第50話:さよならの後
これほど心穏やかに過ごせた午後はいつ以来のことだろうか。怜は誰もいない家の中で紅茶なぞ飲みながらしみじみと考えてみたが、残念なことに答えはでなかった。おそらく母のお腹の中にいたときまで遡らなければなるまい。その時は、妹もいなかったし、さすがの母も生まれて来る前の子には小言を言わなかったに違いない。
環と別れ、そのまま帰宅してから三時間が経っている。辺りはだんだんと暗くなってきており、先ほど既にリビングに電気を点けておいた。小腹が空いたので、冷蔵庫をあさり、ラップに包まれた冷や飯と卵、ベーコンをゲットすると、チャーハンを作って食べた。インスタントでできるオニオンスープもつけてみる。粗末な夕飯ではあったが、一人で食べる食事はおそろしく美味だった。成績のことやカノジョとの仲をあれこれと尋問されることもない。シンプルに食物に感謝して食べることができる。
この素晴らしい時があとどのくらい続くのだろうか、と惜しむ気持ちになったとき携帯電話が鳴った。
「お兄ちゃん。あたしだけど」
「悪いが、それじゃ分からないな。今、うちには二人妹がいるんだ。可愛くない方か、それとももう一方か?」
「もちろん、もう一方のほうよ」
「なるほど。もっと可愛くない方ってことだな。じゃあ、都か」
電話は切れた。もう一度着信メロディが鳴ったのは一瞬後のこと。
「レイ? 由希です」
「愛しい妹よ。どうした?」
「それはこっちのセリフ。本当にレイなの?」
「何を疑ってる?」
「口調が酔っ払ったときのパパそっくり」
「叔父さんのことは尊敬してる」
「飲んでないときの、でしょ。お酒の飲みすぎでママに怒られてるところを見て敬意を持ったんだとしたら、あなたとの付き合いを考えるわ」
「それで?」
「今どこ? 今から伯父様がご馳走してくださるっていうから、レイを拾いたいんだけど」
「必要ない。父さんには、もう夕飯は済ませたから息子のことは気にしないようにと伝えてくれ。一人で夕食を済ませることができる息子を誇りに思うようにとも」
「本当に大丈夫なの? お夕飯はできるだけ引き伸ばしてみるけど、その間に酔いって醒めるのかな」
「もし無理だったら、親子の間を取りなしてくれ。息子を殴ろうとする父の腕に取りすがり、さめざめと泣く母の肩に手を置いてやってくれ」
「何かくれる?」
「愛を」
ピッと電話の切れる音を聴いた怜は、多少テンションが高くなっている自分を認めた。原因が、家族と離れ一人でいるからだとすると、そう遠くない未来、一人暮らしをするようになったときには人格そのものが変わる可能性がある。
紅茶のお代わりを淹れて、鈴音の母から貰った菓子をお茶請けにした。円形のカステラ菓子で抹茶クリームがサンドされている。片手にした菓子を頬張りながら、リビングの低いテーブルに広げていた英語の問題集に取りかかる。目に留まったのは英作文の問題である。『わたしは東京ディズニーランドに三回行ったことがある』を英語で書け。書けと言われれば書くが一体こんな表現をいつ使うんだ、と怜は首を捻った。友だちに、「ディズニーランドに何回行ったことある?」と訊かれたときか、それとも、「わたし三回も行ったことあるんだよ」と自慢したいときか。どちらも現実的でないように思われる。英語の勉強というのは実生活で使わない表現を覚えるということなのだろうか。道理で好きになれないはずだった。
実際に使いそうもない文だとしても確実に英文で書けるようになってきている自分に少し満足していると、幸福な時はするすると過ぎ、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。壁にかかっている時計を見ると八時を少し過ぎたところである。怜が家族を迎えに出ると、
「良かった。アルコールの臭いは消えてるわ」
近づいてきた由希が鼻をくんくんとさせて言った。
「人聞きの悪いことを言うな。それでなくても、オレの信頼度は高くない」
怜が嫌な顔をすると、玄関を上がって来たもう一人の妹が、
「お母さん、冷蔵庫を調べてビールの類がなくなってないか調べた方がいいよ」
と母に指示を飛ばした。いくら捜査をしても、なくなったのはチャーハンの具材だけである。無駄骨に終わるのみだ。母は真に受けなかったようである。そこは、年の功ということだろう。怜が、父の唯一の楽しみを奪う子かどうかくらいの判断はつくのだ。代わりに、リビングに腰を下ろすと、
「レイ、みんなにお茶淹れて」
とウエイター役を命じてきた。みな緑茶で良いか確認すると、一人だけ紅茶がいいと和を乱す少女の声がした。
「砂糖も入れてね」
都が機嫌悪そうな調子で続けた。彼女はなぜむっつりとした顔をしているのか。先の電話の一件でもあるまい、と思った怜だったが、原因を探る気はなかった。なにしろ、仮に原因が分かったとしても、慰めてやる気など毛頭ない上に、大抵は、
「あーあ、最悪。急に明日部活になるんだもんな。折角、明日も由希ちゃんと遊ぼうと思ってたのにさ。今夜も遅くまで話してようと思ってたのに」
という感じで腹に収めておけない性質だからである。休みだったはずなのに、先ほど突然メールが回って来たそうである。
「お兄ちゃん、砂糖入れすぎ! 甘い!」
苛立たしげな目で勝手なことを言ってくる妹を怜は無視した。臨時雇いのしかも無報酬のウエイターである。文句があるならいつでも解雇してくれて構わない。都は、ふん、と鼻息を荒くすると、仕方なくティーカップに唇をつけて、一口紅茶を啜ってから、
「ごめんね、由希ちゃん」
と、隣に座っている少女にすまなさそうに言った。由希は笑って手を振った。
「部活だったら仕方ないよ。ちょっと残念だけど。代わりにお兄さんを借りてもいい?」
「借りるっていうか、あげてもいいよ。紅茶一つ満足に淹れられないような兄で良ければだけど」
「やったね。わたし、お兄ちゃんが欲しかったんだ」
「わたしはカッコイイお兄ちゃんが欲しかった」
初めて怜は都と兄妹のつながりを感じた。怜も同様のことを考えていたのである。ただ、口に出すのは控えておいた。魔法の十二時は過ぎたのである。再び家の中で最下層の位置に戻らないといけない時が来たのだ。そんなことよりも――
「ということで明日はデートしてね、レイ……って、どこ行く気?」
勉強用具をまとめ、そそくさとリビングから出ようとしていたところを呼び止められた怜。ぎくりとして立ち止まって、
「もう寝ようかと」
撤退理由を説明すると、
「まだ八時半だよ」
と由希。確かに就寝時間には少し早い。では、ということで、怜は受験生特権を利用することにした。受験生特権とは、勉強する、と一言言いさえすれば、大抵のことは許されるというすばらしい権利のことである。
「そういうわけだ。オレの将来のことを考えて、邪魔はしないでくれ」
「何時まで勉強してるの?」
「寝るまでだ」
「明日は付き合ってくれるの?」
「そうだな。今はやりの図書館デートにしよう」
「図書館デート? なにそれ?」
「カップルで図書館で勉強するんだ」
「それ、デートなの?」
「もちろん。ひとつところに二人でいるんだ。デートでなくて何だ? 安心しろ。二年生の教科書は取ってあるから貸してやるよ」
「こっちではそんなのが流行ってるの?」
「ああ」
「ウソでしょ」
「ああ」
「じゃあ、明日は街を案内してね」
従妹の面倒など、よほど断りたかったが、両親と妹の無言のプレッシャーを受けて断念せざるを得なかった。彼らは今日従妹をもてなしたのである。とすれば明日は怜の番だった。怜は仕方なくうなずいてみせると、廊下に出て階段を昇った。明日の分も今日できるだけ勉強しておかなくてはならない。部屋の電気を点け、机の上にノートを広げた。
鈴音のことが頭に浮かんだのは小一時間ほどしてのことだった。ちょっと疲れたので五分ほど休憩を取ろうとしたとき、ふと今日の一日を振り返ってみたのである。「さよなら」と言った彼女の最後の言葉が耳の奥で響いた。それは、今日までの関係を清算する言葉だった。その響きの中で、彼女と出会ってから今日までに起こったことが鮮やかに蘇るような気がした。その所作を一つ一つ思い返してみると、鈴音はやはり得がたい子であると思う。素直な気持ちで良い子であると思える数少ない女の子だった。
「さよなら、スズ」
室内に静かに響いた言葉は、しかし軽やかに耳に届き、そこに陰鬱な色はなかった。おそらくはそれが鈴音に対する自分の気持ちなのだろう、と怜は思った。では、もし環だったら……と考えてみて、怜は首を傾げた。彼女と別れる、ということが全く現実味を帯びた想像にならないのである。不思議だった。たった四ヶ月前に付き合い始めただけなのに、ずっと昔から知っている子であるようで、別れるという状態がどういう状態を意味するのかよく分からない気がする。環とも別れる日が来るのであろうか。もちろんそうだろう、と理性の声は言うのだが、それはどうしても心奥には響いてこないのだった。