第86話:ガールズトークは深夜に
いつもありがとうございます。
今回は、有り難くもリクエストを頂いた、環視点のお話です。お楽しみください。
「何かあったんでしょ、タマちゃん」
すぐ隣から流れて来た声に、環は軽く目を瞑った。電気を点けるにはまだもう少し早い時刻、自宅の自室である。八畳の室内は華美や装飾とは無縁であって、机と本棚が一つずつある他は、フローリングになった床の中央に円状のラグが敷かれ、足の短い小さなテーブルが置かれてあるくらいのものだった。衣服や寝具などは全てクローゼットに収納されている。
「女の子の部屋じゃないね、ここは」
気の置けない友人からはそのような褒詞を賜るのが常だった。
目を開いた環は、軽く顔を動かした。視線の先に少女の姿。同い年のはずなのに、自分よりもずっと落ちついた雰囲気のある彼女は、穏やかな目元に悪戯っぽい光を煌めかせていた。
環は座っていたラグの上で身じろぎした。
「スズちゃん、お願いだから、『タマちゃんは悩み事があると髪をかきあげる癖があるのよ』とか何とか続けてくれないかな?」
「そんな都合のいい癖は無いみたいだよ」
「わたし、いつもと違う素振りをしてた?」
「『誰かわたしの悲しみに気がついて』的な? タマちゃんがそんなに可愛い女の子だったら、もっともっとモテると思うな。ただ、わたしは引くけどね」
そう言って軽やかな微笑みを見せると、鈴音は、
「この頃ね、前よりもずうっと物事が良く見えるようになったの。タマちゃんのお陰だな」
と続けた。読心術を伝授した覚えなどない環は、何のことを言われているのか分からない振りを作った。鈴音はずいっと身を寄せてくると、顔を覗き込んで、何を悩んでいるのか、と改めて尋ねて来た。
どうやら悩んでいるということそれ自体は分かっても、悩みの中身までは分からないようである。ほっと息をついた環だったが、一瞬後、
「想像はつくよ」
からかいを含んだ声を聞いて、背筋が張った。環から身を放して、ラグに後ろ手をついた鈴音がにやにやしている。
「ねえ、スズちゃん。一つ諺を教えてあげる。『親しき仲にも礼儀あり』。」
淑女らしい婉曲さを見せた環だったが、どうやら遠まわしすぎて通じなかったようである。
「加藤くんのことで悩んでるんでしょ?」
まるで断定するような鈴音の口調に、環は抵抗してみせた。四六時中ボーイフレンドのことばかり考えてると思われてはたまらない。環は、悩みは色々とあって、カレシに関することはそのうちの一つに過ぎないと、答えた。
「例えば?」
「ん?」
「タマちゃんの他の悩みよ。そんなものがあればの話だけど」
鈴音の挑戦を、環は受けて立った。
「たくさんあるよ。今読んでる推理小説の犯人は誰か、とか。明日は晴れるのか、とか。いつ頃、髪を切りに行こうかなとか。ね?」
しかし、それらの深刻極まりない問題は、鈴音の気を全く引かなかったようである。それは大変だね、という一言しか彼女からは返ってこなかった。環は、友達がいのない少女に憤然とした振りを見せると、おもむろに立ち上がった。
「そろそろ下に行きましょう。お夕飯の時間だから」
部屋を出て階下に降りるように促すと、鈴音は、参考書が開かれてあるテーブルによっと手を置いて立ち上がった。ついさっきまで次の定期試験の対策をしていたのである。素直に環の指示に従った鈴音だったが、後で聞かせてよ、と念押しすることを忘れなかった。
「深夜のガールズトーク。楽しみだなあ」
上機嫌でそう言った彼女は今日、環の家に泊まっていくことになっている。小学五年生の時に友情を確認してから、お互いの家にお泊りすることが定期的にあったが、今回は久しぶりだった。不登校期間に交遊を制限していた為である。
花弁のような芸術的なハーフアップを後ろから見ながら、環は、鈴音が不登校になる前とは、ほとんど別人のようになっていることを再確認した。以前はあった繊細さがなりを潜めて、しなやかな自信に総身が満ちているような雰囲気がある。それでいて、それを誇示するようなこともなく慎ましやか。
「もしそう見えるなら、それはタマちゃんがそうしてくれたんだよ」
以前、再会を果たしたあとのことだったが、環が鈴音について感じたことを正直に話すと、にっこりと笑いながらそう返された。
「タマちゃんがわたしを信じてくれたから」
――それは違う。
環には、人ひとりを変えることができる、などというおこがましい考えは無い。環の行為によって、結果的に変わったように見えたとしても、それは鈴音にその行為を受け止めるだけの覚悟と力があったからである。
「同じことを加藤くんも言ってたわ」
これには思わず環も苦笑するしかなかった。全然共通点が無いと思っていたカレシとの間にも似ている所が少なくとも一つはあったわけだ。そう鈴音に言うと、彼女は訳知り顔で微笑んだが、何も言い返しては来なかった。
「スズちゃん、一緒にお風呂入ろーよ」
リビングに入ると、鈴音は末の妹の旭に捕まった。抱きついてくる六歳の少女の頭を撫でてうなずくと、鈴音はリビングの隅に向かって明るい声を投げた。
「マドカちゃんも一緒に入ろ」
パソコンデスクについていた円は、顔を向けてから、結構です、と静かな声を出した。
「絶対にマドカちゃんと一緒に入る」
鈴音はきっぱりと言い切ると、旭の手を引いて、つかつかつかと円の元まで歩いていき、彼女の腕に自分のもう一方の腕をからませた。
「わ、分かりましたから。やめてください」
強引に引っ張ろうとする鈴音に、円が慌てて観念したように言った。
「どのくらい成長したか、おねーさんに見せてね? 円ちゃん?」
嫌がる素振りを見せる円だったが、それは本心からのものではなく、顔は綻んでいた。円が笑みを見せてくれたのはいつまでのことだったか、と思わず考えた環は、鈴音の方が自分よりよほど良い姉になるだろう、と仲良く浴室へ向かう三人を見ながら思った。
キッチンにいた母の隣に環は立つと、夕食の準備を手伝い始めた。
「トマト切ってくれる?」
ちょっと湾曲した形になっているトマトスライス用のナイフで、環は言われた通り、トマトの輪切りを作り始めた。
「そう言えば、こうやって環と一緒にお台所に立つのって久しぶりね」
母が温かな声を出した。この頃夕飯の準備は主に円がしており、それを母がサポートする格好になっていて、環の出る幕がないのである。
「本当にそれだけかなあ?」
含み笑いをしながら母が突っ込んできたが、環は作業に集中している振りを見せた。もくもくとトマトをスライスし続ける。大して時間がかからないうちに、輪切りトマトの山ができた。
「じゃあ、次は――」
指示を出される前に、環はスライストマトをオリーブオイルで焼き始めた。以前に作ったことがあるし、簡単な料理なので手順は覚えている。焼いたトマトを大皿に敷き詰めたあと、今度は玉ねぎのみじん切りを始める。それを挽き肉と共に炒めている所で、
「加藤くんとの旅行の件はどうするの?」
母が唐突なことを言いだした。香ばしい匂いが漂う中で、フライパンを持つ環の手に力がこもった。環は、あちらから招待を取り下げられたのだからどうにもしようがありません、と自分に言い聞かせるような声を出した。
「本当にそれでいいの?」
「もとはと言えばわたしの責任ですから。率直にお父さんにお願いして許可を得れば良かったのに、レイくんを試すようなことをしたから罰が当たったんです」
「それだけ、彼のことを信じてたんでしょ?」
『信じる』という言葉は適切ではない。端的に、『分かっていた』だけである。父がどういう風に彼を試しても、怜は必ずそれを切り抜けるだろうということを、肌が感じていただけだ。そうして、確かにその通りになったのであるが、その先にあったものは全く想定外の事態だった。昨日のことである。
招待を取り下げる、と言われたときは一瞬耳を疑った。環の目算通り、事はうまくいった。怜は父に気に入られ……いや一目置かれたという方が正しいかもしれないが、とにもかくにも父と環との間にあった密約――父が怜の人となりを測って信頼に足るようだったら旅行を許す――は果たされることになった。その矢先のことだったのである。これで心おきなく怜と小旅行に行けると思っていた所に、まさかの招待取り下げ。全く、人生はままならない。
環はフライパンに塩、こしょう、ウスターソース、バジルを加えて更に炒め続けた。
「タマキ、もしあなたが望むならお母さんから――」
「お父さんをお呼びしてきます」
少し強い声で母の言葉を遮ると、環は火をとめた。大皿に盛っておいたスライストマトたちの上に、玉ねぎとひき肉のソースをかけて、一品完成させると、キッチンを離れた。母が何を言おうとしたか、聞かずとも想像はつく。普段通りにしていたつもりだったが、どうやら母の目はごまかせなかったようだ。怜から旅行の誘いを撤回されたことでショックを受けていることが伝わってしまったようである。母は強し。
その母が可愛い娘の為にしてくれようとすることを素直に受けるには、しかし、環は子どもではなかったと言える。何事かを母に手伝ってもらうことがあるにしろ、それは本当に自分の手に負えないことに限りたい。今回の件は自分に責任があることであって、引き起こされた結果については自身がその責めを負うべきである。
――あるいは……。
脳裏をかすめた想いによって、環は存外に自分が諦めの悪い人間だということに気がついた。新しい自分を垣間見て思わず笑みをこぼしそうなところ、料理の香りに引かれたのか、書斎を出た父がちょうど廊下を歩いてくるのが見えた。
次回に続きます。