第75話:仲違いの利点
いつもありがとうございます。今回でいったん宏人と志保の話は終わります。と言っても、すぐにまた再登場の予定ですが。では、第75話、お楽しみください。
「……おはよう、倉木くん」
そう言って志保は眼差しを下げた。
「な、何してんだよ、ここで?」
意外すぎてそれしか言葉がない宏人の後ろから、
「あれえ、どうしたの、シホちゃん。もしかして、ヒロトを迎えに来てくれたの?」
姉のおそろしくわざとらしい声が上がる。やけに笑顔だったはずである。気のある女の子に迎えに来られてウレシハズカシうろたえる弟。そういう茶番が見られると思えば、笑みもこぼれるというものである。どうやら志保が今ここにいる件に姉が関与していることが理解できた宏人は、とりあえず持ってきていた鞄を肩にかけると、
「出るぞ」
と志保を促して、玄関から外に出た。志保が姉や、あろうことか姉に遅れて現れた母と父にまで頭を下げているのが分かったのは、数秒後のことである。
「藤沢っ!」
開きっぱなしになっている家の小さな門から、宏人は志保の背に鋭く声をかけた。後ろからついて来る気配がなく振り返ってみたら、ロクでもないことをしている。志保はもう一度ぺこりと頭を下げてから、宏人のほうにしずしずと歩を進めてきた。
「……何でオレの家を知ってるんだよ?」
眩しい朝日の降る通学路を歩きながら、宏人はぶっきらぼうな声を出した。
「日向先輩にね……教えてもらったの。昨日の夜……メールで。倉木くんに電話切られたあとに……」
志保はぼそぼそと答えた。
「で、わざわざ朝から何しに来たんだよ。昨日電話切った仕返しか?」
「そんなんじゃないよ」
「いや、そーだろ。お前のおかげで、今日の夕食のおかずはオレの恋話になるんだぞ。『シホちゃんって言ったっけ、今度改めて家に連れてきなさい』的なことを言ってオフクロはにやにやし、『いい子そうじゃないか、大事にしろよ』的なことを言ってオヤジはにたにたする。姉貴にいたっては……考えたくもない。そんな気持ち悪い空気の中でオレはどーすればいいんだよ、教えてくれ」
「……ごめんなさい。迷惑だったよね」
志保は細い肩を悄然と落とした。宏人は、志保の沈んだ横顔に、苛立たしげな声をかけた。
「藤沢、それ、やめろよ」
「それって?」
ちらりとこちらを見た志保に目を合わせて、
「そのしゃべり方だよ。今さらそっちに戻ったって仕方ないだろ。お前の本性を知らないヤツの前でやれよ」
非難すると、志保は上目遣いで少し抵抗するような声を出した。
「でも、こっちの方が優しかったなあと思って、こういう感じの方が倉木くん好きなのかなって」
「やめてくれ、何か体がかゆくなる」
志保はふう、と一つ息をつくと、首をまっすぐに立てて、口角に自信に満ちた笑みを載せた。
「せっかく可愛い女の子を演じてあげたのに、ひどいこと言うなあ。ま、いーや。わたしもこっちの方が楽だし」
がらりと雰囲気を変えた少女から目を離して、
「で、何しに来たんだよ? 昨日の二瓶の件について聞きにきたのか?」
宏人が訊くと、
「違うわ」
そう答えて志保は立ち止まった。何ごとかと思って足を止めた宏人の目に、少女のモジャ頭のつむじが見えた。志保は深々と頭を下げていた。戸惑う宏人に、そのままの姿勢で志保は昨夜の無礼を詫びた。
「ちょっと疲れてたの。それで電話を返せなかったこと、あと電話でひどいこと言ったことも謝るわ」
宏人は頭を上げるように言った。ランドセルを背負った小学生の一行から、好奇心たっぷりの視線を送られている。
「許してくれる?」
くしゃくしゃの前髪の下にある両の瞳が真剣な光を湛えていた。その時、小さな音が胸で鳴ったような気がするが、
「お前さ、真面目な顔するとちょっと可愛いよな」
宏人は冗談に紛らわせて、その音の吟味はしないことにした。
志保は無言で宏人をまっすぐに見つめ続けている。宏人はがっかりした。自分がもう少し複雑な精神構造を持っていると思っていたのである。真正面から謝られたことで、志保に対する悪感情は綺麗に消えて、代わりに好感まで芽生えた。わざわざ、家まで来て朝一番に謝ってくれたことは誠実であると言わざるを得ない。
宏人が、もう気にしていない、と正直に告げると、志保は瞳を輝かせて、
「夢がかなったわ」
と不思議なことを口にした。
「何だよ、夢って?」
「男の子と喧嘩して、そのあとに謝って許されるっていうシチュエーションに憧れてたの」
好感はちょっと減った。
気を取り直して、再び歩き出し、昨日の首尾を報告したあとに、
「グループにする必要なんかなかったのに。一対一でいいじゃん。しかもそんな大人数でさ」
という容赦のないダメ出しを聞いて、さらに志保への好感度は下がり、結局先の誠実な謝罪で上がった好感度の分はチャラになった。
「ま、いーわ。上出来、上出来。さすが、わたしの相棒」
急に気分を変えたように嬉しそうな声を出す志保を怪しみながらも、宏人は、まだ何とか彼女とやっていけそうだということを確認した。きっかけはともかく、一度始めたことである。できれば最後までやり通したいという気持ちがある。
志保は歩を止めると、訝しがる宏人に向かって、
「先に行って。二瓶さんを遊びに誘ったのに、わたしと登校してるところなんか見られたら、おかしなことになる」
指示を出した。中々細かいところに気がつく子である。そう素直な気持ちを表明した宏人は、
「倉木くんが鈍感なんでしょ」
と一蹴された。言われた通り、志保と距離を取るために足を速めた宏人は、敵は外にもいるが、内にもいるということを認めざるを得なかった。敵ばかりの人生である。いつかこの哀れな少年に安息が訪れることはあるのだろうか。
教室は相変わらずの冷ややかさであった。初夏のはずなのに初冬のような風情である。みな、宏人にちょっと視線を向けたあとに、汚れたものでも見たかのようにさっと視線をそむける。宏人は、作り物めいた雰囲気の中を自分の机まで歩いていき、それでもその間に、何人かに向かって声をかけたが、返ってきたのは機械的な反応だけだった。
「倉木くん」
冬の終わりを告げる春風が吹いたのは、昼休みのことである。誰も話す人がいない上に、志保も席を外しているので、全くの一人だった宏人。廊下で所在なくたたずむロンリーボーイに声をかけてくれたのは、無論、可憐なヒロインである。
「日曜日のことなんだけど。一人、友だちを誘ってもいいかな? 昨日その子と話してるときに、日曜日のことを話に出しちゃったら、その子も行きたいって言ってきて」
もちろん、と宏人はうなずいた。これ以上人数が増えていいことは無いだろうが、瑛子の柔らかな声に逆らえるわけもない。瑛子は顔をパッと明るくして、新たなメンバーの名を口にした。
「へー、あの坂木さんか」
「知ってるの、倉木くん?」
三組の坂木蒼と言えば、二年生の男子だったら大方知っている名である。愛くるしい外見だがどこか人を寄せ付けない冷たい雰囲気があって、そのギャップが魅力的な少女である。
「美少女ランキングの上位だよ」
宏人が冗談混じりに言った。
「やーね、男子って。誰が可愛いとか、可愛くないとか。そういうことで女の子をさあ……まあ、ちなみに、参考までにお聞きしておきますけれど、わたしたちの二組の中だったら誰かそのランキングの上位にいる人がいるのかしら?」
宏人は大げさに首を横に振った。
「残念ながら、このクラスには……」
「倉木くん。深海にある真珠のようにひっそりと光を放つ子が、よおく目を凝らしてみればいるんじゃないかな。案外近くに」
瑛子は無邪気そうな顔で瞳をぱちぱちさせた。
「ここは透明度が低い海だから、そう言われてもよく分からないな」
瑛子はあからさまにがっかりした様子を作った。しかし、すぐに気分を変えたようにして、じっと宏人を見ると、
「その言葉、後悔することになるよ。日曜日のわたしの私服姿を見たらね」
明るい瞳に挑戦的な笑みを湛えた。クラスに戻る瑛子の後ろ姿を見ながら、宏人は感嘆の吐息をもらした。瑛子は制服姿でも十分に美しい。ただ、容姿よりも宏人を魅了するのは、その所作である。言葉遣いや振る舞いにいちいち愛嬌があって、心が温かく包まれるような気持ちになる。
――あんな子がカノジョだったらなあ……。
とは二年になって初めて瑛子と言葉を交わしたときからの、春の夜の夢よりも淡い希望である。その淡さに浸り切ってしかも満足している宏人に、
「オレに任せろ」
と力強いことを言ってくれる友がいる。
この上なくありがた迷惑である。
「いや、そんな張り切ってくれなくてもいいから、マサキ」
宏人は携帯電話に向かって、友人を落ち着かせようと努めて静かな声を出した。昨日と同じ部活後の家路、またまたまた志保は部活を休み、一人で宏人が歩いていたときに、雅紀から電話がかかってきたのである。雅紀は、二駅離れた遊園地にデート場所を設定したことを告げてきて、宏人の了承を求めたのだった。宏人としては否も応もない。
「遠慮するなよ、ヒロト。オレとお前の仲だろ。必ず、お前とエーコちゃんを二人っきりにしてやるから、安心しろ」
全く安心できない。恋の応援団長に就任する気満々の友人に、宏人は、気遣いは無用である旨、辛抱強く告げた。
「でも、おまえ、エーコちゃんのこと好きなんだろ? 告白のためには、二人きりになる必要がある。コレ社会の常識」
「いや、何ていうかな。オレは二瓶と一緒に遊園地に行けるだけで満足なんだよ。今回は、それ以上は望んでないんだ」
二組支配計画のことを話せない宏人としては、そう言っておくしかない。それに、そもそも瑛子は雅紀のことが好きかもしれないのである。好きな男が、自分を他の男とくっつけようとしていたら、相当なショックだろう。宏人が重ねて、
「お前の友情は分かったけど、オレは気が小さいんだ。二瓶に気があるなんて思われたら、学校に来られなくなるかもしれない」
雅紀に念を押すと、電話の向こう側で、うーん、と軽く唸る声が聞こえた。友人の純情に打たれたのだろう、と宏人は解釈しておいた。でなければ、臆病さに呆れたのだろうが、そちらの可能性はあまり考えたくない。
「話変わるけどさ、ヒロト。もう一人、女子誘おうぜ」
既に女子は五人いるのである。これ以上は必要ないだろう、と宏人が言うと、
「男子は六人なんだぞ。数が合わないだろ」
と訳の分からない反論をされた。
「数なんか合わなくてもいいだろ」
「良くない。スピードデートの時に、一人男が余る。その余るヤツがオレになったら、どーしてくれる?」
「スピードデートって……何だよ、そのイベント?」
「短時間、男女が一対一になってお互いを知り合うんだよ。うまくいけばメアド交換なり、次のデートの約束なりができる素晴らしいイベントだ」
そんなことまで考えているとは侮れない男である。感心した宏人の頭に閃いたことが一つ。
「マサキ、最後の女子、オレが声かけてもいいか?」
「誰かいるのか?」
興味深そうな声を出した雅紀に、ああ、と自信たっぷりに言って宏人は電話を切った。
筆に任せて書いているどーしようもない作品ですが、ご感想など頂けると嬉しいです。