第67話:悲劇めいた喜劇
読者様に心からの感謝を。
サブキャラに押されてちょっと影が薄くなっちゃってるような気がする主人公とヒロインですが、今回はその二人のお話です。
お楽しみ下さい。
怜は自分自身というものを大して信頼していなかった。信頼の置けるような能力、学識、人品を備えていないからである。なので、できるだけ他人の意見を尊重するようにしていた。己以外の者を師として謙虚な態度であれ。数ある座右の銘の一つである。
「雑誌とかインターネットで筋や感想を調べて、それを元に記事を書くこともできるんじゃないかな。わざわざ見ることは無いと思うよ」
この珠玉のような忠言に従わなかったのは、怜の不覚だった。名言も座右に置いて眺めるだけでは意味が無いということである。
忠告が為されたのは、ちぎれ雲が浮く空から眩しい朝の光が降る街中でのことである。今日は先日カノジョと約束していたデートの日であり、怜の隣には環がおり、彼らの前には映画館に向かって長くくねる列が延びていた。
「今ならまだ間に合うよ、レイくん。この列から一歩離れるだけでいい」
環はいたずらな笑みを浮かべたが、怜は首を横に振ってきっぱりと言った。
「いや、この映画を観る」
環はカレシの毅然とした態度に打たれた振りをしつつ、なお、同じ時間に上映しているアクション映画に未練ありげであった。麻薬取締り官の男女のコンビが、人生観の違いから初めは対立しつつも次第に信頼を深めてゆき、最終的には二人で悪の麻薬組織を壊滅させるという、恐ろしく内容の無い、しかし痛快この上ないストーリーである。銃撃戦あり、派手なカーアクションあり、隠し味にちょっぴりのロマンス。
本音を言えばそっちの方がよほど観たかったのだが、一度口にしたことは通さねばならぬ、というのちのち考えると無駄な男気を発揮して、予定通り今話題のラブストーリーを観ることを再度宣言した。
「時代は純愛だよ、タマキ」
「知りませんでした。愛に純粋なものと不純なものがあるなんて」
諦めきれない振りをする環に、怜は、そうじゃない、と言ったあと、
「純粋な人の愛がすなわち純愛なんだ」
そう続けて、環の批判を封じた。
「この映画を見て一緒に純粋になろう。今はもう失ってしまった美しい気持ちを取り戻すんだよ」
「わたしは昔も今も純粋です」
「じゃあ、オレに付き合ってくれ。邪なものを心から洗い流す。それは滝のような涙となって現れるだろう。自分のハンカチで足りなかったら、タマキのも貸してくれないか?」
「それは困ります。純愛映画で男の子が泣いてるのに、女の子が泣いてないんじゃ格好がつかないわ」
「分かった。じゃあ、袖で拭うことにするよ」
怜は意気揚々と映画館に入った。たまに妹と母が純愛モノの映画やドラマをビデオで見ているのを脇から窺ったことはあるが、初めから終わりまで一本まるまると観るのは今回が初めてである。初めての経験にちょっと浮かれていたことは否めない事実だった。
その浮かれ気分が地に着くのに、それほど時間はかからなかった。
満席に近い映画館の中、スクリーンを隅から隅まで一望できるちょうど良い位置に、環を隣にして座った怜。空調が効いた室内、クッションの良いシート、子どもの叫び声もポップコーンを食べる音もない厳粛な雰囲気。映画に集中するのには最適な状態だった。
が、それゆえに最悪である。大して集中せずとも良い映画だったからである。それどころか、席を中座したいような代物だった。
難病を患ううら若いヒロインに宣告される余命。限られた命の中で彼女は人生の意味を見つけ出す。当然にそれは愛である。恋人の男性はヒロインが余命いくばくも無いことを知っても別れようとはしない。残りの期間を静かにヒロインと過ごす。そうして最後に彼はヒロインを看取る。死に際の安らかな笑顔。生の何たるかを知り、満足して逝くヒロイン。
筋自体は良い。分かりやすい流れであるし、純愛映画を観たことがない怜としては物珍しい気持ちもある。しかし、どうにも感動はできなかった。余命を宣告されるヒロインのシーンからしてもういけない。
医師に余命三ヶ月であると宣告を受けたヒロインがショックを受ける場面が、スタートからいくらもしないうちにある。自分が死ぬということに愕然とするヒロイン。百歩譲ってヒロインが小学生くらいだとしたらまだしも、彼女は二十五という設定なのである。いい年のくせに、余命を宣告されるその時まで、自分が死ぬ、という単純な事実に気づいていなかったとは、無知もここに極まれりという感がある。
その後のお話は、その阿呆なヒロインと、そのヒロインに同情したり、彼女を励ましたりするさらに愚かしい脇役による、まるで喜劇めいたお話だった。しかも笑えない喜劇である。「あと三ヶ月であなたは死にますよ」と誰かから言ってもらわないと、生の意味について考えられないのならば、一体何のための二十五年間だったのかということである。同情しようもない。人間のそういう鈍感さにこそ悲しみがあるのだ、と言われれば、そんな気もしないでもないが、それはこの映画の趣旨ではないだろう。
よよ、と周囲がさめざめとしている中で、一人白けていた怜はどうにも居心地が悪かった。赤の他人の葬儀に混ざってしまったみたいな、場違いな所に来た感がある。ふと隣に目を向けると、スクリーンからの光しかない薄闇の中で環はまっすぐに前を向いているようだった。映画に見入っているのだろうか。怜はいつでもハンカチを取りだせるよう準備をしておいた。こうなったらもう環の涙を拭う役に徹するしかない。しかし、その役さえ全うできなかった。環は映画に集中しているようだったが、ついに目を拭う仕種をすることはなかった。
エンドロールが流れても映画の余韻に浸ってなかなか観客が立ち上がらない中で、怜は手を取られた。滑らかな手にそのまま手を引かれ、感動に打たれた薄暗がりを抜けて映画館の外へと出る。いつの間にか空には雲が全体にかかり、正午過ぎにも関わらず、涼しげな空気が漂っていた。
怜のすぐそばに環の顔があった。彼女は、瞳に力を込めるとじいっと何かを調べるかのような視線を向けてきた。
「一度の過ちを許してくれるくらいには寛大なんだろ?」
涙の痕がないことを見咎められた怜が決まり悪い振りでそっぽを向いた。
環は慎ましやかに小さく驚いた顔を作って見せた。
「何か悪いことしたの?」
「デートの時間を実に二時間無駄にした」
「そんなことはありません。なかなか興味深い映画でした」
そう言うと環は、ワンピースの裾を翻し、映画館前の歩行者専用になっている道路を歩きだした。ようやく感動から醒めた観客が映画館からぞろぞろと這い出てきていた。怜は環の隣に並ぶと、
「お茶餡とクリーム餡とつぶ餡のどれがいい?」
いきなり訊いた。環は口元に柔らかな微笑を灯した。
「何のこと?」
「決まってるだろ。昼メシを食べたあとにオレがお前に奢るたい焼きの種類だよ。本当は昼メシを奢りたいくらいなんだけど、それは断られるだろうから、せめてたい焼きをご馳走させてくれ」
「今日は何か特別な日でしたっけ?」
「詫びの気持ちだよ」
あら、と環はバツの悪い風を装うと、
「そんなつまらなそうな顔してましたか?」
と言って、頬の辺りに手を添えた。
「十分に感動的な映画でしたけど」
「その割には泣いてないじゃないか。オレのハンカチは君の涙を拭うためにあったのに」
「じゃあ、それは今後の為に取っておいてください。確かに泣きはしませんでしたけど、面白かったわ」
「オレは幸せだよ。思いやり深い人がカノジョで」
怜は、映画を観ているときに考えていたことを、つらつらと環に話した。
「何か隣でもぞもぞしてるなと思ったら、そういうことですか」
環は納得したように笑みを見せると、
「それはいかにもレイくんらしい清潔な考え方だね」
と言ってから、自分の感想を話し始めた。
「わたしが考えたのは、ヒロインはまるで蝶みたいだなっていうことです。蝶って、幼虫から蛹を経て、最後にあの綺麗な成虫になってその姿で死ぬわけだけど、ヒロインの心の有り様もそうだったんじゃないかなって。残り三ヶ月の命だっていうことが分かって、そこでそれまで幼虫だった彼女の心は蛹になって、ついには最も大事なものを悟ることによって蝶になる。そして、その大事なものを抱えたまま死んでいく。真実を知った彼女の精神は死の間際に最も輝いたのじゃないかしら」
同じものを見ていても、批判的に見るか、好意的に見るかによって、得られるものはまるで違う。批判的に見て何も得られなかった怜よりも、好意的に見て何かを得た環の方が、得たものがあるという点で優れていると言える。
怜が心の底から感心していると、
「でも、本当のことを言うと、ラブストーリーはあまり好きじゃないの」
環が率直な口調で言った。
「どうしてだか分かる?」
怜は考える振りをした。
「ヒロインの恋人と自分のカレシを比較するからだろ。そうして、自分のカレシにあまりにロマンチックな所がないことに気がついて幻滅するからだ」
環はショートボブを軽く揺らして、
「違います。観終わったあとに、『お腹空いた。ごはん何食べようかな』って考えてしまう自分がいて、そういう自分に幻滅するからです」
と軽やかに答えた。
怜は足を止めると、環の向きを変えさせた。
二人の前に中学生でも入りやすいカジュアルな雰囲気のレストランがあった。