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プラトニクス  作者: coach
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第42話:ある聖女の言葉

 運命の夕べ。家で姉の帰りを待っていた宏人は気が気ではなかった。今日の不躾(ぶしつけ)に対する姉の返礼を恐れていたのである。それを止める為できる限りのことはしておいた。姉の幼馴染みの少年にも頼んで置いたし、級友に頭も下げた。ただ、それが奏功するかどうかは、いいとこ五分五分といったところであろう。気分屋の姉の気分を操ろうなど、天気を支配しようとするに等しい愚行である。賭けるしかないのだった。

――くそ、弟ってほんとに損だよな。

 リビングのソファで時間つぶしに夕方のテレビニュースを見ながら、宏人はつくづくと思った。一年遅く生まれたばかりにこのように媚びへつらわなければならないとは嘆かわしいことである。確かに小さい頃は良く面倒を見てもらった。遊んでもらったりしていたわけだが、それをいつまでも恩に着せられるのはたまったものではない。中二にもなれば、背丈も追い越すくらいであるし、また精神年齢は上であると思っている宏人としては、いつまでも姉の顔色を窺っているのにはやり切れないところがある。

――て言っても、喧嘩するわけにもいかねーし。

 姉の暴虐に対して、力で対抗するのはわけないことである。取っ組み合いになれば、小さい頃ならともかく中学生になった現在、男女の力の差から負けるはずもない。しかし、仮にそれで勝ったとして、誰からも称賛されない勝利である。それどころか、自分自身でさえ自分を恥じることであろう。そんなことになるくらいなら、耐える方がまだマシである。このあたりの心情の置き方には、姉と宏人の幼馴染みで隣家に住む賢少年の影響が大きい。同じように姉の勘気を被る立場にある彼にはしかし、落ち着きがあり、姉の不機嫌に対しても泰然と対処している。あの姉と虚心で付き合っている見事な人である。姉と付き合っているということ以外は、見習いたいところの多い人だった。

 宏人はテレビを消した。玄関のドアががちゃりと開く音に続いて、ただいま、と高い声が聞えてきていた。

 リビングに入って来てこちらに向けた姉の顔からは、計画が上手く行ったかどうかは分からなかった。何だか楽しげな顔をしているが、それを良い方に解釈はできない。ぶすっとした不機嫌な顔をしているときに機嫌が良いことは皆無だが、にこにこと楽しげな顔が突如鬼面に変わることはいくらでもあるからだ。今少女の顔に広がる喜色は、内面を表現したものであるのか、それとも内面を隠蔽するものであるのか。

 冷や冷やしながら姉の挙措を見守っていた宏人だったが、

「なに見てんの?」

 という開口に、希望の灯が心にともった。宏人の昼の無礼に対して怒りの気持ちを持っているとしたら、帰ってくるなりまずその件を宏人に話すはずだからである。もちろん、拳での語りである。それがないということは、ひとまず安心だった。姉にいい所があるとしたら、根に持つ人間ではない、ということだった。時を置き、以前にされたことをあとから思い出して怒りをぶつけにくるということは滅多にないのだった。

――ありがとう、賢(にい)

 宏人はとりあえず、兄と慕う幼馴染みに感謝を捧げた。賢と姉はいつも通り今日も二人で一緒に帰って来たはずであり、帰り道に、賢は、放課後宏人が姉の気を落ち着かせてくれるよう頼んでおいたことを誠実に行ってくれたのであろう。

 ほっとした顔をしている弟に対して訝しげに眉を寄せている姉に、

「今日の昼のことだけどさ、サンキュ。昼メシ食べられない所だったもんな、助かったよ」

 やぶへびかもしれないと思ったが、宏人は、姉の怒りを封じるためのダメ押しをしておくことにした。自分のために動いてくれた人間のことを考えれば、宏人としても、臆せずに前に一歩踏み出したいという気持ちがある。

「ま、たまにはね」

 宏人の気持ちを落ち着ける無関心さでそう言った姉は、冷蔵庫から取り出した一リットルの紙パックに直接口をつけて、豪快に中身のいちご豆乳を飲んだ。

「行儀悪いわよ、日向」

「別にいーでしょ。これ、あたししか飲まないし」

 キッチンにいた母の渋面に、何と言うこともないような調子で答えた姉は、紙パックを冷蔵庫に戻すと、

「あ、それよりさ、ヒロト」

 と弟に向き直って、話題を変えた。

「シホちゃんって、あんたと同じクラスだったんだ。今日初めて知ったわ」

 その言葉で、宏人は志保にも感謝した。名前が出たということは、宏人が頼んだことを志保も行ってくれたということである。昼休みのときに、宏人が志保に頼んだこととは、姉に対して偽の情報を流して欲しいということだった。宏人が姉に対して好意を持っているというウソをである。宏人の姉への嫌悪は実は表面上のもので、照れ屋の弟は奥底では姉を慕っているのだということを信じるように仕向けてもらいたい、ということを依頼したのだった。我ながら情けない仕業だと思わないでもないが、宏人は、姉と正面から向き合う愚かさは小学生のうちにキレイに捨て去っていた。

「オレも今日、藤沢から聞いたよ」

「シホちゃんとは仲良いの?」

「いや、ほとんど話したことない」

「あ、そう」

 志保が姉に対してどういう話し方をしたのか、知りたいところであったが、その藪をつつくのはいくら何でも危険すぎた。危うきに近寄らず、席を立ってシャワーでも浴びて来ようかと思った宏人に、

「シホちゃんって、クラスでいじめられたりしてない?」

 唐突なことを言い出す姉。

「いじめ?」

 剣呑な語に思わず反応した宏人に、姉はうなずいた。

「そう、いじめ」

「何で?」

 そんなことを考えたのか訊いてみると、

「部活でもあんまり友だちがいないみたいだから、クラスではどうなのかってね。友だちいないだけならまだしもさ、そういう子ってしばしばいじめの対象になるから、ちょっと心配してんのよ」

 と慈愛の言葉。その心優しさのほんの少しでも弟に向けてもらいたいものだ、と思いながらも、宏人は、改めて志保のクラス内での位置を考えてみた。確かに、人気のある子ではない。むしろ、人気はないだろう。しかし、人気がないことをもって、いじめ、と称するのは抵抗のある話である。別に中傷が囁かれるわけでもなし、嫌がらせがなされているわけでもなし、敬遠されているだけだからだ。

 そう主張した宏人に対して、はあ、と大仰なため息をついた姉が、

「無知な弟くんに、一つ良いことを教えてあげる」

 と、高慢な口調で語り出した。

「愛情の反対って何か分かる?」

「……憎しみだろ?」

「バカ」

「じゃあ、何だよ?」

 ちょっとムッとした宏人が聞き返すと、

「愛情の反対はね、無関心よ」

 得意げな顔で答える姉。

「愛情と憎しみはね、人に向ける関心がプラス方向かマイナス方向かっていう違いしかないの。どっちも関心を持ってるっていう点では同じものなのよ。人は、憎まれるよりもね、自分の存在に関心を持たれない方が辛いの。もし、クラス内に、ある子に対して無関心な空気があるとしたら、それは立派ないじめなのよ」

 いくら姉を毛嫌いしている宏人としても、その言葉に含まれる見識には素直に感心せざるを得なかった。

 後ろで聞いていた母も、娘の言葉に感嘆の表情を作っている。

「近頃の学校は侮れない所ね。そんなことまで教えてくれるなんて」

「学校じゃないわよ、お母さん」

「じゃあ、本?」 

「違う、友だちよ」

「へえ、大した子ね。その子とはずっとお友だちでいさせてもらいなさいね」

「そのつもりよ」

 姉は母から、再度宏人に目を向けると、

「そーいうわけで、ヒロト、あんたがシホちゃんのこと気にかけてあげなさいね」

 と命令口調で言った。

「気にかけるって?」

「だーから、話しかけてあげなってことよ。あんたでも、話し相手がいないよりはマシでしょ」

 あんまりな言い草であるが、それを無視するとしても、

「いや、話しかけるってさ……挨拶くらいならするし、委員会の仕事のときとかに話したりはするけど、それ以上は無理だろ」

 と答えるしかない宏人。

 姉の目がキツくなる。

「何で無理なのよ」

「いきなりなれなれしくできないだろ」

「なれなれしくしろ、なんて言ってないでしょ。できる限り機会を捉えて話しかけなさいってことよ」

 姉の難題に宏人は閉口した。仮にそんなことをしたら、すぐに志保に対して気がある、という評判が立ってしまう。

「考えすぎよ」

「そりゃ、姉貴には賢兄がいるから、仮に他の男に気軽に話しかけても、そんな噂は立たないだろうけどさ。オレは姉貴とは違うんだから」

「じゃあ、あんたはいじめに加担するってことね」

 姉の口調が熱を帯びてきた。確かに、先の姉の論からするとそういう筋になるが、それは極論だろう。

「人聞き悪いこと言うなよ」

「だって、そーでしょーが! それに、気があるっていう噂が立つですって? あんたにカノジョがいるんならともかく、そんな噂がなんだってのよ! 心細い思いをしてる女の子一人助ける気にならないんだとしたら、あんたはどうしようもないクズね」

 姉の気分の急変にはついていけない所がある。すっかり怒色に染まった彼女の言葉を平然と聞き流したいところであるが、本当にくだらないことをした場合ならともかくとして、何も恥じることをしていない現時点でのクズ呼ばわりには耐え難いものがあった。これ以上の暴言を聞きたくない宏人は、姉の横を素通りして、リビングを出た。

「どこ行くのよ、話は終わってないわよ」

 浴室に向かう宏人の後ろから、なおも声をかけてくる姉を無視して、浴室に続く洗面所に入ると、後ろ手にぴしゃりと戸を閉めて鍵をかけた。

「ヒロト、シホちゃんの気持ちを考えな」

 弟の気持ちを考えない姉の鋭い声を最後に聞いたあと、宏人は苛立たしい気持ちのままシャワーを浴び始めた。

 全く姉は何も分かっていない。クラスというところは個人の自由を許すところではないのである。昨日まで話していなかった子に突然話しかけることによってクラスの秩序を乱せばどうなるか。考えたくもない。それに、やはり姉の言うことは大げさに過ぎるであろう。クラス全員でわざと志保を無視しているというのならばともかく、そんな雰囲気はないし、どちらかというと志保のほうから人を避けているようにも見える。とすれば、現状のほうが志保のためなのではなかろうか。余計なお節介をして、現状を崩すというのは、彼女のためになるのだろうか。

 そこで、宏人は慄然とするものを覚えた。シャワーで体がさっぱりとすると、どうやら心の汚れが見えてきたようである。志保のため、という論法は、多分に自己防衛的な恐怖心が生み出したものではないかという気がしてきたのである。

――もし本当に藤沢が友だちが要るなら……

 交際を申し込むわけではない。大した話ではないはずだ。今日、話した感触では志保は悪い子ではなさそうだ。あらぬ噂が流れたとして、だからそれが何だと言うのか。

――いやいやいや、まずいだろ。

 宏人は、感情に流されそうになった自分を押し止めた。一時の感情に従って行動するのはたやすいが、二年生はまだ始まったばかりなのである。クラス内で失敗するには早すぎる時期であった。

 宏人は、明日とりあえず今日の礼を言って少し世間話をしてみよう、ということで妥協しておいた。そのくらいなら大した問題にはなるまい。仮にそれが問題になるとすれば、それこそ志保に対してクラスが悪感情を持っているということになるわけだ。

 苛立ちも収まり少しすっきりとした気分で浴室から出ると、姉の姿はなかった。母によると隣家にお邪魔したという。出来損ないの弟の文句でも幼馴染みに愚痴りに行ったのだろう、と思った宏人は、今度賢に近所の和菓子店の菓子折りでも持っていくことに決めた。

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