第65話:愛の大きさ
「愛の大きさを表現してくださいっ!」
叩かれた机がバンと悲鳴を上げて、机に置かれていた筆記用具が数ミリ宙に浮いた。
怜は、嫌な顔を見せないように細心の注意を払うと、プリントから顔を上げた。
目の前に少女が立って、必死さを漂わせた瞳でこちらを見下ろしている。細い三つ編みを両肩に垂らした純朴そうな子である。彼女は、怜の隣の空いている席に無断で腰を下ろすと、じぃっと怜を見つめてきた。
嫌なものである。年頃の女の子に見つめられれば、年頃の男の子としては照れくさい気持ちになるのが普通だろう。顔立ちも整った子であるので尚更である。ところが、彼女に見られたときに感じるのは、恥ずかしさなどではなく圧迫感だった。蛇に睨まれた蛙もこういう心持ちになるのだろうか。
「佐伯、非常に申し訳ないと思ってるんだが、実はこれからタマキと約束があるんだ」
そう言って片づけようとしたプリントの一枚に、佐伯澄は自分の手を乗せた。
「タマキは今週は図書委員の仕事があるのよ。何を約束してたのかしら?」
逃亡する機会は永遠に失われ、怜はまた、いや、またまたまた貴重な昼休みが消えてなくなることを覚悟した。
「それで、何だって?」
「愛の大きさよ。それを表現してもらいたいの。わたしのこと、どのくらい好きか」
「佐伯、悪いけど」
「何も悪くない」
「お前にはシュンがいるだろ」
「だからここに来たのよ」
安息の昼休みに唐突に乱入し、付き合ってもいない男に自分のことがどのくらい好きか訊くという。まったく奇抜な行為である。詳しく説明するように促すと、彼女は苛立ちを交えた口調で話し始めた。
澄は、怜の友人の一人である五十嵐俊と付き合っている。周囲が羨むほどのラブラブぶりだという。ついこの前も俊に本をプレゼントしたらしい。これには怜も多少関わりがある。さて、前々から欲しかった本を送られて俊は非常に喜んだらしい。ひとしきり彼の感謝とそれに対する彼女の謙遜が繰り返されたあと、澄は、ふと俊に自分のことが好きかどうか聞いた。俊はもちろん、と答えた。俊は、怜とは違ってはっきりとした男である。それはもう男らしく答えてくれたそうだ。問題はその後である。
「じゃあ、どのくらいわたしのこと好き?」
こう問われたときの俊の固まった様子が見える気がした。これほど答えにくい問いもないだろう。好意を量って示せなどと要求するのはおよそ品のない行為である。もし俊が適当な男であれば、適当な答えをしたことだろう。しかし、彼は誠実な男であるので、誠実に答えたそうだ。すなわち、分からない、と。
澄はへそを曲げた。どのくらいか分からないということは、大して好きではないということではないか。さすがにそこまでダイレクトには言わなかったようだが、何度も答えを修正するよう求めたらしい。何度も無茶な問いを押し付けられて、俊が、
「じゃあ、スミちゃんはボクのことどのくらい好きなんだよ?」
訊き返したとしても、責めることはできないだろう。
澄はいっそうふくれた。
「質問を質問で返さないでください」
「スミちゃんだって答えられないじゃないか。どのくらいって言われても、東京ドーム三個分です、とか答えられるわけないだろ」
「東京ドーム三個分しかわたしのこと好きじゃないのね」
「そんなこと言ってないって」
「言った!」
「例えだよ。言えないっていう例え。大体さ、そんなこと答えられるヤツなんていないよ」
「そんなことない。シュンが考えようとしないだけよ」
「じゃあ、賭ける? 今週中にスミちゃんが知ってる男子でその問いにちゃんとスミちゃんが納得できるような答えをしてくれるヤツがいたら、ボクはスミちゃんに謝るよ。それから自分で考えてみることにする。でも、もしいなかったら、スミちゃんがボクに謝る。そして、その問いは二度としない。どう?」
「望む所です」
プレゼントの本を仲立ちにして夏の太陽にも負けないほどアツアツな状態になれたはずの二人は、決然と別れた。そうしてその片割れが今ここにいるのである。
「何人かに訊いてみたけどつまらないことしか答えてくれないんだ。もうこうなったら加藤くんにでも訊くしかないと思って」
迷惑なことこの上ない。三年生に男子は百人いるのである。せめて他の九十九人に訊いたあとにここに来たのであれば諦めもつくというものだが。内心を外に表さないように慎重を期しながら、怜は自分も気の利いたことは思いつかないと答えた。
「そんなわけない。タマキと付き合ってるんだから」
とはいえ、環にそんなことを訊かれたことなどなかった。そう言っても澄は納得しないだろう。彼女は自分の聞きたいことしか聞かないのである。その唯一の例外が俊なのであって、その俊が発端になっているのだからこれはもうどうしようもない。
「佐伯、タイチに訊いてみたか?」
「この前告白されてから話してない」
「告白って、タイチがお前に?」
「そう。ふざけてるでしょ」
――シュンがいるのに何やってんだ、あいつは。
呆れ返った男であるが、もしかしたら今は救世主になってくれるかもしれない。
「タイチに訊いてみた方がいいな。そういうことは、オレなんかよりずっと詳しいだろ」
そう言うと、怜はすっと手を挙げてその手で手招きをしてみせた。その手に応じてのこのことやって来てくれたのが、太一だった。実は彼は少し離れたところで、女子のグループに混ざり歓談していたのである。話し相手としては、澄だって彼女たちに何ら劣る所はない。
「何だよ、レイ?」
近くにいる澄を見てちょっとぎょっとしたような顔をした太一だったが、事情を聞くと、何だそんなことか、と余裕の笑みを浮かべた。
「簡単なことだろ、そんなの。シュンもどうしてそんなことくらい言えないんだろうな」
大言を吐く太一に、澄は胡乱な目を向けた。俊を悩ませたことがこの男にできるのだろうか、という色が見える。怜も全く同意であったが、人には得手不得手がある。俊の不得手が太一の得手であるかもしれず、またそれによって運よく澄の無体な要求から逃れられるかもしれず。
「宇宙を一つの単位とすると、百万宇宙くらいだよ」
期待した自分を怜は深く恥じた。澄も冷たい目をしている。
自信満々な顔をしている太一に、澄はため息をついた。
「じゃあ、一千万宇宙より小さいんだ。その愛を受けられる人はどんな人なんでしょうね? わたしよりよっぽど愛されてるんだわ」
うっ、と唸った太一は、
「この命と同じくらいさ」
再度チャレンジしたが、
「じゃあ、今すぐ死んでみせてください」
澄は容赦ない。ショックを受けた太一の顔を見て、怜は気の毒になってきた。彼をいけにえの羊にして心に軽い痛みを覚えた。絆創膏を張れば良いくらいのかすり傷ではあるが。
太一はまだめげなかった。こと恋愛問題に関する限り、不屈の男である。
「君がぼくのことを好きな気持ちの倍は好きだよ」
これは中々良い答えのように思われた。プレイボーイの面目躍如になるか、と思いきや、澄はやれやれと首を振ると、
「それはわたしがあなたのことをどのくらい好きか分かってないんだわ。気楽に倍なんて言えないほど好きなのに。あなたはわたしのことを何も分かってない」
しみじみと言ったのち、別れましょ、と呟いた。
太一は、近くにあった椅子にがっくりと座り込んだ。怜は心中で太一をねぎらった。一矢も報いられずに敗北したにせよ、怜の為に戦ってくれたのである。
「じゃあ、加藤君の番よ」
澄の目が、燃え尽きた太一から、怜に向けられた。
番とは何の? か弱い男心を燃やし尽くされる番ということか?
「さ、答えて」
怜は少し時間を取り、考えをまとめた。ゆるるかな昼の光で満ちた気だるい空気の中で、この周囲だけが緊張を帯びていた。昼『休み』にどうして緊張を強いられなければならないのかと思うが、友人の為である。怜は軽く息を吸い込んだ。
「オレが君の事をどのくらい愛してるかって? それを表現するためには新しい言葉を一つ創造しなければいけない。その言葉は今まであったどんな言葉よりも美しく、今後この世界が終わるまで、億万の恋人達が愛を語るために一番に使う言葉になるだろう。その言葉を探すため、オレはオレの一生を捧げるよ、君の隣で」
怜には悔いはなかった。微力ながら、今の所、これが全力である。跳ね返されたら次の手は無い。太一と一緒になって燃え尽きるのを覚悟した怜だったが、澄の口から地獄の業火は吐かれなかった。代わりに彼女の口元には笑みが漂っていた。それは顔全体に広がって会心の笑みとなった。
「賭けはわたしの勝ちのようね。ありがとう、加藤くん。これで、シュンに考えてもらうことができるわ」
どうやら納得してくれたらしい。怜は、女の子の心無い一言によって傷つけられる心配がなくなってほっとしたが、澄の言葉にひっかかりを覚えた。
「今、何て?」
「だから、ありがとうって」
「じゃなくてその次だよ」
「シュンにわたしのことどのくらい好きか考えてもらえるって」
状況に流されてつい忘れていた。うまい答えを返すことは俊のためになるのではなく、逆に俊を追い詰めることになるのだった。怜は心の中で俊に頭を下げたが、すぐに思い直した。もとはと言えば自業自得である。事柄の性質も犬も喰わない類のことであって、俊が自分で何とかするだろう。何とかならなくても何ともならないに違いない。
席を立った澄が、去り際に、
「加藤くんはさ、タマキにいつもそんなこと言ってんの?」
とんでもないことを訊いてきた。
「そんなわけないだろ」
「どうして?」
「タマキにこんなこと言ってみろ。呆れられるだけだ」
「訊かれたことないの?」
「ないよ」
「女の子だったら誰でも訊きたいことだと思うけどな」
「オレは女の子じゃない。その辺のことが不思議だったら、タマキに直接訊いてくれ」
時間があればここから女心に関するレクチャーが始まる所であったが、幸いなことに昼休みは残りわずかだった。澄は不承不承六組を後にした。無駄に傷心を抱えることになった太一は、
「今度から師匠と呼ばせてくれ」
と怜に救いを求めたが、怜は弟子を取る気はないことをつれなく告げて引き取ってもらった。
のちほど澄から聞いた話であるが、彼女はその後五組に戻ると、居合わせた環に訊いたそうである。
「加藤くんがタマキのことどのくらい好きか訊きたいよね、もちろん」
それに対して環は、
「わたしなら、わたしのことをどのくらい好きかなんてこと訊かないし……レイくんに言って欲しくもないわ」
言い切ったらしい。どうして、と続けて訊く澄に、
「どんなものも言葉にしてしまったら形のある限りあるものになる。でも、ここにあれば……」
そう言って自分の胸に手を置いたあと、
「それは無限の広がりを持つ」
環は微笑しながら言ったということだ。
もちろん、澄は納得しなかったそうである。