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プラトニクス  作者: coach
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第43話:新しい朝は毎日おとずれる

 明け方に降った雨が大気の塵を落として、朝の通学路には、爽やかな日が溶けていた。(レイ)は清新な空気を吸いながら、一人、学校へと歩いていた。あらゆるものに感謝したいような、そんな朝だった。世界が存在すること、自分が存在すること、世界が美しいということを感じられる自分であること、それらに関係する全てのものに対する素直な謝意が怜の心に満ちていた。ありとある全てのものを肯定したいような感覚。こういう気持ちでずっといられたらそれは素晴らしい人生だろう、と思ってみるが、なかなか難しいものがある。

――いや、逆だな。

 怜は思い直した。むしろ、一瞬でもそういう気持ちになれることが、十分に素晴らしいことなのだろう。欲を張るものではない。今は、この瞬間の、この幸福感を大切にできれば、それで良い。舗装された道をあるく足はゆっくりとした動きで歩を刻んだ。せかせかと急ぐ気には到底なれない。街路脇の青葉が玉のような露をのせて一層鮮やか。白の片雲がふわふわと誘うように先へと流れる。

 鈴音の迎えに行かなくなってから、ここ数日、一人で歩く朝に戻っている。鈴音と一緒に歩くことはもちろん嫌ではなかったが、一人で歩くことにはやはり違った趣があった。彼女とおしゃべりしながら行くのも愉快には違いないが、ひとりだと自分の内なる声に耳を傾けることがより容易にできる。外の世界に自己の心が感応するのを感じるのは楽しい作業だった。

――だからか…… 

 一つ気がついたことがある。(タマキ)が朝、怜と一緒に登校しないことの理由である。それは、もしかしたら一人の時間を大事にしたいということなのかもしれなかった。一人になれる時間というのは、一日の中でそう多くはない。家では家族、学校では教師や友人、塾があれば講師やライバルに囲まれて、自分と向き合える時間というのは限られている。登校時というのは、その限られた時間の貴重な一部なのだろう。そうして、自分の時間を大切にできる者は、他人の時間も尊重することができる。環は一緒に登校しないことによって、怜の時間も大切にしてくれているように思えた。

 貴重な二十分を堪能した所で、怜は顔見知りの少年を見つけた。彼の時間も尊重した方が良いか少し迷っていたところで、向こうも怜を見つけたようである。近づいてくる笑顔に、

「おはよう、(シュン)

 とあいさつすると、少年も挨拶を返し、怜の横に並んだ。さらさらとした黒髪の坊ちゃん刈りの頭が、怜よりも少し下に見えた。背は怜より低く、男子の中では小柄な部類に入る。五十嵐俊。二年生のときに、同じクラスになって、話すようになった少年である。三年になってからはクラスが違うこともあって一度も会っていなかった怜は、最近の具合を尋ねた。 

「特に変わったことはないよ。平穏無事さ」

 少し高い彼特有の声でそう答えると、同じ問いを怜に返した。

「細かいトラブルはあるが、ま、こっちも同じだよ」

 俊は髭とは無縁のつるりとした頬の辺りをもちあげると、

「そう言えば、レイ。この前、校内放送で呼ばれてたみたいだったけど、あれも『細かい』ものに入るの?」

 と笑みを作った。怜は、もちろんだ、と心持ち強い声で答えた。

「事情は聞いたんだろ?」

「太一からね」

「じゃあ、細かいものに入れてくれ。いや、むしろ、つまらないものだな」

「太一は大分怒ってたよ」

「あの時は、二年ちょっと付き合ってる友人のいい所がようやく見つけられて、ほっとしたよ」

 怜の非情な言葉に俊は、ひどいな、と、しかし責めるようでもなく答えると、そう言えば、と何かに気がついたような顔を作った。

「太一がフラれたこと聞いた、レイ?」

「聞いたよ。多分、オレが一番初めにな」

「ちゃんと聞いてあげたんだろうな?」

「ちゃんと? 太一の話をちゃんと聞いたことなんか今まで一度もない」

 俊の口元から、はあ、とため息が漏れた。 

「そのせいだな。フラれた日のその夜に、ボクに電話をかけて来たんだよ。延々二時間も、今までの恋愛遍歴とか、恋愛哲学とか語られてさ。ずっと太一がしゃべりっぱなし。頭がどうにかなりそうだったよ」

「途中で切ればいいだろ、電話」

「そうしたら次の日学校を休むって脅すんだよ」

「休ませてやれよ」

「受験生だからそういうわけにもいかないだろ」

 付き合いの良さは俊の美点の一つだったが、付き合う相手は選んだ方がいいだろうということを怜は忠告しておいた。

「太一はいい加減、七海に告白すればいいんだよ」

 こちらは美点に入るか微妙な所があるが、俊には、物事をあいまいなペンディングの状態にしておかず、白か黒かをはっきりさせようとする傾向がある。

「それは太一にも平井にも言わない方がいいだろうな」

 踏み込んだ発言をする少年に忠告する怜としては、この世には灰色のものもある、という思いもあるが、何より当人同士の問題に関与するようなお節介はすべきでない、という意識もあった。

 俊は分かっていると言いたげに、うんうんと小さく何度か首をうなずかせると、たださ、と断ってから

「太一は七海のことが好きなことは確かだろ」

 と確信ありげに言った。

 太一が七海のことを好きかどうかは怜には分からなかった。もちろん、嫌いではないとは思うが、付き合いたいという意味で好きなのかという所までは分からない。第一、仮にそうだとしたら、太一の性格上、既に七海に告白していても良いはずである。

「怜はさ、こういう話になると本当に鈍感だよね」

 手厳しい言葉であるが、怜に心痛はない。俊が苦笑交じりにした発言であることもあるが、何より太一や七海の恋愛事情にそれほど興味があるわけではないのである。

「一応どっちも一年からの付き合いなんでしょ? もう少し興味持ってもいいんじゃないかな」

「それで、恋愛アドバイザーになれって?」

「いや、傷心を癒すカウンセラーになって欲しいんだよ。そうすれば、太一はボクに電話をかけてくることもないし」

 制服姿の少年少女の数が増えてきたことが学校が近いことを示していた。が、まだ時間はある。教室までの暇を埋めるために、怜は、なぜ太一が七海に告白しないのか、俊の見解を求めた。

「七海が強すぎるんだよ」

 短く答えた俊は、怜を試したようだったが、思い通りの結果は得られなかったようだ。

「もう少し詳しく言ってくれ。七海が強いっていうのは?」

「七海は人を必要としてないってこと」

「人を必要としてない?」

「一人きりでどこにでも行けるような子なんだよ」

 そこまで言われてようやく、なるほど、と一応うなずいてはみたものの、七海と一度じっくりと相対したことのある怜としては、彼女に、俊が言っている強靭な部分以外のものもあるように感じていた。友人を想いさりげなくそのカレシの値踏みをしに来るなどは、繊細な心性と言えないだろうか。

「俊の言うとおりだとすると、太一に脈は無いな」

 というか誰にも脈がないことになるが、それはともかくとしても、

「太一が告白できない理由はそれで分かったとしても、さっき、お前、『太一はさっさと告白すればいい』って言ったよな。それはどういう意味で?」

 という話になってしまう。

「決まってるだろ」

 俊は片目をつぶって見せた。彼の少女的な面差しに妙に似合う仕種である。

「すっぱりとフラれてさ、ちゃんと太一のことを見てくれる人を探せばいいってこと」

 太一の精神的なショックにも平気でいられる冷徹なメンタリティの持ち主である怜としては、それもそうだな、と首肯することができた。

 校門への制服の列のあとについた時に、以前俊に聞いてみようと思っていたことを思い出した怜が、

「佐伯のことなんだけど」

 と切り出してから、彼女のマシンガントークとどう付き合っているのかを尋ねた。佐伯(スミ)は、俊のカノジョで、ときどき怜も話すことがあるのだが、その一方的にまくし立てる語り方に当惑させられているのだった。カレシである俊ならばその対処法を知っているはずであると期待を込めた怜だったが、俊は首を捻ると、特別な対応はしてないよ、とはっきりと告げたのち、

「ボクがあんまりしゃべらないから、スミちゃんが一生懸命話してくれてるんだよ」

 と見当外れの答えを返した。ことは俊との間だけの問題に留まっていないのである。だからこそ尋ねたのだ。それに得心の行かないことがもう一つ。

「あんまりしゃべらないって、誰と比較してるんだ? さっき会った時からだって結構しゃべってるだろ」

「それは相手が怜だからだな。ちょっと饒舌(じょうぜつ)になってるんだ。ボクは本来物静かな男だよ」 

 澄のトークに辟易(へきえき)している怜としては、是非ともその言葉の銃弾をカレシ以外に向けないようにしてもらいたいところだったが、さすがに、

「お前のカノジョをどうにかしてくれ」

 と、澄の語りを全く気にかけていない様子の俊に、そこまで言うのはためらわれ、口を閉ざすしかなかった。

 校門をくぐり、生徒用玄関で上履きを履いた怜は、俊と別れて教室に入った。

 まだ半分くらいしか席の埋まらない教室に視線を巡らすのは怜の新たな習慣となっていた。自分の机に座る前にざっと周囲を見ると、窓際の席に黒髪をサイドポニーにした少女の姿がある。他の女子と談笑している鈴音(スズネ)の姿を確認し終えた怜は、歩を進め、机で鞄を下ろして中身の教科書を出し始めた。その間に一瞬、鈴音と目が合ったが、彼女はすぐに視線を戻し、クラスメートとおしゃべりを続けた。

 怜の役割は終わったのだった。鈴音とは、彼女が迎えを断ってからここ数日、一緒に登校していない。下校時も別々に帰っていた。彼女は新しい一歩を踏み出して、そうしてその一歩に付き添うような無粋な真似をしないくらいのわきまえが怜にはあった。意外なことに彼女との別れをどこかで惜しんでいる自分がいるのに怜は気がついていた。ただ、別れを惜しめるような出会いであったこともまた幸運なことであろう。

 快い朝だった。今日という新しい一日に何が起こるとして、また起こらないとしても。

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