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プラトニクス  作者: coach
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第66話:父と娘の駆け引き

 学校であった今日一日の出来事を嬉々として語っていたのはいつ頃までのことだろうか。円は、近くで上がるキャッキャとした楽しげな声を聞きながら、そんなことをふと考えた。夕食時、家族がうち揃ったダイニングテーブルを、小学一年生の妹の声が席巻している。

「セイジ君ってすっごくエッチなんだよ。女の子のスカートめくりばっかりしてる。そのことをイブちゃんが先生に言いつけたら、自分が悪いのにセイジ君すごく怒ってね、イブちゃんにブスって。それでイブちゃん泣いちゃったから、あたしが仕返ししてあげた。あんたなんかブサイクじゃんって。そしたら、今度はあたしにブスって言ってきたから、あたしはブスじゃないってゆってやったの」

 父と母はにこにこしながらその話を聞いていた。その笑顔もあと数年のことだろう。自分の経験に照らし合わせて見れば、そうして隠し立てすることなく親に何でも話すのは、小学三四年生くらいまでのことである。妹がその年になったら、賑やかな夕食時も相当静かになるだろう。

 妹の話が続いている。

「だって、お姉ちゃんが美人なんだから、あたしがブスなわけないじゃんってゆったら、今度はね、『お前がブスなんだから姉ちゃんだってブスに決まってる』って言ってきてさ。じゃあ、今度のじゅぎょうさんかんの日にお姉ちゃんに来てもらうから、ブスかどうかみんなで決めようってことになったの」

 そこで、妹はつぶらな瞳に甘えた色を映して、こちらを見た。

「ねえ、タマキお姉ちゃん、マドカお姉ちゃん。今度のじゅぎょうさんかんの日に教室に来て。いいでしょ?」

 お子様の開く美人コンテストにエントリーして得られるものなど何も無い。時間の無駄である。円は、いやよ、とそっけなく答えた。旭はふくれっつらを作った。

「何でさ?」

「わたしは美人じゃないから。旭の友だちをがっかりさせたくない。そういうのは、もう一人のお姉ちゃんに頼んで」 

「でも、この前遊びに来たミホちゃんとユカリちゃんは、マドカお姉ちゃんのことキレイだって言ってたよ」

「焼いてあげたクッキーがおいしかったんでしょ。クッキーが美味しいと、クッキーを焼く人も可愛く見える」

 隣に座っている姉がクスクスと笑っていた。ちょっと細めた目で見てやると、

「ごめん、ごめん。その話し方、文化研究部で相当鍛えられてるなと思って」

 姉が面白そうな顔で答えた。姉の指摘は図星だった。部の先輩同士のやり取りを聞いていて、別に真似ているつもりはないのだが、その口ぶりが近頃ちょっとうつってきているようである。

「じゃあ、タマキお姉ちゃん。来てくれるでしょ」

 姉はその問いには答えずに、すっと手を伸ばすと、

「アサちゃん、お箸の持ち方、また良くない癖が出てるよ」

 妹の箸の持ち方を正した。広めの長方形のダイニングテーブルを挟んで姉と円、父と母が対面で座り、背が足りない旭だけが子ども用の足の長い椅子に皆を一望する位置を取って腰かけている。

「さ、それで食べてみて」

 姉も円も小学校に上がる前に基本的なテーブルマナーについては両親から厳しく指導を受けていたのだが、末の妹だけがそれを免れていた。彼女に甘い両親が義務を怠ったのである。その補足をするのが姉の役目だった。というよりは、姉がよく妹の面倒を見るので、その分親が安心して甘やかすことができる、というのが真相かもしれない。

 旭は持ち直した箸でぎこちなく豚バラ肉の一切れを取ると、口に入れてそして噛みながら話し出そうとした。

「アサちゃん。お口の中に食べ物が入ってるときはしゃべらないようにね。かみかみかみかみ、よく噛んでください。そうしてかみかみしてる時に、ありがとうって思うんだよ。豚さん、豚さんを育ててくれた人、お料理してくれたお母さん、お仕事してくれたお父さんにね」

 こういうセリフをさらりと、妹を感化しようという気もなく、父母に媚びようという気もなく、自分に酔うでもなく言ってのけるのだから大した人である。父母の言うことに楯突くことがある旭も、姉の言うことには逆らわない。もぐもぐもぐもぐ、と随分長い間、様々なものに感謝したあと飲み込んだ。

「ごめんなさい、アサちゃん。アサちゃんの授業参観の日って、今度の土曜日でしょ。お姉ちゃん、今度の土曜日は用事があって、アサちゃんの学校には行けないわ」

 旭はがっかりした顔をした。

「用ってなあに? だいじなこと?」

「レイくんとデートなのです」

 常に一定の穏やかな温度で話す姉の口調が、カレシの名を出す時だけかすかに熱を帯びる

 えー、と旭は大きく口を開けた。それから怒涛のラッシュが始まった。曰く、お姉ちゃんはズルい。あたしが学校行ってるときに。曰く、羨ましい、あたしも学校休んで一緒についてく。曰く、レイと一緒に学校に来てよ、参観の時間が終わったら一緒に遊ぶ、などなどなど。

 わがまま機関を全開にする妹に、姉は一言も返さなかった。ひとしきり喚きたてた妹の頭に姉はそっと手をのせると、

「きっとその日いいことがあると思うよ、アサちゃんに」

 と秘密めかしたことを告げた。いい子にしてたらね、という含みを持たせたその言葉に妹はあっさりと翻意した。姉があると言えばあるのである。妹は瞳を輝かせていたが、ふと口を難しく引き結んで何かに気がついた様子だった。もちろん、参観日の問題である。

「じゃあ、やっぱりマドカお姉ちゃん来てよ」

 じいっと強い目を向けてくる妹に、

「わたしからもお願い。マドカちゃん」

 姉までが加わって、円は嫌々ながらうなずかざるを得なかった。姉と違って特に予定があるわけでもない。しぶしぶ、分かったわよ、とコンテストへの参加を承諾したあと、

「行くのはいいけど、わたしに恥かかせないでよ、アサヒ」

 面倒を押し付けられてちょっと意地悪いことを言ってやったが、旭は、はーい、と元気良く答え、

「可愛くみえる服着てきてね、円お姉ちゃん」

 失礼なことを言ってきた。

 夕食が済んでお茶の時間になった。川名家ではあまりテレビは見られない。教育上の問題もあるかもしれないが、母によると、折角の娘たちとのひとときをドラマの人気俳優に取られることは耐え難い、という父の意向が大きいらしい。おかげで流行の番組をリアルタイムで見ることができずしばしばクラスメートとの話題に乗り遅れたりするが、それで縁遠くなるような子と大して友だちになりたいとも思わないので特に問題はなかった。

「お父さん、来週の週末ですが、お時間ありますか?」

 リビングにある足の短いテーブルで妹の宿題を見てやっていると、ダイニングテーブルから丁寧な声が流れてきた。姉は父母に対しても基本的にですます調で話をする。口調を改めたのは確か中学に入った頃からだった。一度、どうして他人行儀な口の利き方をするようになったのか訊いてみたことがある。

「お父さんとお母さんから一人の人間として扱って欲しいからよ。そのためには、まず、わたしがお父さんとお母さんのことを一人の人として尊重したいの」

 その尊重の気持ちを言葉遣いにこめているのだそうである。

――もしかしたら、お姉ちゃんはお父さんとお母さんの本当の子じゃないんじゃ……

 姉の言葉を額面どおりに受け取ることができず、そんな変な想像をしてしまった円だったが、それを聞いた母が真面目な顔で、わたしもそう思う、などと答えたので、儚くも少女の空想は霧消したのだった。

「どこか行きたいところでもあるのか? タマキとどこか出かけるのは久しぶりだなあ。何か買って欲しいものでもあるのか。よし、お父さんにどんと任せろ」

 普段ほとんどねだることなどない長女の頼みごとに、父は機嫌よく答えた。

「レイくんに会って欲しいんです」

「む……」

 父は言葉を詰まらせたようだった。以前からときどき、カレシに会わせるようにと自分から催促していたくせに、いざその機会を提供されると、二の足を踏むらしい。年頃の娘を持つ父の心など円には量りようもないが、家族の輪を見知らぬ少年に崩されるような気がして恐れているのだろうか。

「お願いできますか?」

 否も応もない。父としては受け入れざるを得ないだろう。父だけがまだ姉のボーイフレンドと会っていないのである。

「来週と言わず今週でもいいぞ。旭の参観が終わったあととか、日曜日とか」

 父は心を決めたような口調で言ったが、それは多分に嫌なことを早く済ませたいという色を含んでいた。

「いいえ、来週でお願いします」

 一週間遅らせるのはカレシ側の事情かと円は思ったが、

「そうすると、今週に続いて来週も会う口実ができるものね」

 という朗らかな母の声が聞こえてきた。さすが年の功である。姉は何も答えないようだったが、答えないということはその通りなのだろう。

 妹の宿題も終わり、姉の話も終わったと思い、円がダイニングテーブルに戻って、もう一杯紅茶を飲もうとすると、意に反して、

「もう一つ、お父さんにお願いがあるんですけれど」

 と姉が居ずまいを崩さずに父に向かっていた。今度こそ甘えてくれるのかと期待した父が機嫌よく促すと返ってきたのは、

「夏休みに二、三日、レイくんのご実家にお招きを受けてるんです。行ってきてもいいですか?」

 さすが娘に弱い父でもYESと答えるのは難しい問いであった。

「そ、それはダメだ」

「ダメですか?」

「そんな、男の家に泊まるなんていうことはだな……お前には、まだ早い」

 父は姉から視線を逸らしてもごもごと言った。キッチンに立っている母が肩を震わせているのが見えた。母は既に聞いていたのかもしれない。お父さんにお願いしてみなさい、とでも言ったのだろう。

「レイくんの家に泊まるわけじゃなくて、ご実家にお邪魔するんですが」

「同じことだ」

 珍しく父が強気に出ていた。それもそうだろう。実家にとはいえ我が娘がボーイフレンドと小旅行しようというのである。別に父の肩を持つ気はないが、事柄の性質上、今回は姉の分が悪い。とはいえ、姉にとっては障害というのは単に取り除くだけのものであって、それによって四苦八苦させられるようなものではない。どういう手で父を攻略するつもりなのか、とテーブルの椅子についた円が興味を持って見守っていると、

「チャンスをください」

 姉は静かに言った。

「チャンス?」

「はい。来週、お父さんがレイくんに会ったときに、彼がどういう人かお父さんに見定めてもらいます。そうして、もし信頼に値する人だと思ったら、夏休みの件を許してください。もし軽薄な人だと思ったり、信頼できるかどうか分からなかったら、夏休みのことは潔く諦めます」

 そう言うと、姉は座っていた木製の長椅子を立ち、テーブルから一歩離れると、父に向かって頭を下げた。姉の所作にはすべからく優美さが宿る。我を通すためであっても声を荒げたりなどはしない。もっとも、姉が我を通すことなどほとんど無かったが。

 娘から頭を下げられて何だか決まり悪い様子の父だったが、それでも、よし分かった、と言おうとしない所に父親の意地が見える。これを許したら長女を完全に取られたことになるとでも思っているのかもしれない。

 こういうとき助け舟を出すのが母の役割だろう。

「あなた。タマキが何かを頼むなんていうことほとんど無いんですから。かなえてあげたらいかがですか。どうせ、いずれ誰かに取られちゃうんですし。加藤くんはいい子ですし」

 父がショックを受けた顔を作った。もっとも近しい所から裏切り者が現れたのであるから当然ではある。

「キミまでそんなことを。そういう問題じゃない」

「でも、そのうちタマキが誰か素敵な人と結婚したいって言ってきたらどうするんですか? そのときもまだ早いって反対するんですか?」

「話が飛躍しすぎだろ」

「そんなことありません。同じことです。それに、いざとなれば女友達の家に泊まるっていうウソをついて――タマキがウソをつくなんていうことは万に一つもありませんけど――男の子の所に泊まることもできるわけですから、こうやって親にちゃんと事前に了解を取るっていうことはそれだけでも信頼に値するでしょう」

 父は重苦しいため息をついた。

「キミはどっちの味方なんだ」

 母はいまだ頭を下げたままの姉の肩をぽんと叩くと、

「この子はわたしの自慢の娘です」

 そう言って、頭を上げるように言った。

「まだお父さんの答えを頂いてません」

 姉はなお頭を上げようとせずにそう言うと、父は、ふうと息をついてから、まさか娘が十四のときに嫁に送り出す気持ちを味わうとは思わなかったと、ぶつぶつと言うと、

「会ってみてからだぞ」

 と念を押してから、姉の頭を上げさせた。

 姉は、特別喜色を表したりはせずいつも通りの涼やかな表情で、

「レイくんがお父さんのお眼鏡にかなわないときには諦めますので、よろしくお願いします」

 言うと、父はもったいぶって腕を組んだ。

「父親が娘のボーイフレンドを見る目は厳しいぞ」

「はい。うんと厳しく見て下さい」

 姉の口調はどこか楽しげで、しかも余裕さえ漂っていた。父が許してくれるに違いないと高をくくっているのだろうか。

「加藤先輩に入念に準備するように言っておかないとね」

 姉とそのカレシの件に対してちょっと皮肉げになってしまうのは、円の癖になってしまっていた。我ながら可愛くないことだとは思うが、ひと時に比べれば、これでも直って来たほうである。

 姉は微笑を含むと、よく通る声で宣言した。

「このことをレイくんに知らせる気はありません。フェアじゃないからね」

 どうやら姉の余裕はカレシへの信頼に基づいているらしかった。

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