第62話:騎士の称号を得た少年
いつも読んでくださってありがとうございます。
今回も宏人くんの話で前回の続きです。志保に助力を断られた宏人が取った行動とは――。
では、お楽しみください。
「どうしたの、ヒロトくん。こんな所で」
軽やかな声が耳を打ち、いや耳を打ちつけて耳鳴りを覚えた。部活動が終わった夕刻。校舎の裏門前で佇んでいた宏人は、おそるおそる声がかけられたほうを向いた。会うかもしれないことに対して一応覚悟はしていのだが、それは半端なものだったようである。胃が重たくなるのを感じながら視線を向けた先に、予想通りの一人の少女の姿。
肩掛けタイプの鞄を提げたジャージ地の運動服姿の姉が、いかにも弟が可愛くてしかたがないという風を装った笑顔でそこにいた。家の中では鬼面しか向けたことのない姉が、そんな顔をする原因が彼女の横に二人立っている。同じテニス部の部員の少女たちである。
「もしかしてお姉ちゃんを待っててくれたの?」
姉が気持ちの悪い甘やかな声で続けた。まさか自分の弟に自らシスコンの烙印を押してやろうとは恐れ入ったことである。ノーマルでいたい宏人は仕方なく、志保を待っている旨、正直に答えた。
「シホちゃんに何の用なの?」
「藤沢、どこにいるの?」
「もう来ると思うけど……」
姉の目が鋭く光り、質問に答えろと促している。宏人は、
「これから藤沢に告白しようと思ってるんだ」
とぞんざいに答えた。え、と意表を衝かれた顔を作る姉。その近くで聞いていた二人の三年生女子が、わあ、と小さく歓声を上げた。その二人に向かって、
「だから、すみませんけど、ブラコンの姉を連れてってください。嫉妬して、告白の邪魔するかもしれないんで」
宏人は軽く頭を下げた。とてもとても姉の方は怖くて見られなかったが、二人の先輩女子が気を利かせて、姉を連れ去ってくれたので見なくて済んだ。家に帰ったあとが恐ろしいが、それよりもどうしても今日処理したい問題があるのである。微妙な問題なので、なんらの形であれ、姉に関わってもらいたくない。
友人に引きずられるようにして姉が立ち去ったのち、何人かのテニス部員たちをやり過ごし、待つと、こちらを認めたくせにそそくさとその場を離れていった一人の少女に宏人は目をつけた。小走りして癖毛の彼女の隣に並ぶと、宏人が話しかけるより先に、
「ど、どうしたの、倉木くん?」
と、さも意外そうな調子の声がかけられた。宏人が、
「それはこっちのセリフだ。何で逃げるんだよ、藤沢? オレはストーカーか? フラれたけどお前を諦めきれない元カレか?」
と、軽く責める色を含ませて尋ねると、すみません、と志保は悄然と肩を落とした。
「藤沢、家どっち? 歩きながらでいいよ、話したいことがある」
「わたしと歩いてたりしたら――」
宏人は志保の言葉を手を出して遮った。彼女の言いたいことは分かっている。一緒に歩いてる所を誰かに見られたらクラスでの宏人の立場がさらに悪くなるということだろう。
「さっき逃げたのもそういう理由?」
宏人が確認すると、志保はこくんと小さくうなずいた。
「藤沢って弟いる?」
宏人は志保にそのまま歩くよう促しながら尋ねた。話題の急変に戸惑う素振りを見せながらも志保が、います、と答えると、
「同級生にこれだけ気を遣えるってことは、メチャメチャ面倒見てるんだろうな?」
と宏人。半分嫌味である。心遣いは嬉しいが、遣われ過ぎというのも男の子としてのプライドが傷つく。
「そんなに繊細に見えるか?」
下を見て押し黙ってしまった志保と宏人はしばらく無言で歩いた。空にはあかあかと燃える夕日があって、その一方で地には薄闇が広がりつつある。昼と夜が出会う時間帯だった。宏人は気分を切り替えた。こんな嫌味を言うために、姉を無理に退けるという危険を冒したわけではない。藤沢、と声をかけたが、彼女が答えないので、宏人は勝手にしゃべり出した。
「昼間のことなんだけどさ。お前、オレにもう話しかけるなって言っただろ……まあ、早速話しかけてるわけだけど。オレさ、これからも普通に話しかけるよ、お前に。別にいいだろ?」
宏人は答えを待ったが、志保は何も言わず俯いたままだった。
「だって、おかしいだろ。クラスメートに話しかけちゃいけないってさ。お前の気遣いはありがたいけどさ、オレ、松本のグループに戻りたいとか思わないし。この前の給食の時のことだって後悔なんてしてない。……っていうか、今思えば、あのスープを、松本たちにひっかけてやれば面白かったな」
うんうん、と冗談めかして一人納得した振りをした宏人はふと立ち止まった。志保が歩みを止めたからである。
「倉木くん……」
志保は真剣な光を湛えた目で宏人を見つめた。宏人は、はっとした。彼女の真剣さもそうだが、思いもよらず綺麗な瞳だったのでびっくりしたのである。いつも伏し目がちな志保としっかりと目を合わせるのは初めてのことだった。二重まぶたが彩るやや吊り上がった目の中には一点の曇りも無いように見えた。
「倉木くんは何も分かってないよ」
志保が、いつもと違ったはっきりとした口調で言った。それも宏人を驚かせた。
「どういうことだよ?」
動揺を極力鎮めようとしながら宏人が訊くと、志保は真情をぶつけるような言い方をした。
「松本くんたちのグループに戻らないってことは、毎日話す人もいなくなるし、これからクラスで行事があるたびに仲間外れになるってことだよ。十月には修学旅行もあるし。もし、わたしに同情してくれてるなら、そういうのはやめてもらいたいの。お昼のときに言った通り、わたしは慣れてるから、大丈夫。倉木くんはそういう目に遭ったことがないから、多分イメージがちゃんとできてないんだよ。だから、今の事態を軽く見てる」
志保の口調はしっかりとしたものだった。気のせいだと思いたいが、何だか姉にものを言われているような気分だった。宏人は拳を作って手の平に爪を食い込ませ、幻想を振り払うと、今志保が言ったことは既に考慮済みであることを告げた。
「頭の中でちょっと考えたこととね、実際のことは全然違うよ。だから、もう本当に……ね、倉木くん」
志保は瞳に苦悩を滲ませた。
――オレはしなくても良いお節介をしてるのか?
と一瞬疑いの気持ちが生まれたが、宏人はそれをすぐに消した。というのも、仮にお節介であったとしても、先週の金曜日に起こった『お前には給仕してもらいたくねーよ』事件のようなものを、見過ごす気持ちになどなれないからだ。志保が余計なお世話だと感じていたとしても、究極的には宏人の行動に影響を与えない。
「どうしてもなの?」
確認をするような志保の問いに、宏人は力強くうなずいた。
「クラスの子と話せなくなるよ」
「藤沢がいるだろ」
「行事では仲間はずれにされるよ。雑用ばっかやらされるかも」
「雑用も立派な仕事だろ」
「修学旅行で誰からも班を組んでもらえなくなるよ」
「上等。そうなる前に、担任に『オレは一人の班になる』って宣言してやるよ」
高らかに言い切った宏人の前で、志保はその顔を両手に埋めるようにすると、何かに耐えるように肩をふるわせ始めた。
こんなときどういう対応をすれば良いのだろうか。これまで深刻な状況に陥った女の子に対したことなどない宏人には、対処の仕方がまるで分からなかった。慰めれば良いのか、それとも励ませば良いのだろうか。ただ、分からないのは幸いだった。かっこつけて、
「泣くなよ、藤沢」
なんていう声をかけたり、彼女の肩をぽんぽんと優しく叩いたり、もしそういう類のことをしていたら、恥の上塗りになっただろう。
というのも――
「ふ、ふふ……あはははははは」
慰めも励ましも必要なかったからだ。志保は、宏人から体をそむけると、どうにも抑えられない様子で笑い出した。
宏人は呆然とした様子でそれを見ていた。てっきり泣いているものとばかり思っていた少女が、薄暗くなってきた空に向かって呵呵大笑しているのだから、当然の反応であるといえる。
「あ……あの、藤沢……さん?」
ケタケタと笑い続ける少女に、宏人はこわごわと声をかけた。もしかしたらあまりの緊張のためにおかしくなってしまったのか、と心配したがそれは杞憂であった。ひとしきり笑ったのち宏人を見た志保のその瞳に狂気の色はなかった。
「自分がお姫様になるとは思いもしなかったわ」
澄んだ目を向けてくる志保に、宏人は首を傾げた。何のことを言っているのかさっぱりである。訝しげに次の言葉を待っていると、
「倉木くんは、アレでしょ。騎士になりたいんでしょ。か弱い女の子の盾になる役。人選を間違えたみたいね。わたしは、悪いけどさ、そういうガラじゃないんだよね」
さらに混乱させる言葉がかけられた。話が全く見えない。
志保は、宏人の理解力のなさに呆れ顔を作った。
「分からない人だなあ。だからさ、クラスの中で無視されてることとか、この前の給食の時のこととか、そんなのわたしはこれっぽっちも気にしてないってことよ。でも、平然としてると嫌がらせがエスカレートするかもしれないから、適当に傷ついてる振りをしてるってこと」
「振り……だって?」
ようやく少し分かってきた宏人だったが、さらに踏み込んだ理解をとどめようとする何ものかがでんと横たわっていた。これ以上は考えない方がいいよ、と頭の中で声がする。持ち前の誠実さでもってそのメンタルブロックを破壊した先にあったのは、
「つまり、オレは勘違いしてたってことなのか?」
という救われない答えだった。志保の頼りなげな仕種や儚げな気配は全て演技だったということである。それを彼女の実態だという風に勝手に思い込み奮闘していた哀れな役者が宏人だったという訳である。
志保は答えない代わりに、その唇に不敵な笑みを浮かべていた。彼女はこれまでとがらりと雰囲気を変えていた。その瞳に繊細な色はもはやなく、強く自信に満ち溢れた光が差していた。
「う……嘘だろ」
と思いたかったが、志保から感じる確かな威というものがあって、それが彼女が言葉だけで強がっているわけではないことを明確に示していた。
「お前、今までオレを……」
「オレを何?」
騙してたのかと続けそうになった宏人は慌てて口をつぐんだ。そういう責め方はお門違いである。別に志保が助けを求めてきたわけではない。宏人が勝手にしたことである。
宏人はぶんぶんと首を横に振ると、セリフを差し替えた。
「これまでのクラスでのお前はネコかぶってたってことか?」
はっきりと確認したい宏人が言わずもがなのことを訊くと、何が面白いのか、いや事実面白いのだろうが、志保がにやにやしながらゆっくりとうなずいた。
宏人は、ふらふらする体を、歩道に沿って植えられてある立ち木の一本に寄りかからせた。とても自力で立っていられそうにない。この数日間いろいろと悩んだことや、良かれと思って取った行動が全て無駄……というより志保の迷惑になっていたのである。しかも、ナイト気取りとまで言われ、それにはっきりと反論できない自分がいるのを認めざるを得なかった。女の子を助ける役の自分に酔っていなかったかと言われると……。
「まあまあ、誰しも、そーいうこともありますよ。あまりお気になさらずに」
「藤沢……」
「なあに?」
「オレってピエロか?」
「うん。一流のね」
宏人は、木に寄りかからせていた肩をがっくりと落としてその場に座り込んだ。穴があれば、ためらわず入っていただろう。周囲を見回すと、少し離れたところにマンホールがあった。あそこでもいいか、と沈みきっていると、
「でさ、さっきの話、どうする?」
上から軽やかな声が降ってきた。こちらのショックをまるで意に介さないようなそのお気楽な声の主に、宏人は最後の力を振り絞って強い目を向けてやったが、志保は宏人の凶相をものともしなかった。志保は静かに宏人に手を差し伸べると、
「この手を取る? それとも松本くんたちのグループに戻る?」
挑戦的な声で言った。
彼女の手を取る魅力は激減したが、それでも宏人はためらわずその手を取った。もうこうなったら自棄である。志保としては、おそらく宏人に松本グループに戻ることを期待しているのであろうが、彼女の期待通りのことをしてやる気は今の宏人にはない。それに、松本たちがしていることにはどんな形であれ加担したくない、という気持ちは本当だった。
志保が軽く手を引くようにするのに従って、宏人は立ち上がった。
「もの好きな人だな。わたしを選ぶなんて」
「迷惑じゃないのか?」
精一杯の皮肉を言ってやると、志保は平然と、別に、と答えた。
「さっきはあなたのことを想っただけよ。何にしても助けてくれたわけだからさ。それより、三十分くらい時間ある? ちょっと付き合ってもらいたいんだけど」
唐突な誘いにも、宏人は二の足を踏まなかった。ショックを受けすぎて、重ねて何が起きても驚きそうにもない。
志保は手を放すと先に立って歩き出した。宏人は制服のズボンの尻を叩いて土を払うと、志保の背を追った。