第61話:無法者を待つリアル
いつもありがとうございまーす。
今回は宏人くんのお話です。一人の少女を守るためにクラスを敵に回すことを選んだ少年。彼の運命や、いかに。第41、42、44話の続きになります。
何かを間違えたことに気がつくのに学校に行く日で数えて三日かかった。何かがおかしい。途中の計算を間違えてとうとう合わなくなった数学の答えのごとく、どこかでミスをしてしまった自分を宏人は感じていた。しかも、数学であれば模範解答と己の答えを照合できるのだが、宏人が直面している問題には解説はなかった。
クラスメートの藤沢志保のことである。
様子がおかしい。いや、彼女自体には変わりはないのである。もともと目立たない子で、行動を変えたわけでもなく、やはりひっそりと学校生活を送っている。変わったのは、宏人に対する態度だった。話しかけてもどこかよそよそしい。もちろん、彼女とはそれほど仲が良かったわけではなく、話すようになって数日という付き合いに過ぎないのだが。
――それにしても……
と、はっきりと怪しむ気持ちが出てきたのはつい先ほどのこと。朝の教室に入って、いつものように本を読んでいる志保に挨拶したのだが、彼女はちらりとだけ本から目を上げて挨拶しただけで、すぐに本に戻ってしまった。まるで、話しかけないで欲しい、という拒絶の意思表示のように見えた。
――え、もしかして避けられてるのか、オレ。
ということを直感した宏人はそれ以上話しかけるわけにもいかず、自分の席につくしかなかったのである。そうして、席について、志保の態度が変わった理由について考えていたというわけだ。
今になってよくよく考えてみれば、先週の「給食時仲間外れ事件」の直後から、彼女の態度が少し変わっていたようである。宏人が冗談を言っても笑みを見せなくなった。ただ、それはそれ。女の子の気持ちなど分からない健全な男子中学生としては、その態度をもって嫌われてると断定するわけにもいかず、めげずに話しかけていたというわけである。
ただ、それも三日目になると、いくら鈍感な宏人としても気がつくというものである。
では、なぜ嫌われたか。原因に心当たりはない。会話の中で何か不適切な発言をしてしまったのだろうか。女子に対しても大した遠慮をするわけではないので、そういうこともあるかもしれないが、男女問わず、人に接する時は最低限の礼儀は通しているつもりである。
さっぱり分からない。
「頭でも痛いの? 倉木くん?」
宏人が首を捻っていると、斜め前から心配げな声がかかった。二瓶瑛子である。いつもは肩に流しているセミロングの黒髪が今日は低い位置で軽くまとめられていて、たったそれだけのことで人の目を引くような愛らしさが彼女にはある。
「さっきからうんうん唸ってるから、大丈夫かなって」
宏人はドキドキしながら、何でもない旨を伝えた。むしろ、クラスのマドンナ的存在に話しかけられてる今の方が大丈夫ではない。
「なら良かった。今日の英語の予習やってきた?」
「もちろん」
「真面目だね、倉木くんって」
「それって褒め言葉?」
「もちろん。そして感謝の言葉でもあるよ」
「感謝?」
瑛子は物欲しげな様子で手を差し伸べてきた。
「わたし、今日当てられるかもしれないんだ」
「二瓶が予習してきてないなんてことあり得ないだろ」
「倉木くんは、わたし自身よりわたしのことよく知ってるんだね〜」
からかうように言う瑛子に、宏人は英語のノートを手渡した。瑛子はにこりと微笑んで、今すぐ返すから、と言って自分の机に向かい横顔を見せた。
宏人は、好意を持っている女の子と話をして、ほんわかした気分になったが、すぐにそれは冷めた。周囲からひややかな視線を送られていることに気がついたからである。宏人にではない。瑛子にである。宏人はすでにそういうひややかな視線さえ送られない位置にいた。
志保の味方になることを婉曲に示した例の事件以来、宏人はクラスから孤立した。ほとんど誰からも話しかけられなくなり、またこちらから話しかけても一言、二言が返って来るだけで、何だか事務的に対応しているだけのような反応だった。メジャーグループのリーダー男子、松本の意向である。
宏人は晴れて追放者になった。クラス内秩序から外れた人間になったわけである。こうなると秩序内の恩恵は全て受けられなくなる。普段の会話から、班になったときの班行動、行事への参加権など、クラス生活を楽しむありとあるものが奪われる。
そして、追放者と話す人間は連累と見なされ新たな標的となる。それが瑛子だった。宏人の周囲の人間で彼女だけは態度を変えていなかった。女子であることもあり、さらにはそもそも誰にでも愛想よく振舞っていたこともあって、さすがの松本にも瑛子を仲間外れにするだけの力はない。ただし、松本は女子のメジャーグループのリーダーとも仲が良く、実は瑛子はそのグループに属している。とすれば、そのリーダーを通して松本から瑛子に、
「倉木には話しかけるな」
という警告が伝えられていることは十分に考えられる。にも関わらず、瑛子の態度は変わらない。宏人の好感はますます高まった。
とはいえ、そうして好意を抱いている子が、自分のせいでクラス内の立場を悪くするのではやり切れない。
「ありがと」
作業を終えた瑛子が差し出したノートを手に取りながら、宏人は、できるだけ早いうちに折りをみて、自分には話しかけないほうがいいということを伝えるよう決意した。
瑛子のことも問題だが、志保のほうがもっと差し迫っている。少し離れたところから彼女の癖毛の頭を見ながら、たっぷりと四コマ分の授業時間を使って思い悩んだ宏人だったが、答えは出なかった。また、仮に出たとしてもそれが正解なのかどうか分かるはずもないということに気がつき、思い切って行動に移ることにした。
昼食後に志保が席を立って廊下に出たのを、宏人は追いかけた。後ろから声をかけて、彼女を立ち止まらせると、どこに行くのか尋ねた。
「……男子には言いたくない所です」
伏し目がちにいう志保。
ごめん、とぶしつけを詫びた宏人は、ちょっと話があるということを告げた。
「どんなお話ですか?」
「ちょっと微妙な話。二人きりで話したいから、教室以外の所で話したいんだけど」
「……分かりました」
「オレ、女子トイレの前で待っててもいい?」
「や、やめてください!」
志保は生徒用玄関の所で待つように言ってきた。
「校庭の隅だったら誰にも聞かれませんから」
言われた通りにして、下駄箱のある生徒用玄関で彼女を待っていると程なくして、志保は現れた。二人して下足に履き替えて外に出る。眩しい昼の光の中を少し歩いて、二人は校庭の隅にたどり着いた。校庭では、さまざまなスポーツに打ち興じる生徒たちが喚声を上げていた。
「この辺でいいですよね」
緑の葉を茂らせる桜の木陰に入った志保が言った。
「それでどういうお話ですか?」
宏人は単刀直入に切り出した。なんで嫌われてるのか。なにか悪いことをしたか、訊くと、志保はふるふる、と頭を横に振った。
「嫌ってなんかいませんし……倉木くんはなにも悪いことなんかしてません」
「え? じゃあ、やっぱ、オレの勘違いか。じゃあ、いいんだけどさ」
ほっとしたように息をつく宏人に、
「いいえ」
と少し下の位置から視線を上げる志保。
「倉木くんを避けてたのは本当です」
何も悪いことをしてないのになぜ避けられなければならないのか。怪訝な目をする宏人に、志保は、
「わたしと話していると、倉木くんに迷惑がかかると思って」
と静かに告げた。
すっと腑に落ちるものがあった。詰まる所、志保は宏人と同じことを考えていたというわけである。宏人が瑛子に忠告しようとしていたことを、志保が宏人にしていたということなのである。宏人は自分の鈍さに呆れた。
志保の話は続いている。
「先週の金曜日に倉木くんがわたしに給食のお椀を出してくれたことはとても嬉しかったんですけど……あれで、松本くんたちから倉木くんが無視されるようになったみたいで、それが申し訳なくて。わたしと話さえしなければ、少し経てば、また松本くんたちのグループに戻れると思うから。だから……」
しめやかな調子の言葉を聞いているうちに、宏人は怒りを覚えてきた。なぜこんな風に志保や自分が遠慮しなければならないのか。理不尽である。クラスのメジャーグループに属さないからといって、どうして肩身を狭くしなければいけないのだろうか。
「……倉木くん?」
怖い顔をしていたのだろう。どこか怯えが混じった声で志保がこちらを見ているのに、宏人は気がついた。
「わたしのことは、気にしないでください。一年のときもこういう感じだったし、慣れてるから。これは強がりとかじゃなくてね。本当に大丈夫。だから、もうわたしには話しかけないで」
それだけ言うと、志保はぺこりと頭を下げて、宏人が止める間もなく、早足でその場を立ち去った。
宏人が視線を向けた志保の背には同情を拒むような風があった。
宏人は、志保の言った言葉を胸のうちで反芻していたが、彼女の優しい要求の諾否を考えるのにほとんど時間を要さなかった。