第68話:恋人たちのメインストリート
今回も怜と環のお話です。前回のデートの続きになります。お楽しみ下さい。
レストランは、以前家族で入ったことがある所で、パンの専門店だった。焼きたてのパンを食べ放題出してくれる上に、スープとサラダがついて、しかも土日にも安価なランチがあるというサービスの鬼のような店である。それゆえ人気も高く、席に通されるまでしばらく待たされることになった。
「いい香りね」
環がうっとりとした顔をした。待合席にまで、香ばしいパンの香りがふわふわと漂っていた。
十分ほど経って、ちょうどお腹が空いてきた頃合に、店の中に案内された。店内は、外の光が眩しいほどに取り入れてあるやや広めの空間だった。四人がけの丸テーブルが十個ほどある。窓際にしつらえられたテーブルからは、外の街路が一望できた。
店内の中央に席を用意された怜は環の向かい側に座ると、ランチを頼んだ。速やかに運ばれてきたスープに舌鼓を打ち、前菜のサラダを食べていると、三角巾にエプロンを身につけたウエイトレスが手に平たい籠を持って現れた。籠の中には様々な種類のパンが入っており、食べやすい二口サイズだった。
怜がまずカノジョのために適当に選んでやると、レディファーストに気を良くしたのか淑やかな笑顔を浮かべていた環だったが、パン皿に五個、六個、七個、八個、とパンが置かれていき、ついに十個を数えたときに、
「もう十分だよ、レイくん」
と堪えきれないようにして口を出した。環のパン皿には、部活が終わったあとの腹ペコの中学生が食べるのであれば大したことはないが、デート中に恋人の前で食べるには明らかに不釣合いな量のパンが載っていた。
「彼の分は結構ですから」
環が怜の分のパンを断ると、女性同士通じ合うものがあったのか、ウエイトレスの女性は手で口を隠しながらくすくすと笑って、すぐにまた焼きたてのパンが釜から生まれてくるということだけ告げて、別のテーブルに回っていった。
「そのくらい食べられると思うけどな。うまいから」
怜はしれっとした顔で言った。
「そういう問題じゃないわ。これはなに? 何かの仕返し?」
「まさか。復讐は何も産まない。空しいだけさ」
怜はまじめくさった顔で言ったが、無論、環の皿をこんもりとさせる行為にちょっとした茶目っ気があったことは否定できない。いつもやられっぱなしでは男の沽券に関わるというものである。
怜は環の皿に手を伸ばすと、パンの山から三個ほど取って自分の皿に移した。じっと見てくる少女の目に促されて、更に二個取った。まだ見てきていたので、怜は、カノジョが自分と同じくらい食べてもそんなことで嫌いになることはない、と告げたが、環は自らもう二つパンを怜の皿に載せた。そのくせ、一口大にちぎりながらぱくぱくぱくぱく小気味よく自分の分を食べると、怜の皿に手を伸ばしてきた。
「行儀悪いぞ、タマキ」
「でもここにはわたしを叱る人はいないわ」
そう言うと、胡桃パンを手に取って、幸せそうな顔で食べ始めた。そのうちに、先ほどのウエイトレスの女性が現れて、また新たなパンが振る舞われた。
焼きたてのパンには人を沈黙させる効果がある。もくもくと食べてお腹が満足してくると、徐々に心持ちが落ち着いて、ツマラナイ映画を見たアンド見せたことによる精神的ダメージも回復してきたようだった。自分の心のあまりに単純な構造にちょっとがっかりしている怜に、
「来週の土曜日って時間ある、レイくん?」
環が訊いてきた。
「いつも暇だよ」
「良かった。じゃあ、その日に父に会ってもらえる?」
怜の背に張り詰めたものが宿った。
「とうとうこの時が来たか」
「父も楽しみにしてるみたいです」
にこにこっとしたいかにも怪しい顔で環が言う。年頃の娘を持つ父親の気持ちなど怜には想像するべくもないが、十四年間愛情を注いできた愛娘に言い寄るウマノホネ、そんなものと会うのを楽しみにする人間がいるだろうか。仮にいたとして何を楽しみにしているのかが問題である。
「レイくんならうまくやるわ」
「これまで人の期待に応えることには無縁の人生を送ってきた」
「余人は知らず、でもわたしの期待には応えてくれる、そうでしょ?」
「ベストを尽くすよ」
「尽くすのは死力にしてもらってもいい?」
いつもは穏やかな環の語気にわずかに力がこもっているような気がして、怜は眉を顰めた。かなり難しい人なのだろうか、と怜は環の父親について想像してみた。明るい雰囲気のある環の母と好対照をなすかのような冷たい厳粛な父親。手塩にかけた娘の恋人として相応しい男なのかどうか精査する視線。娘のことを本当に大切に思っているのかという詰問。将来何で身を立てていく気なのかという尋問。
怜は軽く首を振ると正気を取り戻した。それは全て先ほどの映画の中で、ヒロインの父がヒロインの恋人に対して行っていたことだった。しかし、これは天啓というべきだろう。その時に、恋人がヒロインの父に対してしていた態度を真似しておけば問題ないのではなかろうか。怜が膝を打って、閃いたことを吐露すると、
「いつも通りでいいよ」
と環のつれない答え。
「カッコつけさせてくれないのか?」
「今のあなたのままで十分です」
「分かった。でもせめて、『タマキさんをぼくにください』っていうセリフは言ってもいいだろ?」
「そういう類のことをこれ以上言ったら、ここのお勘定払ってもらうから」
食後の紅茶とミルクティ用のミルクが運ばれてきた。怜が、ミルクティは、ミルクを先に淹れて紅茶を後にした方がよいか、それとも逆の順番の方がよいか、訊くと、環は真剣に悩む振りを見せたので、さっさとアフターミルク――ミルク先、ティ後――でミルクティを作ってやった。
パンで一杯になったお腹にミルクティを注いでから店を後にすると、外は歩くのにほど良い気温である。日はやはり雲に隠れていて空気は涼やかだった。
「付き合って欲しいところがあるの」
映画を見たあとの予定を特に決めていなかった怜は、煉瓦敷きの街路を歩き出す環の横に並んだ。
計画的に植えられた緑が彩る街路を、休日の人ごみを縫って歩くと、少し大きな通りに出た。駅から伸びるメインストリートである。車道に溢れる車を横目にしながら、歩道を歩いて行く二人。環は歩きながら色々とこまごましたことを話した。それは、二人が会っていなかった空白の三週間に起こったことである。怜はちょっと意外な思いがした。環は時間を埋めるために他愛ないことを話し続けるような子ではない。
十分くらい歩いたあとのこと、唐突に歩みを止めた環は、微苦笑を浮かべた。
「新しい自分に気がついて、びっくりする時ってない?」
怜はそういうこともたまにあることを認めた。
「それで、一体どんな自分がいたんだ?」
「良くは分かりません」
「いいヤツ?」
「どうかしら。でもヨイにしろワルイにしろ、わたしにとっては愛しいわ」
「そいつが現れたおかげで、これ以上厄介な女の子にならなきゃいいけどな」
怜は環の手を引いて、背後から来ていた自転車をかわさせた。それから手を離そうとしたが、ぎゅっと握られて離すことができなかった。環は素知らぬ風で前を向いているので、怜は仕方なく手に軽く力を込めるとつないだまま歩き出した。
こうして手をつないで歩くことに決まり悪さは感じるものの、そんなに気恥ずかしい思いが無いのだから妙なものである。妙だと思うことも少なくなってきた今日この頃で、それも一層妙な心持ちがした。
「わたしには分かる気がします」と環。
「キミは何でも知ってる。教えてくれ」
「教えません。自分で考えてください」
「ちゃんと答えがあるんだろうな?」
「答えが用意されているものは本当の問いじゃないわ」
総二階の飾り気のないコンクリート建てが見えてきて、怜はそれを指差すと、そこが学校と家以外で偽りの問いと戯れている場所だということを教えた。通っている塾である。土曜日であるので昼間から来ているのだろう、駐輪スペースに何台かの自転車が見えて、二階のガラスを通して窓際に座る学生と講師の姿があった。
「そう言えばあと二週間くらいで定期試験だね」
通り過ぎながら、何の気のなしの様子で環が言う。勉強が進んでるかどうか訊いてきた彼女に、怜は渋い顔を作ってみせた。
「休み時間に珍客の訪問がなければもっと捗るんだけどな」
「みんな、レイくんを頼りにしてるってことだね」
「オレを?」
「そう。たまにはわたしもお邪魔していいかな? 最近意地の悪いカレシのことで悩んでるんです」
「それはオレには相談しない方がいい。恋愛問題には疎い上にオレは完全に男子の味方だ」
「一応聞いてください。ときどきカレシが意地悪くなるのはどうしてだと思います? カノジョがカワイイからついついいじめたくなるっていう、そういう愛らしい心理でしょうか」
「そのくらいならオレにも分かるから答えよう。君のカレシがたまに茶目っ気――『意地悪』とはとんでもない言葉だ――を出すのはだな、カノジョから受けるストレスを解消しようとしているからだ。ただ、実際の所は解消なんかされなくて、ストレスはますます積もる。それでも言わずにいられないのは、男の意地ってヤツだ」
「そういうときどうすればいいんです?」
「ストレスを与えていた己を反省し、カレシに優しくすることを心に誓い、そうして即時実行に移すことだ」
分かりました、と綺麗な声で言うと、環はパッと手を離して、滑らかな動きで自分の腕を怜の腕にからませてきた。怜はすかさず言い過ぎを謝ったが許されず、しばらくの間腕を組んでゆっくり歩かされる破目になった。
メインストリートの歩道から裏道に外れて少し進むと、一軒の小さな店が見えてきて、そこでようやく怜は少女の腕から解放された。店は、周囲の殺風景をひとり跳ね返さんとしているような可愛らしい外観を持つ雑貨屋だった。店先の植え込みに色とりどりの花が咲いていた。
「妹への賄賂を買っていきます」
白いバラの巻きついたアーチをくぐりながら、環がいった。
肥大化する欲望をいかんせん。初めは書いているだけで満足していたのが、次にできるだけ多くの方に読んで欲しくなり、この頃は読んでもらった方にできるだけ感想を頂きたくなりました。厚かましいお願いをお許しください。ご感想ください。