第63話:ハイドアウトの密談
通学路から少し裏に入ったところに連れて行かれた宏人は、一軒の喫茶店を見た。駐車スペースが二三台ほどしかない、小ぢんまりとした店である。喫茶『シルビア』。どこかで聞いたような気がする名だった。確か母が何かの集まりでコーヒーを飲んだと言っていたような気がする。
「美味しかったけど、高かったのよね」
どうやら主婦が気軽にお茶をするには敷居が高いらしい。とすれば、中学生はなおさらということになり、校則で喫茶店入店が禁じられていることもあるので、志保がずんずんと臆せずに店構えに向かっているのを見て、宏人はどきっとした。
「おい、どうするんだよ?」
「立ち話もなんだから、お茶でもしながらと思ったんだけど」
何ということも無い口調でいう。もはや志保は全くの別人であった。せめて彼女が二重人格ででもあってくれれば面目も多少は保てるというものである。宏人が助力したのは、多分人見知りの激しい優しい人格の方だったのだ。そうに違いない。
「クラスで仲間はずれになる勇気はあっても、喫茶店に入る勇気はないの?」
人の目など全く意に介さない厚かましい人格の方が、からかうような目を向けてきた。そんな安い挑発に乗るような宏人ではない。勇気と無謀とは違うのである。立ち止まった宏人に志保は、
「大丈夫よ。実はここ叔母が経営してるの」
と、自信の種明かしをしたあと、宏人を手招きした。安心した宏人を後ろにして、志保が喫茶店にしては重厚な造りの扉を開けた。からんからん、というきれいな鈴の音が鳴る。入り口は二重扉になっていて、もう一枚軽いドアを開けた先が店内だった。
ウエイトレスの制服を着た女性が、いらっしゃいませ、と淑やかな声で言って頭を下げた。その下げられた頭が上がったとき、営業用スマイルが和らいで心からの笑みになった。
「シホちゃんじゃないの」
「こんばんは、叔母さん」
女性はきっちりと整えられた眉を顰めた。
「おばさんっていう言葉がさ、血縁関係を表す意味じゃない他の意味に聞こえてしまう微妙な年なのよ。できれば名前で呼んでくれる?」
「三十三だっけ、菫さん?」
「失礼ね、まだ三十二よ」
「一歳の年の差を気にする所がおばさんなんじゃない?」
「何て嫌な子なのかしら」
「年なんてどうでもいいじゃない。その制服、この店の誰よりも似合ってるよ」
「何て良い子なの」
感激する女性を、志保は自分の叔母だと言って、宏人に紹介した。
「経営者なのに制服を着る無類の制服好き」
「変な言い方しないでよ、志保ちゃん。店長みずから着ないとどーいうもんなのか分からんでしょ。従業員のことを考えて仕方なく着てるのよ。それよりさ、もしかしてこの子が?」
志保はちらりと宏人を見ると、片手で顔を隠すようにして恥ずかしげな様子を作った。
「はい、カレシです」
何度も驚かされるのもしゃくであった宏人は、志保の突然の告白にも動じずに、
「初めまして。志保さんとは十分前からお付き合いさせていただいてます。もう別れようかとひそかに思ってます」
言ってやった。その瞬間、宏人は鈍い痛みを両肩に感じた。間をつめた志保の叔母が、がしっと宏人の両肩を掴んでいたのだ。
「ええっと、君名前は……そう、ヒロトくんね。ねえ、ヒロトくん、シホちゃんは確かに一見性格悪いけど、一見可愛げがないけど、一見付き合いにくいけど、でも、とってもいい子よ。それにね、まあ今はこんな程度ですけど、ゆくゆくはわたしみたいな美人になるからさ。これは買いですよ、お客さん」
妙齢の女性に間近に来られて恥ずかしいこともあるが、それよりも爛々と燃える目が怖い。
「別れないであげてね」
言葉と手に力がこもっている。
宏人は、ぶんぶん、と首を縦に振った。
「じゃあ、二名様ご案内」
店内は薄暗かった。外から光をほとんど取り入れていないようである。灯りはもっぱらランプの緩やかなものである。いい具合に観葉植物が配されているので、それぞれのテーブルが別のテーブルからあまり窺えないようになっている。隠れ家みたいだな、と宏人は思った。
テーブルに着くと、
「お勧めの紅茶とケーキを持ってくるから」
と言って、志保の叔母は去った。
鞄を下ろして席に着いた宏人は、
「いつカレシになったんだよ?」
先の冗談の理由を訊くと、
「じゃあ、千二百円払う?」
真剣な声音で過激な答えが返ってきた。
「初めてカレシができて、そのカレシとのデートでここに来るときはいつでも無料にしてくれるっていう約束なのよ。わたしお小遣いは月三千円しかもらってないんだけどさ、倉木くんは?」
「同じく」
「それじゃ、お互いのために恋人同士でいましょうよ。そうすれば、美味しい紅茶とケーキが無料で食べられる。ね、ヒロト」
カレシの件は了承したとしても、
「何でいきなり呼び捨てなんだよ?」
訊くと、知らないの、と大げさに驚いた風を作って志保。
「古来からのしきたり。恋人同士は名前で呼び合うのよ。わたしのこともシホって呼んでね」
「分かったよ。シホちゃん」
「何でちゃん付けなの?」
「知らないのか? 男は、名前で呼んでくれってカノジョに言われても、初めのうちは恥ずかしくてできなくて、ちゃん付けで妥協するんだよ」
一体何の話があってここに連れてきたのか。まさか無料でケーキを食べるための口実にしたわけでもないだろう。宏人が口を開こうとしたときに、紅茶とショートケーキが現れた。
「ごゆっくりねと言いたいところだけど、もう遅いから、また次の機会にゆっくりと来てね。それを食べたら速やかにお帰りなさい」
志保の叔母が再び去ったのち、宏人はフォークに手を伸ばした。甘みが抑えられた上品な味のケーキである。隣に置かれたアッサムティとの相性は抜群だった。今日あった嫌なことも忘れ、しばし幸せな気分に浸っていると、正面に座っている少女が心持ち居ずまいを正した。
「わたしたちで二年二組を支配しよう」
口をつけていたティカップをソーサーに戻した宏人にかけられた言葉は、非常に抽象的で何だかよく分からなかった。
「支配?」
「そう」
店内に静かに流れるゆるやかなクラシック音楽を聞きながら、しばらく考えてみたが、分かったのは自分の馬鹿さ加減だった。つまり何も分からなかった。
「オレはこれまで普通だと思ってきたけど、どうやら普通以下だったらしい」
「そんなに落ち込むことないよ。これから努力すればどうとでもなるからさ。前向きに生きてください」
励ましの言葉をかけられてどうにか立ち直った宏人は、不出来な聞き手のために、もう少し噛み砕いて説明してくれるように頼んだ。
「二組をわたしたちの意のままに操るってことよ。今、松本がやってることをわたしたちがする。差別したい人間を差別したり、クラス行事の分担に裏から手を回したりする」
志保の声は穏やかで力みがない。そういう調子で語られると、こっちの方がおかしいのかという気になるが、やはり変なことを言っているのは向こうのほうである。
宏人の困惑を気にせず、志保は説明を続けた。
「このままだと、今年の一年間はロクなことにならない。それはさっき言った通りよ。それが嫌なら戦うしかない。わたしたちでメジャーグループを組織して、松本グループと対決する。そして勝つ」
志保の言いたいことは、さっぱり宏人の心に響いてこなかった。表面的には分かる。つまりは、今孤立している志保と宏人を中心にしたグループを作って、大きくして、一年間松本グループに嫌がらせを受けずに楽しくクラス生活を送るようにするということだろう。
「それだけじゃない。逆に、松本とその取り巻きにわたしたちと同じ思いをさせる」
志保の声が冷たさを帯びた。
「やっぱ、お前。あいつのこと恨んでる……よな」
聞かずもがなのことである。自分を仲間はずれにしているグループのリーダーである。恨まないほうがおかしい。しかし、志保は意表をつかれた顔をしたあとに、恨んではいないわよ、と平気な声で答えた。
「無理するなよ。自分に嫌がらせをするヤツだぞ。恨まないわけないだろ」
「松本はクズよ」
「何だって?」
聞き間違いだろうか。女の子の口から出るはずのない言葉が出たような気がする。
「人間のクズだって言ったの。他人に嫌がらせしてそれを楽しんでる。わたしは、そういうクズに多少のことをされたって何も感じない。恨む? 道にある石に転んだからっていってその石を恨んだりする? わたしにとっては、松本はその程度の人間よ。気にかけてやる価値なんかないわ……どうしたの?」
「オレ、今日から女子恐怖症になるかもしんない」
幻聴ではなかったことが分かった宏人は頭を抱えたくなった。姉のように表と裏の顔を使い分ける女の子というのはあくまで例外だと思っていたのだが、あまりに身近に二人目が現れたのである。これを皮切りに三人目、四人目という感じでどしどしと登場してきたら正気を保てる自信はない。
「あのさあ、一つ忠告しておいてあげるけど、『女の子』なんていう子はいない。一人一人の子がいてそれがたまたま、男の子だったり女の子だったりするだけでしょ。性別じゃなくて、その子自身を見ないとね」
「女の子は可愛いはずだって思うのがいけないのかよ?」
「いけなくはない。でもその考えはあなたを傷つけると思って。カレシが傷つくのを見てられないのよ、ヒロト」
「シホちゃんに質問があるんですけど」
「好きな男の子のタイプは――」
宏人は無視した。
「松本のこと気にしないっていうなら、どうして松本にやり返そうって話になるんですか? 理屈が合わないじゃないスか」
「気が変わったのよ。繊細な美少年を守ってみたくなった」
宏人はだらりと椅子の背もたれにもたれかかった。騎士の称号を返上する代わりに王女の位を得たのだ。何という名誉なことであろう。降って湧いた名誉に力が抜ける宏人に、
「ちょっと、しゃきっとしてよ」
と志保が無茶なことを言う。冷めたアッサムティの力を借りて、どうにかこうにか座り直した宏人に、志保は『二年二組支配下計画』のさわりを話し始めた。