第7話:季春の公園、飛び来たり飛び去る花
「オーバーロード効果ってご存知ですか?」
聞いたこともない。
「オーバーロード効果というのは、学習心理学という分野の用語なのですが、自分ができる量よりもより多い量を勉強しようという学生の方がそうでない学生よりも成績が伸びやすいというものです」
ゆうに三センチほどの厚さになるだろうか。大量のプリントでクリアファイルが膨らんでいる。怜は、それを見たあとに、視線を横に向けた。怜の隣でパイプ椅子に腰掛けている一人の女性。彼女の事務的で冷静な顔が、少しだけにやりとしている。まさかとは思うが……。
「一週間でやってきてください」
思った通りだった。怜はもう一度、二人がけのテーブルに乗っているクリアファイルに入ったプリントの束を見つめた。これは何だろうか。小生意気な中学生に最初にガツンとやっておこうという、そのための小道具だろうか?
「いいえ。そんな意図はありません。現在のあなたの学力と志望とする高校が要求する力ではかなりの開きがあります。それを埋めるために、ゆっくりやっている暇がないだけです」
講師の山内燈は平静な調子で続けた。
「もちろん、この量はオーバーロード効果を見込んだものですので、全てできる必要はありません。ただ、全てやろうと努めることはしてください」
一週間が宿題プリントとの格闘で飛ぶように過ぎた。怜は起きている全ての時間を使って、宿題に取り組んだ。プリントは怜の現在のレベルに合わせたものだったので、基本的にできない問題はなかったのだが、とにかくキツい作業となった。何しろこれまで勉強らしい勉強をしていないところにもって、この量である。運動不足の人間に、毎朝十キロ走らせるようなものだ。もうやりたくない、と脳が悲鳴をあげるのをなだめすかしながら、こなしていく。
一週間後――
「すばらしい!!」
沈着な山内女史から感嘆の言葉が上がった。
「何とか終わりました」
そう言って怜はプリントの束を提出したのだった。ちゃんと答え合わせ済みである。何度、答えを写してやろうかと自棄を起こそうとしたかしれない。しかし、それをしても何の意味も無いことはさすがに分かっていた。
「初めからここまでやってきてくれるとは、あなたの志望校合格への気持ちは本物のようですね」
講師の褒め言葉を聞いても、怜は相好を崩すようなことはしなかった。得意な顔になどもちろんならない。思春期特有の照れ隠し、などではない。この後の展開が読めたからである。
二時間の授業のあと、次回の授業日を確認してから、山内講師は鞄から、
「では、今週の宿題がコレです。ここには週二回で来てもらっていますから、次の次の授業の日までの宿題になります」
と言ってプリントの分厚い束を怜の前に置いた。
新たな試練が与えられたのだった。
環から電話があったのは、少しレベルアップした敵に悪戦苦闘している時だった。
「お花見に行かない?」
携帯電話から流れる音楽的な彼女の声を聞きながら、怜は机に広げられた宿題プリントを見た。そこで頭を振る。1週間振りにまともに話をした、あまつさえ自身は好きではないと言っていた花見に誘ってくれるそのカノジョと過ごす時間と、塾の宿題をやる時間を比べるなど、重症である。怜は、翌日の約束をして電話を切った。
待ち合わせた場所は、怜の家から少し離れた公園だった。広い公園で、園内とまた公園を囲むように桜が植えられていた。このあたりの桜の名所の一つだった。遠方からもわざわざ相当数見に来るようである。その日は休日だったこともあって、園内は花見客で賑わっていた。
桜は満開を過ぎ、はらはらと散り始めていた。空に舞う花びら。ひらりひらり、と落ちながら宙を彩っていく。
不意に起こった旋風がその花びらを集めて青空高く舞い上げた。
風が止み、その場に現れる一人の少女。桜の花のようなピンクの、花紋様の訪問着をまとった彼女は、こちらの姿を認めると、楚々とした調子で歩を進めてきた。周囲を歩く花見客たちが、頭上の花から目を離してまで、しばしその姿に見惚れる。
「こんにちは、加藤くん」
伊田綾は慎ましやかな微笑を浮かべると、怜に声をかけた。怜も挨拶を返す。
「環とデート?」と綾。
「そんなとこ。伊田は?」
「わたしは親とその知り合いの飲み会に付き合わされてるの。着物まで着せられて。まるきり見せ物よ。いい加減面倒になって逃げて来ちゃった」
「大変だな」
「そこ。座ってもいい?」
綾は、怜が座っていたベンチを指差した。少し間を置き怜をちらりと見る。眉のあたりで切り揃えられた前髪の下にある目が何を訴えているのか、怜には理解できた。
怜はジーンズのポケットからハンカチを出すと、それを自分の隣の席に広げた。
「ありがとう」
自分で要求したくせに彼女の目は少し驚いたように怜には見えた。綾は腰を下ろすと、
「この頃、環のことほったらかしにしてるみたいだけど。他に好きな人でもできたの?」
何気ない調子で訊いてきた。怜は、通い始めた塾のことを話した。
「それが理由になると思ってるなら、つまらない人ね、加藤くん」
怜は静かに先を促した。つまらないと言われても、自分では面白い人間だとは思っていないので腹も立たない。
「環はあなたにほおっておかれても、恨み言一つ言わないような子よ。あなたからメールがなくても、一緒に帰れなくても、顔を合わせなくても。でもだからこそでしょう。あなたから誘ったり、謝ったり、優しい言葉をかけたり、そういうことをしてこその男の子でしょ」
なるほど、と怜は首肯した。それは確かにうなずける話である。
「環はあなたのことがとても好きなの。人から好かれているということはつい忘れがちになる。だから、忘れないように努力しなければいけないわ」
綾が続けた。怜に、というよりは、まるで自らに言い聞かせているような言い方だった。
「この一生で、とても好きな人に出会えるっていうのはどんなに幸せなことでしょう」
「まるで人生を一度やってきたような言い方だな」
怜がそう言うと、綾は口元だけで笑った。その白い手を開き、掌を上に向ける。ひらり、と桜の花びらが綾の手に降りた。
「残酷だと思わない? こんな艶やかなものが散るのよ」
怜のジーンズの膝にも春の欠片が落ちてくる。
「桜はいいわ。また来年咲くのだもの。でも人はどうかしら。男の子はあんまり感じないかもしれないけど、女の子はね……散る桜を見て綺麗だとばかり思ってはいられない。少なくともわたしは」
綾の言うことは頭では分かるような気はしたが、実感はできなかった。そんな風に感じたことはなかったし、おそらくこれからも無いのではなかろうか。もちろんそれは分からないことだが。
「好きになったものだったら、どんなになったって綺麗だろ。花が散り葉桜になっても、冬になり葉を落としても」
怜が言う。その言葉に、綾は一瞬目を丸くしたが、そのあと袖で口元を隠して笑い出した。顎の高さで切り揃えられた鬢が揺れる。ひとしきり声を立てて笑ったあと、綾は涙目を向けた。
「あー、可笑しい……でも、環が選び放題の男の子の中からどうしてあなたを選んだのか、今少し分かった気がする」
なら説明してもらいたい。怜にはさっぱり分からなかったからだ。
「それは自分で考えてね。さて……と」
綾はベンチから立ち上がった。
「帰ります。ありがとう、いい気分転換になったわ。それに、どうやら真打も登場したようだしね」
綾が視線を向けた方向から、淡い暖色のチェック柄のワンピースを身につけた少女が現れた。プリーツで仕上げられた裾が清楚な雰囲気を与えている。ラウンドネックから見える素肌と、ワンピースの裾から出る素足が日を受けて輝いていた。
「やっぱり環は可愛いわ。でも、それが彼女の全てじゃない」
怜もそれは分かってるつもりだった。
「ならいいんだけどね」
そう言うと綾は歩を進めた。
「アヤちゃんも来てたの?」
黒髪のショートボブが縁取る邪気の無い顔が嬉しそうな表情を作る。
「親の付き合いでね。偶然加藤くんに会えたから、ちょっとお説教しておいたから」
「お説教?」
「そう」
綾はそこで怜に視線を向けると、さっきの話忘れないでね、と念を押した。
着物の少女が立ち去ると、怜は敷いていたハンカチをしまい立ち上がり、環にここ最近の非礼を詫びた。ここ一週間ロクに連絡を取らなかったことを謝る。
「アヤちゃんのお説教って、そういうこと」
環は微笑した。
「そんなこと全然気にしてないよ。だって、怜くんはわたしと同じ高校に行きたくてがんばってくれてるんでしょ?」
怜はじっと彼女を見つめたが、環は表情を崩さない。微笑したまま見返してくる。
「たとえそうでも、メールするし、一緒に帰るし、こうやって顔も合わせるよ」
そう怜が約束すると、少女の花顔が晴れやかな笑顔を見せた。
女の子と付き合うということは常にこういう顔をさせておかなければならないということだろう。
怜は差し出された手を取った。
手をつないで歩く二人の上に、桜の花が降る。
来年まで忘れないでねというように、花びらが二人の服や髪を白く色取っていった。