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プラトニクス  作者: coach
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第5話:千金の夜に回る運命の糸車

 塾選びはなかなか体力の必要な作業になった。母の作ったピックアップリストに従い、一つ一つ塾に赴き、その塾の方針や実績、授業内容、費用などの説明を受け、時には授業の様子を覗いたり、模擬授業を受けたりした。(レイ)としてはどこでも良いような気がしたが、スポンサーとしてはそうも行かないのだろう。母は慎重に決めたがった。

「1年通うことになる塾なんだから、1週間くらい使って調べたっていいでしょう」

 面倒がって適当に決めたせいで一年間を無駄にするなどというのは馬鹿馬鹿しい、ということだった。確かにそう言われればそんな気もする。

 五件目の塾だった。個別指導を売りにしている塾で、生徒一人一人に対してカリキュラムが組めるという。人とペースが違うお子さん――つまり、人より遅れているということだ――にはピッタリだと思います、と担当者の40代男性がにこやかにアピールした。教室はあまり広くない。二人がけのテーブルが十台ちょっとというところか。各テーブルにはしっかりとした仕切りはないが、適当な位置に衝立(ついたて)が配されており、かなりゆるやかではあるが、個別のスペースになっていた。

 好きになれそうにない塾だった。まず気に入らないのが講師の服装である。三つテーブルが埋まり講義がなされていたが、講師は皆カジュアルな服装だった。普段着を着て勤まる仕事であるということだろうか。また、授業の様子を聞いていると、講師も生徒もタメ口で品が無い。入塾受付の担当者が熱心に説明する中、怜の気持ちは醒めていた。母次第ではあるが、ここに来れば他の塾よりもストレスを受けるだろうということは分かった。

 そんな時である。

「じゃあ、始めましょう」

 凛とした声が怜の耳に聞こえてきた。近くのテーブルで新しく授業が始まったらしい。

「まず宿題の確認から始めます」

 きびきびとした女性の声である。生徒――おそらくは中学生の女の子――が満足にできなかった旨を述べると、

「なぜですか?」

 と女性は詰問した。

「今週は部活で忙しくて……」

「部活動だけですか? お母さんにお聞きしたところ、テレビやスマホに使う時間がかなりあるようですが」

「それは……」

「テレビを見るなとか、スマホを使うなとか、そういうことを言う気はありません。ただし、先に宿題を終わらせてから、好きなことに時間を割くように。ここに来ている以上は、まず来年の合格を第一に考えてください。出てしまった結果にだけは、私が責任を取ることはできません」

「……分かりました」

「一応、宿題の内容と量について今から見直しをします。優先順位をもう一度確認しましょう」

 怜は入塾説明を右から左に聞き流しながら、その授業内容に意識を集中した。生徒も同じ中学3年生のようで、授業内容は理解できた。その授業には美しさがあった。教師の説明、生徒の解答、解答の修正、再度の演習、が整然と淀みなく続いた。他の授業にあるだらだらとした雰囲気はそこにはなかった。怜は小学生のときに通っていた剣道場のことを思い出した。武道やスポーツのトレーニングに近い雰囲気がその授業にはあった。

 30分ほどして入塾に関する説明が終わり、担当者の男性が怜に何か質問がないか訊いてきた。怜が聞きたいことはただ一つだった。担当者は意外な面持ちで、

「講師の指名ですか? 一応、こちらであなたに一番合う先生を選ぼうと思っているのですが、特にご希望があるのなら対応しますよ」

 と答えた。

 教室を辞すときに、怜はちらりと例のテーブルに目をやった。まだ20代前半くらいの若い女性講師が流れるような口調で生徒に当たっており、生徒の方も真面目にそれに答えていた。そこだけ空気が違うようであった。怜が安心したことに、彼女はパンツスーツ姿だった。

 帰りの車の中で、今の塾にしたい旨と講師を指名したい旨を怜は母に告げた。

「今の塾ね……確かに昨年の実績はそこそこみたいだけど」

 母が前を見ながら言う。塾の雰囲気があまり良くないことが気になるらしい。

「それに指名って言ったって、知ってる講師がいるの?」

 怜がさきほど教室にいた女性講師のことを話すと、母は何を勘違いしたのか、

「怜、あなたがそういう年頃だっていうのは分かるけど……」

 と慎重な切り出しから、

「講師を顔で選んでも仕方ないでしょう」

 と思春期の息子を教え諭そうとした。

 怜は、顔など体の上に載っていればそれでいいことと、耳をそばだてていた授業内容が分かりやすかったことを、母に分かってもらえるように説明した。

「分かりました。勉強するのはあなたなんだから、あなたの直感に従いましょう」

 塾へは、週二コマ、一コマ2時間のコースで通うことになった。初回だけ、母も同行し、講師と十分程度話をした。母は、

「授業内容や方針については一切口を出しませんので、先生のお好きなようになさってください」

 と言ったあと、進捗状況の細かな説明も必要ないことと、家でさせるべきことがあれば何でも言ってもらいたいことを講師の女性に告げて帰った。

「なかなか面白いお母さんですね」

 山内(アカリ)と名乗った講師は感想を漏らした。

「過程も必要ないし全面的な協力もするから結果を出せ、とおっしゃってたことは理解できましたか?」

 怜はうなずいた。

「あなたへの信頼の証ですね」

 確かに信頼しているからこそ口を出さないようにするとも言えるが、

「無関心なだけじゃないですか?」

 と怜は言ってみた。いいえ、と山内女史は静かに首を振った。後ろでまとめられたポニーテールがかすかに揺れる。

「関心がなかったら、そもそも塾に入れようとはしません」

 そうとは限らない。子に関心を持っているというよりは、親の自己満足のためということもあり得る。

「だとしても喜ぶべきでしょう。他人の自己満足のために、チャンスがもらえるのは今のうちだけです。そのチャンスを活かすも活かさないもあなた次第」

 山内講師はそこで口元に笑みを見せた。

「私のテストは終わりましたか?」

 怜は、どきり、とした。彼女の人となりを探ろうとしていたことに気がつかれていたのが分かって、驚いたのだった。

「これが人生経験の差です」

 と言って、彼女は自分にも同じ経験があることを怜に伝えた。

「さあ、じゃあ、お母様のご期待に沿えるよう、あなたの希望を叶えられるように、第一歩を踏み出しましょうか」

 彼女はそう言うと、初回の授業を始めた。

 初回は、今後の授業についてのオリエンテーションとなった。怜の苦手教科が英語と社会であることが分かると、まずはその二教科を重点的に学習していくという方針になった。また、授業時における細かな注意事項を受けた。

 一つ。意思表示をはっきりすること。

「わたしは、あなたの母親でも姉でもありませんので、あなたの心理状態は分かりません。学校でいらいらすることがあって塾に来たときでもそれを察することはできません。よって、勉強できないような心理状態だったら口頭ではっきりと申し出てください。できるだけ考慮します」

 一つ。敬語を使うこと。

「敬語は社会のルールです。今、崩れつつありますが、それでもなお通用しています。敬意があろうがなかろうが、年長者――すなわち授業中はこの私――には敬語を使うようにしてください。高校の面接試験でも役に立ちます」

 一つ。言い訳をしないこと。

「言い訳は時間の無駄です。言い訳しても、できなかったことができるようにはなりません。そんな時間があるなら勉強してください」

 ……などなど。十点以上ある、勉強自体とは関係なさそうに思えることを綿々と言われた上、確認用のプリントまで渡された。

「勉強は生活の一部です。生活態度が悪ければ成績も上がりません。今言ったことは全て簡単なことですが、これをしっかりと守れた子は私が受け持った生徒の中にはいませんでした。あなたがその最初の一人になってくれることを期待しています」

 期待を背に受けて、怜は初回の授業を終えた。もう辺りは暗い。帰りは自転車だった。家までは20分程度である。行きは母とは別々に来たのだ。怜が望んだことではなかった。むしろ初回くらい車で送り迎えしてくれても良いのではないかと思ったほどであるが、母に初めから一人で行かされたのだった。これも信頼の証であろうか。信頼とは良い言葉である。上り坂で立ちこぎをしながら怜は思った。都合(・・)の良い言葉である。

 自転車をこぎながら、高校受験に向けて始動したことに半ば信じられない思いだった。高校は何となく、入れるところに入るんだろうと、成り行き任せで考えていたからだ。それが、目標を持って取り組むようなものになるとは。人生は時に劇的な変化を見せる。

 志望高校は(タマキ)と同じ高校にしておいた。彼女の志望校は、この辺りでは一番の進学校だった。環と同じ高校に通いたいとかそういうことよりも、スポンサーである母を納得させるためには、その名を挙げるしかなかったのだ。

 怜は微笑した。同じ高校を目指すことにしたことを環に言ったら、どういう反応を見せるだろう。喜ぶだろうか。(いぶか)るだろうか。四対六で、後者の気がした。明日試してみよう。

 自転車をこぐ体をふうわりと夜気が包んでいた。風に艶がある。雲間から差す月光が咲きかけの桜花を照らしていた。大金を払ってでも春の夜のわずかな時間を手に入れたい、と(うた)った古人がいたが、その気持ちが分かる気がした。

 良い夜だった。

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