第90話:お昼休みの探り合い
前回の続きです。
朝一緒に登校しよう、という提案をまさか断られるとは思っていなかった怜だったが、あえてそれ以上の無理強いはしなかった。無理に環を押しても柳に風である。受け流されるだけならまだ良いが、最悪、加えた力が跳ね返ってくる恐れもある。
確かに円の言う通り、いつもの環らしくないような気もした。避けられる理由は特に思い当たらない。もしかしたら、とうとうカレシの本質に気がついて愛想を尽かしたのかも知れないが、それならそうとはっきり言うのが彼女の気質であろう。
とはいえ、「らしさ」などというものは、こちら側の勝手な評価にすぎない訳で、彼女自身とは何らの関係も無い。彼女の行動はすべからく、彼女「らしい」と言うべきだろう。
怜としては、環の様子がちょっと変わったとしても詮索する気になどならない。
――環はオレなんかより余程大人だ。
という確信があって、自分より精神年齢が高い子を心配しても仕方ないという気持ちがある。しかし、円に約束してしまった手前そうもいかない。他の誰からの評価を落としても構わないが、円からの評価は落としたくない。そういう気持ちが怜にはなぜだかあるのだった。それだけ、円は可愛らしい女の子だと言うことができ、裏を返せば、それだけ周囲に可愛らしい女の子がいないということでもある。
「スズ、ちょっといいか」
可愛らしくない組の一人である少女を、怜は教室から廊下へと呼び出した。クラスメートと楽しげにしていた彼女だったが、快く席を立ってくれた。怜は「可愛らしくない」などと思ったことをちょっと後悔した。せめて「普通」にしておこう。
廊下のリノリウムの床には朝の爽やかな光が当たっていた。登校時間帯である。怜は、続々とそれぞれの教室に歩いていく同級生を避けながら、鈴音を六組から少し離れた所に誘導した。うっかり五組の環と鉢合わせする可能性を回避するためである。
「どしたの? こそこそして」
鈴音が失礼なことを言ったのが渡り廊下である。
ここなら良いだろうと思い、一応周囲を確認したのち、怜は環のはしゃぎぶりについて、鈴音に釈明を求めた。
「一体、お母さんに何の恨みがあるんだ、タマキは? どうして太らせようとしてる?」
鈴音は、いくら友だちだからと言っても母子の関係までは分からない、ということを実に真面目な顔で答えた。怜は無視すると、重ねて尋ねた。女の子が真面目な顔をしている時、それは大抵何かを隠しているときなのだ。そういう、さして知りたくもない真理を、怜はカノジョから嫌というほど学んでいた。
「知っていたとしても教えられないな。女の子同士の話だから」
鈴音はそうそうに伝家の宝刀を振るった。そう言われると、男子である怜にはなすすべがなくなってしまうのだが、今回は簡単に切られてやる訳にはいかなかった。なにせ、可憐な乙女の依頼を受けているのである。
「オレが頼りにならないことをもって、男子一般に対する不審の念が湧いたらどうする? オレには真実を知る義務がある」
「そうして、知った事実を報告するっていう口実で、昨日みたいにまたマドカちゃんと一緒に帰ろうとしてるんでしょ?」
鈴音は、何もかもお見通しだ、と言わんばかりの余裕綽々とした顔を作ったが、怜はそんなことで悪びれたりなどしなかった。悪いと思う理由がない。たまに、ほんのたまに可愛い女の子と歩きたいと思ったとして、それが一体なんであろう。
「中学生男子の自然な心情の発露だ」
鈴音はやれやれ、と首を振った。黒髪でできた華がふわふわと揺れた。
「それはそれとしてもね。わたしに親友を裏切ることはできないわ」
「じゃあ、スズからタマキに言ってくれ。『家事はほどほどにしろ。妹にはこれまで通りに接しろ』って」
「自分で言えばいいじゃない」
「何だって?」
「自分でタマキに言えば」
鈴音は細い眉一つ動かさず過酷なことを言った。
これだから女子は嫌だ、と怜は思った。
「何でも単純に考えすぎる」
「それだって男子よりはマシでしょ。女の子が物事を単純に考えるとしても、男の子は考えることさえできないんだから」
全くその通り、と首肯しても何の解決にもならない。鈴音の意志は固いようで、彼女はこれ以上話す気は無いということをつんとした顔で示したのち、怜を置いて教室へと戻った。女同士の友情を見くびっていた怜は、仕方なく覚悟を決めた。
四時限分の授業を真面目に受けて知識を吸収し、給食でエネルギーを摂取したのち、怜は決然と六組を出た。カノジョに会いに行くのに、なにゆえ対決の覚悟めいたものを固めなければならないのか、理解に苦しむ所であるが、今はそんなことを考えている時間は無い。なにせ数歩の距離である。あっさりと五組につく。
「タマキを呼んでくれ」
五組の戸口から怜が声をかけたのは、七海だった。彼女はアーモンド型の瞳に笑みを浮かべながらうなずいたが、しかし、その場を動こうともせず、
「タマキ。愛しのカレシが会いに来たよ!」
教室中に美声を響かせた。怜は人選を間違えたことを認めた。
ざわざわとした空気の中をしずしずと環は進んできた。
「おいおい、昼休みにまでデートか?」
太一の声のように聞こえたが気のせいだろう。友人を疑ってしまう自分の心の醜さにホトホト嫌気が差しながらも、近くにいた顔見知りの男子に、今からかいの声を投げたヤツを蹴り飛ばしておいてくれ、と一応頼んでおいた。
一層大きくなるざわめきの中、微笑して目前に立っている環と怜は目語すると、何も言わず歩き出した。昼休みの廊下を進んで行った先に掲示板があって、そこには、『フィクションに恋をした』と銘打たれた一枚の新聞が貼り付けられていた。恋愛小説・漫画・映画などの紹介が、紙面に所狭しと繰り広げられていた。
怜の横で環が、新聞の隅にある記事に目を留めた。
「……えーと、なになに、『ヒロインの生き方は蝶に似ている。初め、ただ漫然と人生を送っていた彼女の精神は幼虫だった。自分が死ぬということを意識したとき、生とは何か、を考え、その精神はさなぎとなる。生の意味を理解したとき、羽化して成虫へと変わった。死の間際、彼女の精神は最も美しくなったのである。死に立ち向かうことによって、人は美しくなることができる』か。さすが、レイくん。いいこと、書いてあるね」
「パクリだけどな」
「それで?」
「ん?」
「文化研究部の活動をアピールするために呼んだんじゃないんでしょ?」
環は紙面に目を向けたまま、さらりと鋭いことを言った。
回りくどいことは好きではない怜だったが、とは言え、単刀直入に、
「お前のテンションがおかしいから円ちゃんが心配してる。妹に心配をかけないようにするのは姉の務めだろう。何をやっているんだ、お前は。もしオレで良ければ相談に乗るから話してみろ」
などと切り出すことはできない。円が、環に対して何らか鬱屈した感情を持っているのであれば、それを環に知らせないようにして真相を訊き出すのが、スマートなやり方だろう。そんなことができるかどうか甚だ疑問だったが、やらねばならぬ時がある。
カノジョの方を向いた怜は、
「いったいどういうことなんだ? 今朝一緒に登校したかったのに、まさか断ってくるなんて。オレに何か怒ってることがあるんならはっきり言ってくれ。キミらしくもない」
声に非難の色を込めて言った。怜は自己満足した。なかなか良い感じ。
だがそれも長くは続かなかった。
漆黒の瞳が目前にあって、その綺麗な瞳の中に自分が映っているのを確認した怜は、心もち身を逸らすようにした。じいーっと見てくる環は、まるで人の心のうちを見透かすような目をしていた。怜は耐えた。ここで目を逸らしては負けである。
掲示板の前で見つめ合うおかしなカップルに、怪訝な視線を送りながら歩み去る制服姿の少年少女たち。
やがて環は少し身を離すと、
「お誘いを断ったら、心配して教室まで会いに来てくれるかもと思ったから……って言ったら怒る?」
いたずらっぽい笑みを浮かべながら答えた。
「嘘だろ」
怜はすかさず切り返した。ショートボブの頭を軽く傾けた少女に、
「今言ったことだよ。オレが怒るとしたら、今お前が言ったことが嘘だってことに対してだな」
続けてやると、環は軽く目を瞑ってからそのままの状態で、口を開いた。
「どうして嘘だって?」
「お前はそんな乙女チックなやつじゃない」
「ねえ、レイくん。わたしたちの間には何か決定的な誤解があるみたいよ」
「悲しいことだ」
「ええ、本当に」
環は目を開くと、そのほっそりとした指で涙を拭う振りをした。そうして、おもむろにその場を立ち去ろうとした。怜は彼女の腕を取った。
「どこへ?」
「もうそろそろお昼休み終わりじゃないかな?」
「ところが、まだまだ残ってる」
何せ給食を食べ終わっていくらも経たない内に来たのである。
「レイくん。これは繊細微妙な女心が織りなす非常に曖昧模糊としたお話なの。このお話をするためには、丸一日必要だわ」
「カノジョの為なら、一日でも一カ月でも必要なだけ時間は割く。ただ、今は簡単に話してくれ」
環は覚悟を決めたような顔をした。
顔だけであることが怜には分かりすぎるほど分かっていた。
「怒らない?」
「オレが?」
「いくら寛大なレイくんでも、わたしの今の悩みを正直に話したら、多分怒ると思う」
「人間、怒られている内が花だっていうもっぱらの噂だ」
その言葉に、環は力を得たような振りをして、開きかけた口を、しかし閉じたのだった。
「その時になったらお話しますから、それでもいい?」
怜は首を捻った。そこまで話したくないということは、そもそも怜が触れて良いことではないのかもしれない。いくら付き合っているからといっても、
「悩みは何でも話し合おう。二人の間に隠し事は無しだぜい」
的なことを全く考えていない怜としては、それ以上は訊かず、代わりに、家事からは手を引くことを勧告した。
できるだけ何気なく言って立ち去ろうとした怜の手を、今度は環が取った。
「タイ焼きが食べたい」
「旺盛な食欲だな。今、給食を食べたばかりだろ」
「今度でいいよ。タイ焼きをご馳走してもらえれば、妹より大切にしてもらえてるっていう実感が湧くわ。もちろん、他のものでもいいけれど」
怜は約束した。タイ焼き一つで、円の手先になったことを許してもらえるならば安いものである。そう考えて、
――待て、待て。何でオレが許しを請わなければいけないんだ?
と、いつの間にやらカノジョとの間に発生してしまっているねじれ構造を解析しようかと思ったが、面倒な話になりそうだったのでやめた。
「このまま教室まで手を引いてくれるっていうのでもいいよ」
まことに可愛らしい様子で目を伏せる少女の手をぱっと離すと、怜は、ご馳走するタイ焼きはクリーム鯛にする、ということを高らかに宣言した。
「黒豆鯛はダメ?」
「ダメだ」
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