第51話:お出かけ日和の薄曇り
ベッドを占拠されることなくゆっくりと休むことができた朝、カーテンを開けてみると、世界は薄暗かった。曇りである。
――もしかしたら……
と希望を持って階下に降りた怜だったが、
「大丈夫だよ。雨は降らないってさ」
もみ上げの部分だけを肩の所まで伸ばした可愛らしいショートカットの少女が、実に可愛らしい笑顔でそう言った。エプロン姿の彼女は、一家の主婦役を務めているらしい。ダイニングテーブルに、いつもの洋風な――すなわちトーストとオレンジジュースという手抜きな――朝食の代わりに、雑穀米で握られたもちもちしたおにぎり、玉ねぎとおくらと豚肉の入った甘みのある味噌汁、半熟状になったふわっとした卵焼き、など目にも鮮やかな和風の料理が載っていた。
「ユキちゃんは本当にお料理上手ね」
給仕される側でテーブルに座っている母がご満悦の様子でそう言うと、
「母が、伯母様と違って、何にも作らない人なので、何か食べたかったら自分で作るしかないんです」と由希。
母はうなずいた。
「そうなのよ。あの子はね、昔からそうだったわ。わたしと母さん――あなたにとってはおばあちゃんね――の作るものをもっぱら食べる役だったから。今は娘に食べさせてもらってるわけね。ま、でも、その不精ゆえにお料理ができる男性と結婚したわけだから、良かったのかもしれないけど」
あてつけがましいことを言われた父は咳き込んだが、
「あたしは叔母さんに賛成だな。料理ができる人と結婚すればいーのよ」
従妹と比較される嫌味を言われる前に都は抜かりなく先手を取った。怜は自分の席につきながら、敢えて困難な道を選ぶ妹に心中でエールを送った。そんな男を待つくらいならば、今から料理を始めた方がよほど話が早い気がするが、チャレンジ精神旺盛な彼女に言っても無駄であろう。
「お味はいかが?」
エプロンを外して自分も席についた由希が隣から覗き込んできた。
「あとでレシピを書いておいてくれ。お前に倣うことにするよ。食べたいものは自分で作る」
「美味しいの? 美味しくないの?」
「おいしいです」
「よろしい」
食べ終わるとすぐに外出するのかと思ったら、由希はまず食事の片づけを始めた。手伝う怜に、
「お風呂掃除とお庭の草取り、どっちがいい?」
魅力的な択一を迫る少女。どういうことか尋ねると、
「三宿のご恩返しの一環です。家事をさせていただいて、それが終わってからデートということで」
食器を手早く洗いながら答える由希。怜は急に自分の頭が悪くなったのか、と疑った。もちろん、大して上等な頭でないことは承知であるが、それにしても彼女の恩返しに自分が付き合わなければならないとはどういう理屈なのであろうか。
「どうせ手伝ってくれるんでしょ。わたしが一人で作業をしている。そこに現れるあなた。ぶっきらぼうに手伝うことを申し出る。わたしは可愛らしく遠慮する。でも、あなたはそれを無視して黙々と作業を始める。頬を染めるわたし……っていう感じのやり取りを節約しようと思って」
妄想を話している間も彼女は手を休めず、次々と皿を綺麗にしていく。隣でそれを拭く怜は、他に何をやる気なのか尋ねて、
「トイレ掃除、廊下と階段の床磨き、お布団干し、エアコンのフィルター掃除、リビングの掃除機がけ、玄関の箒がけ」
後悔した。
「大丈夫。二人でやればすぐに終わるわ」
由希は元気付けるようにそう言うと、水を止めて、手をエプロンの端で拭った。そのあと、部活に出ようとしていた都に声をかけると、
「ユキちゃん。あんまり張り切らないでよ。わたしがユキちゃん家に泊まっても、同じことできないから」
渋い声が返って来た。怜は最後の皿を拭きながら密かに妹を応援したが、
「大丈夫よ、ミヤちゃん。妹を助けるために兄がいる。そうでしょ?」
軽やかな声がして、応援は無駄に終わった。あっさりと懐柔された妹が、
「いいことを教えてくれてありがとう、ユキちゃん。兄妹愛って素晴らしいね」
いう。愛というのは双方向のものではないのか、と怜は思ったが、その疑問をぶつけるまえに、
「いってきまーす」
と都は打って変わった晴れやかな声で家を出てしまっていた。
ミッション・スタート。
家事労働を金銭に換算すると結構な額になるということを確か社会の授業時の余談で聞いたような気がするが、なるほど、うなずける話である。怜は汗だくになりながら、これほどの重労働を毎日一人で行っている母に尊敬の念を持った。家は整っているのが普通だと思っていたが、とんでもない。トイレを綺麗にしてくれる妖精はいないし、リビングの埃を払ってくれる聖霊もいない。全て人の手が行っていることである。しかも、この上、二人の可愛くない子どもの面倒も見なければならない労苦ときたら、想像に余りあるものがある。ただもう感謝である。
一通り仕事を終えて、シャワーを浴びると、先にさっぱりしていた由希が台所に立って早めの昼食の準備をしていた。十一時少し前。食事はさっき取ったばかりのような気がしたが、お腹は空いていた。
「すぐできるから、座ってていいよ」
何か手伝おうとした怜がうろうろしていると、今度は追い払われた。父母と一緒にダイニングテーブルについていると、言葉通り間もなく昼食が現れた。長ネギとしらすがトッピングされた和風のパスタである。
「ウチの子になって、毎日お料理してくれないかな、ユキちゃん」
母が舌鼓を打ちながら言った。
「ありがとうございます、伯母様」
「お母様って呼んでもいいのよ」
家事労働の礼だろうか、珍しいこともあるものである。母は息子と息子の嫁候補に小遣いをよこした。
軍資金を得た二人が家を出たのが正午頃のことである。外はうす曇りで歩くのにはちょうどいい気温だった。目覚めたときは雨を期待した怜だったが、家の中でずっと従妹の相手をさせられるよりは外の方が気が紛れて良いかもしれない、と気を取り直した。隣を歩く少女に、どこか行きたいところがあるか、訊くと、
「街を案内してくれればいーよ。レイと二人きりで歩きたいだけだから」
にこにこした顔で答える由希。怜は目を細めた。艶っぽいことを女の子がいう時は大抵ロクでもないことが起こる、という哀れな経験則をここ数ヶ月で習い覚えていたのである。
歩道に揺れる緑は、日が差している時よりも濃く見えて返って鮮やかだった。微風がさわさわと葉ずれの音を奏で、初夏の爽やかな香りを運んでいる。
怜の足は駅前へと向いた。中心部から離れても仕方ない。由希はきょろきょろと辺りを見回しながら、楽しそうにしていた。別段、愉快なものがあるわけでもない。どこにでもありそうな街の風景であるが、
「そうは言っても、うちの駅前とは随分違うからさ」
ということらしい。それに、と言葉を足した彼女は、
「隣にあなたがいるから普通の景色も特別に見える」
上目遣いでそんなことを言った。少し彼女から離れた怜に、何で離れるのよ、と責めるように由希は言って、
「レイ、手つなごうよ」
朗らかな声で恐ろしいことを言い出した。そんなことはできないということをはっきりと告げると、
「何でよ? カノジョに悪いって?」
口を尖らせる由希。
「カノジョはともかく……お前と手をつないでる所を万が一にも見られたくない子がいるんだ」
「カノジョの他にそんな子がいるの?」
「もし見られたら、ほとぼりが冷めるまで一週間くらい学校を休まないといけなくなる」
「じゃあ、仕方ないわね」
やけに物分りがいいことを怪しむ暇もなく、怜は自分の長袖のシャツに包まれた腕に、少女のパーカーの腕がからまってきたのを感じた。
「手をつなぎたくないって言ったの、そっちだからね」
「由希、頼む」
怜の真剣な声に、しぶしぶながら由希は体を離した。
「代わりにあとでハンバーガー奢ってよね」
怜はシェイクもつけることを約束した。
二人の行く手に大型の店舗が現れた。ビデオのレンタルと本屋を兼ねたチェーン店である。休日の本屋。全く気は進まなかったが、連れが本を見ていきたいというので入らないわけにはいかなくなった。今日は彼女が主役であり、怜はしがない付き人に過ぎない。そのうち誰かに付き添われる身分になることもあるのだろうか、と考えて怜は首を横に振った。どうもありそうにもない。
「レイ、あれ買ってよ」
分厚い専門書のコーナーに連れて行かれた怜は、少女の指差す本に目を瞠った。『初期ギリシア哲学者断片集』。書名のいかめしさもさることながら、価格のほうが問題である。税込み一万二千円。怜は、文庫コーナーから選べ、と言おうと思ったところで、はた、と気がついた。
「ユキ」
「なあに?」
「何で、オレがお前に本を買ってやることになってる?」
「何言ってんの、今さら。男の子はプレゼントする。女の子はそれを受け取る。古来からのしきたりでしょ。本屋にカップルで入ったら、つべこべ言わず、女の子に本を買ってあげること」
そう言うと由希は文庫の棚の方に歩いていった。怜の懐具合は言わずとも正確に理解しているようである。知りたくもない古からの慣例を知ってしまった怜は、本屋を出たらできるだけ余計な店に入らないことに決めた。由希が文庫本を選んでいる間、怜は少し離れたところで新書を検分していた。漢詩についての本などを手にとってみる。付き合ってるカノジョの影響でこの頃読むようになってきたのである。唐の天才詩人、李白の詩を読んで壮大な気分に浸っていると肩を叩かれた。怜は本を元の場所に返し横に目を向けた。
これだから休日は嫌なのである。人ゴミに出かければ必ず知人と会う。両の細い肩に細い三つ編みを載せた少女は、目元に涼やかなものを漂わせていた。おうとつのあるしなやかな体を、パフスリーブになった半そでのTシャツとカットソーのスカート、膝下までのレギンスに包んでいた。
「奇遇だな、佐伯」
仕方なく怜は声をかけた。彼女とは去年同じクラスだっただけで、他に大した付き合いをしているわけでもない。わざわざ声をかけてくることもないのに、などと思っていると、どうやらそれが表情に現れてしまったらしい。佐伯澄は瞳に鋭い色を映した。
「休日に元クラスメートに会ったにしてはあんまり嬉しそうじゃない理由を訊いてもいい、加藤くん?」
「いや、もちろん、嬉しいよ、ホント」
「ふーん。今、ひとり?」
「え……いや。一人……じゃない。佐伯と同じだよ」
「わたしは一人だけど」
――何をやってるんだ、俊は!
怜は、休日にカノジョをほったらかしにしている友人を責めた。自分のことを棚に上げていることまで気がつく余裕は今の怜にはない。何も悪いことをしているわけではないので、悠然と相手をすれば良いようなものだが、なぜか澄は苦手である。おそらくは昨年のトラウマであろう。彼女の特殊技能であるマシンガントークに撃たれすぎて、まだ傷が癒えていないせいである。
「こんなところで会ったのも何かの縁だから、ちょっと聞いてもらいたい話があるんだけど」
突然に銃口を向けられた怜は必死に抵抗した。
「悪いけど、今一人じゃないんだ」
澄は小首を傾げると、
「それはさっき聞いたわよ。だからよ。休日に加藤くんと一対一でお茶できないでしょ。加藤くんが一緒にいるってことはさ、タマキかスズちゃんか、それとも瀬良くんか西村くんでしょ。一対二だったら問題ないもんね」
分からない顔で言った。どうやら彼女の頭には自分の外聞のことしかないらしく、怜とその連れの迷惑になるということは全く考慮の外にある。こういう身勝手な所も苦手なのである。とはいえ、身勝手ではない女の子というのは見たことがないのだが。
「今日はちょっと忙しくて」
怜は少しはっきりと言ってみることにしたが、
「ねえ、加藤くん。二時間も三時間もかかる話じゃないわ。友だちが相談したいって言ってるのにそれを無下にするの? そういう人だったんだ、加藤くん。よくないと思うわ、そーいうの。うん、絶対良くない。良いはずない。世界の誰が許しても、わたしは許さない」
諦めた。
「……相談っていうのは?」
「俊に何かプレゼントしたいと思ってるんだけど、何が良いかなって思って。やっぱりこういうのって男の子に聞いたほうがいいでしょ。自分で選んで、全然つまらないものあげちゃったらやだし」
「俊なら何をプレゼントしても喜ぶさ。佐伯が自分で考えたものならな」
怜が精一杯した努力を澄は意にも介しなかった。
「最終的には自分で考えるからさ、いくつか候補を挙げて欲しいのよ。いいでしょ。さ、タマキか誰か知らないけど、お連れを呼んでよ。ここの隣にあるコーヒーショップで、お茶しながら、あなたたちの意見を……」
「レイ!」
弾んだ声が背を打って、怜は思わず首をすくめた。隣に現れた少女が、
「見てよ、コレ! ハードカバーは高くて手が出なくて諦めてたんだけど、とうとう文庫になってたのよ。今日寄ってみて本当に良かった。この本にしてもいい?」
文庫にしては厚めの本を怜に見せながらはしゃいだ顔で言った。怜が、横を向いてぎこちない動きでうなずくと、やった、と喜びの声を上げて由希がひっついてくるのを腕に感じた。
おそるおそる視線を戻した怜の前に、上からねめつけるような軽蔑しきったような目があった。