第57話:初陣のサラサ
いつも読んでくださってる方、ありがとうございます。今回の主人公は、更紗ちゃんです。恋する少女のそれはもう切ないお話です。お楽しみください。
日頃の不摂生のつけは二日では是正できない。
水野更紗が得た悲しい真理である。
がさがさの肌、ところどころに小さなぶつぶつ、髪の生え際のにきび。手鏡に映る自分の顔を見ながら、更紗は後悔の念でむせ返りそうになった。なにゆえ、あんなに馬鹿みたくスナック菓子をばくついていたのか。愚かとしかいいようのない所業。望んで毒を飲んでいたようなものである。
その毒素を出すために、いっさいスナック菓子を食べなくなって二日。焼け石に水。とはいえ二日前よりは確かに良くなっているので自分的には喜んでも良いのだろうが、評価するのは自分ではないのである。まったくもって情けない。王子を待つ身であれば、最低限の準備くらいしておくべきだった。
更紗は席を立った。楽しげな話し声で満ちる昼休みの教室をあとにして向かわなければならない場所があるのだ。歩き出す前に最後にもう一度手鏡で目やにがついていないかどうかだけチェックして、いざゆかん、と一歩を踏み出そうとしたとき、
「どっか行くの、サラサ?」
と横から弾んだ声がかけられた。
更紗は軽く奥歯を噛み締めた。声の主は今もっとも見たくなかった顔だったのである。同じクラスの平井七海。嫌いな訳ではない。むしろ好きである。というか、小学校来の親友である。しかし、自分の顔を確認したあとに彼女を見ると、もともとない自信がそれこそ粉々に砕け散るのだった。
エッジの効いたボーイッシュなショートカット、なめらかな頬、あどけない中にどこか鋭さを秘めた瞳。それらが憎たらしいほどのバランスを取って、花顔を作っている。今日から夏服なので、よりはっきりと分かる胸の膨らみが、男子の視線を集めていることだろう。
更紗は精神的ダメージの回復に必死に努めた。ゆっくりと深呼吸をすると、
「王子様に会いに行くの?」
身を寄せてきた七海が、声を潜めて訊いてきた。
「どうしてそれを?」
などと更紗は訊き返しはしなかった。なにしろ、とうとう待ち望んでいた王子が現れたということを、更紗は自ら各クラスに散らばる友人にメールしておいたのである。三日前のことである。当然、七海にもメールしておいた。これは初恋に有頂天になったがゆえの行動ではない。もっと現実的な意味がある。それは、
――友だちと取り合うことになんかなったら冗談じゃない。
ということであった。更紗にマニアックな趣味があるのでなければ、彼女の前に現れた王子様には一般的にみてかなりの魅力がある。その魅力に惹かれる不逞の輩がいたとして、それがもし友人だということになると、面倒なことになる。そんな話になる前に、いち早く「恋をした」と告げておき自分の恋の応援をするように頼んでおいたのである。
「わたしも一緒に行こうかな」
七海は無邪気な顔で恐ろしいことを言い出した。顔同様、本当に邪な気持ちはないのだろう。長年の付き合いでそれは分かるが、返って厄介な話である。七海なんかに一緒に来られた日には、完璧に自分が引き立て役になってしまう。それでなくても、ルックスに大した自信があるわけでもない更紗は、静かに首を横に振った。
「ナナミ、いい? よく聞いてよ。わたしはこれから戦いに行くのよ。遊び気分で来られたら迷惑だわ」
七海は驚いた顔を作って、王子のところに戦いに行く姫なんか聞いたことない、と甘っちょろいことを言い出した。更紗はやれやれと息をつくと、
「確かに昔はそうだったわ。姫は王子を待ってれば良かった。みすぼらしい家で眠ってたり、魔王に捕まってれば、そのうち王子が来てくれたわけ。でも、今は違う。時代は変わったのよ。女性は力を持ち、待つ存在ではなくなった。王子が欲しければ、自らその足で向かい、戦って勝ち取るしかない」
と噛んで含めるように説明してやった。
「サラサ、なんか前言ってたことと違うよ」
「子どもだったのよ。それは恋に恋してたときの話」
「従者に志願します」
「今はいい。ここは一人で行くべきところだから」
「わたしにもお手伝いさせてください、姫」
「ならぬ。そなたはここで待て」
「しかし……」
「くどい」
「……分かりました、姫。どうかご無事で」
悲愴な目を向ける七海。
小芝居を終え、友人を教室に残すことに成功した更紗はほっとした気持ちで教室を出た。大またで勢い良く廊下を数歩。ふとそこで歩を楚々としたものにした。恋する乙女に闊歩はふさわしくない。
三組の外から内を窺った更紗の目が、ある一点を捉えた。数人の男女が集まって自分たちの中心に向かってあれこれと話しかけているのが見える。はっきりとは見えないが、おそらく中心にいるのが更紗のターゲットである。高鳴る鼓動を感じながら、更紗は三組の中に足を踏み入れた。
瞬間、舌打ちをしたい気持ちをすんでのところで抑えた。恋する乙女に……以下省略。
友人のもとへ行きたかったのだが、彼女に先客がいたのである。しかもそれは男の子だった。何やら楽しそうに話をしている。
――む、杏子め、いつの間に……
男に興味がなかったはずの友人が男子と談笑していることに、軽く裏切られた気持ちを抱えていると、向こうが更紗に気がついたようだった。手を振って来ている。笑顔に努めて近づいていくと、更紗の傷心はすぐに癒された。
――なんだ、加藤くんか。
杏子の隣にいた少年は、彼女と部活を同じくしている子だったのである。おそらく部活の話をしていたのだろう。ほっと胸を撫で下ろす更紗の前で、
「それでいいか?」
加藤少年が杏子に確認口調で言った。杏子は手にしていたプリントに赤ペンでマークしたあと、
「こことここの文意が不明確だね。この書き方だと何通りかの解釈ができる」
難しい顔をして書かれている文章の訂正を始めた。
「分かった。書き直してくる」
「あ、いいよ。こっちでやっとく、言いたいことは分かるから」
「助かる」
「いえいえ。それにしても、今回に限ってどうしたの、加藤くん? やたら仕事が速いじゃない」
「いつもだって遅くやってるつもりはない。坂木の分を手伝ってるから、結果的に自分の分が遅れるんだ。部長として一言あってもいいんじゃないか?」
「ありがとうございます」
「違うだろ。坂木に注意しろってことだよ」
「蒼ちゃんには口では勝てないの知ってるでしょ」
「じゃあ、心で向かえよ」
「よっぽど勝てないって。加藤くんだって先輩なんだから、蒼ちゃんに注意する資格はあるよ」
「悪いが、妹と同じ年の女子には何を言う気もない」
二人のやり取りを聞くとはなしに聞きながら、更紗はお目当ての少年の方にちらちらと目を向けていた。塩崎輝。三日前に突如現れた更紗の王子様である。周囲に人がいるので、ちらっとしか顔が見えないが、心の目には彼の爽やかな風貌がはっきりと映っていた。
もしかしたら話す機会があるかもしれないと勇んで出てきた更紗だったが、どうやらその可能性は薄いようだった。今日は彼の転校初日ということで、クラスメートが質問攻めにしているのである。女子のきゃぴきゃぴした声が気に入らない。こっちは別のクラスということで、友だちに会いに来た振りをして遠目に窺うのが精一杯だというのに。
と――
更紗は目を瞠った。
輝を取り囲んでいた輪の一部が割れて、輝自身が席を立ってこちらに歩いてくるではないか。
――まさか、わたしを見つけて……
直接目を合わせようなはしたないことをするわけにもいかず、少し目を逸らすようにする更紗が期待を込めて待っていると、
「よろしく、オレ今日転校してきたんだ。塩崎輝」
清々とした声が聞こえてきた。一瞬、更紗の胸が沈んだ。先週会ったはずの更紗のことを忘れてもう一度自己紹介してきたのかと思ったのだ。が、そうではなかった。
「加藤怜。よろしく。ただ、オレ、六組だけど」
先のセリフは更紗に向けられたものではなかったらしい。二人の少年が握手を交わしている。想い人の手を取る怜にちょっと嫉妬する更紗のすぐ近くで、
「とりあえず誰とでも握手することにしてるんだ」
輝が快活に言った。
「誰とでもっていうのはやめた方がいい。それでオレは一年のとき失敗した」と怜。
「まずいヤツと知り合ったってこと?」
「まさに。その付き合いが今もなお続いている」
「羨ましいよ。二年付き合える友だちがいるなんて」
「今度紹介する。オレとそいつの仲に割って入ってくれ。そうして、そいつと君が一緒に遊ぶようになってオレをのけ者にしてくれたら最高の展開だ」
軽い口調で輝を微笑させた怜は、杏子に、
「今日は部活を休むから、よろしく」
と告げて三組を後にした。
「なんか面白い人だね」
「変わってるんです、加藤くんは」
輝に顔を向けられた更紗は緊張した声で答えた。
握った手に汗をかいているのが分かる。
間近に整った顔があってどうにも照れてしまう。とはいえ、そうして照れていても仕方がない。図らずも折角話す機会がやって来たのだから何か話さなければいけない。と思うのだが、とっさのことで何も出てこない。
輝が席に戻ろうという振りを見せたその時だった。
「あ、そうだ、塩崎くん」
持つべきものは友人である。杏子が口を開いたことで、輝はその場に留まった。更紗は杏子に感謝の念を向けた。きっと彼女は気が利いたことを言ってこの場を盛り上げてくれるのだろう。当てにした目で友人を見ていると、その口から出たのはとんでもない言葉だった。
「もし良かったら、更紗が図書室まで案内するよ。校内のこと早く覚えた方がいいでしょ。ちょうどこれから更紗、図書室に行くみたいだから」
血の気が引くのが分かった。信じられない子である。これでは、更紗が輝に気があるということをほのめかしているようなものではないか。少し離れたところから輝を呼ぶクラスメートの声が聞こえてきた。ちょっと考える素振りを見せている輝の様子を見ながら、更紗の指先は震え始めた。もし断られたら、昼休み中に立ち直れそうにない。五、六時限目を使って、存分に保健室のベッドのシーツを涙と鼻水で汚してやるしかない。半ば自暴自棄になりかけていた更紗に、じゃあお願いするよ、という軽やかな天の声が降ってきた。
緊張を緩めた更紗が杏子に強い目を向けると、何を勘違いしたのか彼女は誇らしげな笑みを作り、なおかつウインクなぞしてきた。
更紗は輝を外に導きながら、今後杏子にだけは恋愛相談をしないと固く誓ったのだった。




