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プラトニクス  作者: coach
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第44話:君子は豹変す

 女の子に話しかけるには勇気を必要とする。それが普段あまり言葉を交わさない子に対してであれば尚更である。臆病者ではないという自負がある宏人(ヒロト)だったが、とはいえ勇気に関しては、振り絞る必要のないほどに、溢れるほどの持ち合わせがあるというわけでもない。

「藤沢、おはよう」

 と声をかけ、最前列の席の彼女が本から目を上げてこちらを認識してくれたときには、ほっとしたものを覚えた。もしその一言に反応してくれなかったら、二言目をかけるのはかなり気まずくなっただろう。他に誰もいなければ問題無いが、朝の教室には徐々にクラスメートが集まりつつあった。クラスメートの前で、女の子に無視される恥をかかずに済み安堵する宏人に、

「お、おはよう。倉木くん」

 藤沢志保(シホ)は、どこかびくびくとした調子で挨拶を返した。八方に跳ねるまとまらないくせ毛の中で、ややつりあがった形の目が伏せられる。その仕種は、宏人に気があって恥ずかしいというのでなければ、コミュニケーションの拒絶のように見えた。昨日の礼を伝える必要のある宏人としては、閉まりつつある志保の心のシャッターを押し上げるために、大胆にも彼女の机のすぐ横に立った。

「それ、なに読んでんの?」

「え?」

「その本だよ」

 宏人は、志保の手の中にある文庫本を指差した。ブックカバーがかけられてあるので、タイトルは分からないのである。もちろん、本に興味があるわけではない。会話の口火を切るネタに使っただけである。

「……うつほ物語」

 志保がぼそぼそと答えた。

「聞いたことないな。どんなの?」

「源氏物語より前に作られた日本で初めての長編物語なんだけど……源氏物語って知ってる?」

「馬鹿にすんな。歴史の授業でも、国語の授業でもやったろ。清少納言っていう平安時代の女が書いた物語だろ?」

 得意げな振りをする宏人に、

「……紫式部だよ」

 と目を上げて遠慮がちに修正する志保。

「え、そうだっけ?」

「そうだよ」

「でも、どっちだってさあ――」

「一緒じゃないよ。試験で間違えたら大変だから、ちゃんと覚えないと。昨日の猫と虎はともかくとしてもね」

 そこまで言うと、言葉が過ぎたことを恥じるように、再び志保は視線を机に落した。

 対して、円滑なコミュニケーションのために、言葉を引き出したい宏人としては、

「了解。じゃあ、今覚えとくよ」

 軽やかに答えてから、 

「でもさ、それじゃ、古文じゃん。よく読む気になるよな」

 感心したような口ぶりで続けると、現代語訳もついてるから、と志保は本を見せてくれた。

「国語の成績、良いわけだよな」

 手に取った本のページをぺらぺらとめくって中身を確認した宏人は、納得したような声で本を返すと、本題に入った。一つ話題を作ったおかげで幾分気分が解れていた。

「昨日ありがとな、藤沢。おかげで助かったよ」

 別の問題も引き起こされはしたが、それは彼女のせいではない。自分のために骨を折ってくれたことに素直に感謝する宏人に、

「わたし、別に何もしてないよ」

 と語尾を細めて謙遜する志保。

「そんなことないって、お前のおかげで死なずに済んだよ」

 大げさな礼を再度述べて志保を苦笑させた後、

「でもさ、昨日、どういう風に姉貴に言ってくれたの?」

 と宏人は昨夜気になったことを尋ねた。姉に対して宏人が敬意を抱いているという嘘を、どういう形で姉に伝えてくれたのだろうか。姉に敬意を向けるなど、一歩間違えばシスコン弟という烙印を押されてしまいかねない行為ではある。昨日の姉の様子からすると、そういうことは無いと思いつつ、やはり心配の気持ちもある宏人への志保の答えは、

「倉木くんは普段は日向先輩のこと悪く言ってるんだけど、クラスの友達が日向先輩のことで軽口を言ったときに、倉木くんが本気で怒ったことがあるって、そういう風に言っておいたんだけど」

 という見事なものだった。心底では姉を慕っているが、思春期ということでそれを表面に出せない少年の心理をよく掴んでいる。

「すげーな、藤沢」

 心から感嘆した宏人に、ますます恐縮したような顔をする志保。

 話しているうちに緊張がとけてきた宏人は、昨日の依頼の礼に、

「オレでできることがあったら、何でも言ってくれ」

 というセリフを心穏やかに言うことができるほどであった。志保は、びっくりしたように首を横に振ると、そんなのないよ、と小さい声で断った。

「いや、でもさ、何かあるだろ。委員会の仕事とか、日直の代行とか、好きな男への取次ぎとか、何かのパシリとかさ」

 宏人は畳み掛けた。好意にはきっちりと好意を返したいという生真面目さから何度も、自分が何かできることがないか、と訊いたが、ことごとく志保は、

「大したことしたわけじゃないから」

 というつれない答えを返した。宏人はむきになった振りを作って、

「命の恩人なんだから、絶対に何かさせてもらうからな」

 と宣言してから、今日の昼休みまでに考えておくように、と念を押した。

「……考えられなかったら?」

「無理矢理、男友達を紹介する」

 ええ、と本気で焦った顔をしている志保に、にやりと人の悪い笑みを作った宏人は再度念を押して自分の席に帰った。

――やっぱり普通の子だよな。

 というのが、改めて志保と話してみた宏人の感想だった。うつむき加減で小さめの声で話すことの他は特別に話しにくいこともない。コミュニケーションの間口が狭いが、そこを通り抜けさえすれば、普通に会話ができる子である。皆から敬遠され、なぜ友達がいないのか、不思議だった。

 志保に話しかけるという一挙に集中しすぎていたために、すっかり意識の枠から外れていたことがある。それを思い出させられたのが、二時限目のことだった。音楽の授業のため移動した音楽室で、リコーダーの練習をしているとき、クラスメートたちの妙なる笛の音の響く中、隣に座っていた少年から声をかけられた。

「藤沢と仲良さそうだな、倉木」

 宏人はぞっとしたものを覚えた。これまで話したことのない女子に話しかければ、そういう評価をされても仕方がないということは理解していたはずだった。しかし、それは上っ面の理解に留まっていたようだ。実際に経験したことがない宏人にとっては、肌で感じたものではなかったと言える。昨夜、雄弁に姉に対して語ったはずのクラス内秩序のことを考慮して、適切な行動を取れなかったことは、未熟の一語につきた。

――藤沢と長く話しすぎたか。

 と反省した宏人だったが、内心の動揺を見せずに、

「藤沢って話してみると普通にいいヤツだと思うけど」

 となんでもない口調で答えた。失敗をくよくよしないのは常にアグレッシブな姉の影響かもしれない。また、そもそもここで守勢に立つのは不利である。別に仲良くなんかない、という否定の言葉は、仲良さそうに話をしているという事実の前では何の効力も持たない。それを計算した攻撃の一手であった。さて、今の宏人の一言が、クラスの人気者でリーダーシップを取るような少年のそれであれば、その一言によって新たなクラス秩序が築かれ、その秩序の中に志保も組み込まれることになっただろう。志保に対しての見る目が変わって、彼女はメンバーの一員として受け容れられることになる。だが、不運なことに、宏人にはそこまでの影響力はなかった。

――マズい。

 うさんくさい目をしているクラスメートから目を逸らしながら、宏人は、今の一言が不用意なものだったことを認めざるを得なかった。今話しかけてきた彼は、クラスのメジャーグループのリーダー的存在である。宏人も一応そのグループの中にいるわけだが、末席を占めているに過ぎない。加えて言えば、今のクラスには宏人の親しい友人はいなかった。一年の時に仲良くなった子たちとは、残念ながら、きれいに別れ別れのクラスになってしまったのである。こういう厳しい状況の中で、今までうまく世渡りをしてきたつもりだったが、宏人には自分の渡っているものが堅固な石橋であるという過信があった。細い綱渡り用のロープであるという認識を持つべきだったのである。

 グループリーダーの少年は、それ以上志保のことには言及せずにリコーダーの練習に戻ったが、宏人には彼の内心の声がはっきりと聞き取れていた。

 音楽の時間から昼休みまでの間、宏人は悩んだ。メジャーグループのリーダーに目をつけられた以上、ごまかしは効かない。取るべき道は二つに一つである。昼休みになって志保に話しかけることによって、クラスから敬遠されている志保と同類と見なされ、メジャーグループから追放されるか。それともリーダーの無言の警告を受け容れて志保に話しかけるのをやめ体裁を保つか、である。

――どうする?

 四時限目も終わり、昨日とは違って今日は給食タイムとなった。食べ終わるまでに進退を決めなければならない。昨夜姉と言い争ったあと、浴室で考えたことが再び胸に去来した。姉とは違って、宏人には一時の感情に溺れない割り切りの良さがあった。ふと感じた一瞬の感情と、平和に過ごせる一年を秤にかけたとき、後者を取れる良識が。また、そもそも、志保本人が一人でいることについてどう感じているのか分からないのに、孤独な少女を助けるヒーロー気取りをする気はなかった。単に一人でいるのが好きな子だったら、宏人はヒーローどころかただのピエロである。もちろんあちらから話しかけてきたときに無視するつもりなどない。それは人の道を外れた行為であり、到底容認されるものではない。しかし、こちらから積極的に話しかけるのはやめた方がよいだろう。この昼休みに話しかけるのも自制しよう、そう思って自分の気持ちにけりをつけたときのことだった。

 宏人の目がおかしな光景を捉えていた。給食時の手順としては、給食当番の班が、廊下に用意されたワゴンから、給食の入った深鍋などの容器を教室内に入れ、配膳台になるテーブルから、列を作るクラスメートたちにそれぞれの惣菜を取り分けてやることになっている。当然、宏人もその列に並んだわけだが、奇妙なことに一人の給食当番の子だけが、己の職務を果たしていないのだった。クラスメートの特に男子が、自分たちでお玉を取って、給食当番に任せずに手ずからスープを自分の器に注いでいる。

 無論、純粋な可能性としてはいくつかあった。その当番の子がサボっているとか、そのスープは何らかの理由で生徒達が自分で取り分けたいものであるとか。しかし、深鍋の前に所在なげに立っている志保の姿を見たとき、宏人は瞬時に全てを了解した。

――陰険なことをする。

 宏人は体がかっと熱くなったような気がした。志保にスープを盛らせず自分たちで手ずから盛るというのは、彼女への直接的な嫌悪を表していた。器に触ってもらいたくないという悪意が見える。宏人は、一年間の平和的生活のことを考えて、努めて頭を冷やそうと考えたが、いざ自分がステンレスの深鍋の前に立ってその横で目を伏せている少女を認めたとき、自然と腕が動き椀を差し出している自分がいた。

「椎茸、少なめにしてくれ」

 差し出された椀に、え、と驚いたような顔を作る志保に対して、

「入れなくてもいいし」

 と宏人は続けた。これが、一年の平和を犠牲にしてでも取るべき行動であるのかどうか、それは定かではなかったが、宏人は、どうやら自分が怒りを感じていることに気がついていた。そうしてその怒りを向けられているのが、不当な人間であるとしたら、そういう者たちの中で平和に過ごせることにどのくらいの価値があるのかという疑問も芽生えていた。

 クラスの秩序を乱した宏人に、周囲から怪しみと非難の視線が向けられていたが、頭にきている宏人には何らの痛痒もなかった。平然と椀を突き出し続けると、のろのろと志保はそれを受け取って、遠慮がちに椀にスープを注いだ。

「サンキュ。昨日の礼の一つに、オレの分の椎茸を藤沢にやるよ」 

 ダメ押しの冗談を言った宏人は、自分の席につくと、食前の挨拶を待った。給食時には、五、六人が机を長方形型に合わせて一つの班になる。宏人は、同じ班の子たちの視線をはっきりと感じていたが、無視した。そうして、無恥なクラスメートに更なる怒りを溜めるとともに、これまで無知だった自分自身を責めた。姉が、志保はいじめられているのではないか、と言った指摘どおりだった。今まで、彼女は遠ざけられているだけで悪意を受けているわけではないと思っていた自分は何も見ていなかったことを認めるほかない。百歩譲って、先の行為をいじめと称さないとしても、少なくともクラスメートにすべき振る舞いではない。

 宏人は、クラス内秩序から外れることを決意した。アウトローになることへの恐怖は、人でありたいという義心が消してくれた。彼は、給食の時間が終わると、給食当番を終え白衣を脱いだ少女のもとへ、声をかけに行くために席を立った。

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