第79話:才女の誤算
前回の続きになります。
アウェーでの怜の奮闘振りをご笑覧ください。
古代ローマの偉大なる独裁官に倣って、
「アサヒ、お前もか」
と言ってやりたい気持ちになった怜だったが、よくよく考えれば、いや大して考える必要もなく、旭には怜に対する悪意などない。その小柄な総身は怜への善意ではち切れんばかりであり、彼女は単に疑問に思ったことを、その持ち前の天真爛漫さで表現したまでのことである。しかし実は、地獄への道は悪意ではなく善意で舗装されているのである。
国道並みに整備された道をどんづまりに向かって走らされる怜。無論、止めてくれる者などなく。奇妙に緊張した空気が怜を包んでいた。幼き者の邪気の無い、しかしだからこそ、困った問いに、どう応じるか。その期待が半ば。くだらない答えをしたら許さん、という威圧が半ばである。
「昨日の夜、みんなで言ってたんだよ。レイはプロポーズに来るんだって」
情景が目に浮かぶようである。からかう母、仏頂面をする父、きゃあきゃあと歓声を上げる妹たち、そして、頬を赤らめるでもなく何食わぬ顔で受け流す本人。にわかに、怜は全身に力が宿るのを感じた。夕食時の雑談のネタとして嘲笑され、それで黙ったままでは男がすたるというものである。
「結婚って大人にならないとできないんだよ」
といういかにも大人ぶったセリフでお茶を濁すことはやめにした。つぶらな瞳を好奇心でもってキラキラさせている旭を見ながら怜は、
「アサちゃん。タマキお姉ちゃんは、いつかきっと結婚するだろうね。そうして、お姉ちゃんと結婚できる人は凄く幸せだと思う。オレが結婚できたとしたら、オレも幸せだと思うよ。お姉ちゃんは素晴らしい人だから」
真剣な声を出した。嘘は言っていない。問いへの直接の答えではなかったが、これで納得してもらうほかないぎりぎりの所である。神妙に審判を待っていると、
「その時はよろしくお願いしますね、加藤くん」
優しい声が聞こえてきてほっとした。環の母は微笑むと、
「持参させられるものは多くはありませんが、ただ良い日本語だけは教えてありますので」
年の功と言うべきか、冗談のようでいて、全くの冗談にも聞こえない口調で続けた。
「レイとお姉ちゃんが結婚したらすごいなー。だって、レイがお兄ちゃんになるんだもん」
と怜の目の前ではしゃいだ声を上げる旭。怜にとっても凄いことである。なにせそうなれば、『お兄ちゃん』という言葉がこれまでとは全く異なった価値を持つことになるからだ。
「もし、タマキお姉ちゃんと結婚しなくても、マドカお姉ちゃんと結婚してね」
この不用意な発言には、すぐさま異議が飛んだ。
「ちょっと、アサヒ。どうしてわたしが出てくるの?」
テーブルの向こう側から怒ったような声がかけられたが、旭はきょとんとした顔で、
「マドカお姉ちゃん、レイのこと好きじゃないの?」
純真百パーセントの声を返した。ぐっと言葉に詰まる円。好きと言う言葉を軽く使えるほど大人ではなく、さりとて、嫌いと言って失礼を為すほど子どもでもない。常に静穏な雰囲気のある円が口を引き結んで心乱れた様子であるのを見て、怜は、案外こちらの方が円の本来の性質なのかもしれないと思った。
「もしタマキお姉ちゃんと結婚しなくても、マドカお姉ちゃんが結婚してくれたら、やっぱりアサヒのお兄ちゃんになってもらえるでしょ」
独自の論理を披露する妹に、円は反論した。
「どうしてあんたにお兄ちゃんを作るために、わたしが結婚しなくちゃいけないの?」
「いーじゃん」
「いいわけない」
「どーしてさ? どうせ誰かとはけっこんするんでしょ。だったら、レイでいいよ」
「加藤先輩はタマキお姉ちゃんと結婚するんでしょ?」
「そうならなかったときの話だもん」
円は少し肩を震わせていた。無茶なことを言い続ける妹に苛立ったのだろう。とはいえ、客の手前、力を行使するわけにもいかず、すっと立ち上がると、
「コーヒーでも淹れてきます」
と近くにいる母に告げて、和室を後にした。
「マドカお姉ちゃん、恥ずかしがってるんだね」
旭はうむうむと一人うなずいていた。確かに恥ずかしがってはいたかもしれないが、恥をかかされたという意識の方が強いだろう。後ほど開かれるであろう姉妹会談が無事に済むことを怜は旭のために祈っておいた。
「タマキお姉ちゃんは嬉しい? レイと結婚できたら」
旭は矛先をもう一人の姉に変えた。怜の背をまわって環と怜の座っている間に割り込んでそう訊くと、
「とっても嬉しいわ。でも、お姉ちゃんと結婚して、レイくんが幸せになれるかどうかそれが心配です」
いつものことながら全くの動揺なく平静な調子で答える環。
――自分の親の前でそういうことが良く言えるな。
とても真似できそうにない。
「レイはなれるって言ったよ」
「レイくんは優しい人ですから。お姉ちゃんを傷つけないようにしてくれたのかも」
「お姉ちゃんなら大丈夫だよ。だって、アサヒ、お姉ちゃんと一緒にいると楽しいもん」
「ありがとう、アサちゃん」
そう言って環は旭の頭を撫でたあと、怜に向かって微笑みかけた。怜もやけになって口角を上げた。うまく笑えていればお慰みである。微笑ましい中学生カップルから少し離れた、卓を挟んだ位置から、
「やれやれ、どうやら父抜きで話がぐいぐいと決まってしまったみたいだな」
沈黙を守っていた環の父が呆れたような声を出した。ファーストコンタクトですっかり警戒心を持ってしまった怜は、またぞろ何ごとか試すようなことを振ってくるのかと構えていたが、環の父は、
「加藤くん」
と改まった声を出すと、
「キミを信頼して娘を預けます」
柔らかな口調にして続けた。怜は姿勢を正した。さも娘の恋人であることを認めてくれたかのような発言だったが、それで有頂天になるほど、怜は単純ではないようだった。信頼とは、一方的にするものではなく、相互の間で自然と形作られるものである。それが分からないような人が、環の父親だとは到底思えなかった。とすれば発言の意図は別にあると見るべきである。
これが最後の試験になることを願いつつ、怜は、温和な表情をした環の父に向かった。
「今日を限りに、高校入試が終わるまではタマキさんとお会いしないようにします」
中学生の勢いだけの賢しらな発言だと取られないように力みは消したつもりである。
満座が水を打ったように静まり返った。ちょうどコーヒーを淹れて現れた円が、盆を持ったままぎくりとして立ち止まった。
環の父は何とはなしに顎をかいた。
「今、わたしは娘を預けると言ったんだが」
「その前に、『信頼して』とおっしゃいました」
「分からないな」
「ご信頼に応える唯一の方法だと思います」
冗談だと思われないように、怜は腹から声をだした。
環の父は少し身を乗り出すようにした。
「本気ですか?」
「はい」
「キミ自身は娘と会わなくても平気なのか?」
「会うことよりも大切なことがあります」
環の父は苦い顔になると、怜からふと視線を外して、その隣に目を向けた。
「タマキ、お前はそれでいいのか?」
「はい」
環の声は透明で感傷の色はついていなかった。
「高校入試まであと何ヶ月もあるんだぞ?」
「たとえそれが何ヶ月ではなく何十年であっても、怜さんが言うならその通りにします」
娘の全く澱みない声を聞いて、父は痛みに耐えるように目を瞑ると、ふうと大きく息をついた。やがて目を開いた彼は、ぺちりと頬を叩き、
「まったく……本当に似た者同士だな」
呆れたようにそう言ったあと、
「加藤くん、どうやら娘は君のことが心から好きなようです。娘に恨まれたくない、会ってやってください。高校入試については、お付き合いにかまけたくらいで失敗するようであれば、所詮はそこまでの娘ですので、キミが心配することはない。むしろ、キミの受験の妨げになるようであれば、いつでもお見限りください」
そう続けて笑みを見せた。からりと晴れたような人好きのする笑みで、おそらくそれが本来の顔なのだろう、と怜は思った。どうやら試験にはパスしたようである。怜は頭を下げた。
「本当にプロポーズみたいね。自分の時のことを思い出すなあ」
その場の緊張を解すように、環の母が冗談めかした声を出した。あまりいい思い出ではないのだろう、彼女の夫が慌てた振りで妻を見た。ふざけあう両親の間を縫って、円がコーヒーを給仕した。
それから一時間ほど、ようやくリラックスした雰囲気で歓談したり、未来の妹の相手をしたりして過ごしたあと、怜は環の家を辞した。別れ際に玄関で、ちょくちょく来てください、と環の父から懇ろな言葉をかけられた。多少認められたとしても、男親が娘のカレシに向かって持つ鬱屈した想いがさっぱりとなくなるわけではない。怜は、内心今回の件で間違いなく足が遠のくだろうと思いながらも、ありがとうございます、と表面だけは繕っておいた。
「本気だったでしょ」
門から外に出たところで、見送りに来ていた環が唐突に尋ねてきた。
「何が?」
「タマキさんと会わなくします云々のくだりです」
「冗談で言っていいことじゃないだろ。それに、逆の立場だったら、お前も同じことを言っただろ」
「どうかしら」
「言ったさ」
曇り空が切れて降ってきた光の下で、環は少し笑っただけで答えなかった。代わりに、
「父のことは謝ります」
と言って軽く頭を下げた。父の行為をその子が評価するのは僭越というものである。そんなことが分からないような彼女ではないとすれば、今の謝罪がどういう意味を持つのか、あまり深く考えたくなかったが、
「実は今日の父の振る舞いにはわたしの責任もあるんです」
会見中にちょっと思ったことを環は追認してくれた。
「……怒った?」
おそるおそるといった調子の声だったが、半月を少し膨らませたような涼やかな瞳には悪びれた色はない。
怜は首を横に振った。環がしようと思ったことであれば、おそらく何らかの必要性があったのである。父にカレシを試させることに、茶番を見る楽しみにする以外にどんな必要性があったかは定かではないが。
「で? あんなんで良かったのか?」
「レイくん、父に気に入られたみたい」
「あれで? 終始プレッシャーを感じたんだけど」
「父は父親を演じられる人ですから」
「演技だけでもないだろ」
「ですけど、演技の割合は高いと思います。円や旭のときはもう少しそれは低くなるでしょうね。父にとっても良かったわ。今回の件で、妹のときの予行演習ができたでしょうから。レイくんより難しい人もそうはいないでしょうし」
「タマキ」
「はい?」
怜は、夏休みの祖父母宅への招待を取り下げる旨、環に告げた。
「え? どうして?」
怜は眉を顰めた。環がまともに困惑したような顔をするのを初めて見た。
「タマキの親父さんに信頼してもらえるような行動を取りたい。それに、そもそもがオレが軽率だった。お前を親戚の家に連れて行くなんていうのは、お前の親の立場に立てば気持ちの良い話じゃない」
「多分許可は得られると思うんだけれど」
「それは関係ない。今日の件で事情が変わった」
怜は断固とした声を出した。厄介事の待つところへ環が一緒に来てくれればどのくらい心強いか知れないが、逆に言えば心一つのことである。彼女に来てもらわなくても何とかなるだろう。今日のことより難しいこともそうそうはないだろうし。
「……タマキ?」
全く簡単な筋の話だったが、それを拒むかのように環が長い睫毛を伏せているので、怜は驚いていた。彼女はしばらくそうしていたが、やがて、分かりました、と澄んだ声で答えた。
「レイくんの言うとおりでしょうね」
意を決したかのような顔で言う環に、ますます分からない怜。そんなに力む話でもない。
「こっちから誘った話なのに悪いけど」
怜が一応謝っておくと、環は首を横に振って黒髪を揺らした。そのあと、
「今日は本当にありがとう、レイくん」
それだけ言うと、スカートの裾を翻して体を反転させ、門内の人となった。常に無いどこか慌しい所作である。環は少し縁石を渡ったのち振り返って手を振ってきた。
怜はそれに応えると、環の機嫌の急激な推移に首を捻りつつ、川名邸をあとにした。