第94話:新たなる力
『オヤジはつらいよ』
第ニ幕第一場
中流家庭のリビング。夜。亭主が帰宅する。妻はソファに座って連続ドラマを見ている。
亭主「今、帰ったぞ」
妻(亭主の方を見もせず)「お帰りなさい」
亭主(ため息をつき)「一家の大黒柱が帰って来たのに、何だその対応は。メシ!」
妻(やはり亭主の方を見ずに)「あら、食べてないの?」
亭主「取引先の接待だぞ。食べた気になるわけないだろ」
妻「今いいところだから、ちょっと待って。これ終わったらね」
亭主「お前は亭主とドラマのどっちが大切なんだっ!」
妻、立ち上がると、亭主にムッとした顔を向ける。
「こっちだってね。毎朝六時に起きて、家事をしてからパートに出てくたくたになって帰って来てるのよっ。何よ、メシ、メシって! わたしは、飯炊きババアじゃないっ!」
亭主、妻の気勢にひるむ。
「そんなに大声出すな。分かった、分かった。自分で作るよ」
妻「そうしてください。思えば、あなたも昔は自分から夕食を作ってくれたりしてましたよね。ああ、新婚の頃は良かったわ。何でも率先してやってくれて。それが今じゃ何? 縦のものを横にもしやしない。わたしへの愛情が薄れた証拠だわ。大体あなたは……」
亭主、妻の言葉を慌てて遮るように。
「子どもたちは?」
妻「部屋にいます」
亭主「そ、そうか。良し、ちょっと寝顔でも見てくるか」
中学生の娘、登場。
「お母さん。またわたしの下着、お父さんのと一緒に洗ったでしょ。この前、やめてってちゃんと言ったよね」
妻「あら、そうだったかしら。ごめんなさい、シホちゃん」
娘「もう、ほんとに気をつけてよ。あ、お父さん、帰ってたの?」
亭主「あ、ああ。シホ、最近学校はどうだ?」
娘「べっつにー、ふつう」
亭主「好きな男でもできたか?」
娘「何でそんなこと言わなきゃいけないの? お父さん、キモいよ」
そこで娘退場。入れ換わりに小学生の息子が現れる。
亭主「おお、ホクト。お父さんとゲームでもやるか?」
息子「お父さん。ゲームなんかやっても将来の役には立ちませんよ。勉強がありますので」
亭主「そ、そうだな。何か分からない所があったら、お父さんが教えてやるぞ」
息子「そう言ってこの前、一問考えるのに一時間かかったじゃありませんか。参考書を読めば十分で済みましたよ。時間を無駄にしたくありませんので結構です」
息子退場。室内犬が現れる。亭主、すり寄る犬を撫でながら。
「……父親なんて寂しい存在だな。わたしの寂しさを分かってくれるのはお前だけだ」
犬「わんわん」
富永の堅い手に頭を撫でられながら、宏人は色んな意味で泣きたくなった。砂場で繰り広げられるおままごとという名の悲劇の中で、宏人に割り当てられた役は「犬」である。家族から邪険にされる父親の癒しになり、父の再生の一助となるという重要な役回りらしい。その割には、セリフが「わんわん」しかない上、登場シーンも極端に少ない。誰でもできるような役である。にも関わらず、妻役兼監督の四歳の少女は気に入らないらしく、
「もっとちゃんとやってよ、お兄ちゃんっ! 心を込めてっ!」
厳しく指導してきた。犬の気持ちなど知ったことではない宏人だったが、少女からしてみれば、そんな宏人の気持ちの方がよっぽどどうでも良いものらしく、「へたくそ!」「ちゅうがくせいなのにどうしてそんなにできないの!」「やめちまえ!」などの容赦ない罵声を彼女は浴びせてきた。
――オレは一体何をやってるんだろう……。
薄暗い空の下、肌寒い空気の中、ひんやりした砂の上で四つん這いになった格好で、幼稚園児にダメ出しされる中学二年生。目の下に感じる湿り気はきっと雨である。そうに違いない。泣いてなんかないさ。
「そろそろ、家に入るぞ、ミズホ」
宏人と対照的にからりとした声を出したのは、父親の悲哀を演じきった富永であった。宏人はほっと息をついた。このおままごとが始まってから、かれこれ一時間が経っていた。やっと犬から人間に戻ることができるのだ。裾を払って立ち上がった宏人は富永に感謝の目を向けた。
「次までにちゃんとれんしゅうしておいてね」
ちょっと納得いっていない顔ながら、瑞穂はしぶしぶうなずいた。下から厳しい目を向けてくる彼女を恐ろしげに見ながら、宏人は二度とこの辺りには近付かないことを密かに誓った。
「なかなか良かったわよ、犬役」
ぽんぽんと叩かれた肩の方を見ると、志保の薄ら笑いがある。ムッとした宏人は、なにゆえ、自分がアカデミー助演男優賞を取れるほど演技力を鍛えられなければならないのか、よっぽど問い詰めてやろうかと思ったが、遊園地での一件を話してない後ろめたさがあって強くも出られない。
「ジュースでも出すから来いよ」
そう宏人と志保を促すと、富永は幼い弟と妹の手を引き、先に立って歩き出した。志保が自分の鞄を持って当たり前のようにそれに続くので、志保と富永の不思議に親しそうな関係について奇異の念を抱きながら、宏人も無言で従うしかなかった。
二人の親しげな様子についてもそうだが、それより富永には驚かされた。教室内での印象とはまるで違うのである。クラス内の彼は、あまりしゃべらずクールで、少し不良っぽい雰囲気を漂わせていた。宏人としては、人種が違う、という感じで、あまり接点を持ちたくないし、持つ機会もないだろうと思っていた。ところが、ここでは一転、妹のおままごとに付き合う良いお兄さんになっている。どちらが本当の彼なのか、と考えてみるまでもない。クラス内の彼は単なる宏人のイメージに過ぎず、ここクラス外の彼は紛れもない実体である。人は見かけによらないものである。
三階分のコンクリートの階段を昇り、部屋に招待してくれた富永は、よく冷えたオレンジジュースを出してくれた。そのあと、今度は家の中で、トランプやボードゲーム、テレビゲームなどが始まった。たまに、王子や姫の白馬の役目を仰せつかった宏人は、子ども特有の甲高い叫び声を聞きながら、やけ気味にこの状況を楽しんだ。その間に、するすると時は過ぎて、いつしか六時半を回っていた。
志保はリビングの絨毯から腰をあげた。
「そろそろ帰るわ」
「えー、シホ姉。もうちょっと!」
両腕を北斗と瑞穂に取られた志保は苦笑して、また来るから、となだめるように二人の頭を撫でた。
志保にならい宏人も立ち上がると、富永が二人の弟妹を引きつれて玄関まで見送りに来た。
「きっとまた来てね、シホ姉」と瑞穂。
「お前も来ていいぞ、ヒロト」と北斗。
生意気を言う弟の頭を軽くはたいた富永は、宏人と志保を外に出すと、自分もスチール製のドアから外へ出た。周囲はすでに暗くなってきており、灰色の壁にある蛍光灯が煌々と輝いている。
「藤沢、お前、また明日も来る気か?」
富永の問いに、志保はうなずいた。
「明日も明後日も明々後日も来ます」
「部活あるんだろ」
「今はこっちの方が大事だから」
富永はふう、と息をついて、ぼりぼりと頭をかいた。
「負けたよ。何かお前本当にやりそうだからな。お袋がお前のことを気に入りつつある。ここまでにしてくれ」
「じゃあ、協力してくれる?」
「面白そうだしな。具体的には何をすればいい?」
「特には何もしなくていい。わたしと倉木くんに話しかけてもらえればいい。朝来たとき、休み時間、お昼の時間、自習時間、時間がある限り」
「分かった……あと、礼を言っとく、弟と妹と遊んでもらって」
「礼は要らない。善意でやったわけじゃない」
富永は、ふ、と笑みを作ると、志保の横に立つ宏人に手を差し出してきた。何がなにやらさっぱり分からないながら、差し出された手を取らない訳にも行かず、宏人は富永と握手する他なかった。
「じゃあ、明日、学校でな」
宏人の手を放した富永は、軽く二人に向かって手を上げると、スチールドアから家の中へと消えた。
階段を下って棟の外に出て少し歩いたところで、宏人の我慢は限界に達した。自分だけ蚊帳の外に置かれた状態なのである。一体、富永とはどういう関係なのか、先ほどの会話の意味は何か、歩きながら宏人が訊くと、
「二組支配計画のその二よ」
志保は簡単に返した。その一は、瑛子をゲットする作戦のことだろう。しかし、その二があるなんてことは聞いていない。
「今メジャーに属していない人間を、わたしたちのグループに入れる。富永一哉がその一人目よ」
「知り合いだったのか?」
「全然」
「でも何か親しそうだったじゃないか」
「親しくなったのよ、どうにか、この一週間でね」
一週間ほど前、先週の水曜日のことである。富永が学校を休んだ。志保は、学習委員という立場を利用してその日の授業プリントを届けるという名目で富永を見舞った。
「なんで休んだと思う?」
「……ズル休みじゃないのか?」
鋭い目つきなどのちょっと悪そうな風貌から、富永には色々と芳しくない噂が立っていた。しばしば学校をサボるというのもその一つである。
志保は、うん、とうなずいた。
「わたしもそう思ったんだけど、ところが行ってびっくり。妹さんいたでしょ。あの子が病気で寝込んでるからその看病のために学校休んだんだって。お父さんのことは聞かなかったけど一緒には暮らしてないみたいでね、お母さんはお仕事があるからって、ときどきそういうことで学校を休むらしい」
確かに先ほどまでの富永の様子から、彼が弟と妹の面倒を良く見ていることが分かった。
「それで、わたしが行ったときは、妹さんすっかり元気になってたんだけどね。ちょっと家に入れてもらって、わたしたちのグループに入ってもらうよう勧誘した。なんかどっちでもいい、みたいな感じだったんで、わたしは妹さんや弟さんと遊ぶことにした」
平然とした声を出す志保だったが、宏人には最後の所が良く分からなかった。
「将を射んとすればまず馬を射よって言うでしょ。二人に気に入られることによって、富永くんの気持ちを動かそうかなってことで」
「何で富永なんだ?」
志保はいたずらっぽくニヤッと笑った。
「カッコイイからよ」