第47話:アナザー・シスター
「お帰り、お兄ちゃん」
玄関に入って帰宅を告げた怜の背筋に寒気が走った。可愛らしい妹の柔らかな声にぞっとしたものを覚えるというのも尋常な話ではないが、しかし、いつものどーでもいいようなぞんざいな調子とは明らかに違う生温かい言い方だったのである。身も震えるというものだ。怜は声の方を見ないようにして、そそくさと玄関を上がって階段へと向かった。
「ちょっと、お兄ちゃんってば、どこ行くの?」
階段下で怜は腕を取られた。ますますもってこれは何かある。考えたくもないが、考えられることの中でもっともありそうなのは、小遣いを貸してくれということだろう。妹は、明日我が身がどうなるか分からない炭鉱夫のごとく、もらった小遣いは一夜で使い果たしてしまうという性癖を持っており、しばしばそのツケを兄に回してくる。もちろん返してくれたことなどない。出世払いという名の踏み倒しを毎回敢行してくるのである。『兄の役割とは耐えることだ』という考え方は怜を随分大人にしてくれたように思う。その点は妹に感謝したいところであるが、感謝の意をお金で表現する、というのはいかがなものか。手元不如意のことでもあるし、
「金はない」
はっきりと言ってやると、
「お金なんか要らない。お兄ちゃんがいてくれればいーよ」
甘えたような声を聞くとともに取られた腕に少女の体温を感じた。ひっついてきたらしいことが分かると、瞬間、怜はこみ上げるものがあった。これが昼食後すぐの教室での出来事であれば、中学校生活に消えない汚点を残したことだろう。怜は己の幸運をしみじみと感じた。天は偉大である。こういう妹を持った不運に釣り合うようにしてくれているわけだ。怜は目を瞑って、ゆっくりと三つ数え、心を落ち着かせた。要求があるなら聞こう、と立てこもる犯人に向かうネゴシエーターのごとく事務的に言って、目を向けたところに、
「久しぶり、レイ」
いたのは、兄をからかうことしか興味のない小さな怪物、ではなかった。背格好は妹と変わらないが、明らかな別人である。全体がショートカットの中でもみあげの部分だけ少し長くしている髪型に、無邪気そうな色を湛える少し大きめの瞳、ちょっと上を向く小さな鼻、ピンクの弓張り月を二つ合わせたような唇。妹の顔よりは随分と繊細な造りだった。怜は、ほっと息をついた。
「来るのは明日じゃなかったのか、由希?」
「そのつもりだったんだけど、待ちきれなくて来ちゃった。学校終わった後に伯母様に電話したら、今日からでもいいっておっしゃってくださって。それにレイも、美貌の従妹に一刻でも早く会いたいかなって思ってね」
怜が、妹は一人で間に合ってる旨を告げると、少女は大仰なため息をついた。
「つれないなあ。千里の道を急いで来たのにさ」
「都と再会を喜び合ってくれ」
「ミヤちゃんとはもうしたよ。だから、レイ、はい」
少女は、そこでようやく怜の腕を放すと、何かを迎えるかのように両手を広げてきた。怜は、彼女を無視すると、階段の一段目を踏んだ。学校から帰ってきたところである。鞄を置いたり、着替えたりする必要がある。
「ちょおっと、レイ! 再会のハグは?」
階下から怒ったような声が聞こえてきたのは、数段昇った時点でのことだった。
従妹の由希は、怜の家の最寄の駅から電車で二時間ほどした所に住んでいる。怜の町と比べると、田舎に属するだろう。そこで彼女は、というか彼女の父母、つまり怜にとって叔父夫婦は、怜の母方の祖父母と同居していた。なので、母が盆や正月に里帰りするときそれについて行く怜も彼女と友情を育むことができることになる。一歳違いで年が近いこともあって、小さい頃は仲良くやっていけたのだが、夢見る頃が過ぎるともうよろしくない。男はからかうものだという女の子特性を完全に身につけてしまったのである。そもそも女の子は苦手な怜が、苦手女子ワーストワンに妹を挙げるとしたら、その妹と肩と肩を押し合うほどのデッドヒートを繰り広げられるのが彼女なのだった。
「レイ、一緒にお風呂入ろう」
身軽な服装になってリビングに現れた怜に、従妹の軽やかなジャブ。視線が痛い。それを口にした少女ではなく、なぜだか怜に向かって、軽蔑の視線が二組向けられている。一つは母、一つは妹のものだ。もし父が帰っていたら三組になっていたかもしれない。父には姪よりも息子を愛してもらいたいものだが、おそらく無理な話だろう。
「昔は一緒に入ってたじゃん」
口を尖らせる由希の瞳には楽しげな光がある。昔、というのは正確ではなく、幼稚園頃の記憶も定かでないような大昔の話である。怜は努めて平静な口調で、一人で入るように告げると、
「ミヤちゃんの裸は変な目で見られても、わたしのは見られないの?」
重たい右ストレートを受けて、ノックアウト寸前になった。がんがん鳴る頭の中で怜は、現行の日本の法律では妹と縁が切れるのかどうか、あとで調べてみることを決意した。
由希は、残念そうな振りをして、代わりに都を誘って浴室の方へ消えた。
「由希、いつ帰るんだっけ?」
月曜日だと聞いていた気がするが、一応母に確認してみたところ、怜は自分の記憶が確かだったことを告げられただけだった。来週の月曜日は、由希の学校の創立記念日だということで休みになっているそうである。今日はまだ金曜日。とすると、土曜日と日曜日の二日間は、両手に花……ではなく噴出花火――紙製の筒から火花を噴水のように吹き上げるヤツ――を持たされた状態になるわけである。美しい二日間になるだろう。手に負う火傷を気にしなければだが。
夕方のテレビニュースが七時を告げた頃に父が帰ってきた。日ごろ笑顔を見せない父が由希を見て破顔するのを目にし、一瞬、怜は自分の親不孝に思いを致したが、その必要はなかった。娘に相手にされない父親の寂しさを埋めてやるような妙手を由希が打っていただけで、彼女がやり手だっただけである。家族が揃ったので夕食ということになり、その席で、
「お注ぎします、叔父様」
由希は弾むような声で言うと、ビールを父のコップに注いでやる。なかなか手馴れたような注ぎ方をしている。父が頬を緩めて、こんなにうまいビールは初めてだなどと、らしからぬことを言うと、由希は嬉しそうに笑って見せる。技巧の跡が見えないその笑い方に怜は感心した。同じ年でもこのような業は粗雑な都には無理だろう。また、父が学校生活のことなど訊くと、淀みない答えが由希の唇から流れ出す。友だちや部活動、学校で流行っていること、果てはちょっと気になっている男子のことまで、包み隠さない振りでさも楽しそうに話し、時々入れる父の合いの手に熱心にうなずく。父の楽しそうな様子を見ながら怜は父の孤独を思った。実の娘ともそのように話したかろうという同情が心に浮かぶ。
「拓馬くんも来られれば良かったのにね」
従妹を取り返すために、父と由希の会話に割って入る都。どこまでも残酷な娘である。
「二人でお邪魔するのはご迷惑だからって」
「そんな遠慮しなくていいのよ、由希ちゃん」
母が軽くたしなめるような調子で言うと、由希はにこりとして、
「っていう口実でですね、置いてきたんです。こちらに伺ってまで弟の世話するのが面倒くさくて」
と悪びれもせず答えた。まあ、と口元を綻ばせる母。由希の声には華やかな色があって、どういう言葉を発しても軽い冗談のように聞こえてしまうという特性がある。
「たまには面倒みてもらう方になろうかなって、ね、お兄ちゃん」
向けられた少女の笑顔に怜は渋面を作った。『お兄ちゃん』という語は怜が最も聞きたくない語だった。なにしろ、この語が発せられる時というのは通常ロクでもないことしか起こらないのである。
「じゃあ、ダーリンって呼んでいい?」
「呼ぶだけなら好きにしてくれ。ただ、オレは答えないけどな」
「照れなくてもいいじゃない。わたしたち婚約してるわけだし」
「フィアンセがいたとは初耳だな。親同士の酒席での戯れか?」
由希は頬に手を当ててショックを受けた振りをすると、
「幼稚園の頃に誓い合ったじゃない。星稀に月明らかな夜、うちの縁側で」
忘れるなんてひどい、と言って隣の都の肩に顔を埋めた。都が険のある目で、ひとでなし、と鋭い声を出して悪ノリすると、母が、
「由希ちゃんがうちに来てくれたら楽できそうね。さっきもお料理の手伝いしてくれたし」
などと輪をかけたことを言う。父まで、うんうん、とうなずく始末。
席を立って自室に引きこもろうかと思った怜が、それを即時実行すべきだったと後悔したのは、ほんの数秒後のことだった。都が由希の頭を撫でながら、
「でも、そのためには強大な障害があるよ」
と意味ありげに声を大きくしたからである。由希の顔が上がる。都のにやにや半笑いを見た怜は舌打ちしたくなった。妹の企みが読めたからである。怜が手を合わせて、ごちそうさまでした、と言い終わる前に、
「お兄ちゃんにはカノジョがいるのです」
妹の朗々とした声が満座を打った。テストで百点取った小学生のような誇らしげな声である。兄を追い詰めるのにそういう声を出すのだから、彼女にサディスティックな面があることは否めない事実であろう。由希は芝居がかった様子で、都に詰め寄った。がくがくと都の肩を揺らして、どんな人なの、と訊くと、
「お兄ちゃんにはもったいないくらいの綺麗な人。優しそうで品があって、あといい匂いがする」
都が陶然とした顔で答えた。兄のカノジョのことを思い出しているのではなく、兄の恋の進展具合を知る絶好の機が訪れたことにうっとりとしているのであろう、と怜は推測した。いつぞや、父の鶴の一声のおかげで恋の定期報告の義務から免れることができたのだが、どっこい都は諦めていなかったということだ。蛇のようなしつこさ、とは彼女のためにある言葉であろう。
「ひどいよ、レイ。わたしというものがありながら他の人と付き合うなんて……」
唇を噛みながら無念そうな振りをしてこちらを見る由希の瞳にいたずらっぽい色がある。怜は彼女も共犯であることを確信した。都は由希とメールで連絡を取っており、兄にカノジョができたという面白い話を従妹にするであろうことは想像に難くない。とすれば由希は既に怜にカノジョがいるということは知っているはずであり、にも関わらずそれを父と母のいる場で話題に出すとは妹の悪計に加担したとしか思えない。
怜は腹を決めた。狡猾な蛇が一匹ならまだしも二匹もいると、鶴の援軍は期待できない。であれば、自分で事に当たるしかない。
「それで、川名先輩とはどうなってるの、お兄ちゃん?」
「何の問題もないほどうまくいってる。現に明日もデートなんだ」
怜は整然とした答えを与え、四組の好奇の瞳を傲然とはねのけると、あまりにまっすぐな回答に虚を衝かれた様子の妹の隙をついた。すばやく食後の挨拶をして席を立ち、自室へと引き上げる。口にしたことは事実ではなく多少良心は痛んだが、怜はすぐに気を取り直した。正攻法で勝つことはできなかった相手であることだし、また、ついたウソを事実に近づけることで心痛も和らぐことだろう。怜はおもむろに携帯電話を取り出すと、しばらくしていなかった相手にメールを打ち始めた。