第76話:プロポーズ大作戦
読者様に心よりの感謝を。
今回は怜のお話です。
梅の実を濡らす雨が世界に優しい音を響かせた朝、目を覚ました怜は、もう一度眠ろうかどうか考えた。習慣とは恐ろしい。休日の土曜日であるにも関わらず、枕元の時計は六時を指している。いつもの起床時刻だった。
「土日でも平日と同じように起きてください。土日にリズムを崩すと、月曜日がきつくなります。憂鬱な月曜日を送って、一週間のうちの一日を無駄にしたくないでしょう?」
不意に学習トレーナーの冷静な声がどこからともなく聞こえて、怜はため息をついた。二度寝もままならぬ身の上に、しかし同情を寄せてくれる者はいない。怜はベッドから出ると、机の上にあった英単語カードを手にして、階下に降りた。洗面を済ませ、薄暗いダイニングでトーストを焼き始める。父母も妹もいまだ夢の中である。
焼きあがったトーストにバナナ、オレンジジュースという優雅な朝食を取りながら、怜は単語カードをぺらぺらと繰った。時々何でこんなことをやっているのだろうか、と不思議に思うことがある。やりたくない、ということではなくて、やっていること自体に違和感を感じるのである。無論、高校入試合格のためにやっているわけだが、では、高校に入ること自体は何のため?
突き詰めて行けば人生自体が何なのか、という壮大な話になってしまって、こうなると単語の記憶などというちょこちょことした作業などできなくなってしまうので、あんまり考えないようにしているのであるが、今朝のような静かな時間には知らず思い浮かんでしまうのだった。
「この世界にいることがひどく他人事のように思えるときがあるの」
とは付き合っているカノジョの言だが、分かるような気がした。ただし、彼女ほど世界から距離を取っていない自分を怜は感じてもいた。
例えば、その彼女。彼女に心魅かれる自分がいることは否定できない事実だが、一体、彼女のどこにそんなに魅かれるのかと問われると答えるのは難しい。相対していると彼女の中に美しさを感じて、そしてその美は確かにかつて見たものなのである。でも、いつ、どこで? その記憶は無窮の過去の彼方にある。
そういう不思議がこの世にあるということを自分はそのまま認めているのに対して、彼女はおそらくそういう不思議を『無いこと』にしているのではないか、と怜は感じていた。日常に不思議が在ることを認めてはいても、それを見ないようにして生きているのではなかろうか。無論、それは単にその人の気質の問題であって、どちらが良いというものでもないが。
「あたしにもパン焼いて、お兄ちゃん」
パジャマ姿の妹があくび混じりに現れて、怜はもの思いから醒めた。反射的に席を立つ自分が哀れである。
「パンくらい自分で焼け。オレはお前の小間使いじゃない」
「ちっちゃいなあ」
「何?」
「器がちっちゃいって言ったのよ。そんなことじゃ、川名先輩に嫌われるよ。もともと先輩とは不釣合いなんだからさ、せめて心くらい広くないとね」
都は冷蔵庫に手を伸ばすと、中からペットボトルの水を取り出して、ごくごくと喉を鳴らした。妹とは天が課した試練である、と自分に言い聞かせる怜。この試練を乗り越えればきっと強い己が得られるはずだと期待しつつ、食パンを二切れトースターに入れる。
「あと、紅茶ね」
更に兄の尊厳を踏みにじった妹は、さっさとリビングに行って、テレビをつけた。妹がいて良かったと思える唯一のことは、彼女に比べれば他の女の子がカワイク見えるということである。
「ブルーベリージャムとピーナッツバターでおねがーい」
怜は焼きあがった食パンにバターナイフでぺたぺたとジャムを塗ってやった。休日の朝に、妹の給仕をする兄。しかも自分の食事の途中にである。こういう兄がいるから、ああいう妹ができてしまうのだろうか、とちょっと自分の責任を感じてみたりした怜だったが、頭を振ってその不届きな考え方を追い払った。彼女の行為に責任を取る権利を持つのは、当の彼女自身だけである。
「あ、そーだ」
「今度は何だ? 肩でも揉むか?」
「今日アレでしょ。プロポーズの日。頑張ってね、お兄ちゃん」
誰にも結婚を申し込みに行く予定などなかったが、確かにその気分を味わうことはできるだろう。付き合っているカノジョの父親に会う日である。以前、カノジョの母には挨拶をしたことがあるが、母と父ではまた別物だろう。蝶よ花よと育ててきた愛娘に言い寄ったロクでもないガキに、果たして男親はどういう態度を取るのだろうか。
「父さんは初めからお母さんのお父さん――つまり、お前達のお祖父ちゃん――には好意を持たれていたみたいで、終始和やかな雰囲気だったな」
とは、息子の大事を知った父が昨夜かけてくれた、ちょっと役に立ちそうにない参考意見だった。環の父に挨拶しに行くということを公にしたのは当の怜自身だった。勿論そんなことは言いたくはなかったのだが、手土産のための軍資金が必要だったのである。
「子どもの癖に変な気を遣うのはやめなさい。可愛くないと思われるわよ」
母がたしなめるように言ったが、怜は自身が可愛いと思われるような人間かどうかは知っているつもりである。十四年生きていればそのくらいのことは分かる。可愛らしさで勝負ができないのであれば、他の点で魅力をアピールする必要があるだろう。力説した怜は、渋る母に出資してもらい、川名家攻略の一助になるアイテムを手に入れた。
さて、父がしてくれた話であるが、男親が娘の連れてきた男に対して好意を持つとしたら、その男親が余程の人格者であるか、娘に執着がない場合かのどちらかだろう。怜は、おそらくその両方が理由だったのだろうと思ったが、母の前である、さすがにそんなことは言わなかった。そもそも、プロポーズの時のことなど聞いても仕方がないのだが、父としても母の手前、自分が初めて付き合った女の子のその父親に紹介された時のことを話す訳にも行かなかったのだろう。
「じゃあさ、わたしがカレシ連れてきたらどーする、お父さん?」
ほんのたまにだが、妹も役に立つことがあるものである。興味を持った怜の前で、父が難しい顔をして唸っていた。
「どういう人だったら好意を持つ?」
何とも答えようがなく考え続ける父を見ながら、怜は覚悟を新たにした。都でさえ父から愛されているとすると、環がどのくらい彼女の父から愛されているかは推して知るべしである。彼女のボーイフレンドはおそらく、ひとかけらの好意を持たれることもあるまい。
「お兄ちゃんがこの世に存在する意味が今日こそ分かった気がする」
ティーカップを空にして朝食を取り終えた都がテレビを消して兄の方を向いた。
「わたしに美しい姉をもたらす為にお兄ちゃんは生まれてきたのよ」
彼女は、天から啓示を得た預言者のように自信たっぷりに言うと、自分の言葉にうんうんと満足しながら、リビングを出た。
忽然と人生の意味を、いやむしろ無意味を悟らされた十四歳の少年は、重苦しいため息をつきつつ、リビングのテーブルに置き去りにされたパン皿とティカップを片付け始めた。父はともかくとして、妹にカレシができたら、きっと自分は諸手を上げて歓迎するだろうと怜は思った。深い同情の念を添えて。
昼前までは普段通り塾講師から課された課題をこなして時を過ごした。環の家には昼頃に行くことになっていた。整えた服装は以前彼女の家に行った時と同じく、制服のズボンと学校指定のYシャツだった。違うのは、Yシャツが半そでになっている所だけである。
「お兄ちゃん、だっさ〜い」
ファッション評論家の妹にお墨付きをもらった怜は、外見と同様に中身も格好をつけたり繕ったりすることはやめようと思った。小細工はやめ誠心でことに当たるのみである。人事を尽くし天命を待て。
息子の成功を祈る生温かい父母の目に見送られて、菓子袋と傘を提げて怜は家を出た。雨は止んでいたが、空は暗くいつまた降るともしれない気配である。アスファルトから生ずる湿気が肌にまとわりついてくるようだった。
天気が悪いためか休日でありながら人通りの少ない街路を歩いていくと、道の果てに、瀟洒な洋風の二階建てが見えてきた。落ち着いた外装にバルコニー。門前から玄関までに庭が広がっており、植えられた樹木や芝には玉のような滴が落ちていた。
怜は少し緊張してきた自分を感じていた。ここから先は、悪意が轟々と渦を巻く空間である。しかも、教室でたまに受けるような謂われない悪意ではなく、正当な悪意。正義は彼にあり、抵抗はできず、ただ耐えるしかない。
怜は深呼吸すると、呼び鈴に指を伸ばした。