第56話:小雨から始まる水無月
いつも読んでくださってる方、ありがとうございまーす。
久しぶりに、主人公とヒロインの絡みとなります。
怜と環メインのお話を待ち望んでくださった方々に、この回を捧げます。
では、第56話です。お楽しみ下さい。
六月の始まりは小雨だった。さらさらとした微細な雨で、ともすれば傘を差す必要もないくらいではあるが、学校までは三十分かかる。私服であればともかく、制服で雨に当たっていく真似はできない。
「わたしの悲しみの気持ちが通じてしまったのね。天も泣いているわ」
玄関先で由希がさかしらなことを言うのを聞きながら、怜は、泣くのは何も悲しいときだけではなかろうと思ったが、言うのはやめておいた。由希は今日帰るのである。気持ちよく送り出してやるのが従兄としての最善の務めだろう。怜が気をつけて帰るように告げると、夏の再会を約束させられたあと、
「いってらっしゃい、お兄ちゃん。今度会うときまでユキのこと忘れないでね」
と精緻に作られた最高に気色の悪い声で送り出された。
怜は、しっかりとドアを閉めて小さなモンスターを封じ込めた後、傘を差して歩き出した。今日から衣替えで、上は半そでのワイシャツという格好である。衣替えの前後一週間は、移行期間ということで上着である学ランを着てきても良かったが、雨の割りに肌寒いわけでもないので、きっちりと今日から半そでシャツにしたというわけだった。
六月の異名は水無月である。水の無い月と書くわけだが、これは決して字面通りの意味ではない。「無」というのは、ここでは「の」という意味であり、水無月とはすなわち水の月ということである。
つい先週の塾講師の解説を思い出しながら雨中をしばらく歩くと、白の傘が咲いているのが見えて、その下に夏服姿の少女の姿があった。姿勢の佳い立ち姿であるが、ピンと張り詰めたものはなく、たおやかな雰囲気がある。環である。彼女は、綺麗な瞳に喜色を灯すと、あいさつしたのち、怜の隣で足並みを揃えた。怜は挨拶を返したあと、少し歩いてから、
「そこまで臆病じゃないつもりなんだけど」
唐突に言った。小首を傾げる環に、怜は、家の外で待っていたのはお父さんに会わせないためだろ、と続けた。気遣いに感謝する旨を告げると、環はその細い肩を震わせて笑った。
「違います。単に、そろそろレイくんが来る頃かなと思って外に出てただけです。父に会います?」
「いや、今日はやめとくよ」
もう家を過ぎちゃったし、と続けると、
「あら、『今日は』っていうことは、いつかは会ってくれるんですか?」
と面白そうな顔で環。
「お父様の都合のいいときにいつでも。そのときは、例え予定があってもキャンセルするよ」
「じゃあ、服を選ぶのを手伝うわ」
そう言うと、環は、ふふ、と小さく笑って、
「約束して朝一緒に登校するのって初めてだから。何だか、変な……嬉しくて」
怪訝な顔をする怜に説明した。
「ありがとう、レイくん」
付き合っているわけだからそんな程度のことで礼を言われる筋はない。怜は、通り道でもあることだし、望むなら毎日でも迎えに来る、ということを告げて環の微笑を深くさせた。
「本心からそうしてもらいたいのだけれど、父の目があるから毎日はやめた方がいいみたい。あまり父に尽くす娘でもありませんから、そういう配慮くらいはしておかないとね」
「溺愛してるんだろうな、タマキのこと」
「それは大丈夫。持つべきものは可愛い妹です。下に二人もいると、長女への関心は薄れるみたい……あ、でも、別の問題があるわ」
「生活するってことは問題を処理するってことだよ。どんなの?」
「父のお気に入りは末の妹の旭なんだけれど、実は彼女に好きな人がいるようで、そのせいで父は気が気でないみたいなの」
「同じクラスの子か? 環のお父さんには気の毒だけど、それは仕方ない。乙女は恋をする」
「それが同学年の子じゃないのよね。もっとお兄さんなんだ。それで、つい昨日もね、その人におんぶとかしてもらったりして。その話をずっと父の前でしてるのよ、すごーく嬉しそうな顔で」
怜は手で目を覆う振りをした。娘二人を奪われた父親の悲しみを想ったのである。そうして、娘を奪った男に対する憎しみも想像してみた。やはり学ランを着てきた方が良かっただろうか。身が震える。
「さっきの話なんだけどさ、タマキ」
「何でしょう?」
「思ったんだけど、少し時を置いた方がいいんじゃないかな。お父様に会うのは」
「ええ。お好きなだけ置いてください。そのうちに、円がカレシを連れて来たりして、『一体長女のカレシは何をやっているんだ』なんてことになったりしても、大丈夫、わたしはレイくんの味方です」
怜は、できるだけ早く会う機会をセッティングしてくれるよう、環に頼んだ。
環は笑みを押さえた神妙な面持ちでうなずいたあとに、
「部活でのマドカはどうですか?」
と話題を変えた。怜は、ただ一人の一年生ながら先輩のイビリにも耐えてよくやってる旨、答えた。
「レイくんがいるから安心してます。妹と仲良くしてくれてるみたいで」
「仲良くね……マドカちゃんとはまだ最長で五分くらいしか話したことない。しかも、それは数学の問題の解説だぞ。もし、十分間、勉強以外の話ができるなら王国をやってもいいよ」
「じゃあ、その国の女王になろうかしら」
「どうやって?」
「簡単です。姉の御名に於いて命じれば良いのです」
「マドカちゃんが従うとは思えないけど」
「命じるのはアサヒによ。アサヒにマドカを説得してもらうの。ずっと、アサヒに怜くんと話すようにって言われ続けたら、マドカも観念すると思うわ」
「仮にそれがうまくいってマドカちゃんが話をする気になったとしても、多分楽しい話をする気分にはならないだろうからやめてくれ」
円に対しては地道な努力を続けることを宣言した怜は、由希からメールが来たか環に尋ねた。由希は、今朝になっても、環にメールをしたともしないとも言ってこないのだった。それも退屈を紛らわせるゲームだと理解した怜は、従妹を楽しませて無駄な体力を使うことを避けて、環に訊くことにしたのである。
「夏休みのこと?」と環。
メールは来たようだった。怜は既に昨夜の迷妄から覚めている。環に夏休みに田舎へと同行してもらうつもりなど毛頭なくなっていた。
「ご一緒します」
危うく水たまりに足を突っ込みそうになった怜が、え、とまともに驚いた顔を作ると、環は長い睫毛を伏せた。怜くんが嫌ならもちろんやめますけれど、と消え入りそうな声を作る環を、
「そんなわけないだろ」
と強い声で励ましてから、念のため受験の障りにならないかどうか確認を取ると、
「普段多めに勉強しているのはこういう時の為です」
と頼もしい言葉が返ってきた。
しとしとという雨音を聞きながら、怜の心は晴れ渡った。
「今ならあの星に手が届くかもしれない」
差し上げた手の先は無論、雲である。というか、そもそも朝である。しかし、それは今の怜には何の障害にもならない。心眼は暗雲を貫き、時間さえ超越していた。
「もし手が届いたら一つくれる? ブローチにするから」
「構わないけど、君を飾るには星でさえ役不足さ」
怜の興奮は喜びの裏返しである。
「それは、わたしと一緒に旅行することに対する喜びだって自惚れてもいいですか?」
もちろん、とうなずいた怜だったが、どうやら一拍遅れてしまったらしい。環の疑いの視線がちくちくと突き刺さってくるのを感じながら、怜は、カノジョからついと目を逸らし、進行方向を向いた。環の口ぶりからすると、由希は余計なことを言わなかったらしい。従兄のカノジョを心配させないため、という善意と解釈するのは無理がある。単に、その方が面白そうだからという悪意からだろう。
「ユキをどう思う?」
「明るくて可愛らしい子だと」
突然に変えられた話題にすばやく対応して環が答えると、怜はもう少し突っ込んだ評価をするよう頼んだ。
「でも、昨日、ちょこっとお話しただけよ」
それは理由にはならない。なにせ、その同じ短時間で由希の方は環を「原初の闇」と評したわけだから。直感でとらえたことを話すように言うと、環は少し考えたあとに、
「理知の人」
と短い言葉を発した。
「理性と知恵で割るとあとに何も残らない人間ってことか。言い得て妙だな」
環はびっくりしたような声を上げた。
「褒め言葉として言ったつもりなんですけれど」
「でも、おんなじことだろ」
「ユキちゃんに対しての悪意を感じるのは気のせいですよね?」
「いや、ところがその通りだ。女の子っていうのは人をいらいらさせる存在だからな」
「『君を除いてね』っていう言葉を期待しても?」
怜はわざとらしい咳払いをして、カノジョの期待には応えられない旨を暗に示すと、
「とにかく、ユキは苦手なんだ。タマキが一緒に来てくれれば助かるよ。百万の味方を得た気がする」
話をまとめた。
「とっても素敵なお誘いの言葉ありがとうございます。どこか攻め滅ぼしにいきますか?」
「夏に」
怜は、由希からの依頼の件は黙っておいた。いまいちはっきりとしない話であるし、こちらは環とは関係ない。
実に三週間ぶりに環と一緒に歩いているわけだが、そんなに話していないような気はしなかった。ごく自然に話ができるし、また話さないこともできる。不思議な子だった。他人に対して普通感じる緊張や遠慮というものを環に対しては、ほとんど感じなかった。感情を整える必要のない気の置けなさがあって、とはいえそれが狎れには発展しない。
ここ三週間で盛りだくさんのことが起こっていたが、怜はそれらを口にするのは控えておいた。一つには話しても面白くないことであるし、また一つには繊細なことだからである。
静かな雨の中を二人はゆっくりと歩いた。濡れた緑の葉が濃やかで、
「客舎青々柳色新たなり」
と、この前覚えたばかりの漢詩の一句を怜が引用すると、環は微笑して、あの木は柳じゃないよ、とダメ出ししたのちに、
「しかもそれ、別れの詩なんですけれど」
となまなかな知識をひけらかしたカレシを追撃した。
「カノジョの趣味に合わせようとしてる涙ぐましい努力を酌んでくれないのか?」
「でも、間違いは間違いですから」
「いいか、タマキ。自分がしたことっていうのは、めぐりめぐって自分に返ってくるんだ」
「よく分かったわ、おばあちゃん」
「おばあちゃんだって?」
「それ祖母から教わったことがあるの。でも、めぐりめぐってきても、わたしは全然平気だわ。間違いを正してもらえるならむしろ喜ばしいことでしょ」
「あ、きったねえ」
カノジョの優等生じみた発言にムッとした振りを作った怜は、学校前の上り坂を登り始めた。前後に夏服姿の中学生の姿があって、冬服もちらほらと目についた。
「レイくん」
校門の内側に入ったところで顔を向けてきた環に、怜は仏頂面で答えた。
「また何か間違えたか?」
「あら、そんなに根に持つ人だったかしら」
「人は変わるんだよ」
「わたしたちは年を重ねるとともに美しくなりましょうよ」
「それで?」
環は頬に含羞の色を浮かべると、帰りも一緒に帰りませんか、と誘ってきた。怜は眉根を寄せた。
「おかしいな。タマキさんはそんなに繊細な子でしたか」
「人は変わるんです」
「オレたちは月日を重ねても今のままでいよう」
環は、はっとした顔を作ると、片手で口を隠すようにした。
「それは、わたしたちの間に重ねられる月日があるっていうことですよね?」
環が照れたようにして視線を地に落とすのを見ながら、渋い顔をした怜は、しかし面倒なので失言を訂正することをしなかった。生徒用玄関で、
「雨が降ってたらここで」
と少女に待ち合わせ場所を指示したのち、自分の下駄箱から上靴を引き出した。