第48話:旅立ちの宴
目が覚めたら床だった。冷たいフローリングに横になっている自分の体を確認した怜は、もぞもぞとベッドへと戻ろうとした。カーテン越しの光で夜が白々と明けているのが分かったが、今日は休日である。思う存分寝ていても誰にも文句は言われないはずだ。ベッドに戻ろうとした怜は、寝ぼけ眼をこすった。自分専用のはずのシングルベッドの上に、何だか別の物体がある。それは、怜よりも小柄な人型をしており、寝息も聞こえないほどすやすやと休んでいた。
「起きろ、由希」
怜は自分を押しのけて床に叩き落としたであろう容疑者に向かって静かに声をかけた。一体いつの間にもぐりこんで来たのか。全く覚えがないということは、怜の名誉は守られているということだ。昨夜は確かに一人で寝たのである。とはいえ、この状況はうまくない。早いところ、彼女を起こして妹の部屋に戻さないと悪名を千載の後に残すことになる。薄明の中で平和な夢を見ている少女の肩を揺すると、彼女はうるさそうに手を払ってきた。あと十分寝かせて、などと寝言混じりに言う。その十分で都が起きて自分の部屋に従妹がいないことを発見するやも知れず、怜はもう少し強く彼女の肩を揺すって声をかけた。
「うーん、うるさいなあ。あと十分でいいって言ってるのに。起きるから、着替え用意してよ、拓馬」
怜は朝から苦行を強いられている小学四年生の従弟に同情した。妹にして慈しむにしても姉にして敬うにしても苦労させられそうな少女は、ぐったりと横たえていた体を強靭な意志の力で無理矢理起こしているようなぎこちない動きでようやく体を起こした。彼女は、あくびをしつつ半眼を怜に向けたあと、周囲の状況を検分した。そのあと、伸ばした手で怜の頬をぺしぺしと軽く叩き始めた。
「気が済んだか?」
理不尽な暴力に耐え切った怜が尋ねると、うん、と由希は首を縦に振った。組んだ両手を上にあげて伸びをすると、
「おはよ、レイ」
と実に清々しい声で言ってきた。
「今、何時?」
問われた怜が携帯を調べてみると六時であった。
「じゃあ、まだいいじゃん」
ぽてんと再び横になりそうになった少女の体を支えると、怜は、ここが誰の部屋か分かっているのか確認を取った。
「レイの部屋でしょ。だから、あなたがいる」
「幼稚園の時に何か約束したことがあったんなら、悪いけど破棄させてくれ。そうして、オレに少しでも好意を持ってくれてるなら、今すぐにここを出てってくれ」
「ミヤちゃんのいびきが凄くてさ、それで眠れなくてこっちに来たのよ、昨日」
そんなことは聞いていなかった。きゃっという小さな叫び声が上がるのを無視して、ぐいと腕を引っ張って怜は彼女を立たせると、部屋の外に追い立てた。
「一夜を共にしちゃったね、レイ」
楽しそうに言う少女の前で、戸が閉められる。怜はついでに鍵をかけた。普段かけるものでもないし、まさか夜中に従妹に侵入されるとは思ってもみなかったので昨夜もかけていなかったのだ。今夜はかけておいた方が良さそうである。今の小競り合いで目が冴えてしまったようなので、怜はベッドに戻るのはやめにした。南側と西側に面した窓のカーテンを開き、朝の光をふんだんに入れる。まだ弱い光だが、室内は十分な明るさとなった。
それから母が朝食の準備を整えるまでの一時間半ほど、怜は学生の本分を果たした。さすがにこんな時間から勉強したことなどなかったが、師とは有り難いものである。できた時間を何に使おうかと思ったときに、どこからともなく、「余った時間は全て勉強に使いなさい」という声が降ってきたのだった。
朝食を取り終わると、怜は家に一人残された。由希を歓待するために、加藤家は今日はドライブに行ってどこぞで楽しんで来たり、美味しいものを食べたりしてくるのである。
「レイが来られなくて残念だな」
少し顔を俯かせる由希に、怜も同じ気持ちだということを伝えておいた。何と言っても、彼女より一学年上なのである。そのくらいのリップサービスができるほどの如才なさは持ち合わせているつもりだった。しん、と静けさの染み入る家の中で、怜は開放感を味わっていた。一人とは何と素晴らしい状態だろう。妹のからかいの声も、母の注意の声も何も無い。柄にも無く鼻歌でも歌いたくなる気分である。コーヒーメーカーに酸味の強い飲料を入れてもらい、それを楽しみつつリビングのテーブルに教科書の類を広げる。塾の講師からは止められているが、テレビの朝のワイドショーでもつけて、『ながら勉強』などしてみる。
浮かれた時間をしばらく過ごすと、時計は十一時を指していた。そろそろ鈴音の家に行く用意をしなければいけない時刻である。怜はシャワーを浴びると、見苦しくない程度にラフな服装を身につけた。デニムのパンツと、グリーンのアメカジ風Tシャツの上に半そでの黄色のチェックシャツ。いつぞや、太一と遊んだ時に、彼が選んでくれたものだった。目を凝らしてみれば太一にもいい所が結構あるのかもしれない、などと上機嫌で怜は考えた。出だしこそ悪かったものの、今日は良い日になりそうだ。
玄関に鍵をかけて外に出ると、頭上は見渡す限り優しい青だった。心がその色に浸ると、孟夏の清々とした空気が胸に満ちた。アスファルトからゆっくりと立ち昇り始めた熱の上を、怜は静かに歩いた。もうこの道を通るのも最後だと思うと多少なり感慨深いものがある。踏みしめた一歩が次の一歩を産んで、また次の一歩へと続く。その一歩一歩の感触を怜は大事にした。
道の果てに少女が一人。紫のシャーリングワンピースと黒の七分丈レギンスが彼女にいつもよりガーリーな魅力を与えていた。怜が、スズ、と声をかけると、
「ようこそ」
彼女は微笑して頭を下げ、後ろに控えている家に怜を招いた。
「何か緊張するな」
「全然そんな風に見えないよ。多分、父の方が緊張してると思うから、よろしくね」
先導する少女の髪はいつもとは違って下ろされて肩にかかっていた。
通された広いダイニングで、怜は自己紹介とお招きの礼を述べると、鈴音の母の方からは何度も面識があることもあって温かい笑みと歓迎の言葉を送られたが、父の方からはどうにも機械的でぎこちない笑みと棒読みのような迎えの言葉を受けた。おそらく、妹がカレシを連れてきたとき怜の父もこんな風になるだろうと思うと微笑ましいものがあり、かすかにあった緊張は解けた。
ダイニングテーブルの上に並べられた豪華な昼食を楽しみながら、怜は精一杯、鈴音の父母に愛想よく振舞った。質問にはできるだけはきはきと答え、答えたあとに直接訊かれていないことにも追加情報を与えたりする。遠慮してくれているのだろう、あまり学業のことは聞かれないので、部活動のことを多めに話しておいた。文化研究部がいかに素晴らしい部であるかということを、部長の顔を思い出し彼女になった気になって話してみたりする。また、昨日の由希の様子を真似してみたりした。招かれている方が気を遣うというのもおかしな話だが、いつものテンションで大人との会食に向かうのには無理がある。それでもなお限界があって、会話が止まりそうになると、鈴音がフォローしてくれた。
「加藤くん、これ食べて」
鈴音の勧めに従って、オードブルに手を伸ばすと、
「そのズッキーニのオードブルは鈴音が自分で作ったんですよ」
鈴音の母が娘の発言に重ねて言った。
「やだ、お母さん。言わないでよ。美味しかったらわたしが作ったってこと言って、いまいちだったらお母さんの失敗にしようと思ってたのに」
鈴音は睨む振りを作った。ベーコンとトマトが乗った輪切りにされたズッキーニを食べて、大仰に美味しい旨を伝えると、
「美味しくなくても美味しいって言いそうだよね、加藤くんはさ」
と軽い疑いの声が返ってくる。答えようのないことを言われ戸惑う怜の前で、
「美味しくても美味しいって言ってくれない人よりはいいんじゃない?」
鈴音の母が自分の隣を見ていた。どこの家でも父というのはやり込められるだけの存在なのだろうか、と怜は鈴音の父に同情した。その同情の気持ちが通ったわけでもなかろうが、宴半ばのとき、鈴音の父親は急に怜の視線をとらえると、
「加藤くん、本当にありがとう。鈴音が学校に行けるようになったのは、君のおかげだと聞きました。感謝の言葉もない」
そういって頭を下げた。座がしみじみとした空気を帯びた。怜は素直に感謝の言葉を受けておいた。怜の心情としては、鈴音が学校に行くようになったのは彼女の意志の力だという確信があるのだが、それを論じるような場ではない。
「これからも娘のことをよろしくお願いします」
「おとーさん! プロポーズに来てもらったわけじゃないんだからさあ」
鈴音は父をたしなめたが、横から母が、
「いいじゃない。お父さんも子離れできるし」
茶目っ気のある声で言う。
「それはお母さんの都合でしょう?」
「だあって、実際、娘と取り合ったら勝てるわけないもの。あなたには早くラブラブな感じになってもらわないと」
「子どもじゃないんだから、いい大人が『だあって』とか『ラブラブ』とか言うのやめてください」
「いーじゃん。お母さんだってまだ若いんだし」
「今年で四十でしょ」
「ノン、ノン。永遠に二十二よ」
「わたし生まれてないじゃん!」
笑声とともに場がからりと晴れる。
会食中、鈴音は終始はしゃいで見せていた。もちろん、招いた客のために気まずい沈黙を作らないためという目的もあるだろうが、それ以上のものもあるのではないだろうか。新しい旅立ちの日にはそれに相応しい態度がある。旅に立てるほど強い己であることを示す必要がある。そうして己に対する強さとは、詰まる所、他者に対する優しさであるのではないかと怜は感じていた。
二時間ほど経っただろうか。リビングで食後のお茶を楽しんだあとに、車を用意しようとした父を鈴音が止めた。怪訝な様子で振り返る父に、
「これからボーリングとカラオケで加藤くんをもてなすっていうことだったけど、それはキャンセルね」
そう鈴音は告げると、座っていたソファから立って姿勢を正しくした。驚く父母に向かって彼女は柔らかな声で言った。
「一つ嘘をついてました、ごめんなさい。加藤くんは、わたしのカレシじゃありません。だから、これ以上お付き合いしてもらう訳にはいきません。加藤くんがお母さんに、『わたしに告白しに来た』って言ったこと。あれは加藤くんの優しさです。その優しさに手を引かれて、わたしはまた学校に行くことができるようになりました。もう手を引かれなくても一人で歩けます。今日は加藤くんへのお礼もありますが、本当はお別れのためにお呼びしたんです」
すっかり怜のことを娘のカレシと認知していたであろう二人は、予想外のことに呆然とした顔を作っていた。
「これまでご心配おかけしました。鈴音はもう大丈夫です」
はっきりとした口調でそう言って父母に頭を下げると、鈴音は近くのソファに視線を向けた。鈴音の合図を受けて、怜はソファから立ち上がった。招待の礼を短く述べて帰ろうとする怜に、いち早く驚きから覚めた鈴音の母が、玄関先で大きな菓子折りの入った紙袋を渡してくれた。
「ご家族の皆さんで召し上がってね。娘のカレシじゃなくて少し残念ですが、本当にありがとう」
遅れた父からも同様の謝辞を受けて、怜は外に出た。門の影で少し待っていると、忙しない靴音が聞こえてきて、焦った顔をした鈴音が現れた。彼女は、自分を待っていてくれた様子の少年に驚いた目を向けたが、驚きの表情はすぐに微笑に沈められた。