第71話:脳内彼氏に別れを告げて
今回は、更紗ちゃんのお話です。
片想いに苦しむ繊細な女の子の心情に涙すること請け合いです。
巷間で取りざたされる噂によれば、片想い、中でも初恋の時というのは、頭が働かなくなるらしい。相手への思いで頭の中が一杯になり、何にも考えられず、何にも手につかず。四六時中、彼もしくは彼女の顔が目の前にちらついて、もし想いが叶ったら、一緒にコレをしたい、ドコソコに行きたいという夢想に耽る。そうして一日が過ぎていくそうである。
噂とはまことに当てにならないものである。更紗には、全くそのようなことは起こらなかった。正真正銘の初恋、かつ百パーセントの片想い。であるにも関わらず、頭は回った。普段よりも回るくらいである。一体、どうやったら、片想いの相手に振り向いてもらえるか、ということをずっと考えていたのである。
「わたしって人よりクールだったんだわ」
ニヤリ、と不敵な笑みを見せた更紗に、
「単に脳内カレシとシミュレーションしすぎて、現実の男の子の前であんまり緊張しなくなっただけなんじゃないの?」
小学校来の友人が実に適確に嫌な事を言った。
二人がいるのは、老舗の和菓子店、『吾郎庵』だった。日曜日の午後である。小ぢんまりとした落ち着いた和装の雰囲気の店の一角に二人は席を取っていた。窓際の席で往来がよく見える。街路を歩く恋人同士の姿を見て、絶対にああなってやる、と更紗は意を固めた。
「で、いつ告白するの?」
梅の実のゼリーをスプーンでひとすくいする友人に、更紗は恨めしげな視線を向けた。友人は中々整った小作りな顔立ちである。ちょっと化粧までしているようで、それもまたよく似合っている。
「そんなにすぐ告白できたら苦労はないわ」
「と言っても、あのルックスなんだから、ライバルは多いんじゃないかなあ。早めに告白しないと、先越されちゃうんじゃない」
「出会って一週間しか経ってないんだから、いくら何でも無理でしょ。今は少しでも好感をもってもらえるようにしたいのよ。それを相談したくて、みんなをここに呼んだのに……」
更紗は、出入り口のほうを睨んだ。
「何で誰も来ないのよ?」
「当たり前でしょ。美術部のわたしや、部活辞めちゃったあんたと違って、みんな、最後の大会前で忙しいんだから」
「部活と親友、どっちが大事なの?」
「部活なんじゃない」
ひとくさり心無い友人たちの文句を言ったのち、更紗は栞に向かった。
「それで、どうすればいいと思う? あんたはどうやって今のカレシたらし込んだの?」
栞は嫌な顔をした。
「『たらし込む』って言葉は人聞きが悪い上に、恋する女の子が使っていい言葉じゃないよ。それ使っていいのは、恋に疲れたオバサンだけだから」
そう断ってから、栞は今のカレシとの馴れ初めを話し始めたが、更紗はすぐにそれを止めた。何の参考にもならない単なるのろけ話である。
「人の恋話聞いてもどうしようもないわ」
「昔はそれで盛り上がってたのに。何か人が変わったよ、サラサ」
「かもね。あの頃は単に恋に恋してただけだから」
「とりあえず情報収集だよね。相手の趣味とか考え方とかさ」
恋の先輩のやっとまともな提案に、更紗は重々しくうなずいて、
「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」
と突然学をひけらかしたので、友人は狐につままれたような顔になった。
「アンコがそんなこと言ってたわ」と更紗。
「アンコね。なんか変なこと知ってるんだよね、あの子は」
「そういえばさ、アンコは何で今日来ないの? 部活関係ないでしょ」
三組にいる彼女は、『文化研究部』という何の活動をしているか皆目見当がつかない部の部長を務めていた。何をしているにしても超マイナー部である。まさか大会はあるまい。
「部活で新聞作るから、その取材に図書館に行くってさ」
「また、図書館? 司書にカッコイイ人でもいるんじゃないの?」
密かに抜け駆けしようとしているのではないかと友人の背信を疑いつつ、気になったことが一つ。
「来られないにしても、何でアンコはわたしに直接メールしないわけ?」
「サラサが怖いからでしょ」
「恋する女の子が怖いってどういうことよ?」
「あんたの今の顔を鏡で見れば分かるわよ」
「顔のことは言わない方向でお願いできますか」
更紗の気持ちがちょっと暗くなる。顔が良い子は得である。それだけで男子にちやほやされるし、いざこちらから告白、ということになってもある程度の自信を持ってぶつかっていける。公平に考えてみれば、可愛い子には可愛い子なりの悩みがあるのかもしれない。現に、友人の一人は学年の中でトップクラスの美少女だが、告白されることが、嫌味ではなく本当に心からうっとうしいらしい。とはいえ、一度もちゃんとした告白をされたことのない更紗とすれば、そういう悩み自体に羨ましさを感じるのである。
「でも、サラサの顔のぶつぶつ消えてきたじゃん」
「もう少しなぐさめるような気持ちを込めて言ってよ」
ゼリーを食べながら平板な声で言う友人の言葉に非難の色を見せながら、それでもちょっと嬉しい更紗。この頃、全くスナック菓子やチョコレート、清涼飲料水を摂取していないおかげで、肌がキレイになってきているのが見て取れた。今、食べているのもおからを使ったマフィン、という徹底ぶりである。
「あんなにお菓子ホリックだったのにね、エライ、エライ。でも、いつまで耐えられるかな」
からかいの色を浮かべる栞に、更紗は、お菓子断ちを高らかに宣言した。
「お菓子は女の子の敵よ。お菓子なんか必要ないわ」
「ちょ、ちょっとサラサ、声大きいって」
近くのテーブルにいた女性客と、顔なじみのエプロン姿の女性店員の視線が更紗に突き刺さった。和菓子店で過激なことを口走ってしまった更紗はいたたまれなくなって顔を下げた。
「アンコ来るってさ」
栞が携帯を操作しながら言った。メールが入ったようである。更紗はサービスのコーヒーを淹れに来てくれた女性店員に、おからのマフィンが非常に美味しいということを伝えて、先の罪ほろぼしをしておいた。
十五分ほどして店の戸が開くと、大きな手提げ鞄を二つ抱えた少女が入って来た。まさか、とは思ったが、
「遅れてごめんね」
見覚えのあるお団子頭が軽く会釈してきた。
「アンコ、なに、その荷物」
「なにって本だよ。図書館で借りたりとか、あと古本屋でいいのがあったから買ってきたの」
ずっしりと重たげな鞄を椅子の脇に置いて、少女は座ると、眼鏡の奥の瞳を輝かせながら、幸福そうな顔で続けた。
「今日はすごい収穫だったわ」
横から栞が呆れたように口を挟んだ。
「収穫はいいけどさ、その格好でよく外歩く気になるよね。ちょっと考えた方がいいよ、アンコ」
おしゃれに関しては自分もまだ勉強中である更紗でさえ、そう思った。ジーンズと無地のトレーナーにスニーカーというあまりに飾り気のない格好である。ステキな男の子との偶然の出会いはまず期待できない。ただ、当の杏子はどこ吹く風で気にした様子も無い。
「それだから、アンコはカレシできないんだよ」
栞がダメ押しをしたが、杏子は、
「この集まりはわたしについてのことが目的じゃないでしょ」
とさらりとかわして、速やかに現れた店員に和菓子のういろうを頼むと、
「それで、どういうことになってるの?」
会議の進捗状況を訊いてきた。
更紗が敵を知りたいということを依頼すると、杏子は神妙な面持ちでうなずいた。
「がんばって話しかけて色々訊いてみる」
「訊かなくていい」
「え?」
分からない顔をする杏子に、更紗は、片想い相手に気があることをできるだけ悟られたくないから、質問はしなくていい、と釘を刺した。
「でもわたしが話しかけるわけだから、そんなことにならないと思うけど」
普通はそうだろうが、杏子には不用意な所がある。無邪気な所と言ってもよいかもしれない。その無邪気さが恋の工作員に向かないということは既に証明済みであった。よほど解雇しようと思ったのだが、あいにく三組に親しい子は他にはいない。引き続き任命する他なかったのである。
また別の危惧もある。
――もしかしたら、アンコが自分に気があるって、ヒカルくんが思うかもしれない。
という恐れだった。栞や他の友人によると、男子というのは、女子から少し話しかけられたくらいで、『こいつ、オレに気があるんじゃないか』的な誤解をすることがよくあるらしい。そもそも輝がそういう軽薄な男子かどうかという所は議論の余地があるし、また、気がある、と誤解した男子がどういう心理状態になるか、という所もはっきりとは分からない。その女の子のことを意識するようになるのか、逆に興味を失うのか。後者の可能性を恐れて更紗はできるだけ悟られたくないわけだが、前者の可能性も捨てきれない。
「とにかく聞き耳を立てるだけにして。もし話しかける時でも、一人では話しかけないこと。必ず二人以上で話しかける、いいわね?」
「何かめんどくさいな」
「恋ってそういうもんなのよ」
「ふーん、大変なんだなあ」
そう言うと、杏子は現れたういろうの一切れに黒文字を刺した。
もう一つ更紗には、杏子に聞いておきたいことがあった。
「原田美優の動きはどうなの、アンコ?」
「どうって……ヒカルくんを狙ってるかどうかってことなら心配ないみたいだよ。原田さんはヒカルくんに興味ないみたい。原田さんからは全然話しかけたりしないし。この頃お昼休みになると教室出ていくんだけど、他のクラスに好きな人でもいるんじゃないの?」
更紗は腕を組んだ。杏子と輝と同じ三組の原田美優はカノジョがいる男子と付き合っては、愛する二人を別れさせるという悪名をほしいままにしていた。別名『カップル壊し』。そんな別名を持っているからと言って、カップルになっている男子にしか関心が無いと速断もできないところが更に恐ろしいところである。更紗は引き続き監視の目を緩めないよう杏子に厳命した。用心を重ねておくに如くはなし。
「そう言えばね、ヒカルくん、部活に入りたいって言ってたよ」
思い出したように言って、美味しそうに羊羹もどきをほお張る杏子。
「部活?」
もぐもぐを終えてから杏子はうなずいた。
「友だち作りたいんだって。運動部は今から入れないから、文化系の部に入りたいって話してたわ」
更紗としては複雑な気持ちである。輝には楽しい学校生活を送って欲しいと思う一方で、そんなに積極的に友だちを作って欲しくはないという気持ちもある。何しろあの容貌である。単なる友情を履き違える不届きな女子が出てくる確率はかなり高い。
――できるだけそういう子のいなさそうな部に入ってくれるといいけど……。
あっ、と一声大きな声を上げてしまった更紗は、再び周囲の視線を一身に浴びた。
「いいこと思いついたっ!」
二人の友人のたしなめるような視線にも構わず、更紗は電光のように脳中に閃いたアイデアを語り始めた。