第60話:導きの光
読んでくださってる方に心からの感謝を。
今回は怜と環のお話です。お楽しみください。
努めて落ち着こうとしたのだが、胸のうちにざわざわと騒ぐものをうまく治めることができなかった。
腑に落ちない。なぜよく知りもしない男から悪意を受けなければならないのか。それもあるのだが、そもそも彼は悪意を持つことで何かしら得るものがあるのか、ということである。他人に悪意を向けて得られるものがあるとして、それはうす汚れたものに違いない。そんなものを手に入れてどうするつもりなのか。あるいはそういう損得の感情を超えたところにあるのが悪意なのだろうか。
悪意の塊が人の形を取ってすぐ目の前にあるのを見ると、どうにも穏やかならぬ気持ちになる。他人に害意を向けてはしゃぐような下等な人間に心乱されるとはまだまだ修行不足である。それを思い知らせてくれるために彼のような者がいるのだ、と考えて多少心が落ち着いたものの、その思考の進め方には多分に自分への慰めが含まれており、なお心底には澱むものが残った。
帰りのホームルームが終わり教室を出た怜は解放感を感じた。「心は世界よりも広い」と言った古人がいたが、どうやら今の怜の心は教室よりも狭かったらしい。その小さな心で誰とも向かい合いたくはなかったのだが、約束がある。
廊下を歩いて生徒用玄関に着いた怜が下足を履いて、辺りを見回すと、少し離れたところで空を窺う少女の姿が目に入った。人を待っているのか、いつでも下駄箱の方を見やることができるように斜に構えた立ち姿だった。顔が上を向いていることによってあらわになる顎先から胸のラインが綺麗に見えていた。
怜はすっと息を吸い込むと心を決めて彼女に近づいていった。
初夏の空からは朝と同じようにしとしととした雨がゆるやかに落ち、地を潤していた。
「巷に雨の降るごとく……」
ショートボブの黒髪の中でつぶやきを落とした少女の横顔に、怜が静かに、
「フランス詩に浮気か?」
と声をかけると、環は軽い驚きに染まった顔で、
「いつかレイくんが全然知らないことを言って、それについて得意満面に説明してあげたいっていう野望をわたしが持ってること、知ってた?」
口元を笑みの形にして怜を見た。
「初めて知ったよ。でも、その野望はすぐに叶えられるさ。オレは何も知らない」
「そうかな。その割りにレイくんが返答に詰まったところを一度も見たことがない」
「それは環がそういう問いをしないからだろ。カレシを想ってくれる気遣いだとずっと思ってた」
「あら、やぶ蛇だったかな。ヴェルレーヌを読んだことが?」
「そういや、そんな名前だったな。祖父から昔、暗誦させられた詩の一つなんだ。詳しくは知らない」
怜は傘を広げて玄関を出た。環もそれに続く。やわらかな雨の中を二人は歩き出した。
「おじい様ってどんな方?」
「高校の国語の教師だったんだ。いろいろなことを教えてくれて尊敬してる」
「お会いしてみたいな」
「会えるさ。夏休みに本当にオレと同行してくれるなら」
「問題があるとすれば父だな」
「お会いできるように取り計らってくれ」
「今週の土日でも?」
怜が重々しくうなずくと、環はわざとらしく咳払いをした。
「お忘れですか? 今週の土日はデートのお約束だということを」
もちろん忘れてなどいなかった。何しろ怜の方からメールして約束したことである。従妹が来たその日の夜に環にメールしておいたことだった。しかし、事の大小を問えば、どちらを優先すべきかは考えるまでもないだろう。
「まさか父にカレシを取られるなんて思いもしませんでした」
「この一週間で円ちゃんにカレシができて、次の週末にお父様にご挨拶したらどうすんだよ?」
「都合がいいじゃありませんか。妹のカップルが終わってから、なし崩し的に姉のカップルということで」
「朝と言ってることが違うぞ」
「カレシさんと一緒に登校した嬉しさで頭がぼおっとして朝のことは良く覚えてません……あ、でもレイくんが『ずっと一緒にいたい』って言ってくれた言葉は耳に残ってます」
そう言うと試すような目で環は怜を見た。どうにもそんなことを言った覚えはなかったが、環がそう言うならそういう類のことを言ったのだろう。そういうことにしておいた。
「デートはどこに行く、レイくん?」
「映画は?」
「ちょうど観たいと思ってたものがあるの」
「いや、今回はオレに選ばせてくれ。ラブ・ストーリーを観たいんだ」
環は意外そうな面持ちを作った。
「ごめんなさい、レイくん。まさかラブ・ストーリーが好きだったとは知らなくて、今までわたしの趣味に合わせてくれてたのね」
「逆だろ。タマキがオレが退屈するだろうと思って、わざとアクションにしてくれてたんだろ」
「え、わたしは別に……」
「いや、何も言うな。部活の後輩が言うんだよ。『川名先輩みたいに可愛い女の子がアクションなんか見たいわけがない。それに気づかない加藤先輩は鈍感すぎます』って。オレは反論したんだけど、まあ、何と言ってもあっちは女子だからな。女心は男には分からないって言われるとそれ以上はどうしようもない」
「…………」
「オレの配慮が足りなかった。反省してる。だから今回はラブ・ストーリーを観よう」
環はふと足を止めると、つられて止まった怜に身を寄せて、怜の傘に入りながら自分の傘を畳んだ。
雨の匂いにふわりと清らかな香りが漂った。
「それで?」
環の目がその長い睫毛を数えられそうなほど近くにあった。
怜は観念して真実を話した。部で新聞を作る資料に今人気の恋愛映画を見ておきたいのだと正直に告げた。環は、まあ、と呆れたように口を開くと、傘を持つ怜の腕に自分の手を添えた。
「罰ゲームか?」
相合傘の状態で歩かされることになった怜が訊くと、環はつんととげのある顔で前を向いてそれには答えなかった。
制服がしっとりと濡れて少し重くなったように感じた。二人で歩を合わせて歩いているのでゆっくりとした足取りである。
自分の傘があるにも関わらずカレシの傘に入る愛らしい少女と、それに戸惑ったような様子を見せている少年。歩道をゆく微笑ましい中学生カップルを冷やかすような視線が時折りすれ違い様にかけられた。
デートに部活動の事情を持ち込んだカレシに対して、環は怒っているのだろうか。環を怒らせることができたのなら快挙である。なにせ、彼女が怒ったところを怜は見たことがない。とはいえ別段褒められるようなことでもない。気遣わしげに環の横顔を見ていると、怒りモードに入って五分ほどした頃か、ふふっという小さな笑い声が怜の耳を軽やかに打った。
「ごめんなさい、やっぱりわたしには無理みたい。スミちゃんがね、ちょっと拗ねてみせると男の子って優しくしてくれるっていうから。つい魔が差して」
環はぺろっと舌を出した。
全くロクでもない話である。とはいえ、そもそもは自分が悪いので、怜は環を責めることもできなかった。
いつの間にか、怜の心から角が取れていた。環と歩いているうちに水に洗われた石のごとく心が丸みを帯びてまた同時に爽やかな心持ちになっていた。
「何かあったんでしょう?」
唐突に環が言った。
穏やかではあるが確信を秘めた声で、怜はうなずかざるを得なかった。
「頼むから、『悩み事をしてるときレイくんは頬を掻く癖があるのよ』とか何とか言ってくれないか」
怜は藁をもつかむ気持ちで言ったが、環は、
「普段どおりにしようって思ってるんだろうけど、レイくんのことはわたしには何となく分かるの。諦めてください」
さらりと言ってのけて、カレシを絶望の淵に突き落とした。
不公平である。怜には環のことはさっぱり分からない。
「生きるとはその不公平に耐えることです」
「分かったよ、叔母さん」
「今、何て?」
「尊敬する叔母がいるんだ。口調がそっくりだったんでつい」
「もう一度言ったら、今度は晴れた日に日傘で相合傘してもらうから」
怜は口を閉ざした。何があったか説明する気はなかった。
霧のような雨が路面を、草木を、家々を打って優しい音を奏でていた。
傘の中には二人だけしかいなかった。
わたしね、とおもむろに口を開いた環の言葉は、雨音に吸い込まれるほどかすかだった。
「もし叶うなら、レイくんの世界の光になりたい。あなたを導く光に」
さわさわという雨の音を縫って聞こえてきたのは透明な声だった。
環はまっすぐに前を見ていた。横目で窺うようなことさえしていない。
怜ははっとするものを覚えた。環は自分の言葉を受け止めて欲しいとは思っていない。彼女はその言葉でもって相手を全力でたたき斬ろうとする。そうして、もし相手が易々と斬られるような間抜けであれば、もはや一顧だにしないに違いない。その厳しさは同時に環の覚悟を示していた。もし相手を斬ってしまったら、次には刃先を己の体に向けるに違いない。そういう覚悟をもった言葉だからこそ、どこまでも鋭く胸に響くのだった。
その響きが綺麗にこだまする中で、怜は自分を認めてくれる存在が確かにここにいるということをはっきりと認めた。そして、それは環だけでなく、例えば鈴音もそうだろう。賢も太一も俊もそうだと思う。自分以外に自分のことを認めてくれる人間がいるということはこの上なく幸福なことである。それに比べれば、些かの不運などどうということもない。
「ありがとう」
怜が真情からの声を出すと、そこでようやく環の顔がこちらを向いた。
その瞳はまるで怜だけを見ているかのようだった。