第59話:急襲、グラフィティ
いつも読んでくださってる方ありがとうございます。今回のお話でとうとうあの男が帰って来ます。怜の強敵である彼の名は――。
では、第59話をお楽しみ下さい。
「お、加藤くんじゃん。いつも太一の馬鹿がお世話になってます。馬鹿だけど割といいところあるんで仲良くしてやってね」
もう少しで昼休みも終わるという頃、用を済ませ自分のクラスに帰ってきた怜は、教室の外で声をかけられた。波打つ黒髪にはっきりとした顔立ちの少女である。怜はあいまいにうなずいておいた。彼女の依頼には応えがたいものを感じたが、それよりも何よりも、
――誰だっけ?
にこやかに話しかけてくる少女に見覚えがなかったからである。くもり無い笑みを向けてくる感じの良い彼女に名を問うぶしつけをする訳にもいかず、怜は内心冷や冷やしていたが、少女は気に留めもしないように上機嫌で廊下を去っていった。
後姿を追って首を捻ってみたが、やはり誰だか思い出せなかった。人の顔や名前を覚えるのは大の不得手である。今度突然話しかけられてもまずいと思った怜はちょうど良い機会を得た。おそらく今の彼女を見送りに来ていたのだろう、教室の出入り口にクラスメートが佇んでいた。
「え? 知らないの? 加藤くんと一年の時、同じクラスだったって言ってたけど」
怜の問いにちょっと驚いた顔で答えたのは鈴音だった。真白の夏服の肩にはらりと黒髪が落ちている。
「三組の原田美優ちゃん。瀬良くんと仲が良いらしいけど」
と言われてもやはり思い出せない怜としては、
「きっと綺麗になったんだな。それで思い出せないってことだ」
責任転嫁してみた。
「美優ちゃん、感動するだろうなあ。昔は綺麗じゃなかったって、そう加藤くんが言ってたってこと聞いたらさ」
「スズ、一つ解き明かしてもらいたい謎がある」
「どうぞ」
「善良で平凡な少年がなぜ多くの女の子に悪意を持ってからまれるのか。これには何か陰謀めいたものを感じるんだが」
「その首謀者は五組にいる。あなたもよく知っている子よ」
「そしてその工作員の一人が今まさにオレの目の前にいるってことか」
「まさか、わたしはあなたの味方よ」
「じゃあ、今の話は黙っててくれ。原田のことは今覚えたから」
鈴音がちらりと笑みを見せたのを怜は見咎めた。何も面白いことを言った覚えはない。
「だってさ、もう話してくれないのかと思ってたら普通に話してくれるから」
笑みを収めた鈴音が不思議な言い訳をした。怜が何のことか尋ねると、
「別れた二人だから」
鈴音が冗談めかした口調で説明した。一緒に登下校しなくなったからと言って話していけないこともないだろう。怜がそう言うと、鈴音はいたずらっぽい光を瞳に灯した。
「それはそうなんだけど、もう少し話さなくても良かったかな。惜別の土曜日からまだ二日目だし。せめて一学期いっぱいとかさ。夏祭りの日とかにばったりと会ってさ、そのとき二カ月ぶりに言葉を交わし合うとかね。星降る夜に巡り会う二人……」
「なかなか詩的な表現だな」
「恋をすると人は詩人になる」
その筋で行くと、今付き合っているカノジョは自分に恋をしていないということになる。いまだ彼女から酔っ払いの戯れ言めいたことを聞いたことがないからだ。そうして、最も信頼していると言っても過言ではない少女からそんなことを聞くくらいなら、恋心など得なくても良いと怜は思った。
「どこ行ってたの? タマちゃんとこ?」
怜は三組に行って部長にレポートを提出してきたことを告げた。今度部で作る新聞用のものである。何箇所かダメ出しされたが、それほどひどいものではなく、あちらで修正しておいてくれるという。
「環と言えば、あいつと話したのか?」
怜は鈴音に訊いた。鈴音と環は先週の土曜日に怜の前で再会したが、それは一瞬のことだったので、あれからのことが少し気になっていたのである。既に怜の手を離れたことであるし、かつ二人とも自分よりは大人であるのでお節介を焼く必要はないことは分かっていたが。
「日曜日に会いました。久しぶりにゆっくりとね」
つい尋ねてしまった怜に、鈴音は優しい声で答えると、その温かみが怜の居心地を悪くするのを嫌うかのように、
「授業始まるよ」
そう淡白な口調で続けて、教室内を歩いた。
自分の席に向かう鈴音に倣って怜も席につくと、ちょうど五時限目のチャイムが鳴った。生徒には時間厳守を要求するくせに教師が遅れてくるとはどういうことだろう。五分ほど遅れて室内に入ってきた担任は自分の遅刻を詫びるでもなく、平然と授業を始めた。とはいえ、実はこの時間の授業は「総合」なのである。「総合」とは、怜の定義によればクラスの雑事を行う時間であった。
怜は時間を無駄にしないように抜かりなく英単語カードで単語の記憶を始めた。クラスのことをするときにあまり感じのいい態度ではないが、周囲はがやがやと話を始めたりと大して変わりはない。めくるめく英単語の世界に没入していると、黒板の前に立っていた委員長の女子が、他に差し迫った問題も無いのだろう、席替えをすることを提案していた。
たまには有意義な発言も為されるものである。怜の今の席は一番前の席で教卓のすぐ近くという特等席。何をするにしても教師の目につく所であり非常に具合が悪い。つまらない授業の時に他の授業の学習をすることなどもちろんできない。周りから歓迎の声が上がっている。皆何かしら自分の席に不満があるのだろう。
クラス委員長の女子と書記の男子は、手早くくじを作ると、クラスの全員に一人ずつくじを取らせ始めた。取ったくじに書いてあったナンバーと、黒板に描かれた席一覧の位置を照らし合わせてみた怜は、今の席の不運を帳消しにする席に当たったのが分かった。窓際から一列離れた列、後ろから二番目の席である。教卓からあまり目立たない席だった。
教室のおちこちで歓声が上がり、また逆に嘆声が落ちていた。
それから新しい席に移るまでのほんの数分――
それが怜の幸せが続いた時間だった。
例えば、家を建てるときのことを考えてみたい。快適な家に住むためには、土地の広さや地盤の固さ、日当たりなどの条件もあるだろう。しかし、もっと大切なことがある。それは、良い隣人に当たるかどうかということである。
怜は面にこそ出さないよう努めたが、心は灰色に塗りつぶされた。相変わらず小雨の降る外の天気よりもなお暗い。
「よお、加藤。同じ班だな」
顔の片面にちょんちょんと思春期特有の印をつけて、にやにやした笑みを浮かべている素敵な彼。その夏服の名札には、長谷川とあった。名前に覚えはないが、その顔と声には覚えがある。落書きの二つ名を持つ男である。怜の中では、ずうっと昔に舞台から退場した男だった。それが再び舞台へと上がって来た。怜に向ける顔から敵役だということが分かる。一応いったんは退けた相手である。それがしつこくまた現れた。観客であればブーイングものだろう。ただ残念なことに、怜は観客ではない。同じ舞台にいる役者なのである。
怜は、よろしく、と簡単に声をかけると、彼の後ろの席についた。早くも次の席替えが待ち遠しかったが、少なくとも夏休みまではこの席だろう。是非もない。おそらく日ごろの行いがよろしくないのだろう。もう少し従妹に優しくしてやれば良かったか、と悔やんでいると、机をくっつけて班になるようにと委員長の号令が下った。
一班は五人から六人の構成となる。怜の班は六人だった。班内で一応自己紹介を済ませたあと、再び委員長の声がかかった。班長を決めろという。
「俺さ、加藤がいいと思うんだけど」
長谷川が実に嫌らしい顔でそんなことを言っていた。苛立ちを通り越して、怜は感心した。いかにもという行動。期待を裏切らない男である。
班長とは、長とは名ばかりの何らの権限も持たない雑用係である。望んでそんなものになりたいと思うのは、ボランティア精神溢れる好青年か、自意識過剰のロクデナシだけである。そのどちらでもない怜が断ろうとすると、班内から、まるでワールドカップ出場を決めた日本代表を迎えるかのような大きな拍手が沸きあがった。
隣で長谷川が醜悪な笑みを湛えている。取り乱して一層長谷川を喜ばせてやるようなサービス精神は怜にはない。
「オレで良ければ」
と平然とした声で班長就任を受け入れてやると、長谷川が落胆した様子が見えた。落胆したのは怜も同様であったがグラフィティを喜ばせてやるくらいなら、雑用をやった方がまだマシである。
席替えを行ったがまだ五時限目は残っていた。その残り時間を自習に使う気の無い受験生失格の男子が、開催までまだ日がある文化祭の話を始めた。修学旅行を二年のうちに済ませてしまう怜の学校では、十月に行われる文化祭が三年生のイベントとしては最大のものとなる。その実行委員を決めようと言うのである。
――まさか……
と思ったが、そのまさかであった。すっとキレイに手を挙げた長谷川が、なんと怜のことを文化祭の実行委員に推薦したのである。さすがに怜は辞退した。六人の一班ならばともかく文化祭を取り仕切るような器はない。雑用の量も班長の比ではないだろう。長谷川とその郎党は強力に怜をプッシュしたが、彼らの勢力は六組内でそれほどメジャーなものではなく、押し切ることはできなかった。他のグループから別の候補も数名出たのである。怜が選ばれる可能性も残しながら、話し合いは時間切れとなり、次回に持ち越しとなった。
にやりと胸が悪くなるような笑みを怜に見せてから長谷川は前を向いた。怜は心中でため息をついた。こんなことで傷つくような繊細な心性は持ち合わせていないが、少々げんなりするものを覚えるのは事実である。いわれの無い悪意。これに比べれば、妹のからかいや太一の冗談、日向の敵意、澄の押し売りの友情の方がまだ清々しい。
怜は六時限目と掃除の時間で心を落ち着けることにした。今日は環と一緒に帰ることになっている。ささくれだった状態では環に会いたくなかった。