第54話:覚えず君に出会う夕べ
前に自分で書いたものを読み直してみると、粗ばかりが目立ち……書き直したいと思いつつも、お話を先に進めたいという気持ちもあり。ああ、上手く書ける人が羨ましいと思う今日この頃。
では、第54話です。
水玉模様のワンピースを着た女の子は、タッタッタッと軽やかなステップを踏んで走り寄り、怜の目の前でその小さな足にブレーキをかけた。
「レイ!」
円らな瞳を輝かせて屈託の無い笑みで見上げてくれているのは、怜の付き合ってるカノジョの幼い妹だった。こういう可愛らしい子が、いつしか今隣にいる可愛げのない子に変わってしまうのかと思うと、時間とは残酷である。
「こんにちは、アサちゃん」
クラスの女子が気になってる男の子に対する時に声を作ったものにするその気持ちが少し理解できる怜。腰をかがめて、少女に何をしてたのか、訊くと、
「そこの公園で遊んでたの」
と言って、旭は近くを指差した。
「ひとりで?」
「お姉ちゃんと」
少し離れたところにすらりとした少女の影が現れて、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。怜が彼女に向かって手を挙げたのと、
「なに、この子。かわいい〜」
隣から嬌声が上がったのはほぼ同時であった。
由希はしゃがみ込むと、旭と目線の高さを合わせ、指でつんつんと旭の白い頬を触った。
「やわらかい! ぷにぷにしてる。かわいい〜」
由希はしゃがんだ体勢から怜を見上げて、
「ねえ、レイ。この子、持って帰っていい?」
アホなことを言い出した。良いわけないだろ、と旭の手前大きな声を出すこともできず、軽くたしなめると、
「でも、可愛いじゃん。絶対将来美人になるよ」
脈絡のないことを言って、一人で納得してうんうんとうなずいた。両の目にきららかな光を灯す由希に怪しいものを感じたのか、旭は眉根を寄せた。
「お姉ちゃん、誰?」
「誰だと思う?」
そこで、旭はちらりと怜と由希を見比べると、
「レイの『もとかの』なの?」
うがったことを言った。由希は、おお、と小さく喚声を上げ、ぱちぱちと拍手をすると、旭の頭を撫でた。
「良くそんな言葉知ってるね、姫ちゃん」
「わたしの名前、アサヒだよ」
「うーん。でも、何か、姫ちゃんって感じだな。それとも、小姫ちゃんの方がいいかな。ね、どっちがいい? 小姫ちゃんの方がいっか」
困ったような顔を向けてくる旭を助けるため、従妹の暴走を止めようとしたところで、影が差して、花のような香りが漂ってきた。デニムのパンツとラウンドネックのTシャツというラフな出で立ちをした少女が、旭の後ろに立っていた。毛先に動きがあって思わず触りたくなるようなショートボブの彼女は、優美な瞳に温かな光を湛えていた。中腰の状態から姿勢を直す怜に、
「外に誘ってくれたアサヒに感謝しないとね」
環は、偶然の出会いに対する喜びの声を上げた。その顔が怜の隣を向く。
立ち上がっていた由希は、怜が口を開く前に、
「ども。レイの元カノで〜す。あなたが今のカノジョの川名さん?」
と軽薄な声を出した。
環は自分の口元を両手で隠すようにしてびっくりした顔を作ると、恨みを含んだ目で怜を見た。合わせた両手を胸元へと下げて、
「ひどいわ、レイくん。女の子と付き合うのはわたしが始めてだって言ってたのに。わたしにウソついたのね」
哀愁を帯びた声でカレシの不実を詰る。
怜がカノジョから視線を移すと、由希が楽しそうな顔をしているのが見えた。いい見世物だとでも思っているのだろう。しかし、事実は逆であった。
怜は咳払いをすると、
「タマキ、気を遣わなくていい。こいつは従妹だから」
演技をやめるように言った。環は、あら、と一言いうと表情を元に戻した上に微笑を添えた。
「初めまして。わたし、森口由希です」
反応を見られていたのは自分の方だったことに気づいたはずであろうが、由希に動じた様子はなかった。彼女が手を差し出して握手を求めると、
「川名環です。よろしく」
環はその手を取った。
由希は少し長く環の手を握っていたが、やがて手を離すとかすかに身を震わせるようにした。
「ちょっと寒くなってきましたね」
環は、そうですね、と同意を示すと、妹に向かって、
「そろそろ帰ろっか、アサちゃん? まだ遊んでく?」
訊いた。旭は、うーん、と考え込む色を見せてから、
「レイはこれからどこ行くの?」
と訊いてきた。家に帰る途中だったことを告げると、旭は、
「じゃあ、あたしも帰る」
と言って、両手を挙げるポーズを取った。期待に輝いている少女の目を見て、怜は微苦笑を漏らすと、しゃがんで旭に背を向けた。
「ごめんね、レイくん」
申し訳なさそうな環の言葉を聞きながら、怜は少女を背負いあげた。六歳児の体は見た目より重い。ただ、歩くのに支障はなさそうだった。
二人の少女を先導役にして、怜はそのあとに従った。耳の近くで、旭のリズミカルな声が上がる。
「聞いてよ、レイ。マドカお姉ちゃんってひどいんだよ。すぐ怒るし、全然優しくないの。この前もお風呂入りたくないのに無理に入れようとしてさ。だから、カレシできないんだよね」
それは円には絶対に言わない方がいいと思うということを告げると、旭は素直にうなずいた。
「レイが言うなら、そうする。クラスにね、すっごくいやな男の子がいるんだよ。いっつもわたしの髪引っぱってくるの。この前なんかリボン取られたんだ。レイはそういうことされたことある?」
「リボンを使ったことはまだ無いんだ」
「そお? もっと長くなったらアサヒが結んであげるね。給食で椎茸食べられない子がいて、代わりに食べてあげたの。そうしたら先生に怒られちゃった。好き嫌いは良くないけど、どーしても食べられないものってあるよ。グリーンピースが苦手。レイは嫌いなものある?」
「牛乳かな」
「あたしも苦手。同じだね。でも、知ってる、レイ? 生クリームって牛乳からできてるんだよ。生クリームはあんなに美味しいのに、どうして牛乳はあんまり美味しくないんだろ。この前見たテレビでね……」
うんうん、といちいちうなずいていると、前を歩く二人の少女が、こちらを見て可笑しそうな表情をしているのが見えた。怜は、
「アサちゃん、ちょっと待ってね」
といったん旭のトークを途切れさせたのち、険のある目で環と由希を見て、
「何か言ったら、絶交だぞ。二人とも」
と忠告しておいた。由希は、もちろん、と言って片胸に手を置いて誓いを立てる振りをした。一方、環は、
「わたしが?」
そんなまさか、と涼しい顔で答えてから、
「アサヒ。そろそろ降りなさい。レイくんが重いでしょ」
と妹に命じた。
怜は背に揺れを感じた。姉の言葉に対しての抵抗の動きである。
「いいよ。アサちゃんは全然重くないし。タマキの家まで大丈夫だよ」
「レイ、大好きっ!」
びたっと体をひっつける感触がして、小さな腕が首の辺りに軽くからまった。
「何も言うなよ」
怜は再度、笑みを浮かべる二人の女の子に注意しておいた。
ゆっくりと精彩に乏しくなる歩道を、小鳥のさえずりのような旭の声を聞きながら、怜は歩いた。ちょっと歩が重くなってきたが、そんなことはおくびにも出さなかった。そのはずであるが、時々ちらりとこちらを振り向く環が訳知り顔を見せてくる。怜がじっと見つめ返すと、彼女は目だけで笑ってまた前を向いた。
初対面でもまったく物怖じしない大胆さ、いや図太さを持っている由希は、従兄のカノジョと快活に会話を楽しんでいた。時に笑声を立てて、まるで数年来の友人に対するような気安さだった。どちらかというと人見知りする怜としては、由希の朗らかさが羨ましいような気もするが、すぐに思いなおした。中一の始めに、朗らかにしようと努めた結果、ある少年と付き合うことになったことを思い出したのである。人はそれぞれ持って生まれたものを精一杯磨いていけばよく、性質に合わないことを無理矢理取り入れるべきではない。
怜は腰を下ろして、旭を地に降ろした。四人の前に、洋風二階建ての瀟洒な家が見えていた。
「お茶でも淹れますから休んでってください」
環の勧めに、わーい、とお気楽な歓声を上げる由希。門の中に入って行きそうな少女のパーカーのフードを怜は掴んだ。そのままの体勢で、怜は、もう遅いからこのまま失礼する旨を告げた。えー、と残念がる声が由希と旭から上がった。
「アサちゃん、ペットボトルのお茶、二本持ってきてくれる?」
環が代案を示すと、旭は元気良く玄関に向かって走っていった。
「ありがとね、レイくん。これで当分機嫌がいいわ、アサヒは。うるさかったでしょ?」
「全然。佐伯のしゃべりに比べたらかわいいもんだよ。佐伯のがマシンガントークだったら、アサちゃんのはシャワートークって感じだな。爽やかでさえある」
「あら、それを聞いたらスミちゃん喜ぶでしょうね」
「喜びすぎてその礼にありがたい説教をしてくれるだろうな。絶対に言わないでくれ」
環が微笑してうなずくと、由希が携帯電話を出して二人の間に入った。
「タマキさん。メアド交換しません?」
環が快く応じると、二人で携帯の操作を始めた。
特急で戻ってきた旭が、門の脇の通用口から現れ、怜と由希にそれぞれお茶のペットボトルを手渡した。
「ねえ、タマキさん。小姫ちゃん、もらってってもいい?」
由希が不気味に伸ばした手を避けるようにして旭は家に戻って行った。いい加減にしろ、と少し強い声を出す怜に、
「レイくん。じゃあ、明日ね」
と環の柔らかい声がかかる。
わざわざ見送ってくれている少女の視線が届かない所まで離れると、はあ、と息をついて、由希は肩から力を抜いたような振りを作った。
「どうした? 一日中動いて、疲れたのか?」
どこか弱々しげな様子を見せる由希を気遣うと、彼女は、
「ああ、緊張した」
と言って二、三回深呼吸をした。全くリラックスしていた様子に見えた由希の意外な言葉に怜が不審そうな顔を作ると、少女の顔がくるっと横を向いて、
「よくあんな人と付き合えるよね。尊敬するわ、怜のこと」
真面目な口調で言ってきたので、ますます意外だった。
「握手した時にね。背に電気が走ったみたいになって、それから体温が二度くらい下がったみたいにぞっとしたわ」
まるで人外のものとでも遭遇したかのような言い草である。怜は首を捻った。由希が何に衝撃を受けているのか、さっぱり分からなかった。
「だから付き合えるのかもね」
「よく分からないが、タマキはお前の『上』だったか?」
由希は歩きながら視線を下に向けてしばらく考えていたが、
「『上』っていうよりは、『奥』って感じかな」
顔を上げて答えた。
「見上げるっていうんじゃなくて、覗き込むような感覚。でも覗いた先には何もなくて、ただ……そう、あれは……闇、だな」
人が人をどう評価しようがそれにケチをつける気などないが、せいぜい公園前から川名宅まで二十分程度世間話をしたに過ぎない人間の評にしてはあまりに激烈である。カノジョに対するものでもあるので、怜は一応、由希に非難の目を向けてみたが、効果は無かった。
「言っとくけど、コレ、褒め言葉だからね」
由希は平気な顔でそんなことを言うと、そうだ、と声を大きくした。何かに閃いたかのような様子の従妹に、怜は何も突っ込まなかった。どうせロクでもないことに決まっている。
「夏休みにウチに遊びに来る時にさ、タマキさんも連れて来なよ」
家につくまでに、由希の提案に対していく通りかの反対意見を捻り出してみたが、全て整然と退けられた。仕方なく怜は、最後の手段、すなわち最も安直な手段を取った。
「さっき、アドレス交換してたよな。メールで直接タマキに訊いてくれ」
怜は玄関のドアを開けると、ちょっと気後れしたような顔を見せる従妹を先に家の中に入れた。