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プラトニクス  作者: coach
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第77話:試練の間へ

前回の続きになります。

怜に次々と襲い掛かる恋の試練。

ご堪能ください。

 玄関が開くまでがやけに長く感じられた。怜は、開いたドアからいつかのように旭が駆け寄って来てくれることを密かに期待した。あのときは、彼女のおかげで良い具合に緊張がほぐれ、うまく挨拶ができた。きらきらした瞳に慕色を浮かべて見上げてもらえれば今回も勇気付けられるだろう。

 玄関が開いた。少しして、

「こんにちは」

 門の向こう側からかけられた声は、期待していたものよりかなりおとなしやかなものだった。紫陽花色のワンピースを身に纏った少女は、肩まで真っ直ぐに流れる黒髪をかすかに揺らして頭を下げた。

「こんにちは、マドカちゃん」

 当てが外れた怜だったが、あまり好かれていないと思っていた少女が迎えに来てくれてそれはそれで少し胸が温かくなるのを感じた。門内に入った怜は、今日の先行きを占うつもりで、

「お父さんってどんな方?」

 と尋ねてみた。今しがた怜がくぐりぬけた通用口を閉めた円は、基本的に優しい人だと思います、と抑揚の無い声で言って先に立った。

「でも、例外はある?」と彼女に続きながら怜。

「多分。見たことはありませんけど」

「じゃあ、今日はマドカちゃんにとって記念すべき日になるかもしれない」

「父を怒らせるつもりですか?」

「まさか。オレにはそんな気はないよ」

 ただし、こちらの気持ちはあちらには関係がない。

「がんばってください、先輩」

 え、と驚いて怜が立ち止まると、円が怪訝そうに見てきた。

「マドカちゃん、今何て?」

「ですから、がんばってください、と。それしか言ってませんけど……何か?」

 目を細める円に、怜は慌てて首を横に振った。まさか応援の一言をもらえたことが嬉しかったとは言えない。怜は幸先の良さを感じた。 

 ゆったりとした玄関で、今度は環の母が出迎えてくれた。怜は、招待の礼を述べて、手土産を渡した。

「あらあら、ご丁寧に」

 と微笑む環の母。その柔和な笑顔に更に緊張がほぐれた怜だったが、母の後ろに控えた少女の姿を認めると眉をひそめた。屋外の薄暗さが染み入った玄関を明るくするような光を纏った彼女はいつものように微笑を浮かべながら立っていた。特別おかしな所はないが、怜が気になったのは、

――何で制服なんだ?

 ということである。環は白いブラウスと学校指定のスカートを身につけていた。まるで怜の正装に合わせるように。この時点で、怜の緊張はきれいさっぱりと雲散した。彼女は、道化を演じるカレシの舞台を整えるために、自分自身も舞台衣装に身を包んだのである。明らかにこの状況を楽しんでいる。怜は、その不真面目さに非難の目を向けてやったが、環は真面目な顔を崩さなかった。

 通されたのは和室だった。十畳ほどの広さで庭が一望できるようになっている。厳粛な顔をした四十代後半の男性が端然とあぐらをかき、卓についていた。環の父である。広い部屋を狭くするような圧迫感を醸し出していたが、その横にちょこんと少女が座っていて、彼女の愛らしさが父のプレッシャーをかなり削減していた。旭は、怜を見て一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに常に無いような難しい顔になった。

 環の母が紹介してくれるのに合わせて、怜は和室に入ると、入り口近くの畳の上で膝をついて名を告げた。

「やあ、よく来てくれました」

 第一声は温かみもあって悪いものではなかったが、

「そんなところではなんだから涼しい方にいらっしゃい」

 その言葉で、彼の意図が読み取れたような気がした。「涼しい方」といっても、空いている座はいくつかあって、そのどれを指してくれるわけでもない。怜は、失礼して立ち上がると、畳の縁を踏まないようにして壁際を進み、床の間を背にした座へと向かった。いきなり座布団に座らないようにして、その前の畳で膝をつくと、招待の礼を述べたのち、

「環さんとは今年の一月からお付き合いさせていただいてます。ご挨拶が遅れ、申し訳ありません」

 と言って頭を下げた。ちょっとやりすぎたかと思ったが、あっちがその気なのだから是非もない。付き合うしかないだろう。座布団を勧められた怜が座について、姿勢を正すと、環の父の何とも微妙な顔が見えた。

「娘から君のお話をよく聞いてます。お世話になっているようだね」

 怜は恐縮した様子を見せた。言葉の端に陰影がある。今の座を勧めて怜を試した件といい、この対面が単なる娘のボーイフレンドとの会見以上の意味があることを、怜は理解した。できるだけ中学生らしく――世間が中学生に求める「らしさ」を演出して――振舞おうと思ったが、どうやらそれで済ませてくれる気はないらしい。怜は、折角ほぐれた緊張を自ら固め直した。

 円がテーブルに和食の膳を運んできて、会食ということになった。怜の隣には、環が腰を下ろしている。

「天ぷら以外はほとんど円が用意したんですよ」

 と娘を褒める環の母の言葉に、感心の声を上げた怜は、全員で食前の挨拶を済ませたのち、箸を手に取った。一口、二口食べてから、怜は円の手際を褒めた。円は、ありがとうございます、と静かに答えた。言い含まれているのか、にぎやか担当の旭がもくもくと膳に向かっているので、座はしんとしていた。こちらから何かを話すような雰囲気でもないので、怜も料理を楽しんでいると、どうも自分の手元に視線が注がれているのを感じた。

――この膳はさっきの続きか。

 試験その二である。怜は知っている限りの作法で箸を進めた。焼き魚は表側を食べてから中骨を外し裏側に向かうようにし、盛り付けられてある天ぷらは手前から取って食べ、刺身を食べるときはしょうゆの小皿を手に取った。怜は祖母に感謝した。食卓の作法は祖母に習ったのである。

「加藤くんはどういうことに興味を持ってますか?」

 試験その三。いよいよ面接試験じみてきた。地球環境問題に今一番の関心がある、とでも答えてやろうかと思ったが、突っ込まれてもまずいので、怜は自分の領域にあることを素直に答えることにした。

「ほお、シェイクスピア?」

 環の父がちょっと意表を衝かれたような顔をした。

「『ロミオとジュリエット』くらいしか分からないが、実を言うとそれすらはっきり読んだことがないんです。どういうお話か一つ講釈をお願いできませんか?」

 怜は、家の反対に遭い想いを遂げられない一組の男女が、ちょっとしたすれ違いから最後には死という結末に至る悲しいラブストーリーの筋を話した。環の父は、ふむふむとうなずいていたが、聞き終わったあと、

「結局、シェイクスピアはその話で何が言いたかったんだろうか?」

 と訊いてきたので、今度は怜が驚かされる番だった。驚きが嫌悪へと変わるのにそう時間はかからなかった。普通に読む分には、『ロミオとジュリエット』は単なる美しい悲恋である。もし今日初めて話の筋を聞いたのならば、それで納得するはずである。にもかかわらず、その話を作った意図まで訊くということは、よほど物事を突き詰めて考える人であるか、もしくは……この話をよくよく知っている人であるということだ。

 少し相好を崩している環の父の顔を見ながら、怜は覚悟を決めた。空とぼけて分からない振りをするのも一つの手だったが、それをした場合、あとからどう環に言い訳しようかと考えてしまったのである。

「『ロミオとジュリエット』には、前近代の『家』制度から個人を解放したい、というシェイクスピアの願いが込められているのだと思います」

 怜は、はっきりとした声で答えた。

「シェイクスピアの時代、個人は『家』に隷属していて結婚相手を自由に選ぶことはできませんでした。『家』に反抗するロミオとジュリエットという若者たちを描くことによって、そのような『家』制度に一石を投じたかったのではないでしょうか」

 説明を追加すると、環の父の顔に淡い影がよぎったように見えたが、それは一瞬だけのことで、さっと笑顔になった。

「なるほど、よく分かりました」

 いっそシェイクスピアの他作品について滔々と講義を始めてやろうかと思ったが、さすがにそれは控えておいた。自分ひとりならともかく、むきになって子どもっぽい真似をして隣の少女に恥をかかせられない。

 その当の彼女は今日はまだ一言も発していなかった。さすがの環も父の前では大人しく振舞うんだな、で終わらないほどには怜は環のことを理解しているつもりだった。彼女が沈黙を守っていることには何らかの意図があるような気がした。

「他にはどんな本を読むんですか?」

 怜はあまり本は読まない旨、正直に答えた。適当なことを答えて、先のように突っ込まれても面倒である。

「受験生でもあって中々忙しいから本を読む時間もあまり無いでしょうね」

 なかなか会話の誘導が巧みな人である。怜は皮肉な気持ちで感心しながら、当然続くはずの質問を待った。

「加藤くんはどこの高校を考えているんですか?」

 怜は、環さんと同じ高校です、と答えてからちょっと後悔した。まるで環が行くからそれにくっついて行くというように聞こえたかもしれない、と思ったのである。とはいえ、わざわざそうではないことを断るのも格好の良いものでもないので、言い切ったままにしておいた。

「とすると、加藤くんもかなり成績がいい?」

 怜が半分より下の順位であることを告げると、環の父はちょっと考え込むような顔になって、

「じゃあ、これからが頑張り時だね。一心不乱にやれば何ごともうまく行くでしょう」

 励ましのような言葉をかけてきたが、怜にはその裏の意味が読めたような気がした。

「女の子と付き合ってる場合じゃないんじゃないのか」

 という内心の声が聞こえてくるようであった。怜は挑発には耐えたが、いい加減、気持ちが冷えてくるのを感じてもいた。娘のボーイフレンドがどういう人間か見定めたいという気持ちは分からないでもない。しかし、このような小細工を弄する必要があるのだろうか。服装を整えて、手土産を持参して、怜としては礼儀を尽くしたつもりである。礼を尽くした者に対して、三十も年が上の人間がする対応がこの程度なのだろうか。

 会食が終わったあとに、お茶の時間になったのだが、試験はなおしつこく続いたようだった。日本茶が蓋付きの茶碗で出された。怜は、さすがに馬鹿馬鹿しくなってきたが、もし同じことを隣の少女がされたら、と考えて心を落ち着けた。環だったら為すべきを平然と為すだろう。怜は、作法通り、左手を茶たくに添えて、右手で蓋のつまみを持った。蓋の裏側についたしずくが茶碗の中に入るようにゆっくりと蓋をかたむけて、蓋の裏を上向きにして手前に引いてから、茶たくの右奥に置いた。飲み終わってから、逆の順で蓋を元に戻す。

 こんなことで満足してもらえるならお安い御用である。そう思い切れない所に、まだまだ自分には子どもっぽいところがあることを怜は認めた。とはいえ、客を気まずくさせるような所作が大人のそれであるとも思えないが。

 お茶も済んだわけであるし、会話が途切れたところを見計らって失礼しようか、と思っていたところ、不意にがたっという音がして長方形の卓が揺れた。

「もうご飯食べたからいいんだよね、お母さん?」

 明るく高い声が沈鬱な空気を一打ちして、ついで畳が軽やかに踏まれる音が聞こえたかと思うと、怜は横から衝撃を感じて危うく倒れそうになった。女の子特有の甘い匂いが鼻先を掠めた。怜は旭のくりくりとした瞳と向かい合っていた。

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