第52話:大好きな人へ本を贈ろう
言い訳をしようという気は起こらなかった。それは、言い訳など男らしくない、などという男気からではない。端的に無駄だからである。たとえ、
「こいつはオレの従妹で由希っていうんだぜ。よろぴく」
などということを言ったとしても、澄からすれば確認の取りようのない話であり、信じるかどうかは彼女にかかっている。では、どのくらい彼女が自分に信頼を寄せてくれているか、と考えると、どうにも覚束ないものがある。なにせ澄は昨年のクラスメートに過ぎず、友人のカノジョであるという間接的な知り合いに過ぎない。特別仲が良いわけではない。
さらに、である。言い訳などしたら返ってウソっぽく聞こえる。いい年をした従妹が、大型の書店という公共の場所で抱きついてくるなどという話を誰が信じるだろうか。仮に信じたとしても別の疑惑が生まれることだろう。
人が行きかう足音と軽快に流れる店内BGMのざわめきの中で、怜たち三人のいる小さな空間だけが痛々しいほどの静けさに包まれていた。佐伯女史の目が怖い。古代中国には目で敵兵を呪殺する業があったという話だが、今の澄がその業を習えば、一人で一国を落とすことができるであろう。
さて――
明らかに澄はある種の誤解をして、それに対する説明を怜に求めていたが、怜は口を開かなかった。何か一言でも言えばどうなるか。目に見えた話である。それが引き金となって、マシンガンの掃射が始まる。言葉尻をとらえられて、公衆の面前で散々詰られるのである。擬似修羅場に集まる好奇の視線。エセ三角関係に起こる失笑の渦。澄の性格上、場から逃げれば追いかけられるだろうし、とはいえ真っ向から抵抗する術はなし。進退窮まる、とはこのことである。この状況を打開するには、
――ユキに賭けるしかない。
怜はほんの少しだけ横に目を向けた。その合図が隣の少女に届く前に、
「目を逸らしたわね、加藤くん」
ふ、と唇を笑みの形にした澄は、かっと目を見開いた。
「それは何かやましいことがある証拠。さあ、そのキュートなお嬢さんとどういう関係なのか言いなさい。場合によっては……」
話し出すきっかけを掴んで、滔滔と続けようとしたところを、
「ねえ、レイ。この人が川名さんなの?」
はっきりとした声が遮った。話を中断されて軽くムッとした顔をしている澄に、由希はちょこちょこと近づくとじいっと彼女を見てからくるりと怜の方に向き直り、
「すっごい美人じゃん。ウチの学校にはこんなに綺麗な人いないわ。スタイルもいいしさ。どうやってこんな人と付き合えるようになったの?」
快活な声で言った。その声には作為の曇りは一点もないように聞こえた。心から言葉通りのことを思っているような調子である。ちらり、と澄の顔を見ると、小さな驚きの表情がどこか照れたものに変わるのが見て取れた。怜は作戦を理解した。無邪気な顔を作っている由希に対して、咳払いしてから、
「違うんだ、ユキ。この美人が、オレのカノジョだなんて、そんなことあるわけないだろ。オレの友人のカノジョだよ」
ある単語を特にゆっくりと強調して発音してから、横目で澄を窺うと、彼女の表情からまた固さが解れたように見えた。由希は、ええ、と疑わしい顔をすると、
「恥ずかしがらなくてもいいじゃない。この人が学校一の美少女なんでしょ。紹介してよ」
いった。あまりやり過ぎてもわざとらしくなると思った怜は、それ以上の阿諛は控え、澄のことを由希に紹介した。
「初めまして。佐伯さん。わたし、怜の従妹で由希って言います。いつも怜がお世話になってまーす」
予想が外れたショックの影が澄の顔をかすめるのを怜は見逃さなかった。
「面倒を見させられてるんだ。参ったよ」
精一杯明るい声でそう言って、由希の髪をくしゃくしゃと撫でてみたりする。
「そ、そうだったんだ。わたし、てっきり……」
「いや、別に構わない。ちょっと子供っぽいところがあるから誤解を招くんだよ。それよりも、シュンのプレゼントだったよな」
「え? う、うん。何か案がある?」
「そう言えば、シュンってミステリーが好きだろ。それで、欲しい本があるんだけどハードカバーだから文庫になるまで待つって、言ってたんだよ。そのハードカバーのミステリーとかどうかな。自分のために買うとしたらちょっと高いけど、プレゼントにするには高すぎはしないと思うんだけど」
ちょっと考える様子を見せる澄を、怜はミステリーの棚まで案内して、
「この本だよ」
と言って指差したのち、また学校で、と言って、由希を伴いさっさと出口に向かおうとした。
「レイ、この本、まだお会計してない」
怜は忌々しげに文庫本を由希から取り上げると、レジカウンターに向かっていき、会計を済ませた。文庫にカバーをかけている店員の動きがやけにスローに思えた。丁寧に差し出される文庫本をひったくるようにして受け取ると、由希に手渡したのち、出口の自動ドアに向かった。その間、ミステリの棚に立っているであろう元クラスメートの方は一顧だにしなかった。
本屋を出て少し歩いたところで、虎口を脱したことを確認した怜は、ようやく一息ついた。相変わらず外気は涼しいし、本屋の中は空調が整っていたはずなのだが、背にじっとりと嫌な汗をかいていた。
「レイがそんなに焦るところ、初めて見たわ」
興味津々といった表情で言う由希に、この頃焦ってることばっかだ、と怜はため息をつきつつ答えた。
「何に対しても飄々としてた、わたしが知ってるレイはどこに行っちゃったの?」
そんな自分がかつていたのかどうか疑わしいが、心乱されることが多くなってきたその原因には心当たりがあった。一人の少女である。彼女と出会ってから坦々とした日常が確かに崩れたような気がする。しかし、崩れた先に新しい現在の日常があって、それも嫌いではないのでどうしようもない所ではある。
「とりあえず、さっきは助かったよ、ユキ」
怜が従妹の機転に感謝すると、由希は、よいよい、と鷹揚に構えてみせたのち、
「次は、あそこ入ろうよ」
と少し離れたところにある背の高いコンプレックスビルを指差した。
怜はくらっとする頭を押さえて静かに尋ねた。
「どうしても入りたいのか?」
「面白くないの?」
「多分この辺の一番のヒマ潰しスポットだ。各階にいろんな店舗が入ってる」
「じゃあ、いいじゃない」
だから良くないのである。そんな所に入ったら誰と出会うか分かったものではない。友人は受験を控えた身であるので家にこもっているものと信じたいところであるが、当の怜自身が出歩いているのだからそんな信頼を寄せる資格はない。
「でも、さっきの美人が、会いたくなかった人なんでしょ?」
「確かにそうなんだけど、一番に、じゃない。もっと会いたくない子がいるんだ」
「またうまくごまかしたげるよ。行こ」
「気乗りしないな。折角死地から生還したのに、また自ら危地に入るなんて」
「大丈夫よ。わたしがいるじゃない」
まさにその所為でびくびくしなければならないのであるが、公平に考えてみれば、それは由希自身には関係のない話であり、あくまで怜の側の話である。明日帰る従妹にこちらの都合を押し付けることの是非は、問うまでもないことだった。怜は心を決めると、由希とともに、ビルの一階入り口に向かう人の群れに混ざった。ただし、本屋で聞いたプレゼントルールの適用は除外するように念を押しておいた。
断じて敢行すれば鬼神もこれを避く、という。知り合いは鬼神以上の存在ではなかったようである。およそ三時間弱、ビル内の雑貨屋や衣料品店、CDショップなどを見て回ったが、知っている人間には誰とも会わなかった。一階から外に出るために下りのエスカレーターに乗っていると、
「つまんないなあ。レイの友だちに会えなくて」
不満そうな口ぶりで隣の少女が言う。彼女の長くしたもみ上げをひっぱってやりたい気持ちを怜はすんでのところで抑えた。代わりに、
「世の中、上には上がいるんだ。佐伯はうまくいったけど、お前の手に負えそうもない子が数人オレの知り合いの中にはいる」
と警告めいた口調で言うと、なら一層会いたいわ、と不敵な答えが返ってきた。
「わたしまだ『上』っていうのに会ったことないから」
自信たっぷりに言う由希。その自信を若輩の虚勢、と斬って捨てられないところが彼女の凄味だった。怜も由希には一目置いている。時々、子どもっぽい真似さえしなければ、一歳年下であるにも関わらず敬意を払うことさえできるかもしれない。博覧強記、という言葉は彼女の為にあるようなもので、本当に様々なことをよく知っていた。怜が尋ねたことで、即妙の答えが返ってこなかったことは無いと言って良い。しかも、頭でっかちに自分の知っていることをひけらかして他人を白けさせたりすることもない。知は現実に応用できてこそ意味がある、ということを知っているのである。その応用の一つが先の澄への対応である。
「レイこそさ、そういう人に出会ったの?」
「そう言っただろ」
「それは女の子の話でしょ。女の子が男の子より優れてるのは当たり前じゃない。そうじゃなくて、男の子の知り合いで自分より上の人間に会ったことは?」
「オレ以外の人間は大抵オレよりは上だよ」
「謙虚だねー。でも、そんなことないと思うな」
ビルの外に出て人ごみから少し解放されたときに、由希は、怜に寄り添うとその腕を取って笑顔を向けた。
「だってさ、わたしがこうして腕を組みたくなる男の子って今の所レイしかいないもん」
ありがたい話であるが、もっとありがたいのは今すぐ腕を離して、一歩離れてもらうことである。
「ちぇ……傷つくなあ。仕方ない。傷ついた乙女心はシェイクに癒してもらおうかな」
「ボーイフレンドか?」
「そうよ。あそこにいるの」
由希の向ける目の先に、ハンバーガーのファーストフード店がある。癒したいのは傷心ではなく空腹であろう。
怜は、自分の傍らを離れ先に立って歩き出す少女の背を追った。これで本日の運試しが最後になることを信じて。