第78話:埋伏する意志
前回の続きでーす。
ムードメーカー。それは場の雰囲気を盛り上げる人間のことを指す。その人がいるだけで、その場にいることが幸せになるようなそんな人。加藤家ではその役回りにはもう何年も誰も就任していなかったが、川名家にはいたようである。
「レイっ!」
一声上げて小さな腕を怜の首に回し横から抱きつくようにする旭。彼女の声音と一挙手でもって、空気が華やかな色を帯びたようだった。
「アサヒ、はしたない真似はよしなさい」
環の母がすかさず注意をしたが、逆効果であったようで、旭は一層腕を強く怜の首にからませた。さらさらとした髪が怜の頬に触れた。
「ごめんなさいね、加藤くん。食事中だけは大人しくさせていたんだけど」
環の母が申し訳無さそうに言葉を継いだが、怜としては、もてなしの気持ちの無い中年男性の相手をするよりは、好意をあらわにしてくれるぬばたまの髪の乙女の相手の方がどんなにいいか知れない。とはいえ、抱きつかれているままであるのも格好の良いものではないので、旭の肩を軽くタップした。
旭は未練ありげな顔で体を離すと、
「本当はね、レイの隣に座りたかったんだよ。でも、ご飯食べてるときはお父さんとお母さんのそばにいなさいって言われてさ」
そう言って口を尖らせた。
「レイに、あーん、てして食べさせてあげたかったのにぃ」
声に悔しさを滲ませる旭。小学校でそんなことをするのが流行っているらしい。それはともかくとして、怜は、旭がこの場を連れ出してくれることを心から期待した。非礼の風雪には十分に耐えた。そろそろ歓迎のお日様の時間であろう。旭がお人形遊びなり、カードゲームなり、美少女が活躍するアニメを見ることなりに誘ってくれるのを待っていると、
「聞いて、レイ」
怜の希望に反し、旭はまずトークを楽しむことを選択したようだった。
「この前のじゅぎょうさんかんの日にね、マドカお姉ちゃんが来てくれたんだけど、来た人の中でね、一番かわいかったんだよ。みんなからね、『アサちゃんのお姉ちゃんが一番可愛いね』って言われたの」
「アサヒ、先輩に恥ずかしいこと言わないでよ」
卓を挟んで斜向かいの位置に座っていた円が声を大きくして、学校での物静かな雰囲気と異なる面があることを示した。
「なんで恥ずかしいの?」
「当たり前でしょ。周りはみんなオバサンだったんだから。その中で可愛いって言われても微妙でしょ」
旭は、うーん、と小首を傾げた。理屈が良く分からないらしい。
「アサちゃんは、何の勉強が好きなの?」
怜が話題を変えて、思考の沼から少女を掬い上げてやると、旭は、国語、と元気良く答えた。
「学校のべんきょうも好きだけど、お家で教わるのも好き」
「お家で?」
「うん。お母さんが教えてくれるんだよ。この前教わったのはね……」
旭は視線を虚空に泳がせ、思い出す様子を作ると、おもむろに、
「おもいつつ、ぬればやひとの、みえつらむ……」
と和歌を詠み出した。小学一年生の時から和歌を暗誦させるとは典雅な家である。怜がちょっと気おされていると、旭は下の句を思い出せないようで、部屋の入り口近くに座る母に助けを求めた。
「夢と知りせば覚めざらましを」
すぐ近くから聞こえてきた声に、旭はびっくりしたように怜を見た。
「レイ、すごい。どうして分かるの?」
「アサちゃんより年上だからです」
素直な感嘆が心地よく、怜は気取って答えた。旭は自尊心を傷つけられたかのように、むう、と口をすぼませるようにした。
「じゃあ、これ知ってる? うたたねに――」
「恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき」
「じゃあさ……」
「いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る?」
旭は可愛らしい口元をぽかんとさせてまじまじと怜を見つめた。怜は、今の三首の和歌が、小野小町という人の有名な作であることを、旭に説明した。
「加藤くんは和歌にお詳しいの?」
環の母が目を輝かせているのを見て、怜は慌てて手を振った。高校の教師をしていた祖父に昔暗誦させられたのを覚えていただけである。詳しい解釈などができるわけではなく、話題が和歌などにシフトしたらついていけるほどの知識はない。
「タマキがいつも言ってるんですよ。加藤くんはとても博識で遍く万象に通じているって」
にこやかな環の母に怜はぎこちなく笑い返すしかなかった。隣に整然とした姿勢で座っている少女は、カレシの美点を嬉々として語るような乙女チックな子ではない。にわかに、怜の胸に嫌な想像がよぎった。この会見に何らかの形で環の意志が働いているような気がしてきたのである。まさか味方の中に敵がいるなどということがあるだろうか。
――そんなバカなことがあるか。
と一笑に伏してカノジョを信じきる……そういうことができない所に怜の不運がある。怜は、環の父に向けていた嫌悪感を一部、環に振り分けた。この会見のハードルを無駄に上げてくれただろう彼女にはその資格がある。
怜がこの場で安心して好意を寄せることができるのは、目前にいる六歳の少女のみだった。満面に笑みを湛えた旭は、ユカイな小学校生活について、立て板に水で話し始めた。
外はいまだ薄暗かったが、室内の雰囲気は旭のおかげですっかりと晴れた。座には笑い声が溢れた。怜は、旭が鈴を転がすような声で一生懸命話をするのにしばし聞き入っていた。
「本当にアサヒは加藤君のことが好きなんだな」
旭の話が途切れたときに、不意に環の父が会話に入って来たので、怜はどきりとした。ゆるやかに胡坐をかいた状態から発せられたその声は朗らかなものであるが、一番可愛がっている末娘が自分以外の人間にじゃれついていたら、内心穏やかではいられまい。今度は何を言い出すのかと怜はちょっと身構えたが、特に続く言葉はなかった。
旭は、うん、と大きな声を上げると、
「レイのことは大好きっ!」
と言って今度は背から抱きついてきた。
「レイは? レイはわたしのこと好き?」
怜の肩に顎を乗せるようにして顔を出して訊いてくる旭に、もちろん、と答えてやりたかったが、満座、特に彼女の父の前で愛の告白もできず、曖昧にうなずくにとどめた。
「どのくらい?」
無邪気な声で続ける少女に、怜は、え、と間の抜けた声を出した。
「どのくらい好き?」
まさかこのタイミングでこの難問を突きつけられることになるとは思いもしなかった怜は、言葉に詰まった。この前同級生から問われた問いであるので、その時の答えは覚えていたが、まさかそれを小学一年生に答えるわけにはいかない。
「『すごく』とか、『とても』とかは無しね」
旭は、月並みな表現を使わないように釘を刺してきた。なかなか侮れない。怜が苦慮していると、空気が心地よく揺れた。
「アサちゃん。人に訊く前に、自分が先に言ってあげたほうがいいんじゃないかな」
今日初めて聞いたカノジョの声はカレシをサポートするためのものだった。
怜の体が軽くなった。身を離した旭は、ちょっと考える素振りを見せたあとに、
「お父さんとお母さんとタマキお姉ちゃんとマドカお姉ちゃんとおんなじくらいすき」
そう答えてにこっとした。
怜は心底から感心した。これ以上の模範解答は無いのではなかろうか。家族と同程度の愛とはすなわち無限の愛である――無論、家族にもよるが。また、そう答えることによって、自分が家族愛を持つ人間であることも暗に示すことができる。
「へんな顔してどうしたの、レイ?」
まともに驚いて固まってしまった怜を、旭は怪しげに見ていた。怜が、感動した旨を伝えると、旭は瞳をぱちくりさせた。
「アサちゃんは凄いよ。かなわないな」
と怜が真面目に続けると、何で褒められているのか分からないながらも、旭は喜びで頬を上気させた。さて、今度は怜の番である。模範解答の後にどう答えれば良いのかと、怜が頭を悩ませていると、
「アサヒ、あれをレイくんに見せるんじゃなかったの?」
驚いたことに再び環が援助の手を伸ばしてきた。先ほどよぎった疑念が濃くなった。どうやら、環のことをカレシの危地を救う殊勝な心がけの女の子、という評価をするには彼女と少々長く付き合いすぎたようである。旭がタッタッと和室を出て行くときに、怜は環と目を合わせたが、彼女は澄ました瞳でこちらを見返しただけだった。
ちょっとして帰って来た旭の黒髪にコサージュのついた純白のヘアバンドが飾られていた。先週、妹の土産にと、環が買ったものである。
「すごく良く似合ってるよ、アサちゃん」
言ってやると、旭は溢れんばかりの笑みを見せた。そのあと、
「レイのこと好きになった理由知りたい? お父さん?」
くるっと体の向きを変えると、父に向かって危険な質問をした。
「レイはね、タマキお姉ちゃんと同じ感じがするのっ」
父が面白そうな顔でうなずくのに合わせて、旭は高らかに宣言した。彼女の純粋無垢な目が何を捉えたのかしれないが、見間違いということもある。とても納得が行かない怜の真向かいから、
「どんな所が?」
環の父が突っ込んだ。うーん、と小さな腕を組んで考え込む旭。しばらく、うんうんと唸っていたが、答えは出なかったようである。分かんない、と潔く諦めてから、また怜に身を寄せると、
「でも、同じ感じがする。レイといると、タマキお姉ちゃんと一緒にいるような感じになるんだもん」
そう言って歯を見せた。まあ、感じ方は人それぞれである。怜は、旭の感性を尊重した。
「そう言われると確かにキミたちは似てるな」
環の父が、幼い娘と意を同じくした。母親の方も、何かに納得したような顔をしている。姉の円は、どこか真剣な硬い表情でじっとこちらを窺っていた。小学一年生の直感に大人の判断まで加えられて、怜は戸惑いを覚えた。彼女と似ている所などないことを一々数え上げて抗弁してやろうかどうか思案していたら、半袖がくいっと引かれた。
「レイはタマキお姉ちゃんと結婚するの?」
現れたときと同様、全く唐突に、旭はその場の雰囲気を変えた。
ほぐれて柔らかくなった空気に張り詰めた息苦しいものが宿った。