第8話:トラブルには迅速にかつ冷静に対処すべし
クラス内には『グループ』というものが存在する。
『グループ』とは性質の似た者同士が集まって作る集団のことであり、『グループ』の構成員は基本的に同グループのメンバーとしか交際を持たない。また、グループ同士も、あまり関わりを持たない。関わりを持つときは大抵は、敵対する時である。仮に友好的な関係を持っているグループ同士があったとしたら、それらは融合し、一つの大きなグループを作ることになるからだ。
怜のいる六組は、大きく三つのグループに分かれていた。
一つ目は、目立ちたがりグループ。自分たちが目立つことに命をかけるグループである。人の迷惑を省みず休み時間中に大きな声で騒ぎ、授業中はふざけて笑いを取る。校則で禁止されているもの――菓子、雑誌、化粧品など――を持って来て周囲の注意を引こうとする。
二つ目は、大人しいグループ。あまり目立つようなことはせず平穏を好み、そこそこ学校生活を楽しむ。通常授業から特別委員会、清掃に至るまで学校行事をそつなくこなす。
そして、最後の一つは、これはグループというか、上記二つのグループのどちらにも属さない孤高を愛する者たちである。
怜は、最後の一つに属していた。別に孤高を気取る訳ではない。単に友人になりたい人間が見当たらないだけである。一人では所在無いという理由で友人を作る気は怜にはなかった。孤独よりも、付き合いでしなければならないおしゃべりの方が耐え難いものがある。それに、現在の所、手持ち無沙汰ということはありえない。彼の相手は、異国の言葉が書かれているプリントがしてくれることになっていた。これがなかなか律儀な奴で、授業と授業のわずかな時間でさえ、怜が寂しくないように机の上に現れてくれるのだった。
「何ごとより勉強を優先してください。少なくともそういう振りはしてください。できますよね」
宿題プリントという素晴らしい友を紹介してくれた女性の声が耳に聞こえるような気がした。ついで彼女の唇がかすかな笑みの形を作っているのが頭に浮かぶ。その微笑みにどこかサディスティックな雰囲気があるように思えるのは、これまでの自分の勉強不足で大量のプリントが出されているという事実を、山内講師の個人的な趣味に置きかえたいのだろう。そうでない可能性は考えたくない。
「加藤くんって、英語、得意なの?」
横からかけられた声に、怜はシャープペンを動かす手を止めた。すらりとした細身の少女がかがむようにして、こちらを覗き込んでいる。
「得意だったら、こんなに必死になってやってないよ」
と、怜が答えると、
「それもそうだね」
と言って彼女は笑った。
「わたし、英語苦手だから、加藤くんが得意だったら教えてもらおうかなって思ったんだけど」
悪意は無いにしても、彼女が言うと、それは嫌味にしか聞こえない。小谷舞。一年のときから常に成績がトップ3以内にある秀才である。一番最近の定期テストではトップだった。
「プリント見せてもらってもいい?」
怜はプリントを一枚渡した。舞はその穏やかな大人らしい性格から、グループの垣根を越えて誰にでも話しかけるという特技を持っていた。怜にも時々話しかけてくる。
「現在完了、か。ここ用法だけはとりあえず覚えたんだけど、はっきりとイメージができないんだよね」
プリントを見ながら舞が首をひねる。怜は英文法の「現在完了」について塾で習ったことをそのまま彼女に教えてやった。親切心や下心ではない。山内講師の指導である。
「人に教えるのは自分の勉強になります。人から質問されたら、答えてあげるようにしてください」
聴き終わった舞は、はっとした顔をつくると、
「先生より分かりやすい。スゴく良く分かった。ありがとう」
と満足した顔で礼を言って、呼んでいる友人のところに戻った。肩までのセミロングの髪が下の方でレース風のシュシュで留められているのが見えた。
「休み時間まで勉強してるやつってちょっと考えられないよな」
後ろからせせら笑うような声が聞こえてきた。紹介しよう。彼の名は落書き。無論、本名ではない。怜がつけたあだ名である。その由来は、始業の日の自己紹介に由来する。おそらく相合傘を書いた輩であるので、あだ名で十分だった。本名を覚える気は怜にはない。
グラフィティはことあるごとに怜にからかいの言葉をかけてきていた。
曰く。「今から必死になって勉強なんておかしいよな」
曰く。「川名と付き合ってるみたいだけど、釣り合いが取れてないって」
曰く。「あいつ、しゃべらないから何考えてるか分かんないんだけど」
などなど。
こういう手合いを相手にしても仕方ないことは十分に分かっていたが、しなければしないでどこまでも増長する。一言釘を刺して反撃し、言われっぱなしにはならないということを示しておいた方がいいのかもしれないと思っていたが、その機会は意外に早くやってきた。
四月下旬から五月上旬にかけての大型連休迫るある日の昼休みのこと。
「それで、どうするの?」
珍しく幼馴染みを伴わずやってきた倉木日向が机の前に立ち、怜に決断を迫っていた。特にどうする気も起こらない。成り行きに任せても良いのではないかと思っていたが、
「ダメでしょ、そんなの。タマキが可哀想じゃん」
日向が強い声で答えた。
事は以下のようなことだった。一体、どこからそんな話になっているのか分からないが、六組内に、怜と舞の仲が「いい感じ」になっているというウワサが出始めたらしいのである。火のない所にとは言うが、この場合、何が火になっているのだろうか。舞とは数回しか話したことはない。いずれも教室内で衆目の中である。過去に同じクラスだったこともないし、町で偶然出会ったこともない。「ない」が重なれば、数学のようにひっくり返るのだろうか。大した火がないとしたら、ガソリンを撒いてその火を大きくした者がいることになる。
「そのうち五組にも延焼するわ。今のうちに手を打っておかないと」
日向は六組内にいる友人から聞いたらしい。確かにこの種の、誰と誰が付き合っているとか別れたとか、そういう類のウワサが一番生徒の口に昇るのだった。誰と誰が付き合おうが、それが何だと言うのだろう。怜にはさっぱり理解できない話だった。
「加藤くんに理解できるかどうかは関係ないの。タマキが傷つくことが問題なのよ」
こういう噂で環が傷つくかどうか、正直、意にも介さないような気がしたが、ただ、彼女に対して失礼なことではあるかもしれない。先日、カレシの義務を怠っていたことを詫びたばかりの怜としては、ここで何らかのアクションを取る必要があるとも考えられる。しかし、何をすればいいのか。
「イライラするなぁ。何をって、今からクラス中に向かって、『オレは川名環が好きだぁ〜』とか何とかさ、大きな声で言えばそれで終わりでしょ」
怜は賢に同情した。大して親しいわけでもない自分にこれほどの無茶を要求するということは、十四年来の幼馴染みには日ごろ何を要求しているのか、想像に余りあるものがある。いや、むしろ、親しくないからこそ気軽に言えるのかとも考え直してみたが、日向の目は本気だった。気軽に言った言葉ではなさそうだ。
「なに話してんの?」
横から声がかかる。口を挟んできたのはグラフィティだった。
「加藤くんと小谷さんが付き合ってるっていうウワサのこと。どうしてそんなことになってるの?」
と日向が訊き返した。
「そう言えば、おれも聞いたよ。そのウワサ。で、どうなんだよ、加藤? 本当のところ、付き合ってるの?」
どうだって良いだろ、と怜はそっけなく答えた。この男と話すことはないし、しかも怜の中では彼は今回のウワサの件に関する重要参考人でもあった。
「良いわけないでしょ。ウワサが本当だったら、加藤くん、二股かけてることになるんだから」
日向の反論に、グラフィティが、いや、これからおそらくグラフィティ・ゴシップという新たな名前がつけられるだろう彼が、
「加藤って結構モテるよな。この前、伊田と一緒にいたみたいだし」
耳障りな声で畳み掛ける。いい加減、怜はその声にうんざりしてきた。今こそ行動を起こすべきときだという気がした。いや、本当はそんな気はしなかったのだが、そういう気になっている振りをすることにした。そうしなければこの場が収まらないのならそうする他ない。
日向とグラがウワサの信憑性について話している中、怜はすっと立ち上がると少し離れた席で友だちと談笑している舞を呼んだ。少女が現れると、怜は、
「オレは五組の川名と付き合ってるから、小谷とは付き合うなんてことにはなるはずない。オレはどうでもいいけど、川名と小谷に失礼だから、そういうウワサをするのは止めてくれないか」
と直截に言った。怜の目は、グラフィティ=ゴシップに向けられている。
「おい、まるでおれがそのウワサを流したような言い方だな?」
グラフィティが剣呑な目を向けてきた。怜が首を横に振る。
「そんなことは言ってない」
「言ってるだろ! 今、そう言ったよな、こいつ?」
喋りながら興奮してきたグラ少年が、舞と日向に確認する。突然の大きな声に舞はひるんだが、日向はひるまない。平静に、
「いいえ、言ってないわ。ウワサをするのをやめてって言っただけよ」
と答えた。グラは納得いかない顔を作った。
「だとしたら、何で特におれに言うんだよ。クラス中のウワサなんだぞ」
「たまたまいたからでしょ。他の人が来てたら、その人に言ったわよ」
相手の興奮に当てられたように日向もいらいらした口調で答えた。彼はちっと舌打ちすると、
「おい、じゃあ、他の奴にも言いに行けよ。おれだけじゃなくて。教室内にはまだたくさんいるぞ」
と怜に矛先を変えた。うんざり感は面倒な気持ちに変わってきた。この男といつまでトークを楽しまなくてはいけないのだろうか。ちらりと机の上に視線を走らせると、怜の視界にプリントが入ってくる。
「そっちで皆に言っておいてくれ」
と怜がぞんざいに言うと、
「何でおれが?」
とグラ。答えない怜に業を煮やしたように彼は続けた。
「お前、やっぱりオレがうわさを流した張本人だって言いたいんだろ。証拠はあるのか?」
裁判をする気は怜にはない。
「無いのか。証拠も無いのに決めつけやがって。ふざけんなよ!」
がんと怜の机を蹴るグラフィティ。その拍子にプリントが一枚床に落ちた。それを拾おうとした怜の手が床と上履きに挟まれる格好となる。グラフィの足が怜の手を踏みつけていた。わりい、という悪意のある声が頭上から振る。手の痛みを感じながら体を起こした怜は、人を殴りたくなったのはいつ以来のことかぼんやりと考えていた。
「あ、あの、もうやめようよ。わたし、ウワサなんか気にしてないから。加藤くんも気にしてないなら、わたしが川名さんの所に行って、ウワサなんかデタラメだっていうことを言ってくればすむでしょ」
険悪なムードに舞がおそるおそると言った調子で割って入って来た。学年一位は、成績だけ良い訳ではないらしい。なるほど、それが一番現実的な解決策である。しかし――
「そういう話じゃないんだよ」とグラ。
「そうよ。どうして小谷さんがそんなことしなきゃいけないの。悪いのはうわさを流した男なのに」と日向。
この二人にとって、そんな解決策は何の足しにもならないようだった。
「今、男って言ったよな? 何で男だって分かるんだよ?」
グラが威圧するような口調で日向の言葉尻を捉えると、
「女の勘。多分、こういうウワサを流すのはひがみ根性丸出しのモテない男なんじゃないかな」
日向も彼を見ながら平然と言い返す。
「おい」
「別にあなたのことを言ってるわけじゃないわ。それとも身に覚えでもあるの?」
にらみ合う一触即発の二人に、
「もうやめましょう、ね」
と舞が割って入ろうとしたが、それは膨れ上がった風船に針を刺すような行為だった。
「うるせえよ! お前は机で勉強してろ、ブス!」
グラの口から強い声が上がった。
舞の目がショックで大きくなる。
一瞬後――
「……何してんの、加藤くん?」
日向がうさんくさそうな目を怜に向けていた。怜の手が日向の腕の手首の辺りを握っていた。
「賢の代わりだよ」
日向の目が苛立たしげに怜に向けられていたが、怜はそれを真正面から受け止めていた。彼女は深く息をついた。緊張していた少女の腕から力が抜けたのが怜には感じられた。
「とにかく、オレは川名と付き合ってるから、もし他の子と付き合うなら川名と別れてからってことになる。もちろん、小谷とは付き合ってない。ウワサを流した犯人がお前みたいな言い方したことは謝る」
少し大きな声で怜が告げる。騒ぎに気がついた周囲のクラスメートたちが聞こえるように言ったつもりだった。
「……分かったよ」
周囲の目を引く格好になって居心地が悪くなったグラフィティはそれだけ言うと、席に戻っていった。
「いつまで腕を握ってるの?」
と日向。それは目標が彼女の射程距離から逃れるまでである。グラが自分の席に戻ってこちらと十分な距離ができたところで、怜は彼女の腕を放した。
「賢の代わりだって言ったけど、賢だったら、女の子にあんなこと言うヤツあたしよりも先に殴ってるわ」
「それは倉木に殴らせないためだろ。このこと、あいつに言うなよ」
「なんでよ?」
「分かるだろ」
もし賢にこのウワサのことを話せばどうなるか。友人を大切にすることに一途な彼のことだ。友人に対して不名誉なウワサを流した犯人を見つけ、相応の対応をしようとするに違いない。時間と労力はかかるが成果は見込めない苦役を彼に強いることになる。それは避けたかった。
「悪いけど、賢には何でも話すことにしてるの。そうじゃないと、賢が何か隠してたときに責めにくくなるでしょ」
日向の答えは怜の予想していたものだった。にもかかわらず言ったのは、一言注意しておけば、日向の気持ちが冷め、賢に話すにしても十四年来の経験から上手い話し方をしてくれるだろうと思ったからである。
日向も怜の意図に気がついたらしい。一瞬、いまいましげな目を怜に向けたが、何も言わず、そのまま教室を後にした。
その場を離れるタイミングを逸したような舞が怜の前にいる。
「悪かったな。巻き込んで」と怜。
「もとはと言えば、わたしが軽々しく話しかけるからだよ。ゴメンね」
「クラスメートに話しかけちゃいけないって?」
舞は弱々しく笑った。彼女はどこか悄然としていた。その原因は怜には分かっていた。もともと怜が彼女を呼んだことによって起こったことである。やはり対応すべきだろう。
「あのさ、さっきの気にするなよ。小谷はブスなんかじゃないよ。可愛いよ」
怜は、できるだけ励ますような色を消し、事実を告げるような口調でかつ明るい声で言った。
舞の目が上がった。
誤解される危険を冒しての発言だということを彼女は酌んでくれただろうか。学年一位が伊達ではないことを信じるほかない。
「あ、ありがとう」
まっすぐな褒め言葉に、舞は恥ずかしそうな顔をしてその場を離れた。その様子からは、こちらの発言をどう取ったかは分からなかった。
予鈴が鳴った。
怜は椅子に腰を下ろした。慣れないことをしたせいで少し疲労していたが、グラフィと対決できたのは良いことだろう――途中から日向に選手交代させられたが。問題の解決には至らなかったが、少なくとも嫌がらせをしてくる人間に存在感を示せたのだ。環にはウワサのことを話しておくことにしよう。人づてに聞くよりは、直接カレシから聞くほうが良いだろう。
収穫のあった昼休みだった。怜は無理にでもそう思い込むことにした。そうでもしないと、宿題プリントが白紙のまま残っている虚しさに耐えられそうもなかった。