第49話:また再び会う日があれば
「お待たせしました」
怜が自分を待っていたことを特に問いもせず歩き出そうとする鈴音。差し出されたハンカチが、彼女の歩みを止めた。鈴音は、怜に向かって小首を傾げて見せたが、念のため指を目元にもっていくと、はっとした顔を作ってハンカチを受け取った。
「今出てくるときにお母さん感極まっちゃったみたいで。貰い泣きね」
鈴音は湿った瞳を拭うと、ありがと、と言ってハンカチを怜に返した。改めて歩き出した少女の横に、菓子の袋を手に提げて怜が並ぶ。どこに行く気なのか、とは問わなかった。目的地を知っているわけではない。どこに行くつもりでも、今日は従うつもりだった。
「今日は来てくれて本当にありがとうございました」
鈴音は軽く頭を下げると、
「本当はね」
と言って、父母が計画していたことを語った。昼食後、怜を伴ってボーリングとカラオケに行き、夜も外でご馳走するということだったらしい。
「そうして、めでたく親公認のカップルが生まれるわけだったのです」
「そうならなかったことを親父さんのために喜んでおくよ」
「わたしのためには悲しんでくれる?」
「スズなら引く手あまただろ。バルコニー下から声をかけてくる不法侵入者を一人ずつ吟味しろよ」
「わたしのロミオを変質者みたく言わないでよね」
じろりと見る鈴音の視線を受け止めながら、怜はいつもより口が軽い自分を感じていた。まるで別れの重さを振り払おうとでもしているかのような態度に、怜は心中で苦笑した。今日は別れの日であるかもしれないが、それは悲しむべき類のものではない。にもかかわらず、多少の感傷を感じるのはなぜだろうか。
隣からくすくすという笑い声が聞こえてきた。
「ごめん。思い出してたの。加藤くんと初めて会ったときのこと……」
「今日は素晴らしい日だな。自分が失笑とともに思い出される男だってことが分かって」
「だってさ、どう考えても可笑しくて。親友のカレシが面識のないわたしに告白してくるんだもん。ちょっと会ってやろうかって気にもなるわ」
歩きながら笑う鈴音の足取りはゆるやかだった。怜もそれに倣い歩をゆるめていた。日は高くどこに向かうにしろ急ぐ必要はない。
鈴音は目元から笑みを消すと、怜の方は見ずにいった。
「でも、あの時に全てが終わったんだな。長かったわ、すっごく」
吹いていた微風が止まって、再び吹き出すまでのしばらくのあいだ、鈴音は口をつぐんでいた。過去に想いを馳せている少女の邪魔にならないよう、怜も口を閉じていた。
「あの時間に意味があったと思う?」
沈黙を打った鈴音の声に力みはなかった。純粋に答えを知りたいというだけの気持ちしかないようだった。ある時間に意味があるかどうか。それはその後の時間が決めることである。今後、どう生きていくかによって、その時の価値というのは変わってくるのではないか、と怜は思う。
「やっぱり加藤くんは厳しいな」
思ったままを口にした怜に、鈴音は、少しだけ口を尖らせたがすぐに口元を和らげて、
「初めて会ったときとおんなじ」
いった。
「スズは随分変わったな」
初めから大人らしいたたずまいはあったが、その姿勢に強ばったものがあった。今はそれがない。彼女から自然な柔らかさを感じて、その柔らかさの中に冬の陽だまりのような暖かさを感じる。ほとんど別人と言っても差し支えない。
「それは加藤くんのおかげだな」
鈴音はうるおいのある声で言ったが、怜にはそのような傲慢さはない。人が人を変えることが確かにあるとしても、それは変えられた人の方に意志と素質があってこそのことである。雌伏の八ヶ月間を破るきっかけが怜だっただけのことである。
「単なるきっかけじゃないと思うな。深淵に棲む竜は雲雨を待って飛翔する。わたしの雲雨があなただったのよ」
「もうちょっと女の子っぽい比喩にしてみたらどうだ?」
「じゃあ、眠れる森の……」
「やっぱりいい」
王子に例えられそうになった少年は慌てた振りをすると、鈴音は綺麗な白い歯を覗かせて笑った。
どうやらこの遊歩に目的地があることが分かったのは、周囲が見覚えのある風景になったからであった。住宅街である。立ち止まった怜は、先に立ち止まっていた鈴音の顔を正面に見た。彼女の背は怜とほとんど変わらない。鈴音は、今日何度目かの礼を口にして、いい加減怜を呆れさせた。呆れ顔に微苦笑を浮かべた彼女は、
「ねえ、加藤くん」
と言ったきり口を閉ざした。きゅっと引き結ばれた唇が開かれるのに少し時間がかかった。
「今日でさよならだけど、もし……もし再び出会う日があれば、またわたしの手を引いてくれる?」
その言葉をどうとらえてよいか、怜には判断がつきかねた。瞳には、いたずらな色と真剣な色が半ばしている。じっと鈴音を見つめたが彼女は表情を変えなかった。怜はおもむろに口を開いた。相手の意図が読めないなら、誠心でことに当たるのみである。
「もし再び出会う日があれば、今度はオレが頭を撫でてもらうよ」
その言葉の意味するところは、鈴音へのエールと信頼だった。
くっくっという乾いた笑い声が怜の耳を打った。鈴音は手で顔を隠して肩を震わせていた。意図が伝わらなかったのだろうかと疑いを持った怜だったが、それは要らぬ心配だったようである。顔を上げた鈴音の表情は晴れやかなものだった。笑貌を改めた彼女は姿勢を正すと、まっすぐな声を出した。
「さよなら、加藤くん」
怜もしっかりと彼女を見据えた。
「さよなら、スズ」
鈴音は、にこりと微笑んでみせると、先に立って歩き出した。その後に従う怜。鈴音は、一軒の家の前で足を止め、インターホンに姓名を告げた。ちょっとして玄関が開き、一人の少女が現れた。Tシャツにジーンズというラフな格好の彼女は縁石を渡って、門の脇にある通用口を開けた。
鈴音は、門から現れた少女に抱きついた。抱きつかれた彼女の方は、鈴音を抱きしめ返してその頭を慈しむように撫でた。
「おかえり。おかえりなさい、スズちゃん」
「ただいま。ただいま、タマちゃん。ありがとう、待っててくれて。タマちゃんが待っててくれたから、わたし……わたし……」
「わたしが待ってたからなんかじゃないよ。スズちゃん自身の力だよ」
「それを素直に信じることをしないくらいには大人になれたみたい」
しばらく重なり合っていた影が離れて、その一つが怜のガールフレンドになった。
環は、怜の前に立つと、ぺこりと頭を下げた。何度礼を言われる日なのだろう。怜が辟易した顔を見せると環は微笑んだ。
「ありがとう、レイくん」
「オレは何も――」
「『してない』でしょ?」
怜のセリフを奪った環の澄んだ声が響いた。その声音に少し上ずったような色が混ざっている。友人の帰還に震えるものがあるのだろう。怜は、待ち人を自ら迎えにいけないもどかしさを味わっていた少女の苦しみを思った。その苦しみが今日終わったのである。良い日だった。
「タマちゃん、わたし帰るね」
環は驚いたように鈴音の方を向くと、
「旧交を温めようと思ってたのに」
少し残念そうな声を出した。
「親孝行の時間が来たんです。それに、タマちゃんにはもういつでも会えるから」
そう答えると鈴音は歩いてきた道を逆に取った。彼女はその場を離れるとき怜を見なかった。既に別れは済ませて、それを引きずらない潔さが少女にはあった。怜は、紫のワンピースの背をなんとはなしに見つめて、少し、ほんの少しだけ惜別の情に浸った。ただ、それはすぐに門出の祝福へと変わった。彼女の行く道に幸いが……などという祝福の言葉が浮かんで、しかし、怜は苦笑してやめた。鈴音なら自分の力で歩いてゆけるに違いない。
「好きになった?」
隣に立って一緒に鈴音を見送っていた環がきわどいことを訊いてきた。環は怜の方を見ていない。怜はどう答えようか迷ったが、どうにも首肯せざるを得ない自分がいるようだった。女の子が苦手な怜にしては珍しいことだったが、別れの感傷を差し引いても、鈴音には好感を感じるのだった。
「タマキの半身だからかな」
環は黒髪をかすかに揺らして首を横に振った。
「半身じゃないわ。もう一人のわたしよ。明るさと強さと優しさを合わせ持ったわたし」
だから、と彼女はいたずらっぽい笑みを瞳に灯して続けた。
「もし勝負したら勝てないな」
「勝負って?」
「勝負は勝負です」
「友だちなんだろ。仲良くしろよ」
「それはレイくん次第です」
分からない顔を作る怜に、環はいつものように微笑してみせた。
中天にある日はますます強く照り付けてきていたが、怜は不思議に暑さを感じなかった。胸に涼風が流れていて爽やかな心地さえする。それが自分のすぐ隣にいる少女の存在によるものだということは、認めざるを得ない事実だった。以前は感じなかったことである。それを感じるようになったということは何を意味しているのか。彼女が変わったのか。あるいは……
「どうかした?」
声をかけられてはっとした。じっと見つめすぎていたようである。怜は、帰ることを告げて、おもむろに帰路を取り出した。友との再会という神聖な日を自分とのおしゃべりなどによって汚す気は怜にはなかった。数歩あるいた所で菓子袋を持っていない方の手が優しく包まれて、振り返ると眼差しを下げた少女が立っていた。
「あの……レイくん」
言い出しにくそうな顔をしているカノジョにはこちらから促すのが礼儀だろう。怜が何事か訊くと、月曜日に一緒に登校してくれるかどうか、という声が恥じらいを含んで上がって来た。怜はきょとんとしたが、もちろん、とうなずいておいた。大仰に喜びの色を作った環は続いて、もう一つお願いがある、と言い出して、
「わたしのこと、これから『タマ』か『タマちゃん』って呼んでくれる?」
と真剣な目を向けてきた。
怜はもちろんそれは断っておいた。