第70話:あの空の向こうまで
今回で怜と環のデートは終了です。
駅を越えて、駅前の喧騒から離れ小一時間ほど歩き、坂道を登ると土手の上に出た。眼下には幅の広い川が見えて、薄灰色の空の下、暗色の水を湛えていた。
たい焼きを食べてからこれまで二人は無言だった。怜はしゃべらないことは苦にならないし、隣を歩く少女も同様らしい。二人でいても交わす言葉が無いのであれば一人でいるのと変わりないような気もするが、そういうことでもないようだった。一人でいるときと、ショートカットと性格に癖のある少女といるときとでは、確かに何かが違うのである。
何が違うのかと問われると、はっきりとは答えられない。ただ、隣に環がいるということがごく自然なことになっていて、一人でいるときの方が返って不自然なような心持ちになることがあるということは言える。
川沿いのサイクリングロードには、しかし自転車の若者の姿はなかった。ジョギングしている老人も、飼い犬に引きずられる子どもも見えなかった。どこまでも真っ直ぐに延びているように見える道は、怜と環だけのために用意されているような趣だった。
「もし不治の病にかかったらどうする?」
音楽的な声が何らの前置きなく訊いてきた。
「別にどうもしない。それまで通り生きていくだけだ」
唐突なカノジョの問いにすぐに反応できてしまう自分が、怜は少し情けなくなった。カレシのテンションを低くさせた当の少女の方は、しかし、楽しげな顔をしている。怜は声音に苛立ちの色を乗せた。
「死体に鞭打つのがお前のやり方か、タマキ?」
「何のこと?」
「とぼけるな。つまらない映画を見せてしまって反省しきりのカレシに、またその映画の話。嫌がらせ以外の何ものでもないだろ」
「ふと思い浮かんだものだから」
「カレシの男心をどうやって傷つけてやろうかって、そんなことばっかり考えてるからだ」
ありったけの非難を込めて言ってやると、環は目をしばたたかせた。
「一つ教えて欲しいことがあるんだけど、レイくん」
「何だよ?」
「今日の映画見たいって言ったのは、わたし? それとも、あなた?」
怜は言葉に詰まった。わたしとあなた、この二人の世界ではどうにも分が悪い。怜は、パワーバランスを考える必要がなかった、過去の一人だった頃の世界を努めて思い出そうとしたが、残念なことにうまくいかなかった。
「レイくんならもし余命を宣告されてもじたばたしそうにないね」
どうしても映画の話を続けたい様子の環に、怜は一瞬、答えずに歩き続けてやろうかと思ったがやめた。自業自得である。もう二度と純愛モノは見ないことを固く心に誓ってから、怜は、生まれたものは死ぬのが当たり前で、生きている人間には等しく余命があるという単純な事実をレクチャーしてやった。
環はうんうんと素直にうなずいたが、
「わたしは時々ね、そういう生まれて死ぬってこととか、この世界にいるってこととかが、ひどく他人事のように思えるときがあるんだけれど、そういうことってない?」
やわらかく訊いた。
「不思議になることはある」
と怜は答えた。
「そういう時、どうしてるの?」
「考えてる」
「答えは?」
「簡単に答えの出るような問いは、そもそも問うに値しない」
諭すように静かに言ってやると、環は片目を細めた。先ほどメインストリートを歩いたときに彼女自身が言った言葉を返されてちょっとイラッとしたのであれば、怜の目的は達成されたことになる。カレシよりは慎みがある環は、その件については何も言い返さずに、曇り空を見上げた。
涼気を含んだ風がさやかに少女の黒髪を揺らした。
「あの空の向こうまで行ってみたいって思ったことは?」
立ち止まってほっそりとした両手を天に向けた環は、羽衣なり翼なりあれば、そのままふわりと宙に浮いていけそうな趣があった。
足を止めた怜は背筋を正した。環の軽やかな声の中にどこか真剣な色があるのが聞き取れたからである。誠心で答える必要があった。
「無いよ」
「どうして?」
両手を下げた環の目が微笑を含んでいる。問いながら、しかし、既にこちらの答えを予測しているような目である。
「向こうにも同じ世界が在るってことを知ってるから。だったらここにいても同じことだろ」
怜が言うと、環は肩の辺りから力みを抜いて、ゆるやかに一つうなずいた。
「だからこそ、『ここではないどこかへ』ですね」
再び歩き出した彼女が唐突に分からないことを言い出した。怜は環に並びながら、世に公平を司る神がいるのであればこのカップルの不均衡をどうにかしてもらいたいものだ、とつくづく思った。こちらが考えていることはあちらに分かるのに、逆が無いのはなぜなのか。しかし、たとえそんな神がいたとしても、今回は助力してくれなかっただろう。なにしろ、
「レイくん自身の言葉だよ。春休みの最後の日に教えてくれたでしょ」
ということだったからだ。そう言われて怜は思い出した。春風の中で感じていたざわめきを固定した言葉だった。その時は新鮮な言葉だったが、いつしかそれは怜の中で当たり前のものになり、思い出すこともなくなっていた。
あの時に切り裂かれた暗闇は光へと変質し、そうしてより一層強い光を待つ。そうやって人は成長していくのだろう。怜は環をしげしげと見つめた。一瞬、彼女が発光しているように見えたが、おそらく勘違いだろう。今でさえ既にバランスの悪いカップルである。これ以上、カノジョ側を有利にするような条件など断固否定しなければならない。
「子どもの頃ね、別の世界にすごく憧れたことがあったんだ」
環はなつかしそうな顔で頬を少し緩めた。
「でもどうしてもその世界が見つからなくてね、この世界にいなくちゃいけないことを悟ったんだけど、あの時はショックだったな」
「タマキにも可愛いときがあったんだな」
「遠い遠い昔のお話です」
てっきり環が言い返してくると思っていた怜は、反撃がなかったことについ調子に乗って、
「教えてくれないか。可愛い女の子がどうして可愛くなくなるのか」
問うと、環は桜唇に微笑を含み、
「それは男の子に出会うからではないでしょうか」
と答えて、怜を唖然とさせた。怜は、環に豊富な男性遍歴があることを祈ったが、
「あ、断っておきますけれど、お付き合いするのはレイくんが初めてですから」
天上に祈り届かず、しかしそれでも怜は諦めなかった。たとえ付き合うのが初めてだとしても、好意を抱いた男の子くらいはいるはずである。現に妹などは小さな頃からしょっちゅう、クラスの誰それがカッコイイとか、部活の後輩がカワイイとか言っているのである。妹と環を同列に論じることなどできないが、少なくとも同性である。共通点がある可能性もあるはずだ。
重ねて訊いたところ、環は頬に手を当てると真剣な面持ちで考え始めた。
「……いたかしら。何か思い出せないんだけど」
「幸いに道はどこまでも続いてる。ゆっくり考えてくれ」
冗談ではない話である。仮に環が今までに怜にしか出会ってないとして、かつ女の子が可愛くなくなるのが男の所為だとすると、すなわち環の可愛くない行為は全て怜の責任ということになる。そんな恐ろしい事態を避けたい怜は口を閉じて、環の沈思を邪魔しないようにした。
「レイくん、やっぱりいないみたい」
「よく考えてくれ」
「別にいなくてもいいんじゃないかな」
「いや、よくない。ことはお前の問題じゃないんだ」
環はふう、と息をつくと、何かに気がついた振りで両手を打ちならした。
「そう言えば、いたわ、小学四年生のとき。あれがわたしの初恋だったなあ」
「名前は?」
「え?」
「いや、名前だよ。初恋の男の名前くらい覚えてるだろ」
「えーと、名前ね、そうそう、ヤマダくんだったわ。ヤマダタロウくん。なつかしいなあ、今どうしてるかしら」
「どうしてるも何も同じ小学校だったら、同じ中学のはずだろ。何組にいるんだよ?」
怜はじいっと疑問の視線を突き刺してやったが、環は何らの痛痒も見せなかった。
「もういいでしょ、この話は終わりにしましょ、レイくん。心の宝石箱の中にしまっておきたい思い出なんです」
急に乙女チックになった少女に、もう少し突っ込もうとしたが、怜は妥協した。とりあえず、環がこんな風になってしまったのは、そのヤマダ少年の所為にしておいた方が怜としても心の平衡が保てるというものである。
土手をくだりサイクリングロードを外れて歩き、住宅街に入ってから少ししたところで、環は静かに立ち止まった。
「ここでいいよ」
そう言ってアサヒへのお土産を渡してもらおうと手を差し出したが、怜は返さなかった。
「家の前まで送る。ここから家までの途上で、車に轢かれたり、自転車に追突されたり、三輪車に跳ね飛ばされたりしたら大変だからな」
環はいたずらっぽい笑みを見せた。
「家には父がいるのよ。もしかしたら家のすぐ外でアサヒと遊んでるかもしれない」
「その時はその時だろ。その場でご挨拶するさ」
そう言って先に立つ怜の隣から環は覗き込んできた。黒い真珠のような瞳に明るい色が見えた。
「何だよ?」
「ううん、何でもない」
環は満面に笑みを湛えると、少し身を寄せてきた。少女の細い肩が、スリーブ越しに怜の肩に触れた。