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プラトニクス  作者: coach
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第87話:リベンジの一手

 今回も環視点の話になります。

 お楽しみください。

 父をダイニングに(いざな)ってから、テーブルに食器を配していると、ほどなくして、カラスの行水を済ませた旭がパジャマ姿で現れた。

「スズちゃんに頭洗ってもらったあ」

 湯上りで頬を紅潮させながら嬉しそうな声を出す旭をリビングのソファに座らせると、環はタオルを使って、背の中ほどまでになって来た妹の豊かな黒髪を乾かし始めた。旭はくすぐったそうな様子で頭を振った。

「もういいよ、お姉ちゃん」

「ダメ。もう少しね」

 丁寧にタオルドライしてやった後に、環はドライヤーを持ってくるように旭に告げた。

「え〜、自然に乾くからいいよ」

「アサちゃん。ちゃんとドライヤーしないと、髪が傷んじゃうのよ。折角綺麗な髪なんだから」

「でも、めんどくさい〜」

「……そう言えば、レイくんが言ってたなあ。アサちゃんの髪はぬばたまの髪だって」

 環はカレシに感謝した。彼の名は、旭の行儀を良くするマジック・ワードになっているのである。あっさりと魔法にかけられた旭は、闇色の瞳に星を浮かべて姉を見つめると、『ぬばたま』とは一体どんな美しい形容詞なのか聞きたがった。

「あら、お母さんに習ったでしょ?」

「分かんない」

「『ぬばたま』っていうのはね、黒い真珠のことよ。黒い真珠のように綺麗な黒髪のことを、ぬばたまの髪っていうの」

 ぬばたまは、他にも、(からす)の羽のことを指すという説もあるが、それを旭に紹介するのはやめておいた。烏には悪いが、ガーガー鳴きながらゴミ捨て場に餌を求める鳥に例えられて喜ぶ女の子がいるとは思えなかったからだ。

「タマキ、お前を預けてもいいとは言ったが、アサヒのことまでは許してないぞ」

 浴室へ続く洗面所へダッシュしていく旭を微笑みながら見送っていると、ダイニングテーブルについていた父が冗談半分に声をかけてきた。

「長女のみならず三女も奪う気なら、もう一度挨拶に来るように彼に言いなさい」

 どうやら半分は本気のようである。今度は容赦しないがな、と不気味な笑みを見せる父に、旭と怜は相思相愛だから諦めた方がよろしいですよ、と言上する環。ショックに頭を抱える父を、

「まだ円がいるじゃありませんか」

 慰めようとしてみたが、一人残っていればいいという問題じゃない、と一喝されて、無思慮を詫びなければならない破目になった。

「……で、その、何だ……例の件はどうするつもりなんだ?」

 こちらを見ながらも微妙に視線を逸らすようにする父に、環は小首を傾げた。何のことを言われているのか分からず粛粛と父の言葉を待っていると、彼との旅行の件だ、とちょっと曲げた口からぶっきらぼうな声が続いた。

 環は唖然として言葉も無かった。母にはまだしも父にまで内心を読まれていたとは。昨日怜が帰ったときから余程ひどい顔をしていたのだろうか。悲しみに打ちひしがれ、後悔に(さいな)まれた可憐な少女の顔……。

 仮にそうだとしたら新たな自分を発見する所だったが、どうやらそういうわけではなかったらしい。というのも、

「レイくんの言う通りにするつもりです」

 と驚きから醒めた環が答えると、

「タマキ。男の言葉に諾々と従うような女の子でどーする? 女は度胸だぞ」

 父が意外なことを言ってきたからである。てっきり小旅行の計画が取りやめになり喜んでいるとばかり思っていた父が、まるで計画の後押しをするようなことを言いだしたのだから理屈に合わない。

 つじつまを合わせる答えを探した環だったが、疑問はすぐに氷解した。ドライヤーを持って帰って来た旭を迎えながら環は、自分がいかに可愛げのない子であるかということを確認した。おそらく、母にしろ父にしろ、環に甘えてもらいたいのである。執拗に旅行の件を持ち出しているのは、普段おねだりをしない長女の希望を叶えてやることによって親であることを実感したいのではないか、と環は推測した。

 旭の前で怜の話をしたくない父はそのまま口を閉ざしたが、その後を引き継いだのが鈴音だった。

「それで? 何を悩んでんの、タマちゃん?」

 夕食を取り終えて、環がひとり入浴を済ませて部屋に帰ると、勝手知ったる友人の部屋に二組の布団を敷いて、その一つにごろんと横に寝転がっていた少女が、瞳を輝かせていた。

「馬鹿にしない?」

「タマちゃん。わたしたちもうかれこれ四年の付き合いよ。そんなことするわけないじゃない」

 環は鈴音の隣に腰を下ろすと、彼女の力強い、いささか強すぎる調子の言葉に促されるようにして話しだした。怜から母方の実家に招待された件から、父と取引したこと、昨日のプロポーズまがいの場面まで、包み隠さず話すと、初めは神妙な面持ちを保っていた鈴音だったが、怜の『絶交宣言』に至るとふいっと顔を背け、哀れなヒロインが招待を撤回されるフィナーレになると小刻みに肩を震わせているのが見えた。

 環は相談相手を誤ったことを認めた。

「ごめん、ごめん。だってさ、いかにも加藤くんらしくて。最後のくだり、もう一回話してくれない?」

「スズちゃん」

 環は眉をひそめてみせて、アンコールに応える気はないことを示した。鈴音はにっこりとした綺麗な笑みを見せたままで、タマちゃんも女の子だったんだね、などと失礼なことを言いだした。

「わたしは生まれてからこのかたずっと女の子です」

「それで?」

 これからどうするつもりなのか、と訊いてくる鈴音に、環は分からない顔を作った。どうにもしようがないから人は悩むのである。

「タマちゃんは女の子かもしれないけど、少なくとも可愛い女の子じゃないわ。何か策があるんでしょ?」

「人を計算高い女みたいに」

「高いでしょ。まあ、その計算が加藤くんには通じなかったわけだけど、次の一手でリベンジしましょうよ」

「男の子と付き合うのってもうちょっとロマンチックなものだと思ってたわ」

「じゃあ、計算はやめて、乙女チックに行く?」

 天井にある円状の蛍光灯の光を受けて輝く鈴音の瞳に、環は胡乱な目を向けた。いや、そう疑ったものでもないだろう。何と言っても彼女とは水魚の交わり――水と魚との切り離せない関係のような非常に親密な交友――を結んだ仲なのである。きっと素晴らしいアドバイスをしてくれることだろう。そう思ってみた環だったが、今からでもカレシに旅行に連れてって欲しいと素直に言え、と言われた時には、彼女の期待は流れに浮かぶ泡沫(うたかた)となって消えた。

「それができれば苦労は無いよ、スズちゃん」

 今回の件に関しては、理は怜の方にあるのである。理を情で押すのは環の流儀ではないし、それに、

「レイくんに嫌われるのが怖いの」

 ということが一番重要なことだった。子どもの我がままのようなことを言ったら、怜が失望するかもしれない。それが恐ろしい。真情を吐露するような口調でそう付け足してみたが、返って来たのは切ない乙女心への同情などではなく、

「やめて、タマちゃん」

 非難の声だった。

「わたしにそういうのは必要ないよ。加藤くんに嫌われるのが怖い? 違うでしょ。そうじゃなくて、加藤くんに『嫌われない』ことが怖いんでしょ?」

 環は心中で鈴音を仰ぎ見た。ついこの間までは同じ位置にいたはずの彼女は、今では遥か高みにいるかのようだった。

 鈴音が言ったことは的を射ていた。もし環が感情のままに行動しても、おそらく怜は受け入れてくれるだろう。連れてってくれと言えば、連れてってくれるかもしれない。感情を見せることによって、その見せた相手を疎んじたり遠ざけたりするような人ではない。しかし、だからこそ、彼と付き合うには巨大な自制の力が必要なのだった。その胸に飛び込むのは簡単だが、それをすれば、環は彼にとって何らの価値もない人間になるだろう。真に怖いのはそれだった。

「本当に加藤くんのこと好きなんだね〜、タマちゃんは」

 鈴音はしみじみとした声でからかってきた。

 正直に言えば、怜のことを好きかどうかはよく分からなかった。ただ、彼に向けるこの想いと同種のものをかつて感じたことが無いことだけは確実に言える。

「レイくんといると爽やかな気持ちになって、まるで自分自身まで清々とした存在であるように思えるんだ」

「タマちゃんが言うと、ただののろけも詩的に聞こえるから不思議だわ」

「それはレイくんが美しいからでしょう。美しいものを醜く語ることはできないから」

 鈴音は身もだえする代わりに、布団の上でその細い体を麺棒のごとくころころと回転させた。

「で? 乙女で行かないならどうするの?」

 少し離れたところから気楽な声を出す友人に向かって、環はちょっと首を傾けた。

「何をすべきかは決まってるんでしょ、タマちゃんのことだからさ」

「わたしは(かじ)をなくした船頭だよ、スズちゃん」

「楫がなくたって、どうせその船にはモーターか何かついてるんでしょ。迷ってる振りはやめて、なすべきをなし、したいことをしなさい」

 鈴音の励ましに、先ほどふと思いついた曖昧模糊としたものがむくむくと形を取り始めるのを感じた。一つ手を思いついた環だったが、それをすればおそらく――

「レイくん、怒るだろうな」

 ということが予想できた。最善の手は、先ほど夕食の準備をしていたときに、母が言いかけたことである。あのとき、母が何を言いかけたのかは大体想像がつく。しかし、それはいかにも野暮ったい手であって、到底採用できない。

「ああ、どうすればいいのかしら」

「そのセリフ、そんな嬉しそうな顔で言うセリフじゃないと思うけど」

 内心が知らず顔に表れていたらしい。鈴音に注意されて、環は慌てた振りで綻んでいた顔を繕うようにした。

「スズちゃんはどう思う?」

「たまには怒らせてみたら?」

 環は待ってましたとばかりに、親友のスズちゃんがそう言うなら、と素早く迎合すると、天を仰ぐ鈴音を尻目にして、携帯電話を手に取った。そうして、先ごろ友達になったばかりの少女にメールを一通打ち始めた。

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