第45話:王子様登場
付き合って欲しい、と交際を申し込まれて嫌な気持ちになることは稀だろう。よっぽどきらいな人間からであればまだしも。好意を伝えられるということは自分の価値を認めてくれたということであり心躍るものがある。
「オレと付き合ってくれ、水野」
という告白の言葉を聞いた時、更紗の心も躍った。踊った上についでに飛んだ。これまで一度も告白されたことのなかった彼女の心は、それこそ二回転半ジャンプを決められるほどたかく高く、宙に舞ったのだった。しかし、空中にいたのはほんの一瞬のことである。見事着地に成功して落ち着きを取り戻した彼女の心が再度飛翔することはなかった。
更紗の答えは、NO、である。それ以外にない。
「オレのこと嫌いなのか、水野?」
嫌いどころか、どちらかと言えば好きな部類に入るだろう。すらっとした長身の上に載る顔の中には、嫌味になる一歩手前で控えめに整えられた眉やつるつるした肌、二重のぱちっとした瞳、形の良い柔らかそうな唇がある。ルックスは申し分ない。ずっと見ていても飽きそうにない魅力的な顔立ち。更紗のいる三年五組はもちろんのこと、三年生全体の中でも人気のある男子だった。学校の昼休み時間、教室内、という些かムードに欠ける設定ではあるが、皆の前で堂々と告白してくれたことは好感が持てる。周囲の女子から受ける嫉妬の視線も心地よい。
しかし、NO、である。答えは変わらない。
秀麗な彼に対して、告白を受けた彼女には、取り立てて人目を惹くようなものはない。痩せぎすの中背からにょきにょきと伸びたあまり均整の取れていない手足に、天然パーマ気味のうなじまでのセミショート、高校に入ったら描きまくってやろうと思っている細すぎる眉、スナック菓子の食べすぎでちょっと荒れてきた頬。そんな所である。貧相である。唯一、瞳には楽しそうな煌きがあって見るべき点があると言えるが、全体に、容貌だけで男子を引き付けるのはなかなか難しいものがある。
「いや、そんなことない、水野は可愛いよ」
信じるに足る強い響きを持つ言葉である。仮に更紗自身が自分の容姿に自信がなかったとしても、好きだと言ってくれる人の目に彼女が可愛く映っているなら何の問題もない。恋には人の目を不自由にする強烈な光があることであるし。告白した彼も、その光に目を灼かれたのかもしれなかった。
それでも、NO、だった。答えは同じである。
頑なに拒否するその理由。それは――
「わたし、何人目なの、瀬良くん?」
一段高い位置にある秀麗な面に非難の声を投げつけると、彼は、うっ、と言葉を詰まらせて焦った顔を見せた。
「五人目くらいだっけ?」
更紗が言う。この昼休み時間で彼が告白したのは、更紗にだけではなかったのである。それが、お断りの大きな理由だった。
「き、聞いてたの?」
聞くも聞かないも、広くもない教室内で、しかも秘めやかになすでもなく普通の声で告白なぞしていれば、嫌でも聞こえる。クラス内でその所作に注目が集まる男子であれば尚更である。給食が終わったあとから、数回、同一の声で告白がなされ、それに対する、ごめんなさい、の答えが耳に入ってきていたのだった。
「せめて一人目に告白してくれてればさあ」
NOと答えた相手に対する気安さから、そうため息混じりに伝える更紗。次々と断られて何だか自棄になったかのような風情の彼の告白に、YESと答えるのを拒否するくらいには、更紗にも女子としてのプライドがある。プライドとともに、交際というのはそういう軽薄なきっかけでなされるものではないだろう、というロマンティックなところも彼女にはあった。
「どうしても?」
「ごめんなさい」
すがりつくような視線の瀬良少年にきっぱりと更紗が告げると、彼はがっくりと肩を落した。落したが、それは一瞬だけのことで、すぐにその肩をそびやかし教室を出て行った。傷心にいたたまれなくなった、というのではなく、おそらく別のクラスの子に交際を申し込みに行くのだろう、と更紗は推測した。
「そういうことだからさ、杏子。もしかしたら、あんたのとこにも来るかもよ、瀬良くん」
そう注意した更紗の前に、机があって、そこには頭の上の方でまとめられたお団子ヘアの少女が座っている。瀬良少年が五組の教室を出たのち、更紗は三組に来ていた。そもそも三組の友人のところに遊びに行こうと思っていたところで、告白を受けたのである。話そうと思っていた昨日の恋愛ドラマの話より優先できる話題を伝えた更紗に、友人の少女は、ふーん、とあまり関心のない様子で答えた。更紗は訝しげに目を細めた。彼女とは小学校来の友人であって、苦楽を共にしてきた仲である。友人に為された適当この上ない告白にもう少し憤慨してくれてもいいのではなかろうか。
「どうしたの?」
「え、な、何が?」
先ほどからどこか様子がおかしい友人をじっと見つめた更紗は、スクエアタイプの眼鏡越しに落ち着かなげな視線を受けた。
「さっきからなんかなあ」
首を傾げる更紗に、
「どこかおかしなところでもある?」
杏子の瞳に控えめに現れる期待の色。
更紗はためつすがめつ友人を見ていたが、あ、と大仰な声を上げた。
「アンコ……」
「なになに?」
ちょっと身を乗り出してくる杏子に、
「あんたの目、ちょっと充血してるよ」
そう言ってから、見当はずれの答えを与えてしまったことに気づく更紗。友人の顔が暗く陰っているのである。じいっと彼女を見て再び正答を導こうとする更紗だったが、どうやら難問であって手に負えないようであった。
「降参。答え教えてよ」
解説をねだる更紗に、杏子はまともにショックを受けた顔を作ると、そのまま机に突っ伏してしまった。畳んだ両腕に顔を埋める少女のその肩を、
「ちょ、ちょっと、アンコ?」
と大げさなリアクションに返って驚かされた更紗が揺する。杏子は体を揺らして彼女の手を払うようにした。
腕の中からくぐもった声が立ち昇ってくる。
「もうほっといてよ。親友に気づかれないんじゃ終わりだわ。こーなったら、いっそ丸坊主にでもしてきてやる」
思わず、頭を剃った友人の状態を想像してにやりとしてしまった更紗は自分を戒めた。今は笑う場面ではない。何だか甚大な精神的ダメージを受けている友人の今のセリフから何とはなしに彼女の頭を見る。と、そこでようやく気がついたことがある。お団子である。いつも頭の下のほうで作られているのに、今日は上のほうでまとめられていたのだ。迂闊であった。円滑な付き合いのためにクラスメートの髪型や小物には常に気を配っている更紗だったが、気の置けない関係であることにかまけて杏子の髪型の変化に対して注意を怠ってしまった。
「違うのよ、アンコ。ほら、あたし、さっき一応告白を受けたわけで、ちょっと気が動転してたのよ」
だからお団子がいつもより高い位置にあるということに気がつかなかったという言い訳を急いですると、杏子の顔が上がった。その目にうっすらと涙が浮かんでいる。
「何も泣かなくても」
それほどのことではなかろうとぎょっとした更紗に対して、杏子は涙目に一瞬キッと強い光を溜めたが、すぐにその光を弱くして、
「だってさ、誰も気がついてくれないんだもん。泣きたくもなるでしょう」
哀れを誘う口調で言った。
――今まで誰にも気づかれなかったんだ。
ぷっ、と吹き出しそうになるのをかろうじて押さえた更紗は、
「やっぱりわたしみたいなのが人の目を意識したのがよくなかったんだわ。こんな屈辱を受けるなんて」
と、どんどんと落ち込んでいく杏子に、そんなことないよ、と励ましの声をかけた。ここが友情の押し売り時である。
「いつもよりそっちの方がいいって、可愛いよ」
杏子の水っぽい目が上がる。
「本当?」
ほんとほんと、と大きくうなずいてやる更紗にぼそりとした声。
「……男子受けも?」
「え、男子?」
「部活の後輩の子が言ってたの。髪型を変えたほうが男の子受けするって」
詰まらないことを言ってくれる、と心中でその子に文句を言った更紗は、それでもきょろきょろと辺りを見回した。ずうん、とそのまま床に沈みこみそうなほどふさぎこんだ友人の気持ちを開いて爽やかな風を入れるためには、男子の力を借りるしかなさそうだ。
「岡本くん」
更紗の呼びかけの声に応じて少し離れた場所にいた男子が振り向いた。髪型こそトップ部分を狼のたてがみのように立たせた軽快なものだったが、纏っている雰囲気にはどこか重厚なものがあって、ただのちゃらちゃらした男子ではないように見える。親しいわけではないが、いくらか話したことがある男子だった。
「お団子が上にあるバージョンの杏子はどう? 可愛いでしょ?」
更紗の手招きに応じて素直にこちらにやってきてくれた彼に期待を込めて訊く。
振り返った杏子も上目遣いで探るような視線を向けている。
色よい答えを待ち望む二人に、まず返ってきたのは言葉ではなく、重苦しいため息だった。
続けて、
「まったく、お前たち女子の頭の中には、可愛いか、可愛くないかっていう基準しか無いのかよ。全部それか。可愛いかどうかっていうのは問題の一つではあるが、全部じゃないだろ」
唐突に始まる説教。
「同じように、可愛さっていうのは女子の魅力の一つに過ぎないわけだ。その他にも、性格とか頭脳とか能力とか、そういうところにも魅力はある。そっちの魅力も磨くべきだと思わないのか? その口から出てくるのが、やれアイドルがどうとか、誰と誰が付き合ってるとかいないとか、新しく買ったアイテムがどうとか、そういうくだらないことばっかなのに、外見だけで男が寄ってくると思ったら大間違いだぞ。眉毛を抜く前にだな、他にやるべきことがあるだろ」
更紗はふらふらする頭の中でそれでも、人選を間違えたことだけははっきりと理解できた。言いたいことを言って満足している岡本少年に反論などして時間を無駄にせず、更紗は、辺りを見回した。無条件で女の子を褒めてくれそうな男子を改めて探そうとする更紗の耳に、周囲から拍手の音が響いてきた。
「よく言ったぞ、岡本!」
「お前の言う通りだ!」
岡本少年の演説が何人かの男子を感動させていたらしい。
「無理に男に『可愛い』って言わせることに断固反対!」
「女子は男子の内心の自由を侵害するな!」
――な、なに、何なの?
余程踏みつけられているのか、自由を求めるデモ隊の気勢は高い。
たじろぐ更紗のもとへ、速やかに治安維持部隊は到着した。
「何言ってんの。男子は女子を褒めてればいーのよ」
「そうよ。そのくらいしか役に立たないくせに」
「三組の男子に人権はない。女子の奴隷として働きな」
声を上げた男子に倍する女子が、自由の志士たちを取り囲む。
一触即発の雰囲気である。
更紗はさっさとこの場から退却を試みることにした。テンションについていけないこともあるが、このレクリエーションは昼休みが終了するまで続くだろう。他クラスの更紗が付き合っても益は無い。
自分の髪型のことがすっかり棚上げされてしまってがっくりきてる友人に少し同情する気持ちはあるが、それは心からのものではない。というのも、杏子は自分では気がつかないようだが、髪を解き眼鏡を取りさえすれば、華麗な女の子へ変身するのである。ひとたびその封印を破れば、その美の力で、このくらいの争いならば瞬時にやめさせることができる。そう教えてやるのはたやすいが、更紗は黙っていた。物語では、封印に手を出して良いことがあった例はない。
良識めいた想念に一抹の嫉妬を隠し、踵を返して教室の戸口についた、そのときのことだった。
「何かスゴいクラスだな」
少年の呆然とした声がすぐ近くから聞こえてきて、全くその通り、と自分が原因の一端であることを無視して相槌を打とうとした更紗。その口が開きかけたままで、ふとその動きを止めた。
更紗より頭半分くらい高い位置に綺麗な容貌があった。眉と耳に少しかかるくらいの短めの黒髪がさらり、優しげな目鼻立ちとすっと引かれた張りのある唇。背筋を伸ばした立ち姿はリラックスしてはいるが過度のゆるみは見えない。
とくん、と更紗の胸で音が一つ鳴って、その響きが体全体に甘やかにこだました。
「このクラスっていつもこうなの?」
彼に見惚れてしまった更紗は、戸惑いがちな声音でかけられた問いに、すぐには返答ができなかった。
「これは特別だと思います」
と、それだけ答えるのにしばらくの時間が経っていた。
「あの、あなたは?」
更紗は誰何の声をかけた。知らない男子だったということもあるが、彼の細身を包む黒の制服が学校指定の紺のものではなかったからである。
少年は人懐こい笑みを浮かべると、
「オレ、塩崎輝。来週の月曜日からここに転校してくるんだ」
と、転校生であることを告げてきた。来週まで待ちきれなくなって、今日下見に来たと続けた彼は、
「よろしく」
と手を差し出してきた。更紗がためらいがちに取ったその手は、滑らかで繊細なものだった。自己紹介を返す少女。
「水野更紗です」
「サラサ? キレイな名前だね」
微笑を添えたその柔らかな響きの言葉に、更紗の頬が火照る。今まで男の子に面と向かってそんなことを言われたことがない。
なおも騒ぎ続ける教室を窺いながら少年は、
「クラスのみんなに紹介してもらうことできるかな?」
と更紗に訊いてきた。更紗は、実は三組の生徒じゃないことを告げて、彼を少し驚かせたあとに、
「今、友達連れてくるから」
と、蚊帳の外で呆然と言い争いを見守っている杏子に視線を向けた。更紗の口元から、ふう、という軽いため息がもれた。どうやら友人に対して、まだ友情を売りつけることができることに気がついたのである。何しろ友情の量には限りが無い。
更紗は、少年に向き直ると、思いついたことを依頼してみた。もちろん断られる可能性はあったが、この人ならやってくれるという妙な確信が更紗にはあった。それは確信などではなく、やってくれるような人であって欲しいという単なる幻想的な願望であるかもしれない。どちらにしても、彼は目をぱちくりさせて変な顔を作ったものの、更紗の願いどおり、快く首を縦に振ってくれた。
深海まで沈み込んでいる友人の耳元で事情を話して、どうにか彼女を戸口まで引っ張ってきたとき、杏子の顔がぱあっと輝いた。
「そのお団子可愛いね」
という軽やかな声がかけられたからである。杏子は無事水面に浮上した。
更紗は、初対面の少年に向かって、手を合わせた。口元に微苦笑をきらめかせてそれに答えてくれる彼を杏子に預けてから、三組の教室を離れると、すぐに室内の喧騒は嘘のように静かになった。
大分静かになった廊下を五組へと歩く更紗は、その胸の中で心臓が激しく鼓動する音が聞こえるような気がした。