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プラトニクス  作者: coach
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第89話:同じ神を見た二人

 円の話によると、『異変』が起こったのは昨日の月曜日のことらしい。

 朝起きた円が朝食の準備をしようとした。食事の準備は母か円のどちらかがやることになっている。ところがキッチンには既に朝食の香が漂っており、エプロン姿の姉が鼻歌など歌いながら見事な包丁捌きを披露していた。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 常にないことに驚いた円が訊くと、姉は満面の笑みを返してきた。

「早く起きちゃったから、たまにはわたしが用意しようかなって」

 川名家の朝食はあっさりとしたものが通例であったが、姉が調理していたのは恐ろしく凝っているものだった。

「見た目はそう見えるかもしれないけど、すぐ出来るのよ。あとでマドカちゃんにも教えてあげる」

 何だかどこかテンションが高い姉に、円は体温計を差し出した。

 大人しく妹の言うことを聞いた姉の熱は平熱である。

「マドカちゃん。今日、一緒に登校しようね」

 長ネギと春雨の入ったゴマ風味のピリ辛味噌スープを危うく噴き出しそうになる円。

「え? どうして?」

「どうしてって、姉妹なんだからいいでしょ、たまには。それとも、お姉ちゃんのこと、恥ずかしいと思ってるの?」

 円は助けを求めるように自分の隣を見た。昨夜泊まっていった姉の友人で、円にとっても気の置けない人である。彼女は、口応えするな、と言うように首を横に振った。

 学校までの道すがら、いつもは寡黙な姉が饒舌そのものである。近頃疎遠にしていた妹との距離を一気に埋めようとでもするかのような話し方である。姉は、妹に(おもね)るような人ではない。いよいよもって奇妙さを感じた円が、その日、部活動を終えて帰ると、玄関からやけに清々としたものを感じた。掃除はいつも行き届いているが、何だか今日はいつもに増して綺麗である。

 母に素直に感動を伝えた円だったが、

「環を褒めたげて」

 どうやら母の仕業ではなかったらしい。環が学校から帰りざまに、玄関・リビング・浴室の掃除をし始め、旭の宿題を見て風呂に入れたあと、夕食の準備を始めたということなのである。キッチンには朝と同じ光景が広がっていた。

「お母さん。お姉ちゃん、どうしちゃったの?」

 娘のことをよく知る母でも分からないらしい。

「でも、確実に言えるのはね、このテンションが続くと、そのうちわたしは太り始めるわ。家の中で何にもすることなくなって」

 難しい顔で母が言う。何か恨みでもあるのだろうか、スレンダーな母に余計な脂肪をつけようと画策している姉に不審の目を向けた円だったが、姉からは心からの笑みしか返ってこなかった。

 それが今朝もう一度繰り返されたので、いよいよこれはおかしいと思い、原因を探ろうとした円が思いついたのが、姉のカレシに事情聴取を行おうということだったのである。

 一部始終を聞いた怜は、神妙な面持ちを作ったが、それはカノジョの妹に対する礼儀以上のものではなかった。突然、家事に目覚めたからといって悪いことはないだろう。

 隣を歩く清楚な少女にムッとした色が現れて、怜は慌てた。どうやら、環の奇行に対して心配する気持ちが薄いことが読みとられたらしい。

「先輩、姉に何かしたんですか?」

 とんでもない言いがかりである。もしこれを言ったのが円でなければ、怜は相手にもしていないだろう。知り合いの年の近い女の子の中で唯一まともな円にはどうやら好感を抱いているようで、怜は態度と言葉を選んだ。環に対して特別なことをした覚えはない旨を穏やかに抗弁したのち、

「そんなに心配なら直接会って訊いてみるよ。明日の朝にでも」

 と譲歩した。

「訊かないと分からないんですか?」

 不思議なことを言いだす円。それ以外の方法があるなら教えてもらいたい。

「姉と先輩は以心伝心だと思ってました」

 数十年連れ添った夫婦じゃあるまいし。そう思った怜だったが、あえて口には出さなかった。恋人同士は互いの心の中を知ることができるものだ、という乙女チックな幻想を抱いたとしても、円は乙女である。その資格がある。

「もう一つお聞きしたいことがあるんですけど」

 口を開こうとして、ためらってから、意を決したかのように続けられたのは、

「先輩から見て、姉ってどういう人ですか?」

 以前にも聞かれたような覚えのある問いだった。

 烏だろうか。バサッという羽音が夕空を打つのを聞きながら、怜は、うーん、と唸りつつ考える時間を取った。

「本当のことが知りたいんです」

 社交辞令が封じられた怜は、咳払いをした。本当のことと言うならば、環のことなどさっぱり分からない、というのが正直な所である。彼女はこちらのことが分かるらしいが、こちらは彼女のことは分からない。何を考え、何を感じているのか。そんなことが分かるなら怜の方が教えてもらいたいくらいだった。

「自分のルールを持ってる人だと思う」

 円を失望させたくない怜が、しばらく歩いたのち、ようやく言えたのがそんなことであった。

「それは、自分の価値観を持ってるってことですか?」

 その通りではあるが、それを守ることに汲々(きゅうきゅう)ともしていない。おそらく、よりよいモノが見つかれば、今持っている価値観などあっさりと捨てることができるだろう。

「それは常に自分を高めようとしてるってことですか?」

「いや、そういう『自分』っていうものをタマキは持ってないんだ」

「『自分』が無い? でも、先輩、今、姉は自分のルールを持ってるって?」

 怜はできるだけ適切な言葉を探って、分かりやすい表現を心がけた。

「つまり、何て言うかな……お姉さんが持ってる自分のルール、自分の価値観っていうのは、たまたまのものなんだ。お姉さんはたまたま今の自分だったってだけで、そのたまたま自体に意味はないんだよ。そういうことを自覚してるのがタマキだと思う」

 円はずいぶん長い間怜の言葉を胸の中で反芻していたようだが、要領を得なかったようである。おそらく円には分からないだろうことは怜には分かっていた。彼女が分かったと思ったとしたら、それは多分誤解である。しかし、分からなくていいのである。分かるというのは向こうから至るもので、こちらから近づく事態ではない。

「分かるときに分かるから、焦る必要ないよ、マドカちゃん」

「わたしは、今すぐ知りたいんですっ!」

 立ち止まった円のほっそりとした全身に張り詰めたものが宿っていた。怜は余計なひと言を言ったことを後悔した。怜にしても、円が環に向ける気持ちは分からないのである。

「なんで……何で先輩は姉のことが分かるんですか?」

 失礼を詫びてから、再び歩き出しながらぽつりと円が言う。沈んだ少女の顔を笑わせてあげたいなどと考えて、怜は新鮮な気持ちになった。世の人はこれを恋心と言うのだろう。

「同じ神を見たからだよ」

 何を言い出すんだ、という顔で円から見られた怜は、

「知ってる、マドカちゃん? 人は生まれる前にね、神様に仕えてるんだよ。そうして、自分以外にもう一人、同じ神様に仕えている人がいるんだ。同じ神に仕えることによって、彼ら二人はその神の祝福を受ける。祝福を受けた二人は、生まれてきたあとこの地上で出会って、お互いがお互いに惹かれあう。同じ神に仕えていた二人だから気心も知れ、お互いのこともよく理解できる」

 快活な声を出した。

 呆れられたら明日の朝一番でカノジョに文句を言おうと思っていたところ、円はくすくすと笑いだした。話の中身はどうあれ、慰めようとしていることは伝わったようである。

「先輩がそういうロマンチックなこと言うとは思いませんでした。いつも姉にそんなことを?」

「もちろん。女の子はロマンチックなことに弱い」

 円は冗談に乗るような口調で言った。

「わたしにもそういう相手が見つかるんでしょうか?」

「マドカちゃんなら、少なくともお姉さんよりは良い相手が見つかるよ」

 川名家の門前で笑顔で円と別れることができて、怜はほっとした。手に汗を()いている。気を遣うこと甚だしいが、どこかでそういう気を遣えること自体に嬉しい気持ちもあって、これが妹を持つ兄の気持ちなのだろう、と怜は思った。

 妹もどきのいる家に戻ると、怜は早速環にメールをした。あんなに可愛い子を苦しめるとはしょうもないヤツである。円と約束したわけでもあるし、事情を聞かなければならない。

「ありがとう。でも、明日は一人で登校します」

 翌朝迎えに行くということを送信したメールへの環からの返信がそれだった。

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