとね」
言葉通りパクパクとお菓子を平らげていくと、糖分が脳にエネルギーを供給してくれたらしく、美優は元気になってきた。そのエネルギーを勉強に使えれば良かったが、いささか吸収しすぎたようでエネルギー機関が暴走を始めた。というか単にこれ以上勉強をしたくないだけだったのかもしれない。気がつくと美優は、鈴音に、今好きな人がいるかどうか尋ねていた。
突然のガールズトークの始まりにも慌てた様子を見せない鈴音は、いるよ、と静かに答えた。
美優は身を乗り出した。現在、自分の恋愛ごとには興味は無いが、他人の、それもこれからもっと仲を深めたいと思っている子のラブ話には俄然関心がある。
「加藤怜」
期待はしていなかったが、一応誰なのか訊いてみたところ、鈴音はあっさりと答えた。それから、誰にも言わないでね、と軽く確認するように続ける。
「からかってるのね、スズちゃん?」
「まさか。冗談で言えることじゃないよ」
「何で加藤くんなの?」
全くつり合わない。加藤少年は一年のとき同じクラスで、今は同じ部に所属している。話してみて悪い人ではないことは分かっているが、逆に言えばそれだけである。格別人目を引くような男子ではなく、どこに魅力があるのかさっぱり分からない。はっきりとそう言うと、鈴音は微苦笑をもらした。
「人の想い人に対して手厳しいね、ミュウちゃんは」
怒らせてしまったかと思ってひとこと謝った美優だったが、鈴音は気にしていないようだった。
「告白しないの?」
「できるものならとっくにしてます」
「スズちゃんなら大丈夫だと思うけど」
美優は確信のある口調で言った。同性の美優をさえ魅了するのであるから、まして異性であればなおさらだろう。鈴音はほっそりとした首を静かに横に振った。あきらめたような顔をしている鈴音に対して美優は、もっと自分に自信を持つようにと激励の言葉をかけた。鈴音は、片想いで満足なの、と弱々しいことを言った。
美優はテーブルに軽く平手を打ちつけた。おそらく恋愛遍歴は鈴音より勝っている彼女は、ニ時間の学習指導の礼に、恋愛指導を始めることにした。およそ男子などというものは誰でも彼でもカノジョを欲しがっており、しかもカノジョを作る際に外面しか見ないのだから、鈴音くらい綺麗なら断られることは万に一つもない。言葉を尽くした美優だったが、鈴音の顔は希望に明るくなったりはしなかった。
鈴音は指を一本上げると、一つ忘れてることがあるよ、とおもむろに言った。
「川名環」
美優はアッと声を上げたあと、
「そう言えばそうだったね。加藤くん、川名さんと付き合ってるんだった」
悔しそうな声を落としたが、すぐに気を取り直した。確かに、川名女史は強敵である。おそらく学校一男子に人気があるだろう。しかし、鈴音だって負けてはいまい。いや鈴音の方が上だとさえ美優は思っている。チャンスはあるよ、と強く言うと、鈴音は肩に流した黒髪をふるふると揺らした。
「タマちゃんの方が先に加藤くんと出会った。運命だよ。それが全て」
美優は納得が行かない。先とか後とかいうことがどうしてそんなに重大なのだろうか。好きなら奪えば良いだけの話ではないか。現に美優はカノジョ付きの男子と何度か付き合ったことがある。その所為で「カップルブレイカ―」などという子ども向けヒーローアニメの必殺技みたいなあだ名をつけられてしまっているのだが。とにかく永久に今の気持ちが変わらないなどということは全く信じられないことであって、とすれば当然加藤少年も変心する可能性があり、鈴音にも機会はあることになる。
「ところがね、この世には永遠に続くものがあるんだよ、ミュウちゃん」
鈴音の声は優しい響きを持っていた。美優の胸の奥に震えが走った。どうしてそんなことが言いきれるのか分からなかったが、問題はそこではない。もしこの世に永遠のものがあったとしたら、それは確かに美しいことかもしれないが、鈴音にとっては悲しいことにならないだろうか。それなのに、彼女の声は全く穏やかだった。
「わたしは加藤くんと同じくらい、ううん、それ以上にタマちゃんのこと好きなんだな」
「……恋より友情を取るってこと?」
「違うよ。もしそういう風に天秤にかけられるようなものならね、わたしはそんな恋と友情なんてどちらも要らないな。天秤にかけられないものこそ本当に大切なものなんだと思う」
美優は小首を傾げた。
「分かんないなあ……それに、『運命』だなんてさ、そんなので納得行くの、スズちゃんは?」
「逆だよ、ミュウちゃん。『運命』だからこそ納得がいくんだよ。だって、その『運命』を選んだのはわたしだから」
自分のことでもないのに、何だか諦めきれない美優。しかも鈴音の言っていることがよく分からないので尚更である。運命を選ぶ、とはいかなる意味か? うーん、と唸っている美優を置いて、鈴音はパーティの後始末を始めた。テーブルの上を片づけると、皿や包みを大振りの盆に載せて部屋を出る。
帰って来た鈴音が勉強の再開を呼び掛けて、しぶしぶながらそれに従った美優が脳を沸騰させることニ十分ほどして、室内に呼び鈴の音が聞こえてきた。少しして階段を上る足音がして、戸から鈴音の母が顔を覗かせた。
読んでくださってありがとうございます。
次回に続きます。